上高地(Ⅲ)(上高地・穂高連峰・槍ヶ岳)
【 上高地の風景 】
「上高地と穂高の初冬」
これが上高地だ・・!!、素晴らしい写真です。 (提供者に感謝)
又、上高地拠点周辺には大正池や田代池といった清涼な自然の園地が広がっていて、一服の景観が楽しめる。
大正池は、大正4年(1915)の焼岳の噴火で泥流が梓川を堰き止められてできた池で、「梓川」の本流でもある。
克っては、浸水して出来上がった唐松林の立ち枯れの様子が、所謂、林立していて一種異様な風景を呈していたが、今では数本のみになってしまったらしい。
おまけに、大正池は流れ込む土砂によって徐々に面積が縮小しており、下流の発電所の調整池としての役割もあることから、現在でも懸命に浚渫(しゅんせつ:水底の土砂や岩石をさらうこと)工事が行われているが、近い将来、もしかしたら消滅する可能性もあるといわれる。
ところで、梓川が信濃川の支流であることは余り知られていないようだ・・、
槍ヶ岳南面を水源としながら、上高地から松本平野、安曇野の押野で高瀬川と合流し「犀川」となり、長野・善光寺平で小諸方面からの「千曲川」と合流し、そのまま千曲川となって北上し県境・信濃地方へ入って「信濃川」となり、新潟より日本海へ注いでいる。
因みに、槍ヶ岳北面を水源としているのが「高瀬川」である。
「安曇節」 長野県民謡
「槍」でわかれた「梓」と「高瀬」
めぐりあうのが
めぐりあうのが「押野崎」
標高にして1500mの上高地・・、 幅1kmにも及ぶ田代池周辺の自然園地から10km山奥の横尾あたりまでは、ほぼ水平の谷道が続く。
上高地の奥まった処、明神の「明神池」風景
この高度でこれほどの広さ、長さの平坦地は、日本では他に例がなく、そして、これらを取り巻く山域は3000m級の山並である。
これが上高地の特性であり全国的、世界的に観ても、これほど優れた自然と景観が観られる場所は稀であろう・・。
気候的にも山地と平地の中間帯に当たるため、落葉広葉樹林帯と高山帯針葉樹林が混在し、両者の森林の要素が豊かに植生することで知られている。
唐松林の美林もさることながら、中でも、梓川の河川地形である谷底、河辺の「ケショウヤナギ」の群落の植生は特筆すべきものであるといわれる。
上高地へのアクセスは関東地区・東京方面からは、公共機関では中央本線・松本駅、松本電鉄・新島々駅でバスによって上高地へ入山する。
マイカーでは、長野県松本市や岐阜県高山市を拠点とする国道158号を利用する。
特に、1997年(平成9年)に安房峠道路(安房トンネル)が完成して高山側からのアクセスが楽になった。
ただ、上高地は環境保全のため通年マイカーの乗り入れは禁止されている。
従って、信州側は沢渡(サワンド)まで、飛騨側からは平湯で、其々バス又はタクシーに乗り換えて上高地入りすることになる。
小生が初めて上高地・穂高へ入山したのは昭和43年(1968年)8月であり、上京して(福島県いわき市)2年後の29歳の頃であった。
山の味を覚えて間もなくであり、昔風の木綿製黄土色のキスリング(登山用リュックサック)を肩に着けて上高地へ到って、そのまま山へ向かっていった、そして、槍-穂高の全山縦走を無事やってのけ下山もここ上高地へ下ったのであった。
従って、上高地の稀なる自然に感嘆しながらも、残念ながら当初の上高地の具体的状況の記憶は薄弱である・・40年も前のことである。
当時の登山者は青壮年層が主流であった。
現在のような中高年者の姿は殆どなく、せいぜい上高地での観光が主であったように思う。
次回は、上高地の自然保護
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