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収納されている作品からは真塗りの盆は本当に限りなく出てきます。
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脚のない会席膳は40客あっても足りなかったのでしょう。追加で下記されたように下記の作品がありました。
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どうも一客が3,500円であったらしい。
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この「町田省三」なる人物の作品は大量にあるようです。状態は非常に良い状態で遺っています。
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茶席ではよく使われる器ですが、なぜこれだけの数が必要であったかというと他の普段使いの
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篁牛人には晩年に支援者ができ、その庇護にて自由に渇筆の作品を描き、近年にはNHKの日曜美術館で放映されたり、大倉集古館で展覧会を催されたりしていますが、その様な渇筆の第2期(以前にも渇筆の作品は描いていた=第1期)の作品のほとんどは支援者のもとから篁牛人の美術館などに収まっています。故に篁牛人の作品は少ない第1期の渇筆の作品と不遇の時代に数多く描いた生活のための作品しか市場にはありません。
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渇筆の作品は特殊な和紙に描くため、その和紙の購入費用が賄えず描くのを諦めたようで、支援者は渇筆の作品を評価し、逆に一切の売るために描くことを禁じたようです。しかしながら、不遇の時代の作品にもなかなかおもしろい作品が多々あります。
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当方では不遇の時代の作品から厳選して入手していますが、本日の作品は北海道にてアイヌを描いた作品(展示作品の中央)の紹介です。
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篁牛人は、1963年(昭和38年 62歳)7月から佐藤良治と共に北海道に旅行しています。北海道には軍隊時代の友人がいて歓待を受けましたが、長期の及ぶ滞在費を得るために北海道出納長などの紹介により石田屋雅叙園、エルム山荘、朝里グランドホテルなどに作品を持ち込んだようですが、売れ行きははかばかしくなく、滞在費の費用のほとんどは、料亭などにおける座画の売り上げと佐藤良治の行商のよって賄われたようです。
*入手時は掛け軸の状態の作品です。
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この間、篁牛人は小樽の祝津港や旭川のアイヌ部落などに立ち寄ってたくさんのスケッチをしていますが、本日の作品はその時に描かれた作品と思われます。
*なおこの作品は篁牛人の郷里の富山市からの入手です。
アイヌコタン 篁牛人筆 昭和38年(1963年)
紙本水墨淡彩軸装 軸先骨 誂箱
全体サイズ:横685*縦1520 画サイズ:横520*縦645
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「□通近文アイヌコタン 熊を彫るアイヌ」と賛ありますが、近文コタン(チカプニ・コタン)とは、明治期にアイヌ保護のモデル地区として現北海道旭川市緑町15丁目付近に設置されたアイヌの集落、部落のことです。
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明治20年(1887年)、北海道庁初代長官の岩村通俊がアイヌの保護をうたい、旭川村と鷹栖村の間に位置した近文の地に、永山、当麻、比布などに点在していたコタンをまとめるという政策を打ち出し、これを受けて、タナシ(現当麻町)在住のペニウンクㇽ(上川アイヌ)や他の各地のアイヌ約50戸が自主的に近文へ移住、一帯は「チカプニコタン」と呼ばれるようになります。
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明治27年(1894年)36戸のアイヌに計49万坪が 「給与予定地」として付与されることが決定します。
明治32年(1899年)「北海道旧土人保護法」制定、上記「給与予定地」は「無償で供与」される予定となりましたが、帝国陸軍第七師団を札幌から近文北方の鷹栖村に移設する計画が浮上し、近文アイヌに対する給与予定地の付与が保留されました。ところが兵営の造成を請負った大倉組(現大成建設)の大倉喜八郎が近文アイヌの強制移住計画を画策します。そして近文信号停車場(現:近文駅)が設置、北海道官営鉄道上川線(現JR北海道函館本線)と接続する引込線が、アイヌ保護地を貫通する形で設置されました。
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明治33年(1900年)には近文コタン南方の旭川村が町制を施行され、第七師団の施設拡充に伴い町は発展して人口も増加し、鷹栖との一体化も進みます。そして近文の地価が高騰し、不動産投機家たちが「保護地」を取り上げ、近文コタンを名寄に移転させることを画策しますが、コタン住民の反対運動起きます。
明治39年(1906年)、旭川町が北海道庁から「給与予定地」を借り上げ、改めてアイヌに貸し付けるという形で強制移住は阻止されます。しかしこの後も「土地給与」(返還)問題は継続することになります。
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昭和期(1926年〜)に入り、アイヌ全体に「北海道旧土人保護法」廃止や「保護地」の全面払い下げ運動が起こります。
昭和4年(1929年)近文コタンが位置する「旧土人保護地」を含む市内一帯の地名変更を行い、コタンとその周辺は近文町、緑町、錦町、北門街とされました。
昭和9年(1934年)近文の保護地のうち1町歩がアイヌ50戸に固有財産として分配、下付され、残り4町歩は「共有財産」とされ、実質的に北海道庁の管理下に置かれことになります。
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昭和20〜22年(1945年-1947年)の農地改革により、近文の旧アイヌ保護地が「アイヌ地主」の手から「和人小作人」の手に移り、アイヌ系住民が困窮します。
令和元年(2019)現在、旭川市街地に完全に組み込まれており、アイヌ系の人口は、平成24年(2012)の調査で46世帯108人、平成29年(2017)の調査で38世帯84人と人口の減少と高齢化が進んでいます。
このような歴史的な史実からもアイヌの苦難の一端がうかがい知れます。
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*アイヌコタンは、民芸品の制作・販売を営み、長年北海道の代表的なおみやげとして観光客の方から喜ばれてきました。特にヒグマや鳥、人間などを題材にした一流作家による精緻な木彫作品は、独自のアイヌ芸術として世界から高い評価を受けています。
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篁牛人のパトロンとなる森田和夫医師は、絵を売りに行った中のひとりだったようです。牛人が見せた中に、アイヌの漁師が月あかりの下でマスをとる様子を描いた《アイヌのますつき》がありました。この絵を気に入った森田医師が「ひとつ渾身の作を作ってください」と依頼したことが、牛人の再出発の契機になります。
森田医師の援助で牛人は旺盛に制作を行い、そうして実現した「渾身の作が、高さ2m×幅2.7mの大画面に達磨大師を描いた《ダモ》という作品です。太い脚で大地を踏みしめるアフロヘアの真っ黒い巨人、といった様子は一般的にイメージされる「ダルマさん」とはだいぶ様子が違いますが、草履を片方だけ履いている「隻履達磨」、蘆の葉に乗って海を渡る「蘆葉達磨」という伝統的なパターンを取り入れた上で牛人の個性を押し出した異色の「達磨図」です。
この大作の完成に牛人は「できた、できた」と小躍りして喜んだそうです。
この大作の完成に牛人は「できた、できた」と小躍りして喜んだそうです。
下記の作品はその「ダモ」(1970年頃)という作品のようです。
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ようやく自由に描けるようになった牛人は1960年代の後半から70年代の初頭にかけて多くの作品を描きますが、長年にわたって過度の飲酒を重ねたことによる脳卒中で倒れ、1974年以降は作品制作ができないまま、1984年に世を去りました。
※本作品は現在、ごわごわした状態なので表具師さんに依頼して裏打ちし直してもらい額装にする予定です。軸装だとどうしても飾る場所が限定されるので、額装にする作品が多くなります。まだ額装の作品は出来上がっていませんので、仕上がり次第写真をアップします。
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以下は額装への段取り状況です。
まずは表具師さんの裏打ちし直しが完了しました。
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リサイクルの寸法の合う額を探してきて額装にしますが、軸装から剥がしてまずは裏打ちし直します。
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全体が綺麗になった状態で額装に・・・。
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マットを選んで額装の完了。
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材料はマット以外はリサイクルですね。なおタトウと黄袋は保管上必須です。
蒐集の面白みはメンテすること、修復すること、徹底して作品に関することを調べること、そして整理して保管に万全を期すること、最終的に飾って愉しむこと・・。
ただ蒐集して雑然と置いておくのは蒐集する者として失格だと思います。