これはフォークソングではないのだけれど、ちょっとまだ沖縄を引きずっているので書いてしまうことにする。沖縄での思い出話。
沖縄が好きなわけの一つに、「おきなわのうた」が大好き、というのがある。
沖縄に初めて行くまで、僕の中で沖縄発の歌というのは、よく知られる沖縄民謡の「安里屋ユンタ」や「谷茶目節」などであり、いかにも異国情緒、という感じからフォルクローレを聴くような感覚でなんとなしに好き、程度でしかなかった。もちろんレコードなど持ってはいない。行ってこれほどハマるとは予想してなかった。それから、忘れてはいけないのが「ハイサイおじさん」。沖縄のバンドが沖縄の言葉で発信した初の全国ヒット曲で、内地の方では沖縄の歌=ハイサイおじさん、だった時代があると思う。
ハイサイおじさん 昨夜ぬ三合ビン小 残とんな 残とら我んに 分きらんな
この歌は沖縄への憧れだった。この名曲は未だにスタンダードである。
喜納昌吉は本当に素晴らしい。「すべての人の心に花を」は沖縄だけでなくアジアの代表曲とも言える。
その後、「りんけんバンド」がデビューして、沖縄の歌にロックもポップスも民謡も境がない、ということが証明された。
最近は(最近でもないが^^;)、宮沢和史の「島唄」が大ヒットし、ビギンや夏川りみがメジャーとなってすっかり「おきなわのうた」が定着したように思う。沖縄音階で奏でられる数々の名曲が心をうつようになった。
初めて沖縄に行ったときは、まだ「りんけんバンド」はデビューしていなかった。しかし初めての沖縄の旅ですっかり「おきなわのうた」に魅了された僕は、マルフクレコード(わかる人はわかりますね)で民謡のカセットを買って帰り、地元に帰っても「沖縄」と名がつけばビビッと反応してしまう時期が続いた(今もそうかもしれない)。
りんけんバンドが世に出て、アルバム「ありがとう」が出たときは直ぐに手に入れ、何度も何度も聴いた。
リーダーの照屋林賢は、沖縄の大スター照屋林助を父に持つ沖縄音楽界のサラブレットであり、たちまちのうちに僕はハマった。
(照屋林助師匠はつい先日亡くなった。残念…。ご冥福をお祈りします)
ボーカルの上原知子さんの歌声というのは…ちょっと比類がないほど素晴らしい。先年、元ちとせが「神の声」として評判になったが、正真正銘の神の声はこの上原知子さんの声だ。「黄金三星」なんか聴いた日には、もう震えがきてしまう。(それにしても、その高貴な美貌さえもが何年も全く変わらないのはどういうことだろう。あの人は本当に女神なのかもしれない)
そして、沖縄に行くときはウォークマンでりんけんバンドを聴きながら旅するのが常となった。
社会に出て何年か経ち、かなり心が疲弊していたある冬、僕は沖縄に飛んだ。
年末年始のことで、かなり混雑していた沖縄だったのだけれど、僕は南へとさらに進路を取り、石垣島から船で日本最南端の波照間島へとやって来た頃には観光客もまばらになっていた。予約なしでも宿に泊まれた。波照間島は2回目だ。そこで、年を越そうと思った。
波照間島。特に観光資源とてなく、ただ「日本最南端の碑」が海岸にポツリと建っている。あとは一面のサトウキビ畑とサンゴ礁の海だ。昔訪れたときには2~3日に一便しか船がなく、ゆったりと過ごす以外になかった島だ。2回目に訪れたときには高速船も行くようになっていたが、まだまだのんびりとした空気は最初に来たときとあまり変わっていなかった。
二十歳の頃、初めてここを訪れたときには空にハレー彗星が来ていた。地元では望遠鏡を使わなければはっきりと見えなかったこの76年に一度来る彗星も、波照間では肉眼でとらえることが出来た。夜、泡盛を呑み、他の旅人と語らいながら過ごし、日付が変わってしばらくすると水平線に南十字星が昇ってくる。それを見ながらまた呑み、そうしてだんだん陶然としてもう潰れる寸前の時間が~3時か4時くらいだろうか~ハレー彗星がいちばん高く昇ってくる時だった。そうして毎日、夜は寝ずに星を見て過ごしていた。
その後、久々に再度訪れた波照間島は以前と変わらず、時間がゆっくりと流れていた。大晦日も呑み明かし、一緒に呑んでいた旅人たちと初日の出を見ようと、日本最南端の海岸に向かってぞろぞろと歩いた。しかし、曇り空で小雨がぱらつき、日の出はどうも無理な雰囲気だった。でもやることもないので海岸に行った。
徐々に空が白み、南の海は少しづつ明るくなっていった。
波照間島はもちろん最南端で、この先は何もないのだけれど、ここには「南波照間伝説」というのがある。まだこの島の南の彼方にもう一つ島がある、それは、南波照間島という自由で幸せな楽園であると、昔の島人たちは信じていた。かつて江戸時代、重税に苦しんでいた波照間の人々は、もうどうしようもなくなって首里から年貢取り立てに来た船をみんなで乗っ取り、伝説の島「パイパティローマ」目指して島を脱出したという記述が「八重山島年代記」にある。その後の人々の消息はわからないが、苦役に喘ぐ民衆が、さらに南の海に楽園~沖縄で言うニライカナイ~を思い描いたのだろう。どこかに楽園はあるはずだと。
僕もレベルは違うが心が疲れていて、「パイパティローマ」がもしあるなら行ってしまいたいものだ…と思いながら南の海を見ていた。
日が昇ってきた。
信じられないことにその時だけ雲が切れ、水平線から太陽が顔を覗かせた。
歓声があちこちに湧き起った。まだ小雨まじりの天気なのに、初日の出がやってきたのだ。「パイパティローマ」がもし在るとしたら、奇跡を見せてくれたとしか思えない。
振り向くと、太陽の光を受けて、霧雨の中、虹が架かっていた。その美しさに感極まって泣いている女性も居た。
ニライカナイ~楽園は案外身近にあるのかもしれない。僕たちが立っているこの場所こそもしかしたら「パイパティローマ」なのかもしれなかった。
宿に帰る道すがら、僕はりんけんバンドの「ふなやれ」を聴いていた。
「ふなやれ」とは出航の意味。那覇から中国へ向かう進具船を見送るうたである。
船の習や 別りぬ習 見送る御万人涙見してぃ 名残押しでぃ出船子供
そばに居た旅人が「何聴いてるの?」と声をかけてきた。「"ふなやれ"ですよ」 「おお、あの曲は泣けるんだよな、僕にも聴かせろよ」
そして、宿に帰ってみんなで聴いた。
諸帆揚げてぃ舵取りば 左、右、上、下たんぶいし 千里万里や東支那
旅立ちのときはみんな不安と希望を持っている。見送る人もまた同じ。
生きると言う事もまた不安と希望。遥かに広がる海原へ漕ぎ出す大きな船の力強さに憧れ、自分のこれからの人生もそんなふうにありたいと思う気持ち。辛いこともあるけれど、たくさんの帆を揚げ、激しい波にも負けず舵をとってゆけたなら。心の中のニライカナイ目指して。
綾なす水押しぬきてぃ 走い出たる那覇港
綾なす水押しぬきてぃ 思いや果てぃねん旅心…
旅することに思いは果てることがない。色褪せない思い出を作り続けることが出来る。まだ僕には「旅」があった。そうして、僕は元気を取り戻していった。
波照間島にまた行きたいな。心の楽園を求めて。
読んでくださってありがとうございました。
沖縄が好きなわけの一つに、「おきなわのうた」が大好き、というのがある。
沖縄に初めて行くまで、僕の中で沖縄発の歌というのは、よく知られる沖縄民謡の「安里屋ユンタ」や「谷茶目節」などであり、いかにも異国情緒、という感じからフォルクローレを聴くような感覚でなんとなしに好き、程度でしかなかった。もちろんレコードなど持ってはいない。行ってこれほどハマるとは予想してなかった。それから、忘れてはいけないのが「ハイサイおじさん」。沖縄のバンドが沖縄の言葉で発信した初の全国ヒット曲で、内地の方では沖縄の歌=ハイサイおじさん、だった時代があると思う。
ハイサイおじさん 昨夜ぬ三合ビン小 残とんな 残とら我んに 分きらんな
この歌は沖縄への憧れだった。この名曲は未だにスタンダードである。
喜納昌吉は本当に素晴らしい。「すべての人の心に花を」は沖縄だけでなくアジアの代表曲とも言える。
その後、「りんけんバンド」がデビューして、沖縄の歌にロックもポップスも民謡も境がない、ということが証明された。
最近は(最近でもないが^^;)、宮沢和史の「島唄」が大ヒットし、ビギンや夏川りみがメジャーとなってすっかり「おきなわのうた」が定着したように思う。沖縄音階で奏でられる数々の名曲が心をうつようになった。
初めて沖縄に行ったときは、まだ「りんけんバンド」はデビューしていなかった。しかし初めての沖縄の旅ですっかり「おきなわのうた」に魅了された僕は、マルフクレコード(わかる人はわかりますね)で民謡のカセットを買って帰り、地元に帰っても「沖縄」と名がつけばビビッと反応してしまう時期が続いた(今もそうかもしれない)。
りんけんバンドが世に出て、アルバム「ありがとう」が出たときは直ぐに手に入れ、何度も何度も聴いた。
リーダーの照屋林賢は、沖縄の大スター照屋林助を父に持つ沖縄音楽界のサラブレットであり、たちまちのうちに僕はハマった。
(照屋林助師匠はつい先日亡くなった。残念…。ご冥福をお祈りします)
ボーカルの上原知子さんの歌声というのは…ちょっと比類がないほど素晴らしい。先年、元ちとせが「神の声」として評判になったが、正真正銘の神の声はこの上原知子さんの声だ。「黄金三星」なんか聴いた日には、もう震えがきてしまう。(それにしても、その高貴な美貌さえもが何年も全く変わらないのはどういうことだろう。あの人は本当に女神なのかもしれない)
そして、沖縄に行くときはウォークマンでりんけんバンドを聴きながら旅するのが常となった。
社会に出て何年か経ち、かなり心が疲弊していたある冬、僕は沖縄に飛んだ。
年末年始のことで、かなり混雑していた沖縄だったのだけれど、僕は南へとさらに進路を取り、石垣島から船で日本最南端の波照間島へとやって来た頃には観光客もまばらになっていた。予約なしでも宿に泊まれた。波照間島は2回目だ。そこで、年を越そうと思った。
波照間島。特に観光資源とてなく、ただ「日本最南端の碑」が海岸にポツリと建っている。あとは一面のサトウキビ畑とサンゴ礁の海だ。昔訪れたときには2~3日に一便しか船がなく、ゆったりと過ごす以外になかった島だ。2回目に訪れたときには高速船も行くようになっていたが、まだまだのんびりとした空気は最初に来たときとあまり変わっていなかった。
二十歳の頃、初めてここを訪れたときには空にハレー彗星が来ていた。地元では望遠鏡を使わなければはっきりと見えなかったこの76年に一度来る彗星も、波照間では肉眼でとらえることが出来た。夜、泡盛を呑み、他の旅人と語らいながら過ごし、日付が変わってしばらくすると水平線に南十字星が昇ってくる。それを見ながらまた呑み、そうしてだんだん陶然としてもう潰れる寸前の時間が~3時か4時くらいだろうか~ハレー彗星がいちばん高く昇ってくる時だった。そうして毎日、夜は寝ずに星を見て過ごしていた。
その後、久々に再度訪れた波照間島は以前と変わらず、時間がゆっくりと流れていた。大晦日も呑み明かし、一緒に呑んでいた旅人たちと初日の出を見ようと、日本最南端の海岸に向かってぞろぞろと歩いた。しかし、曇り空で小雨がぱらつき、日の出はどうも無理な雰囲気だった。でもやることもないので海岸に行った。
徐々に空が白み、南の海は少しづつ明るくなっていった。
波照間島はもちろん最南端で、この先は何もないのだけれど、ここには「南波照間伝説」というのがある。まだこの島の南の彼方にもう一つ島がある、それは、南波照間島という自由で幸せな楽園であると、昔の島人たちは信じていた。かつて江戸時代、重税に苦しんでいた波照間の人々は、もうどうしようもなくなって首里から年貢取り立てに来た船をみんなで乗っ取り、伝説の島「パイパティローマ」目指して島を脱出したという記述が「八重山島年代記」にある。その後の人々の消息はわからないが、苦役に喘ぐ民衆が、さらに南の海に楽園~沖縄で言うニライカナイ~を思い描いたのだろう。どこかに楽園はあるはずだと。
僕もレベルは違うが心が疲れていて、「パイパティローマ」がもしあるなら行ってしまいたいものだ…と思いながら南の海を見ていた。
日が昇ってきた。
信じられないことにその時だけ雲が切れ、水平線から太陽が顔を覗かせた。
歓声があちこちに湧き起った。まだ小雨まじりの天気なのに、初日の出がやってきたのだ。「パイパティローマ」がもし在るとしたら、奇跡を見せてくれたとしか思えない。
振り向くと、太陽の光を受けて、霧雨の中、虹が架かっていた。その美しさに感極まって泣いている女性も居た。
ニライカナイ~楽園は案外身近にあるのかもしれない。僕たちが立っているこの場所こそもしかしたら「パイパティローマ」なのかもしれなかった。
宿に帰る道すがら、僕はりんけんバンドの「ふなやれ」を聴いていた。
「ふなやれ」とは出航の意味。那覇から中国へ向かう進具船を見送るうたである。
船の習や 別りぬ習 見送る御万人涙見してぃ 名残押しでぃ出船子供
そばに居た旅人が「何聴いてるの?」と声をかけてきた。「"ふなやれ"ですよ」 「おお、あの曲は泣けるんだよな、僕にも聴かせろよ」
そして、宿に帰ってみんなで聴いた。
諸帆揚げてぃ舵取りば 左、右、上、下たんぶいし 千里万里や東支那
旅立ちのときはみんな不安と希望を持っている。見送る人もまた同じ。
生きると言う事もまた不安と希望。遥かに広がる海原へ漕ぎ出す大きな船の力強さに憧れ、自分のこれからの人生もそんなふうにありたいと思う気持ち。辛いこともあるけれど、たくさんの帆を揚げ、激しい波にも負けず舵をとってゆけたなら。心の中のニライカナイ目指して。
綾なす水押しぬきてぃ 走い出たる那覇港
綾なす水押しぬきてぃ 思いや果てぃねん旅心…
旅することに思いは果てることがない。色褪せない思い出を作り続けることが出来る。まだ僕には「旅」があった。そうして、僕は元気を取り戻していった。
波照間島にまた行きたいな。心の楽園を求めて。
読んでくださってありがとうございました。
青春ソングをエントリしましたので、TBさせていただきました。
沖縄の歌って、なぜか遠い日を思い出すような懐かしさがありますね。
「りんけんバンド」の名前は知っているのですが、曲を聴いていないので今度聴いてみますね。
明日からまた一週間の始まりですね。
どうぞ、凛太郎さんにとって実り多き日々でありますように・・・
「りんけんバンド」はまあフォークとは言えませんが、思い出話のつもりで書きました。考えてみたらフォークしか書かないなんてルールは作っていなかったと気がついたので(笑)。
先日、Mamiさん5/26のblogにコメントを残そうと思ったのですが、ちょっと言葉を見失ってしまって大変失礼してしまいました。未熟者でございます。m(_ _;)m
しかしながら、Mamiさんはblogを通じて素晴らしい人の輪を築いてらっしゃいますね♪ 見ていてHappyになりますよ。(^-^)
2つもTBをありがとうございました。
実は、こっそりと打ち明けるのですが、26日の記事の時凛太郎さんとお話したかったんですよ。
「どうして来てくれないの・・・?」 (笑)
あ、せめてるのではなくて、それだけ、凛太郎さんの残してくださるコメントが温かいということです。
私は、何十万人といるブロガーの中から、お知り合いになれたご縁を大切にしたいと思ってるんですよ。
こんな私ですが、どうぞ末長くおつき合いをよろしくお願いいたします。
こんなふうに相手の気持ちを暖かくHappyにいつの間にかしてしまうのがMamiさんの優しさなのでしょうね。
しかしながら、Mamiさんの前向きで凛然とした、そのお姿はむろん崇高なもので憧れも感じたりしますが、「頑張って!」という気持ちと同時に、「無理しないで^^;」と思う気持ちもあったのです。eririnさんもおっしゃっていたように。5/26日の記事も、最終的には自己叱咤で終えてらっしゃるところを見ると、「もう少しやわらかくいきましょう♪」と書き込みそうになって、それはちょっと僭越だなと思いなおしているうちに結局コメント出来ずに仕舞いました。
Mamiさんが持っておられる向上心について水を差すような気もしましたし、自分のことは自分がいちばん理解してらっしゃるはずなので、何を言っても蛇足でしかないですし(汗)。それに、ここまで頑張る人なのに、気配りも優しさも人一倍ですし。
おじいさまのことは大変でした。いろいろな思いが去来されたのではないかと思います。
「強くあれ、頑張れ」というのもプレッシャーになりますし、「肩の力を抜いて」というのも僭越ですし、結局「ありのままのMamiさんで♪」が一番ふさわしいのかもしれませんね。(^-^)