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夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

坂 松永耳庵筆 その2

2019-02-28 00:01:00 | 掛け軸
本日は家内が購入した作品の紹介です。近代小田原三茶人と称された「益田孝(鈍翁)、野崎廣太(幻庵)、松永安左エ門(耳庵)」の一人の作品です。

坂(仮題) 松永耳庵筆 その2
紙本水墨淡彩軸装 軸先木製 合箱
全体サイズ:縦1032*横472 画サイズ:縦193*横448



茶道に興味のある方は一度は訪れているであろう松永耳庵の「柳瀬荘」が著名です。

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山荘「柳瀬荘」:埼玉県柳瀬村(現所沢市)に山荘「柳瀬荘」を営んで、益田鈍翁(ますだどんのう、1848~1938)や、原三渓(はらさんけい、1868~ 1939)といった我が国の近代茶の湯の主導者たちと広く交流をもち、古美術品の蒐集においても強く影響を受けました。当時の数寄者たちは、蒐集した美術品を茶席へ惜しみなく用いて取り合わせを楽しむ茶の湯を展開し、耳庵氏もまた、古くからの概念にとらわれない、自由で豪快な茶の湯スタイルを受け継いでいきました。



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1964年に生存者叙勲制度が復活した際、同年4月29日付の最初の叙勲で松永は勲一等瑞宝章に内定しいたのですが、首相の池田勇人から直々に打診された松永は「人間の値打ちを人間が決めるとは何ごとか」と激高し、受章を拒否しました。

困った池田は松永に可愛がられていた永野重雄に説得を頼み、小田原の松永邸に尋ねた永野は、松永に対して「あなたが叙勲を受けないと、生存者叙勲制度の発足が遅れて、勲章をもらいたくてたまらない人たちに、迷惑がかかる。それに、あなたはどうせ老い先が短い。死ねばいやでも勲章を贈られる。それなら生きているうちにもらった方が人助けにもなりますよ」と迫ったそうです。

松永は不本意ながら叙勲を受けることは了承したものの、勲章授与式を欠席しました。その後松永は「栄典の類は反吐が出るほど嫌いだ」として、死後を含め全ての栄典を受け取らないことを公言します。このため、松永が逝去し際にその訃報を受けた当時の佐藤栄作内閣が政府による叙位叙勲を即日決定したものの、遺族は松永の遺志を尊重し一切の栄誉・栄典について辞退したそうです。

電力王、電力の鬼と称された人物ですが、ある意味では世俗から離れたところに身を置いた人物と言えるのでしょう。



「八十七 ヤットこゝ迄 辿りけり あとハ下りへ 鼻うたでゆく 耳庵 八十七」と賛のある掛物。ちなみに97歳で亡くなっています。



「人間は一生働き通すべきもの」という安左エ門の考えは祖父の生活態度から教えられているそうです。先人というのは大切であり、将来を担う人にひとかどならぬ影響を及ぼすものです。



さらに学生時代には福澤諭吉の朝の散歩にお供をするようになり、諭吉の謦咳(けいがい)に接すると共に、福澤桃介の知遇を得た。卒業まであと一年という1898年(明治31年)、学問に興味が湧かなくなったことを福澤諭吉に告白すると、「卒業など大した意義はない。そんな気持ちなら社会に出て働くがよかろう。」と勧められて退慶應を退学したそうです。福澤の記念帳に「わが人生は闘争なり」と記しています。



骨董蒐集する者にとっても松永耳庵の「松永コレクション」は忘れてはならない存在です。

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松永コレクション:東京国立博物館蔵の「松永コレクション」は、第二次世界大戦前に氏が蒐集し、昭和22年(1947)に氏のご意志によってご寄贈した作品。蒐集家としての名を一躍有名にするきっかけとなった「文琳茶入 銘 宇治(ぶんりんちゃいれ めい うじ)」をはじめ、先達・鈍翁に競り勝って手に入れた「大井戸茶碗 有楽井戸(おおいどちゃわん うらくいど)」など

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「大井戸茶碗 有楽井戸」
東京国立博物館蔵 重要美術品 
高さ:9.3cm口径:15.2cm高台径:5.6cm



世俗を脱した偉人、今はいるのだろうか? 


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