夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

怪しき作品 美人図 伝島成園筆 大正初期

2022-07-09 00:01:00 | 掛け軸
本日は久方ぶりに島成園の作品の可能性のある?作品の紹介です。

大正期の美人画では木谷千種や岡本更園らの作品はわりに入手しやすいのですが、大正期の女流美人画の旗艦船ともいえる島成園の作品はなかなか数が少なく入手が難しいようです。結婚後しばらく制作活動を休止していたので全体の作品数が少ないことも影響しているようです。



今回の作品は共箱もなく、落款のみのが根拠で、印章の検証もなく、それゆえ島成園の作品かどうかはまったく不明ですね。真贋についてはかなり怪しい作品と言わざる得ないかもしれませんが、調査対象として入手し、ブログ記事としました。



美人図 伝島成園筆 大正初期
絹本着色軸装 軸先陶製 合箱入
全体サイズ:縦1925*横660 画サイズ:縦1140*横510



「成園め」という落款からはかなり若い頃の作と推定されます。若い頃の島成園は着物やかんざしの細かなディテール、人物のリアルな表情を得るために、御茶屋に乗り込んで実際に舞妓たちをモデルにしたそうです。



堺の遊郭育ちとはいえ、20才そこそこの若い女性が"女だてらに"と形容されるような行動の大胆さがあり、しかも成園はあまり身なりにかまわないタイプの画家のようでした。



「展覧会場にも飾られている成園の写真を見ると、ひたむきな瞳が印象的な整った美しい横顔ですが、髪の毛はあちこち跳ねていて、白粉の薫り漂う花街に、無造作な髪のまま絵筆を握って乗り込む成園は、なかなか場違いで漫画的な存在だったことだろう。」と記されています。


 
この頃の島成園はひたすら清楚な女性を描いておりますが、一般的な近代美人画風な作風が気になります。



収納箱もなく、ぞんざいに扱われていたようで絵の具の剥落など絵の具に損傷が見られます。

*当時の表具のままにて出品されていました。



落款の書体には違和感がありませんが、若い頃の書体とは比較できていません。



この印章(白文朱方印)の読みは不明です。「▢園」のようですが、まだ確認できていません。
 
 

参考作品:大正2年(1913)の作「祭りのよそおい」(第7回文部省美術展覧会で入選作 大阪新美術館建設準備室蔵)



この作品は微笑ましい風景ながらも、ひとり離れた少女に心に引っ掛かるものを感じる作品ですがその意味については下記の記事を引用します。

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*大阪大学教授で美術史家の橋爪節也さんがこの絵について解説より(大阪市の生涯学習情報誌「いちょう並木」における「おおさかKEYわーど」というコラム)

「祭の幔幕を張る豪家の店先の縁台に、晴れ着を着飾った三人の少女が座っている。右端には立った少女が一人。一見すると楽しい祭の日の少女たちを描いた、類型的にいえば“乙女チック”で愛らしい作品に見える。しかし、この絵にはある意味、残酷なストーリーがある。
 たとえばこの四人の家庭環境はどんな状態だろう。着物や草履、扇子などから見て左端の少女が最も裕福であり、順に経済力が落ちていく。三番目の絞りの子どもは、どことなく左の裕福な少女たちに媚びを売っているように見える。右端に立つ少女は着物も粗末で、裕福な少女たちをジッと見つめ、それも横向きで目しか描かれていない。
 この絵のテーマは、少女たちの可憐さではなく、子どもの世界に投影された大人社会の格差、残酷な現実社会の姿である。成園は堺に生まれ、船場にも道頓堀にも近い大阪市南区鍛治屋町(現中央区島之内)で成長した。《祭りのよそおい》の心理劇は、とりわけ大阪都心の日常風景だったはずであり、男性の画家ではなかなか思いつかない発想である。あなたなら、これまでの人生をふりかえって、四人の少女の誰に一番共感するだろうか?」

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なお「なんでも鑑定団」の島成園の作品が2点ほど出品されていますので紹介します。


 

姉妹   2019年2月5日放送  評価金額:85万円        
立美人図 2019年10月23日放送 評価金額:80万円

姉妹への評:島成園は明治生まれ、大正・昭和と活躍した。京都の上村松園、東京の池田蕉園、大阪の島成園で「三都三園」と呼ばれたいへん名を馳せた女性画家。姉妹の図ということでいろいろ想像が膨らむ。右が姉で結婚し、左がおそらく妹でまだ振袖姿。仲の良い姉妹のやり取りがあるような、雰囲気の良い作品。

立美人図への評:本物。京都の上村松園、江戸の池田蕉園、大阪の島成園で“三都三園”と並び称された女性画家。力強い絵を描く作家だったが、結婚したために絵が描けない時期が長かったので知名度がどうしても低くなってしまう。依頼品は落款からすると大正6年、26歳の頃の作品だろう。この後画風が変化し、妖艶で濃厚な女性美を描くようになっていくが、依頼品はまだ若い頃のひたすら清楚な女性を描いたもの。

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島成園の画歴は他のブログ記事にて紹介されていますが、久方ぶりに島成園の記事ですので改めて紹介します。

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1892年(明治25年)2月18日(もしくは13日)、大阪府堺市熊野町で島栄吉・千賀夫妻の長女として生まれる。戸籍上では母の実家・諏訪家の養女とされたため、結婚までの本名は諏訪成榮。

*印章は多くは「成園」の印ですが、「成榮」の印もあるようです。

父は襖などに絵を描く画工、兄の市次郎(1885–1968)も引札や団扇などに絵を描く画工を生業とするかたわら、浅田一舟に師事し、御風(または一翠)と号して日本画家としても活動した。幼少時は母・千賀の実家である、遊郭街のなかにある茶屋で頻繁に日常を過ごす。堺市・宿院尋常小学校を経て、1904年(明治37年)に堺女子高等小学校を卒業。この翌年に一家で大阪市南区鍛治屋町に転居したが、ここもまた大阪の「ミナミ」に近い場所であり、花柳界の習俗に親しんで育つ。

15歳ごろから父や兄の仕事に興味を示し、見よう見まねで絵を独習、ほどなく「大阪絵画春秋展」に小野小町を描いた絵を出品。その一方で北野恒富、野田九浦らにも私淑して日本画の基礎を学ぶ。私的な友人としての彼らから指導、助言を受けた以外、正式には誰にも師事していない。                   

いくつかの図案競技会に作品を出品したのち、1912年(大正元年)の第12回巽画会展に「見真似」が、同年10月の第6回文部省美術展覧会(文展)で「宗右エ門町の夕」がそれぞれ入選、弱冠20歳で中央画壇へのデビューを果たす。東京、京都が中心とされていた当時の日本画壇において、大阪からの年若い女性画家の出現は画期的なこととして迎えられ、京都の上村松園、東京の池田蕉園とともに「三都三園」と並び称される。また各方面から多くの制作依頼が寄せられたほか、入門志望の若い女性たちが多数自宅を訪れた。翌1913年(大正2年)にも「祭りのよそおい」(前述)で文展に入選し、朝香宮允子内親王、賀陽宮大妃殿下(具体的に誰を指すかは不明)といった皇族からも制作依頼が寄せられたりしたほか、1915年(大正4年)の第13回三越絵画展覧会では、作品が横山大観、竹内栖鳳、北野恒富ら有名画家のそれとともに展示され、さらに同年の第10回文展では「稽古のひま」が兄・御風の「村のわらべ」とともに入選。高い社会的知名度を得る。



「女四人の会」1916年(大正5年)5月、かねてから親交のあった同年代の女性日本画家木谷千種、岡本更園、松本華羊と結成した「女四人の会」の第一回展が大阪で開催され、他の三人とともに井原西鶴の『好色一代女』に取材した諸作を出品、妙齢の女性画家たちによる意欲的な展覧会として話題を呼んだが、「身分違いの恋や不倫の恋、心中、性的倒錯、犯罪など、恋愛感情に駆られての反社会的、反道徳的行動を主題とする文学作品を題材とする絵画を、若い女性画家が描き、それらを発表する展覧会を開いた。」ということが、識者には生意気な、挑発的行動と受け止められ「斬うした遊戯を嬉しんで囃し立てる大阪の好事家というのもまたつらいもの(中央美術 大正5年6月)と揶揄された。また同じ頃から北野恒富、谷崎潤一郎の弟谷崎精二、人気力士・大錦卯一郎らとの恋愛ゴシップを書き立てられるようになり、有名人としての苦悩も味わう。


*下記写真は左から岡本更園、吉岡(木谷)千種、島成園、松本華羊ですが、本ブログでは岡本更園と木千種の作品も数点が掲載されています。



また同年の第10回文展では、享保期の風俗に取材し、身分、年齢もさまざまな多くの人物を画中に描き込んだ大作「燈籠流し」を出品するものの落選の憂き目を見た。これには前年の第9回展で大量の入選者を出したことと、「美人画室」を特設するほど多くの美人画が出品されたことへの反省、反動が働いたとされ、関西出身の女性画家の作品も岡本更園のものを除いてことごとくが落選した。入選が確実視されていたこの作品が選にもれたことを、鏑木清方も惜しんで「島成園女史の作は・・・・落選すべきものとは思はれないが聞くところに依れば、色調の弱すぎた為と云ふことである。・・・・大阪の作家は・・・・一種の濁った色調を持っている・・・・『燈籠流し』も取材の非常に優れたものであつたに係らず選に入らなかったのは、此色調の為であつたらうと思ふ(中央美術 大正5年5月)」と擁護した。



大正6年に発表した「おんな(旧題:黒髪の誇り)」は、上半身をはだけ乳房もあらわな女性が、般若の描きこまれた着物をまとい、ただならぬものを感じさせる眼差しとともに髪を梳る、といった官能的ながらも不穏な印象を与える作品で、裸体画に厳しい批判がよせられていた時期であったこともあり、父の助言を容れて、当初よりも性的な印象を弱めた作品として仕上げたにもかかわらず、その年の再興第4回院展では落選した。なお完成時のこの作品には、画中の女性の足許に盥(たらい)が描き込まれており、当時の新聞に掲載された写真にもそれが見て取れるが、現在はその付近が切断されている。

*下記の作品:「無題」(大正7年/大阪市立美術館)



その「おんな」同様、「無題」もまた、感覚的な洗練を追求するそれまでの「美人画」から一歩抜け出し、成園自身ともいわれる画中の女性の顔に痣(あざ)を描きこむことによって、その内面をも表現しようとした意欲作であるとされるが、「何故ソレに適合した画題を付けない、無題など・・・・は卑怯千万(大正日日 大正7年6月12日)」と非難され、別の展覧会では「画室の女」という題を付けて展示されたこともあったほか、作品を求婚広告として揶揄するイラストが新聞に掲載されるなど物議を醸した。1918年(大正7年)に発足し、北野恒富、金森観陽、水田竹圃らとともに、成園も会員として加わった「大阪茶話会」は、その設立の趣意に「絵画は自己の精神の内にどんなものがあるかを示すことによって、他人の精神に自己の知己を見出すもの」とうたっているが、この「無題」は、同年6月に開かれた同会の「第1回試作展」に出品されたもの。

*下記写真は「伽羅の薫」



こうした傾向は1920年(大正9年)の第2回帝国美術院展覧会(帝展)に出品して入選した「伽羅の薫」で一層深められた。成園の母がモデルをつとめたこの作品では、老齢に差し掛かった着飾った遊女を、上下に長く引き伸ばしたグロテスクな造形で描き、肉体美に執着する女性の業を表現したとされ、今日なお彼女の代表作とされる。石川宰一郎に「美に陶酔せる一種の強き情味を発揚した力作だ。閨秀画家としてあすこまで突つ込んだのは異とすべし(『新公論』大正9年11月)」と賞賛された一方で、石井柏亭には「明らかに邪道に入って居る。衣裳の赤と黒の毒々しさ。妖艶と陰惨とを兼ねたやうなものを現はさうとしたのかも知れぬが、画の表われは極めて下品な厭味なもの(『中央美術』大正9年11月)」と批判された。この作品は1934年(昭和9年)に制作された「朱羅宇」とともに成園自身によって大阪市立美術館に寄贈された。

同じ大正9年(1920年)11月には銀行員・森本豊次郎と結納を交わし、同居生活に入ったが(入籍は大正15年6月)、これが本人の十分な合意を得ないままに強行されたことであったことと、それによってもたらされた生活環境の変化は、彼女の創作にも大きな影響を及ぼしたと見え、1923年(大正12年)に開いた結婚後初となる個展で発表した新作「春怨」「女歌舞伎」「春之夜」などは「精魂の抜け足許も定かならぬ有様・・・・技巧は練達していても・・・・女史の個性は見当たらない。唯の綺麗さ、手際の良さ、職工的な熟練さが認められるのみである(大阪日日 大正12年4月10日)」とこれまでにない酷評を浴びた。また、1924年(大正13年)には、共作による新版画「新浮世絵美人合 七月 湯あがり」を発表している。しかしこうした一方では、夫・豊次郎が同年に上海に転勤し、成園自身もその後数年間にわたって同地と大阪を往復する生活のなかから、「上海にて」「上海娘」「燈籠祭の夜」などといった、中国の風俗に取材した異色作が生まれている。そして1927年(昭和2年)、第10回帝展に「囃子」が入選。これは彼女の中央の展覧会での最後の入選となった。昭和に入って以降は、夫の度重なる転勤に同行して小樽、中国・大連、同じく芝罘、横浜、松本、岡谷と転居を繰り返し、自らの芸術の故郷と考えていた大阪から離れたことによる創作意欲の減退、同時期の体調不良などにより、作品はほとんど生み出されなくなった。

終戦後の1946年(昭和21年)、夫・豊次郎の退職に伴い大阪に戻り、城東区関目に居住、1951年(昭和26年)には帰阪後初となる個展を開催、1956年(昭和31年)まで毎年開催した後、1960年(昭和35年)には大阪女人社展に参加、それ以後は門弟・岡本成薫との二人展を1969年(昭和44年)まで毎年開催した。1970年(昭和45年)に宝塚に転居したが、その直後の同年3月5日、脳梗塞により78歳で死去した。

「宗右エ門町の夕」以降の成園の活躍は、日本画家を志す同年代の女性たちの奮起を促すところとなった。そうした中の一人・生田花朝(1889-1978)は、後年綴ったエッセイ「雪解の花」のなかで「大阪の私たち女の作家は、まづ島さんの崛起によつて立ち上つたやうなもの・・・・『宗右エ門町の夕』こそは、全く島さんの華々しい画壇への首途でありまた私たちへの発奮の先駆・・・・実さい大阪の女流画家で、直接なり間接なりに、島さんの影のかからない人はない(大毎美術 第180号 昭和12年5月刊所収)」と回想している。

*「宗右衛門町の夕」という作品は今どこに行ってしまったかわからないそうです。絵葉書にて展示されているようです。



その後の文展では大正3年の第8回で岡本更園、小方華圃(1876もしくは80-1925)、翌大正9年の第9回では松本華羊、木谷(当時は吉岡)千種、第10回で再び岡本が入選を果たしたのをはじめとして、大正4年に第1回が開催された大阪美術展覧会(大展)へもすでにふれた画家たちの他、橋本成花、平山成翠、宮本成操ら多くの女性画家たちが作品を出品し、その盛況は「良家の夫人、令嬢たちが頗る熱心に出品の準備中なるは注意すべきことの一なり(大阪毎日新聞)」と特筆された。こうしたほかにも大正3年の「閨秀画会」、大正6年の「閨秀画家作品展観」などといった女性画家の作品だけを集めた展覧会も開催された。こうした流れは北野恒富によって大正3年に設立された「白耀社」や、木谷千種によって大正9年に設立された「八千草会」などといった、女性画家の育成に積極的に取り組む画塾の誕生によって、より深く根付いたものとなった。

成園の門下生にはいずれも女性。
秋田成香(1900–没年不詳)
伊東成錦(1897–没年不詳)
菊池成輝(1871−1934)
高橋成薇(生年不詳–1994)
吉岡美枝(1911–1999)
]特に岡本成薫(1907–1992)は実父の死により内弟子として入門後、森本家の家事一切を受け持ったほか、成園夫妻の数度にわたる転居にも同行、家族同然に生活を共にする一方で、創作にも 取り組み、成園の死後は正式に森本家の養女に迎えられた。成薫は1977年(昭和52年)の森本豊次郎の死去後、成園の遺作85点を大阪市立美術館に寄贈。のち京都に転居し、1992年(平成4年)に没した。

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いずれにしても大正美人画の復習にはもっとこいの作品です。このような不審な作品のほうがよく作品を見たり、調べるようになるようで身に付くもの多いようです。












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