諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

240 保育の歩(ほ)#31 竹内俊晴さんのコメント

2024年08月11日 | 保育の歩
のんびり八ケ岳 ここが有名な美濃戸口の八ケ岳山荘 さすがまだ暗いのに中は賑わってます。ヘッドライト点けてボチボチ出発

引き続き

『シリーズ授業 10障害児教育発達の壁を乗り越える』岩波書店1991年

から、津守さんの在籍していた当時の愛育養護学校の実践についての多彩な編集委員の方の批評を取り上げたい。

今回は演劇・人間関係学の竹内俊晴さんである。
竹内さんは自身も聴覚障害があり、その中で演劇界で活躍され、言葉と体についての鋭い感性をお持ちである。また定時制高校などの学校現場でも経験をもつ。

竹内さんの立場からは保育者の「居ること」の意味がさらに深まる。

私が障害児に限らず、一般にいわゆる教育の現場について言いつづけてきたことは、たった一つの視点でしかない。大人である教師のからだが(ことばも含めて)子どもにほんとにふれているか、ふれることができるだけひらかれているか、いっしょに息をしているか、を問うことであった。

ある熱心でもあり信頼できる養護学校の青年教師とレッスンしていた時のことである。彼は大柄ながっしりした体格で、相手の人は小柄な若い女性だった。彼がやさしく彼女に働きかけ手をさしのべると、彼女はまじまじと彼の目を見つめながら後退りする。また改めて手をさしのべる、とちょっと首をかしげる。それでもさまざまなやりとりの後、彼は彼女の手を取り、やさしく抱きしめた。一見二人はしっくりとけあったかに見えたが、彼女はやがて彼の手を解くと、少し首をかしげながら離れて立ち、そして去った。彼の納得し切れない顔。
彼は初め彼女を見た時、小さな心細そうな女の子に見えたと言う。かわいそうだな、とふと思った。そしてなんとか支えてあげたいと思って働きかけたのだ、と言う。だが彼女はどこかしっくりしない、と言う。抱かれた時もほんとに安心し切れなくて、と。
私は彼の抱いた時の姿をまねして見せた。両手を彼女の背に廻してしっかり抱きしめているみたいなのだが、腰は微妙に離れている。てのひらは背を抑えているが、指先はやや反ったまま宙に浮いていて、彼女のからだに触れていない。見ている人たちの「似てる!」という声と共に彼の顔が硬くなった。少しずつ話しあった後で私たちが気づいて来たことは!彼は心から彼女を力づけたいと思っていたのだけれども、からだは彼女をほんとのところでは避けていたのじゃないか、ということである。彼は彼女を「かわいそう」と思った。それが彼の出発点で、そこから彼は善意に満ちて前進した。しかし、ほんとうは、「かわいそう」というイメージを作り上げる前の彼が大切なのではないか。彼はほんとに彼女をどう感じたのか。あ、いい感じだな近づきたい、親しくなりたい、触れたい、と感じたのか。それとも逃げたい、関わりたくないと感じたのか。ひょっとしたら、そこはフタをして、「かわいそう」と感じることから安心して、日常生活で訓練している行為のパタンをくり出していたのではないか。

愛育養護学校の仕事は、かって遠山啓さんが八王子養護学校での実践を呼んだ名づけにならって言えば「原教育」とでも呼ぶべきことだろう。それがまず満たされねば人間の教育など始まりようもないことだ、有りがたいことだ、と思った上で、コムニタスと構造の問題が重く現れて来る。前節にのべたような健常者と障害者のお互いの浸透を思った上でなおかつ、「障害」とは「人間であること」の根本的ななにかの障害になりはせぬのかという疑いが私に生れて来ている。今のところそれは主に言語と精神ということのつながりについてであるが。それを含み、なおそれを超えて「人間である」とはなにか。

障害児教育を「原教育」とすれば、健常者は障害者ではないリアリティを思えば、健常者はその原点に本当に立てるのかと言っている。


いづれにしても、「大人である教師のからだが(ことばも含めて)子どもにほんとにふれているか、ふれることができるだけひらかれているか、いっしょに息をしているか」というテーゼをまっすぐ受け止めることが前提になる。
これはもちろん健常者に対するときも共通する。




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