織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

丹沢山塊(6)

2008年07月23日 | 丹沢物語


「丹沢の主峰」

山塊中央に聳える「蛭が岳」は標高1673mで、神奈川県の最高峰でもある。
かつては山岳修行の山で、蛭ヶ岳の山頂には薬師如来や毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)など多くの仏像が祀られていたという。 これから別名の薬師岳や毘盧ヶ岳と呼ばれるようになり、毘盧ヶ岳が転じて蛭ヶ岳になったと言われている。
又、この他にも「この山に蛭(ヤマビル)が多いから」と言う理由でつけられたという尤もらしい言い回しもあるが、有難くない名前であり、尚、この山域には高所でありジメジメした湿性の箇所は存在せず、山蛭などは生息しないであろうと思われるが・・?。 

蛭が岳は丹沢山地では最も奥深いところにある山であるが、頂上付近はブナなどの樹林も少なく、山塊一の標高を誇るだけあって見通しも良い。
天気が良ければ頂上から富士山や南アルプス、八ヶ岳、奥秩父などの山々を一望することができる。 

最も一般的なコースといして、南北に縦断する「丹沢主脈」ルートで、ヤビツ峠や大倉から登って塔ノ岳、丹沢山、蛭ヶ岳そして、ヒメツギ、焼山を越えて道志の青野原、西野々へ到る。頂上・蛭ヶ岳まで最低5~6時間はかかり、麓までは4時間以上かかる。1日コースとしては超健脚者向きである。尚、蛭ヶ岳より西へ向かって進み、桧洞丸、大室山などを経て西丹・箒沢へ下るのを「丹沢主稜」コースといって、主脈より尚一層ハードなルーととなっている。

蛭ヶ岳を含め西丹沢は他の山域と比して、各峰の頂上は樹林に覆われ、踏み後も鮮明でなく、特に天候不順なときなど迷いやすい。
山腹は深い笹が茂り、沢筋は深く、落差のある滝が連続する。地図上で実線で欠かれていても、登山道は鮮明でないところもあり、所要時間も記入されている以上に掛かることもしばしばである。
山道を外して迷い込んだ場合、高みの縦走路を目指すと猛烈な薮こぎが待っており、降ろうとすると峻険な沢筋が待っている、いずれにしても余計に数時間の格闘が強いられ、即、遭難ということも考えられるのである。
西丹沢では、一般的な山域での常識が、逆に災いの元になることがあるのである。

尚、裏丹沢の登山口も数ヶ所あるが、何れも下山に利用されているようであり、小生も丹沢へは数十回丹沢に入っているが、こちら側からの登行は1度もなかった。
いずれにしても丹沢山塊は概して高岳連山ではないが、1000m以上のピーク峰が60座以上もあることから、峻険の山塊といえるのである。


次回は、「丹沢の渓谷」



丹沢物語(5)

2008年07月23日 | 丹沢物語


「西丹沢」

次に「西丹沢」であるが、こちらは小田急・新松田駅から富士急行バスで西丹沢、箒沢方面行きに乗込むことになる。
山麓ベースには御殿場線の「山北駅」などもあるが、乗継が不便なこともあって、やはり新松田駅がベースになるようである。
こちらは東丹沢や表尾根の山容とは異なり、バスで1時間以上も揺られることになり、従って奥深く静かな山歩きが楽しめる。

現在は、途中に「丹沢湖」(三保ダム:ダムは1978・年昭和53年に完成している)があるが、我等が西丹沢に入った当初の頃は未だ完成しておらず計画段階であったらしい。
丹沢湖には、丹沢主稜域より玄倉川(くろくらがわ)、世附川(よづくがわ)、中川川(なかがわがわ)等の支流が流れ込んでいるが、玄倉川といえばあの水難事故が生々しく記憶に残る。

1999年8月14日に玄倉川の中州でキャンプをしていた横浜市に本社を置く会社社員と子供6人を含む家族、社員の婚約者および恋人を含む客18人が熱帯低気圧の大雨による増水によって流され、社員5名と妻2名、1歳から9歳の子供4人を含む13人が死亡した事故である。
この水難事故においてはキャンプ客が水流に流される瞬間がテレビで中継されたため、世間に大きな衝撃を与えたのであった。

玄倉川上流部、事故現場から10km圏内の峰々には、雨山、鍋割、塔ノ岳、丹沢山、蛭、桧洞、石棚という丹沢の核心部である名だたる山峰が、ユーシン渓谷を中心に扇状に連なっているのである。
そして、派生する尾根や谷筋は全体的に急峻な渓谷が続き、谷壁斜面も急傾斜なのである。ここへ大雨がきたら雪崩のように一点集中で、短時間で河川へ流れ込むのである。 
遭難した人たちの中に、山の様子を知る人が一人でもいれば・・、と思うと無念でならない・・。

チョット反れたが・・、丹沢湖より先は「中川温泉」、更に先方に終点の「箒沢」のがある。 途中の中川温泉は、水と緑に囲まれた静かな温泉場である。
古くから「信玄公隠し湯」として知られ、信玄が北条氏康との戦いで負傷した傷兵に湯あみをさせたと伝えられる名湯である。中川温泉の特徴はアルカリ性が強く、pHが10以上にもなるということで、皮膚の表面を軟化させたり皮膚の脂肪や分泌物を洗い流すので「肌もつるつる」、傷に効くだけでなく「美人の湯」ともいえという。

終点の 「箒沢」は落人の集落として知られ、奥州から落ちのびてきた人達が道志から山を越えて来て、大きな杉が2本あったことから、この地に安住の地を求めたといわれる。へ入った来ると左手に巨木が姿を現す、箒杉である・・。
樹齢は県内で最高齢と推定され、その堂々たる高さや幹の太さの姿に圧倒され、現在も樹根や枝ぶりはまだまだ元気だという・・、当然国の天然記念物である。集落は二度の大火に見舞われて、の財宝や古文書などすべて消失してしまったと伝えられている。

この箒沢からは、桧洞丸(1601m)、大室山(1588m)、加入道山(1418m)、畦ヶ丸(1293m)、菰釣山(1348m)等の山々が扇のように周囲を取り囲んでいる。
小生も折にふれて西丹を訪れ、各峰に登っては帰りに中川温泉で汗を流して帰ったのを思い出す。
中でも箒にテントを張って集中登山をしたおり、帰りが夜半になり遭難してのでは・・?、と地元民に心配を掛けたのも今では懐かしく思い出となっている・・。 

桧洞丸と大室山の鞍部に「犬越路」というのがある、両方いずれかの山を踏破するとき必ずといっていいほど、この峠路を越えなければならない。1000mを越える大峠で武田信玄が犬を連れてこの峠を越えたことから犬越路という名称が付いたとも言われるが・・?、果たして史実はどうであろうか・・。
丹沢は1600m以下の比較的低山で、しかも八ヶ岳やアルプスのような峻険さは無い。だが、山が幾重にも重なり、山塊の中央核心部や西丹では、関東には珍しくブナ林が密生していて水量は豊富で、そのため多くの深い渓谷を形作っている・・、丹沢というのは、見た目より険峻なのである。
したがって、山中を縦貫し越えるのは容易ではなく、かろうじて東のヤビツ峠、西の犬越路だけなのである。
今は、峠直下に「犬越路トンネル」が完成しているが、ヤビツ峠と違い一般車両は通行禁止になっていて、犬越路を越えられるのはハイカーに限られている。

戦国期、16世紀の中頃は、この地は甲斐の武田、相模の北条、駿河の今川が合い争う三角帯の地域だったのである。
武田と北条の「三増の合戦」(1569年)については前述したが、この合戦は日本の合戦史上有名であり、結果として両者引き分けで相変わらず対峙状態は続いていた。
その2年後、今度は武田と北条の合戦において武田軍は今川領でもあった北条支配の「深沢城」」(御殿場市深沢・東名足柄SAの近く)を陥し駿東を手に入れた。
これによって武田は気兼ねなく西側からの北条と対することが出来る。
信玄は、小田原へ最短である大月、都留より道坂峠を越え、道志より更に西丹沢の西端である峠を越え、酒匂川より北条の小田原本城を覗ったとみえる。

武田信玄が北條攻めに使ったとされる道程は、道志村から三ヶ瀬川に沿って城ケ尾峠を越え、地蔵平に陣を張ったとされている。
地蔵平は、二本杉峠と経て中川温泉に出る「さかせ古道」が通過していた。
地蔵平の近くには、武田信玄が宿陣した「信玄平」や将兵が米をといだ水を流したという白水沢などの地名が残っている。
この中川温泉は昔から「信玄の隠し湯」としての言い伝えもあり、今も戦国期より開湯したという「信玄館」もある。
当時、この辺りの地は中川城(山北)、河村城(山北)といった小田原城の支城があり、北条氏康の支配下にあった。 ただ、信玄が中川城、河村城と交戦したという記録は定かでない様であり、両城は、後の秀吉との「小田原の陣」において落城するのであるが・・。

酒匂川上流界隈の地元民は、どうしたわけか地元の北条氏より武田(信玄)びいきであるという。 このことを考察すれば、この地での武田、北条の諍いは多少あったものの、激しい戦闘、戦乱はなく、従って、信玄は地元民を害することなく、しかも、慈愛の念をもって接したと言われる。 そして、ほぼ不戦の状態で甲斐へ戻ったとされる。
何故なら、これには多少の訳があった。
この時期、西域では信長、家康が伸張してきた時期でもあり、お家をこれ以上永く留守をすることは適わなかったからである。
撤退に及んで北の山、即ち箒沢から犬越路を越えれば最短で甲斐国(山梨県)へ達するのである。 信玄は不明瞭な峠道を軍用犬を先導に「犬越路」を越えたのではないかと想定されるが・・?、・・。
信玄は、翌年の元亀3年(1572年)12月、徳川家康との「三方ヶ原の戦い」で、これに勝利するが、直後の元亀4年4月陣中で病没している、享年53歳。

次回は、「丹沢の主峰」

丹沢物語(4)

2008年07月23日 | 丹沢物語


「表丹沢」

話を戻そう・・!
次に表尾根で人気の「塔ノ岳」であるが・・、
地図を見ても判るように山頂から登山道が網の目のようにというか、放射状のように敷かれている。
塔の岳は丹沢山麓の南側に面しており、山頂からは湘南海岸をはじめ、横浜や千葉、東京方面などの大パノラマを楽しむことができる。 

一般的な登頂ルートとしては、ヤビツ峠から表尾根を歩くことになる。
小生も何回となく歩いたコースであるが展望の良い、変化に富んコースで最も人気のあるコースであり、頂上は平坦に開けたところで山小屋も完備している。 
そして、帰りは大倉尾根を延々と山麓まで降ることになる。
逆のコースもそれなりに人気があるが、別名「バカ尾根」と呼ばれる関東圏でも屈指の急勾配で、標高差1,200メートルの尾根を延々と登ることになり、山頂まで優に3時間はかかる。
学生など山岳パーテーのトレーニング・ルートとしての人気もある。 

塔ノ岳の他の主要ルートとしては、南に連なる「鍋割山」(1272m)のコースも良い、又、本邦裾部へ大きく入り込む水無川(本谷沢)のコースも暑い盛りには良い、そのまま本谷を遡行するのも又、沢歩きとしても面白い・・、ただ本谷のコースはある程度の経験が必要である・・。

又、塔ノ岳の北方、徒歩1時間ほどに、その名も「丹沢山」が聳える、聳えるといっても峻峰ではなく、なだらかな山稜のブナ林に囲まれた静寂な山域である。
克って、この山域を歩いていて山道付近にて休憩している時、谷合・岩場付近に細かい葉を付けた“米ツツジ”のような這性の樹木を見て取れた。
気になったので後日、東部の唐沢川出合から塩水沢の林道をさかのぼり、ここから丹沢山に直登して先刻覗った岩場にまでいって確かめて観た。 
確かに「米ツツジ」(名前の如く小さなラッパ形の米つぶのような花を付け、ミニ盆栽的な風格を持っているツツジ)であった。

ツツジ科樹木の収集趣味のある小生にとっては、喉から手が出るほど欲しい樹木であった。自然を傷つける悪い所作とは知りながら数株丁重に戴き・・、又、丹沢山周辺、特に今登ってきた道のりには「シロヤシオツツジ」(特徴ある五葉の葉が出揃つてから白い清楚な花が咲く、大木になり木肌は松のような肌である)が群生していたので、ついでに小株を1本頂戴して山を降りた。
途中、車のガスが無くなったので煤が谷ので補給し車を走らせたところ、実はこれが運のつきであった。 途中で村の派出所の警察官に呼び止められ、樹木についての質問を受けてしまった。 更に、厚木本署まで連行されて尋問を受け、採取した樹木はすべて没収されてしまったのである。 
趣味によるもので悪質性は無いと見られ、書類送検はされなかったが、とんだ恥さらしで醜態を演じてしまった結末であった。
尚、米ツツジは正式名「箱根米ツツジ」といい、箱根連山、愛鷹山系など火山性の山の急斜面の岩場に群生、育成している。

次回は、「西丹沢」 


「丹沢物語」(3)

2008年07月23日 | 丹沢物語


「丹沢を歩く・・、」

さて、丹沢山塊の登山のことであるが・・。
百名山で有名な深田久弥氏によれば、「丹沢山」は100名山のうち71番目に選ばれている。
その中で深田氏は「・・私が百名山の1つに丹沢山(丹沢山というのは山塊中の一峰である)を選んだのは、個々の峰でなく、全体としての立派さからである。丹沢山塊という名称は、多分、高頭式の『日本山岳史』』(日本山岳会創設とほぼ同じ1906(明治39)年に、第二代会長=高頭式によって、日本の山を初めて網羅した『日本山嶽志』が上著された。)から始まったのだと思うが、ただ表尾根を歩くだけでなく、その奥深く入れば、山の規模は大きく複雑で、容易にその全容はつかめない。・・・」としてある・・。

氏は、“丹沢山というのは山塊中の一峰である”としている。 
一峰の丹沢山・標高は1567mで、山塊中の峰々の標高では確かでないが5~6番目に相当するはずであり、主峰はその奥に控える「蛭ヶ岳」(1673m)である。
しかし、登山者、ハイカーの数や人気においては断然、表尾根の「塔ノ岳」(1491m)であろう。 
氏は、塔ノ岳では役不足、蛭ヶ岳では人気に今一ということで、敢えて「丹沢山」として百名山を選ばざるをえなかったのであろう・・?。

丹沢は首都圏に近く、東京・新宿から小田急線に乗れば凡そ1時間で、その雄大な山麓に達する。先ず、本厚木駅からは東丹沢の仏果山系(、鳶尾山・・、伊勢原駅からは霊峰・大山・・、秦野、渋沢駅からは表尾根、主脈である塔ノ岳、丹沢山、主峰・蛭ヶ岳、そして新松田駅からは西山沢の各峰へ到る事が出来る。

小生が始めて丹沢山塊へ足を踏み入れたのは昭和40年初頭の頃で、未だ20代の頃であった。 田舎(いわき市)から東京へ転勤になって間もなくの頃で、「東京はコンクリート・ジャングルで住むには余り歓迎しない所だな・・!、」と愚痴をこぼしたところ、職場の同僚が丹沢大山へ案内してくれた。実はこの事がきっかけで小生の”山歩き“が始まったのであるが・・・。

ケーブルを降りて豪華な社殿に参拝し、意気揚々と登っていたはいいが、余りの急な登りで息をゼイゼイ弾ませながら、やっと頂上へ着いた。頂上での記憶は無いが、下りに際して何故か本道・山道にはぐれてしまい、獣道(けものみち)と思しき道をひたすら下ると沢筋へ出てしまい、沢を四苦八苦しながら下ってゆくとどうやら林道らしきものに出た。更に、道なりに行くと、ようやく日向というところに到達したのであった。初めてにして、とんだ山歩きであったのを今でも鮮明に覚えているのである・・。

大山への一般的なコースとしは、ケーブルを乗り継ぎ下社(下宮)と呼ばれる立派な社殿に御参りした後、左手分社が控える登山口の急な階段から始まる。
道程のはハイキングコースとしては些か急な登りを辿ることになり、道中には昔の参道の名残で、下社を1丁目、頂上を28丁目とする石の標識があり、歩いた目安がわかって励みになる。
下山は見晴台から二重神社(二重の滝)を経て下社に到る。ゆっくり歩いても3時間ぐらいであろうか・・?。 又、体調、気分など登山としてのトレーニングコースとしては、山麓(ケーブル追分駅)から歩く場合もあり、男坂、女坂の2つの登山道がある。
追分から右に男坂、左に女坂の分岐点があり、名のとおり女坂は緩やかであるが、男坂は切り立つ様な石段で物凄い試練が待ち受けている、途中に大山不動尊の古刹寺院もある。

その他にも大山への登山ルートは幾筋か付いていて、いずれにしても比較的手軽に登れるため人気があり、山頂からの眺望も良い。特に、山頂社殿の裏側は、富士山や丹沢主稜の迫力ある展望が楽しめる、だが、大半の登山者は気がつないで降りてしまうようだが・・・。 登山口である表参道には多くの宿坊や土産物屋が軒を連ねて、これらも下山の際の楽しみの一つであろう・・。

大山の北東に位置する三峰山(みつみねやま)も良い、その名のとおり三つの峰が南北に波打っている。この山並みが我が家から望むとき、大山の端正な姿を半ば隠しているのだが・・。最標高935mの山で北峰、中峰、南峰から成り、丹沢山北東の丹沢三峰と区別するために大山三峰山(おおやまみつみねやま)と呼ばれる。
標高は1000mに満たなく丹沢山地ではやや低い山であるが、稜線では地形が急峻で痩せた尾根が連続し、ハシゴやクサリ場などが多く,チョットしたアルペン気分で登山を楽しめる。 しかし、この急峻な地形から毎年のように滑落事故も起きているという。
コースとしては、厚木・飯山温泉の奥、広沢寺温泉辺りがベースになる。林道を山ノ神トンネルから不動尻まで向かう、この道が意外と長いのである。ここから30~40分の登りで尾根筋へ達し、間もなくヤセ尾根、鎖場に梯子と変化に富んだ楽しい尾根歩きである。大山が競り上がってきて、その堂々たる姿がまじかに見てとれる。下りはこのまま煤が谷のへ・・。

又、東丹沢は本厚木をベースにした仏果山系や家族向きの鳶尾山系(厚木周辺には同じようなハイキンググコースが数種ある)・・、ただ近年、仏果山系北部、宮が瀬地区はすっかり様変わりしてしまったが・・。


序ながらその辺の事情について記しておこう。 
昨今、この宮が瀬地区に大きなダムが完成した、「宮が瀬湖」(宮が瀬ダム)といい、2001年4月から本格運用が開始されている。
中津川の上流愛川地区に「宮が瀬湖」がある。

この湖の東端、宮ヶ瀬堰堤・ダムが位置するダムサイトエリア下流の石小屋ダム付近は、かつて名勝・「中津渓谷」があった地域である。
深い緑と鮮やかな紅葉でハイキングコースとして人気があり、小生なども何度も訪れた地で首都圏でも絶大な人気があった。 コースのスタート地点には、堅牢な石造りでメガネ状の名物・石小屋橋が在り、現在はその名残を残しつつも宮ヶ瀬ダム建設に伴って取り壊された。
かっては、この石小屋橋から先が中津渓谷の見所、核心部であった。 日中でもあまり陽が指す事が無いほどV状に研ぎすまされ、深い峡谷の景観は我々を圧倒した・・。
ユックリ散策しながらも概ね1時間、薄暗い谷間を通り抜けるとそこには信じられないぐらいの明るい集落が広がっている、この地が宮が瀬で正に桃源郷の様相であった。

宮ヶ瀬ダム建設に伴って中津渓谷の終着である「落合地区」や南部の「馬場地区」など、多くの人々が移転を余儀なくされた。 
水没地の面積は45平方キロメートル、移転戸数は281戸に及び、新規造成団地「宮の里」に移住している。
これらの人々が、フト・・!我に返り、かって住み慣れた桃源郷の「湖底の故郷」を思う起こす時、どんな気持ちになるのだろう・・。 きっと胸が締め付けられるような思いにかられるに違いない・・。 

宮ヶ瀬ダム湖周辺は、現在は一大観光地となっていて、広大なピクニック広場、水の郷大吊り橋、ビジターセンター、交流館、カヌー場などがあって賑やかなところである。 又、宮ヶ瀬湖には例年のイベントがある、クリスマスの時期に美しく光輝くジャンボクリスマスツリーが名物となって、大人から子供までメルヘンの世界に招待してくれる。

次回は、「表丹沢」

丹沢物語」(2)

2008年07月23日 | 丹沢物語
丹沢物語」(2)


「丹沢の歴史」

さて次に「丹沢」を歴史的な意味合いから観て見よう・・、
丹沢山塊は古来より信仰の山として知られ、山伏など修験者の修業の場として古くから入山はあったようである。
山岳や地名にも、東丹沢では仏果山、経ヶ岳、華厳山、法輪堂(おろんど)、表尾根では行者ヶ岳、尊仏山(尊仏塔ノ岳)、他に薬師岳(蛭ヶ岳)、菩提、などと仏教にからんだ信仰的な意味合いの名前が数多くある。
塔ヶ岳は、以前は山頂に尊仏岩という数丈(5丈8尺という)の立岩があって、これを「お塔」と里人が称したので塔が岳という山名が付いたと言われ、又の別名に尊仏山というのも、この尊仏岩から来ているのであるが、大正11年の大震災のとき「お塔」は沢へ転げ落ちたままになって今は山頂にない。

このヤビツ峠から塔ヶ岳に至るまでの尾根続きにニノ塔、三ノ塔、行者岳、新大日岳、木ノ又大日岳という峰があり、仏語で名付けられた山がある。山名ばかりでなく、川や谷、峠、の名にも仏語があり、山名や地名の起源には何れも宗教的な伝説も残されているという。
丹沢主峰の蛭ヶ岳、東丹沢主峰の大山を中心とする一帯は、昔、山岳修験者の修法の霊場であったともいう。
東方の鳶尾山北方・八菅神社(愛川町八菅山)には、入峰者の名称・位・入峰回数などを記録した古文書が残っていて、伝説では奈良期の大宝3年(703年)に役の小角が八菅山に入山したともある。 
修行者は、この地を起点に平山・塩川滝(中津川沿いの山地)などを経て大山まで加持祈祷を唱えながら修法を行っていたといい、煤ヶ谷(清川村)は、これら修験者達の中継所だったともいわれる。 修行行脚は江戸末期まで続くが、明治維新の神仏分離令によって廃止されたという。 

又、東丹沢の主脈である仏果山系には特に仏にちなんだ名称が多い・・。室町時代の始め、正住寺を開山した天鑑存円上人(仏果禅師)が座禅修行をした山と伝えられ、仏果山という名前の由来となっている。
小生、若年の頃、経ヶ岳よりほぼ廃道と思しき主脈を南下した時、山道沿いに各様の石仏、石像が草に紛れて風雨に晒されて置かれ在ったのを記憶している。

実はこの地は戦国期、三増合戦(永禄12年:1569年、現在の愛川町三増が主戦場になった武田軍と北条軍とで行われた山岳戦)において武田軍に敗れた北条の落武者が経ヶ岳の山頂にたどりつき、これ以上逃げられないと覚悟を決め、持っていた経文を石の下に埋めて全員自刃して果てたといわれている。
このためこの山を「経ヶ岳」と命名したとも言われ、これら歴史の風害を感じる石仏、石像群は仏果禅師の修行によるものか、或いは戦において自害して果てた武者の弔いの像なのかは定かでないが、この山中に歴史の一端が覗かれるのである。


丹沢山域で今も神仏的歴史を育んでいるのは何と言っても「大山」であろう・・。 
人々は何時の世になっても、特に昔の人々は近隣に聳える姿、形の良い端正な峰を観ると、ついつい崇めたくなるらしい・・。
大山は丹沢山塊の東端に聳え、横浜や関東西部の平地から眺めると、三角錐の美形が鮮明に望めるのである。
大山は古来より、山頂に大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)、中腹に雨降山大山寺(別名 大山不動尊)、山麓には日向薬師(ひなたやくし)があり、阿夫利神社は、大山を御神体とし山頂には霊石が祀られていたことから「石尊大権現」と称されたという。
創建は社伝では、第10代崇神天皇の御代と伝えられ、西暦にして紀元前のことである。その後、奈良時代の僧・良弁(ろうべん・僧正)によって大山寺が、大山阿夫利神社の神宮寺として開山されたといわれる。

神宮寺とは、日本において神仏習合思想に基づいて神社を実質的に運営していた仏教寺院にことである。
因みに、西暦820年、空海(弘法大師)が47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、大山第三世管主となっている。
山腹の阿夫利神社の名を「石尊大権現」と名付け、徳一は、富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。

藤原徳一(とくいつ、760年~835年)は、奈良期から平安前期にかけての法相宗(奈良仏教)の僧で、父は大和政権中枢の藤原仲麻呂の十一男と伝えられている。
東北文化の開祖的人物で、小生の田舎、故郷(いわき市常磐)の古刹「長谷寺」の建立者とされている。

丹沢のシンボル的存在の大山(古くは雨降山ともいった)は、関八州の雨乞いの霊場でもあり、江戸時代には信仰の対象としての「大山参り」が大変盛んで、記録によると大山参りのための大山講が江戸を中心に各地に組織され、登山ができたのは夏場の短期間かつ許可が必要だったにもかかわらず、一夏に10万人近くもの参拝客があったという。古典落語の中にも「大山参り」という楽しい話がある。

「不動まで 行くのも女 だてらなり」

石尊大権現で知られる山頂の阿夫利神社本社の中にある大岩は、かって石尊大権現(石尊信仰)の聖地で、江戸時代は女人禁制であったといい、女性が登れるのはいまの阿夫利神社下社までで、山頂の奥ノ院へは登れなかったという。

又、「大山参り」をする江戸庶民は、出立の前に水垢離(みずごり・神仏に祈願するため、冷水を浴び身体のけがれを去って清浄にすること)をするのが仕来りだったという。
その時の唱えに「南無帰命頂礼、六根罪障(ろっこんざいしょう:六根に生ずる罪障)、懺悔懺悔(さんげさんげ)、六根清浄(ろっこんしょうじょう:六根が福徳によって清らかになること)・・・・」と言葉を発し、人々は全身を清めるために大山を目指したのである。

下社から山頂へ登る途中には、同じ様な文字が彫ってあり、石尊大権現の石柱が目につく。又、石柱には「これより右富士浅間道」とあり、昔は富士講による富士登山ル-トに大山から富士へ、また富士の帰りに大山へ寄るのが通例だったともいわれる。
現在は明治期の神仏分離で山腹の阿夫利神社(山頂奥宮・雨降山)と中腹に大山不動尊は分離され、廃仏棄捨においても大山寺は幸いにして残され今も参拝者が絶えない・・。

大山街道が、この大山の懐に入って来ると沿道に何々坊とか、先導師何々と書かれた看板が目につく。 これが「宿坊」(先導師旅館)といわれるもので、明治期には約120戸もあったという、現在では50戸余りになっているが、参道階段の両側は大山土産物店が軒を並べ賑わっている。

次回は、 「丹沢を歩く・・、」