諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

143 「ズレ」を考える #16 教育内容決定権

2021年07月04日 | 「ズレ」を考える
絵地図! 上高地の奥 横尾にある穂高連峰の絵地図。この絵の上にけが人の数が貼ってあることがあり、気が引き締まります。

授業における教授方法について考えきました。
一斉授業という枠組みの中で最大限に子ども達の変容を促すための歴史の変遷をまとめたつもりです。広く見ると授業の中の子ども達の認識ズレを意図的に組織していく技術ともいえるように思います。
そして、今回は教授とは直接は関係のないのですが、寄り道して、教育内容が決定される根拠をテキストにそって学んでみます。

まず、19世紀の半ば、西欧では、数学化学工学医学法学政治学社会学心理学が確立し、その後基礎科学(特に理学的な分野)、応用科学(特に工学的な分野)が加わり学問領域ができた。これが、学校の教科の基盤である。

ところが、教育には、別の要素が入ってきて、ナショナル・アイデンティティを形成する内容(国語、道徳、歴史、体育)が、産業社会を建設する内容(数学、科学、技術)が導入され、個々のアイデンティティを表現する内容(音楽、美術)という目的性が与えられる。

つまり教科は単純に学問領域の基礎をなすのでないということである。当たり前だが、社会のあり様や国の未来像に向けての思惟が含まれ編成される面がどうしたって学校教育にはある。

そして、教育内容の決定の在り方には原理的に課題が生じる。
一つは、基盤となる学問領域もそのものが明治時代に西欧からの輸入したそのままのものだったこともあり、人々の日常に遊離したものに感じたこと。
二つ目には、高度化する社会にあって、学問領域はその時々の課題解決にはフィットしにくいということである。

だから、時折、教科学習より日々の生徒の実感に根差しやすい生活教育(統合学習とか総合学習)に注目が集まったりすることになる。

教育内容の決定の大枠は、ざっと以上の構造のようだ。
ただ、よくよく考えてみると社会科も理科も家庭科も領域統合された教科だし、やり方によっては生活教育的にもできるから教科と生活とを二項対立させるのも適切でない面がある。

ところで、こうした構造のなる背景を、テキストでは、「リベラルアーツ」「一般教育」を取り上げて解説している。

暗黒の中世にあって、ルネッサンスのごとくギリシャ時代の復古する動きの中で、プラトンの「自由7科」(『国家』)が再考され、封建社会の個人に精神的な「解放(リベレイト)」を求めたという動きがあった。
これが、人文主義の古典を中心に教育内容となり、学校教育に用いられた。論理的思考の態度そのものが「精神陶冶」という価値として、中等教育、高等教育に「教養主義」として広まったという。これが確立したのが19世紀で、アメリカや日本にも大きく影響した。この流れを「リベラルアーツ」という。

日本の旧制高校はこの「リベラルアーツ」と呼ばれる「教養主義」の典型で、旧制高校を経験した方の著作などにもプラトン以降の偉人たちの古典を読みふけった話などがよく出てくる。
そして、初等教育も含めて教科(学問)を分科主義で教育する伝統もこの影響であるという。
今でも小学校になるとこれまでの幼稚園学習指導要領の「遊びを通しての総合的指導」がガラッと変わって教科教育的な学習になるが、これもこの分科主義の流れであろう。
ところが、「香しき…」「文化の精華」の旧高校の誇り高き「リベラルアーツ」も現実社会から遊離した教養主義とエリート主義という批判が、アメリカで市民社会の成熟とともに起こりはじめた。

民主主義の社会を実現する市民の教育とは「現実の社会的な問題の解決に貢献する教養の形成」という19世紀末のアメリカに起源をもつこの考えを「一般教育」という。
そして、2度の大戦を経つつ、「リベラルアーツ」との質のちがいを明確にしつつ、1945年の『自由社会における一般教育』という大学研究の報告書が出され、アメリカの教育改革の指針になる。
ここでは、
「一般教育」の目的を民主主義社会を建設する自由な市民の形成に求め、その基礎となる教養を大学においては「自然」、「人文」、「社会」の3つの領域を選択する方法をで、高校においては「数学と科学」「文学と言語」「社会科と社会諸科学」「芸術」「職業」の5領域で構成する
という。ちなみに日本の大学の「一般教養」はこの発想に基づている。
そして、全米各地で「平和」と「自由」と「民主主義」を主題とする「一般教育」の学校改革がなされる。
つまり、「一般教育」はその本来の目的性からみて、教科分科ではなく、結果的に領域という総合性こそが市民としての課題解決にふさわしい教養を導くのだと説くのである。

教育内容の決定はもちろん、人類の文化遺産の基礎的部分を子ども達に着実に伝えるということだろう。だから、普遍的な人類の歩みを静かに読み解くことは当然である。ここに変わらない「静の教養」がある。
しかし、現代を生きるものとして直面する社会や個人の課題に立ち向かう力も必要だ。それもまた違った性質の教養である。「動の教養」と言っていいのかもしれない。

だから教育内容は変わらないものを含みながらも更新させる、このことは今後も変わらない。
要は個々から子ども達が何を学び取っているのか、それは教育方法の問題になる。



                                   テキスト:佐藤学『教育方法学』岩波書店


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