
バンコクに未明に着いたらホテルで少し仮眠を取りました。東南アジアの顧客の社長さんは仙台で新入社員時代に同じ寮にいた同僚で、ホテルの手配などを仕切ってくれてたいへんお世話になりました。

ホテルのフルーツに宋胡録のようなフルーツが・・、思わず撮影。

朝から顧客の挨拶回り・・。夕方には向かいの同僚を社長さんが召集したくれて楽しく夕食会となりました。

タイは仕事で二度目ですが、ともかく活気があります。
本日は水原秋桜子、本日は俳人でもあり、産婦人科医でもあり昭和天皇、皇后から厚い信頼を受けた方の作品です。
南瓜図 水原秋桜子画賛
紙本水墨軸装軸先象牙 共箱入
全体サイズ:横450*縦1200 画サイズ:横350*縦420

箱書きには「南瓜 並に賛句」とあり、作品には南瓜の洒脱な墨絵に「いわし雲こころの波の末消えて」の句が添えられた俳画です。
この句は作者の心境を象徴しており、大空に鱗形に広がって静かに流れてゆく鰯雲を眺めていての心境を述べています。
心の悩みで波立っていた心理が、鰯雲をみつめることによって、ささやかな安堵をおぼえるという意味でしょう。鰯雲という物に映発して心の微妙な動きが描き出されている作品です。

南瓜の繪が実にいいです。俳画を好んで購入することは私は滅多にありませんが、この作品はひと目で気に入り購入しました。
「於八王子喜雨亭(喜雨亭は水原秋桜子の別号)」とあり、東京空襲によって神田の病院、自邸を焼失した秋桜子は、八王子に疎開。以後9年にわたって八王子に住むことになり、八王子の住んでいるところを喜雨亭と称していたように伺え、その当時に製作された作品ではないかと推察されます。
「秋桜喜雨」の朱文白方印が押印され、箱は「秋桜子」の朱文白方印が押印された共箱になっています。共箱に収められた作品で、秀逸な絵に俳句が添えられた作品は珍しいように思います。
水原秋桜子については下記を参考にしてください。
水原秋桜子:1892‐1981(明治25‐昭和56)。俳人。東京生れ。本名豊。別号喜雨亭。1918年東大医学部卒。家業の産婦人科病院を継ぐ。22年,富安風生らと東大俳句会を再興し,高浜虚子に師事した。短歌的抒情を導入,感動を調べで表現する清新典雅な自然諷詠に新風を樹立,山口誓子,阿波野青畝,高野素十と共に4Sと呼ばれて昭和初期の「ホトトギス」に黄金時代を築いた。28年,昭和医専の教授となる。30年には第1句集「葛飾」を上梓,みずみずしい抒情世界は青年俳人を魅了し,新興俳句の口火となり,石田波郷,加藤楸邨らの俳人を育てた。
補足資料
東京市神田区猿楽町(現・東京都千代田区神田猿楽町)に代々産婦人科を経営する病院の家庭に生まれる。独逸学協会学校(現在の獨協高等学校)、第一高等学校を経て1914年に東京帝国大学医学部へ入学。血清学研究室を経て1918年同医学部卒業。1928年に昭和医学専門学校の初代産婦人科学教授となり、講義では産科学を担当、1941年まで務めた。また家業の病院も継ぎ、宮内省侍医寮御用係として秋桜子は昭和天皇、皇后の侍医として厚い信頼を受け、多くの皇族の子供を取り上げた。
俳人としては、まず学生時代に渋柿派の緒方春桐から教えを請い、その後松根東洋城、さらにのち高浜虚子に師事し『ホトトギス』に参加。1922年に富安風生、山口青邨らと東大俳句会を再興。『ホトトギス』時代には、写生を基礎としながら短歌的な叙情表現を導入して主観写生を樹立、山口誓子、阿波野青畝、高野素十とともに『ホトトギス』の「四S」(よんエス)と呼ばれ、同誌の黄金時代を築いた。しかしやがて客観的写生を堅持する虚子とそれを支持する素十と対立し、1931年に主宰誌『馬酔木』に「『自然の真』と『文芸上の真』」(昭和6年10月号)を発表し『ホトトギス』から独立。これをきっかけにして青年層を中心に反伝統、反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こった。主宰誌の『馬酔木』には、『ホトトギス』の沈滞したムードを嫌った五十崎古郷と門弟の石田波郷や若手の俳人達が集い、さらに加藤楸邨、山口誓子なども加わり、やがてホトトギスと対抗する一大勢力となった。この頃、『土上』を主宰し新興俳句に傾いていた10歳年上の嶋田青峰に対し、「天地眼前にくずるるとも無季俳句を容認すべきではありません」と忠告を発した。その甲斐もなく、青峰は1941年(昭和16年)2月5日に新興俳句弾圧事件で逮捕されてしまう。1962年(昭和37年)俳人協会会長に就任。1967年(昭和42年)には勲三等瑞宝章を叙勲する。1978年11月18日の昭和大学創立五十年記念式典で特別功労者として表彰。式典の記念品のひとつに昭和大学五十年を詠んだ秋桜子の句の色紙が配られた。この句の句碑は大学キャンパスの中庭に建てられている。
1981年7月17日、急性心不全のため88歳にて死亡。墓は東京都豊島区の都営染井霊園にある。

ホテルのフルーツに宋胡録のようなフルーツが・・、思わず撮影。

朝から顧客の挨拶回り・・。夕方には向かいの同僚を社長さんが召集したくれて楽しく夕食会となりました。

タイは仕事で二度目ですが、ともかく活気があります。
本日は水原秋桜子、本日は俳人でもあり、産婦人科医でもあり昭和天皇、皇后から厚い信頼を受けた方の作品です。
南瓜図 水原秋桜子画賛
紙本水墨軸装軸先象牙 共箱入
全体サイズ:横450*縦1200 画サイズ:横350*縦420

箱書きには「南瓜 並に賛句」とあり、作品には南瓜の洒脱な墨絵に「いわし雲こころの波の末消えて」の句が添えられた俳画です。
この句は作者の心境を象徴しており、大空に鱗形に広がって静かに流れてゆく鰯雲を眺めていての心境を述べています。
心の悩みで波立っていた心理が、鰯雲をみつめることによって、ささやかな安堵をおぼえるという意味でしょう。鰯雲という物に映発して心の微妙な動きが描き出されている作品です。

南瓜の繪が実にいいです。俳画を好んで購入することは私は滅多にありませんが、この作品はひと目で気に入り購入しました。
「於八王子喜雨亭(喜雨亭は水原秋桜子の別号)」とあり、東京空襲によって神田の病院、自邸を焼失した秋桜子は、八王子に疎開。以後9年にわたって八王子に住むことになり、八王子の住んでいるところを喜雨亭と称していたように伺え、その当時に製作された作品ではないかと推察されます。
「秋桜喜雨」の朱文白方印が押印され、箱は「秋桜子」の朱文白方印が押印された共箱になっています。共箱に収められた作品で、秀逸な絵に俳句が添えられた作品は珍しいように思います。



水原秋桜子については下記を参考にしてください。
水原秋桜子:1892‐1981(明治25‐昭和56)。俳人。東京生れ。本名豊。別号喜雨亭。1918年東大医学部卒。家業の産婦人科病院を継ぐ。22年,富安風生らと東大俳句会を再興し,高浜虚子に師事した。短歌的抒情を導入,感動を調べで表現する清新典雅な自然諷詠に新風を樹立,山口誓子,阿波野青畝,高野素十と共に4Sと呼ばれて昭和初期の「ホトトギス」に黄金時代を築いた。28年,昭和医専の教授となる。30年には第1句集「葛飾」を上梓,みずみずしい抒情世界は青年俳人を魅了し,新興俳句の口火となり,石田波郷,加藤楸邨らの俳人を育てた。
補足資料
東京市神田区猿楽町(現・東京都千代田区神田猿楽町)に代々産婦人科を経営する病院の家庭に生まれる。独逸学協会学校(現在の獨協高等学校)、第一高等学校を経て1914年に東京帝国大学医学部へ入学。血清学研究室を経て1918年同医学部卒業。1928年に昭和医学専門学校の初代産婦人科学教授となり、講義では産科学を担当、1941年まで務めた。また家業の病院も継ぎ、宮内省侍医寮御用係として秋桜子は昭和天皇、皇后の侍医として厚い信頼を受け、多くの皇族の子供を取り上げた。
俳人としては、まず学生時代に渋柿派の緒方春桐から教えを請い、その後松根東洋城、さらにのち高浜虚子に師事し『ホトトギス』に参加。1922年に富安風生、山口青邨らと東大俳句会を再興。『ホトトギス』時代には、写生を基礎としながら短歌的な叙情表現を導入して主観写生を樹立、山口誓子、阿波野青畝、高野素十とともに『ホトトギス』の「四S」(よんエス)と呼ばれ、同誌の黄金時代を築いた。しかしやがて客観的写生を堅持する虚子とそれを支持する素十と対立し、1931年に主宰誌『馬酔木』に「『自然の真』と『文芸上の真』」(昭和6年10月号)を発表し『ホトトギス』から独立。これをきっかけにして青年層を中心に反伝統、反ホトトギスを旗印とする新興俳句運動が起こった。主宰誌の『馬酔木』には、『ホトトギス』の沈滞したムードを嫌った五十崎古郷と門弟の石田波郷や若手の俳人達が集い、さらに加藤楸邨、山口誓子なども加わり、やがてホトトギスと対抗する一大勢力となった。この頃、『土上』を主宰し新興俳句に傾いていた10歳年上の嶋田青峰に対し、「天地眼前にくずるるとも無季俳句を容認すべきではありません」と忠告を発した。その甲斐もなく、青峰は1941年(昭和16年)2月5日に新興俳句弾圧事件で逮捕されてしまう。1962年(昭和37年)俳人協会会長に就任。1967年(昭和42年)には勲三等瑞宝章を叙勲する。1978年11月18日の昭和大学創立五十年記念式典で特別功労者として表彰。式典の記念品のひとつに昭和大学五十年を詠んだ秋桜子の句の色紙が配られた。この句の句碑は大学キャンパスの中庭に建てられている。
1981年7月17日、急性心不全のため88歳にて死亡。墓は東京都豊島区の都営染井霊園にある。