諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

142 「ズレ」を考える #15 ルソーの残像

2021年06月27日 | 「ズレ」を考える
🈟 絵地図! 登山道入り口などに登山ルートを表した絵地図が設置されているところがあります。なかなか凝ったいい物が多いです。第1回は二荒山神社の先の「男体山」の絵地図。実際は絵の印象よりタフでした。

ヘルバルトの話が長くなってきたところで、この機にルソーの話を書きます。

ヘルバルト主義は、ルソーのこの発想から出発する。

 社会の秩序のもとでは、すべての地位ははっきり決められ、人はみなその地位のために教育されなければならない。その地位にむくようにつくられた個人は、その地位を離れるとなんの役にもたたない人間になる。教育はその人の運命が両親の地位と一致しているかぎりにおいてのみ有効なものとなる。そうでないばあいは生徒にとっていつも有害なものになる。(中略)
自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。だから、そのために十分に教育された人は、人間に関係のあることならできないはずはない。
わたしの生徒を、将来、軍人にしようと、僧侶にしようと、法律家にしようと、それはわたしにはどうでもいいことだ。両親の身分にふさわしいことをする前に、人間としての生活をするように自然は命じている。生きること、それがわたしの生徒に教えたいと思っている職業だ。  『エミール』


そして、ルソーの影響で市民革命に参加したぺスタロッチは、市民革命後の道徳の混乱と、社会の貧困下にあるスイスで、社会の開放が必ずしも人間の開放につながらない現実に直面しつつ、教育者へと転じ孤児院での教育をはじめる。
そして、次の結論に達する。

事物に対する曖昧な直観から出発して明晰な言語で表現される概念へと到達する過程こそ、子どもが合自然の原則を体得して近代的な主体へと成長する筋道である

子どもの手仕事や労働の教育的価値を発見し、合自然の原理は、自然の事物に問いかけ働きかける作業や労働の教育において具体化される


ペスタロッチはルソーの命ずる「自然に帰れ」は、社会変革の必要性と合わせて、個の人間の合自然に即した陶冶の必要性を感じながら、実際に教育者になり、実践し、その方法をも示した。それが、「直感から概念へ」であり、「生活が陶冶する」なのである。

そして、その「シュタンツの孤児院」に、ヘルバルトが訪問したことが、その後の教育史の大きな転機になった。
そこでの教育に感銘をうけたこの哲学者は、ペスタロッチの教育を倫理学と心理学とで理論づけることに尽力した。
これが、教育をアカデミックに取り上げた最初のものにあり、市民社会化した各国の国民教育の理論的基礎になったことはすでに触れた。

そのヘルバルト主義が日本でも国民教育に導入され、「国民皆学」の内実をささえることになる。
そして、「教育的教授」は訓育として教育勅語を中心とした帝国臣民づくりに対応しことや、「形式的段階」は伝達と記憶を中核とする授業の様式と技術の定型化を促進した、と、教職のテキストなどには載る。

もちろんその解釈でいいのだが、忘れてはならなのが、広田照幸さんの次の指摘である。

すべての子どもに教育可能性を見出すとういう、平等思想を教育の中で展開する足場になったということである。生まれつき人間の質には優劣があるとういう思想は、プラトンまでさかのぼる古くからある思想であった。当時のヨーロッパは現代の日本以上に、生まれ落ちた身分や階級によって、子ども達の「生」のあり方が、はなはだしく異なっていた。だから、はなはだしい成育環境の差は、貧民の子どもには知的発達が不可能といった論や、だから身分別・階級別の教育が当然だ、といった論を、容易によびこんでしまっていた。しかし、ペスタロッチやヘルバルトのように、「子ども」を単一で均質な存在として、そこに「教育可能性」を見出すとすると、身分や階級にかかわりない「教育」の可能性を想定できるということになる。

「〇〇さんは、もっと出来るはずだ!」
と思って、私たちはたびたび今日の指導の方法を反省したりする。
その当たり前のような習慣の裏には、ルソーの
「自然の秩序のもとでは、人間はみな平等であって、その共通の天職は人間であることだ。」
という教育思想が息づいている。
 


            佐藤学『教育方法学』岩波書店、『教育の方法』左右社
             広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』岩波書店 
            木村元・児玉重夫・船橋一男『教育学をつかむ』有斐閣






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