諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

107 幸福の種 #6 変化を求める

2020年11月11日 | 幸福の種
富士山! 冬 丹沢 塔ノ岳から

幸福の種をテキストから拾う作業をしています。
少し単調ですがしばらく続けます。
今回は55~60/288頁を見ていくことにします。

テキスト:神谷美恵子『生きがいについて』みすず書房


2 生きがいを求めるこころ
「生存充実感への欲求」、「変化への欲求」

【共通性と個人差】
 生命を前進させるもの、つまり、よころび、勇気。希望などのようなもので自分の生体験がみたせれているという感じを人間はすべて求めていると考えられる。
その欲求の強さには個人差があり、生に対してもともとどん底にできているひとと、つつましやか、またはのんきにできているひとがある。

【精神生活の上の失業】
 ふつうの健康の持主が朝おきて、その日、自分のなすべき仕事は何なのかわからない、という状況にあるとすれば、それだけでも生存の空虚さに圧倒されるにちがいない。
社会生活の上での失業はもちろんのこと、精神生活の上での失業はこの点でなお一層大きな不幸である。

【冒険の原動力】
 幼児がおもちゃでも時計でも、なかに何がはいっているかをしらべようとして、容赦なくこわしてしまう姿を思い浮かべれば、これが人間に備わっている基本的な欲求のひとつであることがわかる。
これが人間を内外の冒険と探究にかりたてる原動力であろう。

【退屈】
 生活に変化がなくなると人間は退屈する。
それは精神が健康である証拠なのであって、心がやむと退屈は感じられなくなることが多い。

【大ていは、】
「何かが起こらなくてならない、―これが人間のおっぱじめの大ていのことの説明さ。何かがおこらなくてはならない、愛なき奴れい状態でさえも、戦争でさえも、死でさえも」
(文中引用 カミユ『転落』)

【「退屈病」がはびこる】
 生活を陳腐なものにする一つの強大な力はいわゆる習俗である。
生活のしかた、ことばの使い方、発想のしかたまでマスコミの力で画一化されつつある現代の文明社会では、皆が習俗に埋没し、流されて行くおそれが多分にある。
かりに平和がつづき、オートメーションが発達し、休日がふえるならば、よほど工夫しないかぎり、「退屈病」が人類のなかにはびこるのではなかろうか。

【「生存の窓口」】
 愛生園の患者の大きな悩みの一つは退屈ということであったが、…窓外の風物のたたずまいや周囲の人々の動きに耳をすまし、自己の内面にむかって心の眼をこらし、そこからくみとる歌や俳句の形で表現し、光を失った目をつぶり、顔をややなな上むきにして、じっと考えながら、ポツリポツリと療友に詩を口授する人の姿。
…肉体的機能が制限されたひとは、かえってエネルギーを注意が許されたせまい「生存の窓口」に集中して、密度の高い精神的な産物をつくり出しうるのであろう。

今回の引用からも学ぶ点が多い。

「精神生活の上での失業」対策が、習俗によって画一的にすすでいくということを1966年に言っている。
生きている間の膨大な時間を「生存充実感」にかえようと様々「おっぱじめる」企画をするのが人なのだが、その質を問うている。

 現在は習俗によって、生活のしかた、ことばの使い方…が画一化されながら、「おっぱじめる」企画さえも商品化されているようにも感じる。
商品化された「おっぱじめ」はすぐに陳腐化するのなら、健全にベクトルを自分の内面にむけることなのだろうか。
それにしても、そのテーマを探すことや、それに向かわせるエネルギーがいるわけだから、幸福(生存充実感)は自家発電機で回す頑張りは不可欠なのだろう。

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