諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

141 「ズレ」を考える #14 学習指導要領の複眼

2021年06月20日 | 「ズレ」を考える
道! 🈡 白馬駅の正面の道 白馬岳がそこにあります。

さらに、ヘルバルトの話を続けます。

教師主導の教授主義を主張したヘルバトル主義について、次のような批判はで妥当である。

子どもの内面(的発達に従った教育)」と言っても、現実の個々の子どものそれには応じた教授法などではなく、あくまでも哲学的・思弁的に組み立てられた「子どもの内面」にすぎなかった。

生徒には教師があらかじめ設定した筋道を忠実にたどることだけが求められるのである。もちろん学習は、主体としての子ども自身の自己活動である。だが、それは、あくまでも教師による働きかけへの応答としての自己活動である。子どもは、教師による働きかけに反応するだけの、受動的な存在としてしか想定されていなかった、といってもよい。

「子ども」は単一で均質な存在とみなされていた。現実の子どもの多様性は十分考慮にいれられていたわけではなかったのである。子どもたちはみんな共通の心的性質・知的発想の筋道をもつ、と想定することで、五段階教授法のような学級集団を対象にした一斉授業が成り立つとになる。
   広田照幸『ヒューマニティーズ 教育学』岩波書店

 ヘルバルトによる教授理論は「機械的で画一的」だという批判である。
そして、もちろんこの画一性に反する方法思想や実際の取り組みもあった。
子ども一人ひとりのちがいに応じた内容や方法を採用し、彼ら一人ひとりの自発性に依拠して学習はすすめられるべきだする「進歩主義的教育運動」などの登場である。
しかし、日本では、1958年の学習指導要領に法的拘束力が付与されることで、こうした「子ども中心」の教育は、あまり議論されなくなったようである。

しかしである。
その同じころ、「機械的で画一的」でない学習指導要領が誕生する。現在の特別支援学校の学習指導要領にあたるものである。(経緯は複雑なため略)
特別支援学校(盲・ろう・養護学校)のそれは、子ども達の状況が多様なため、学校現場の教育の成果を学習指導要領に割合スムースに反映できてきた面があったように思う。
そこでは、子ども一人ひとりのちがいに応じた内容や方法を担保し、特に知的障害を伴う児童生徒の各教科の内容は、生活単元学習を可能にしているのである。そして後年「個別の教育計画」を立案することも盛り込まれ、個々の子ども達の教育保障を現場の力に依拠する場を提供しているのである。
そこで行われている教育活動がどう「機械的で画一的」でないかを佐藤学さんは次のようにいう。

学びと発達の関係については、ヴィゴツキーの「発達の最近接領域」(独力で達成できるレベル(現下の発達水準)と教師や仲間の援助によって達成できるレベル(明日の発達水準)との間の領域=学びの可能性の領域)の考え方が参考になる。ヴィゴツキーが指摘してように、学びの活動は「現下の発達水準」を超えて、「発達の最近接領域」において組織されるべきものであり、学びの活動は発達に先行して発達を主導すべきである。愛育養護学校の子どもたちが教師やボランティアとの親密な関係に支えられて遂行している活動は、まさにヴィゴツキーの提唱する「発達の最近接領域」における学びの活動、すなわち発達の先行し発達を主導する学びの活動として展開されている。
 佐藤学『学びとケアで育つ』小学館

小学校、中学校、高等学校の学習指導要領と、特別支援学校(特に知的障害教育の教科の部分)をさして、研究者は「教育課程の二重構造性」と言うことがあるようだが、この両者のズレは子ども達本位の学校教育を考える複眼として重要であると言えるだろう。

ヘルバルトが120年なら、特別支援学校も義務化になって42年にもなる。
 










この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 140 「ズレ」を考える #13 ... | トップ | 142 「ズレ」を考える #15 ... »