織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

「八ヶ岳:越年登山」(5)

2008年07月23日 | 冬の八ヶ岳

写真は地蔵尾根分岐付近より堂々たる「主峰・赤岳」と石室小屋(展望荘)


「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください・・、現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。

「八ヶ岳:越年登山」(5)

一服した後、早速アタックに懸かる。
行者小屋の裏手の石段を登ると分岐の標識がある。
ダケカンバの林をぬって、グングン高度を上げてゆく。 この辺りへ来るとさすがに雪の量も多くなり気を揉むが、しかし、ここ4~5日好天にの恵まれているようで新雪などは降りてない、従って、前登山者がしっかりラッセルを済ませてあるので真に歩きやすいのは幸いである。
アイゼンをしっかり効かせ、白の大地を一歩一歩踏みしめて登る。 冬山、雪山に来ているんだなという感触実感が、全身で感じ取れる。 苦しいながらも無上の思いを込めて更に一歩一歩前進する。気が付くと樹林の背丈がドンドン小さくなってきているのが判る、森林限界に近づいているのである。

そこを抜けきると、屏風のように覆いかぶさる岩壁が行く手を塞ぐ様である。
雪に埋もれたような森の中の急登を出来るだけ息を切らさないペースで登ること3~40分、いよいよ岩場の急斜面に取り付く。 岩場といっても実際は岩の部分は所々尖鋭部分が見えているだけで、殆どは雪と氷の世界である。
それでも登攀ルート、足場は意外としっかり付いているのが判る、でも油断は禁物である。 アイゼンをしっかり食い込ませ、ピッケルでバランスをとりながら三点確保で気をつけて攀じる。 急斜面の危険な箇所は、ハシゴやクサリが固定されていて安心感もある。
後方、振り返ると先刻通った行者小屋は遥かに小さく望まれ、周辺のテント場は色彩を散りばめたように、白の世界に浮き上がって見えている。正月登山ということもあり、多くの色とりどりのテントが華やかなのである。 
それにしても多くのパーティは何処へ行ってしまったのだろう・・?、このルートに取り付いているのは我々のみの様で、幸いというか今のところ前後にパーティはいないようで・・、従って、下から煽られることも無く、上のパーティにイラツクこともなく自分のペースで攀れるのは幸いである。
一息つきながら、更に周辺景色を眺めてみると、遠くに御岳に乗鞍、ずらりと連なる北アルプスの山々が真っ白に化粧して鮮やかに紺碧の空に浮き上がっている。さすがに高度感溢れる眺めである。
余りの景観に気を取られて油断すると脚を取られることにも成りかねない、ここは氷壁のスペースの小さい一角なのである。 アイゼンをしっかり利かしながらであるが、そのアイゼンの紐がやや緩みかげんなのは些か心配である。このあたりも初心者の不具合い、不備が出ているようで反省点であろう・・。 しかし、この急峻な場所で、紐を整える程の余裕など全く無いのである。

この先、更に数箇所のクサリ場などをやりすごす。
ここまで来たら、もう地蔵尾根の核心部は越え、これ以上難しい岩場も無い模様なので一安心である。でも油断禁物、事故はたいてい危険ではないところで起こるものである。
上辺の視界が徐々に広くなってきて、稜線が近づいてきているのが判る。登山者の姿もチラホラ歩いているのが見えた。 
最後の鎖場を攀じ登って稜線に飛び出した。 稜線は細いナイフリッジ状になっていて、勢い余ると反対側である東の谷底へ吸い込まれそうになる・・、ご用心である。
地蔵尾根分岐の指導標が雪に埋もれて遠慮がちに立っていて、ほっと一息入れる瞬間でもある。

ここからの稜線の道は過去に歩いた道でもある、とは言っても無雪期の頃であるが・・。
やはりと言うか、さすがに厳冬期の「八ヶ岳」はそんなに甘くはなかった。まじい風である。 稜線に出た途端に強烈な風が襲ってきたのである。
小生の蔵書の一つ、新田次郎の小説「孤高の人」の加藤文太郎は、最初の冬山でこの八ヶ岳に入山している。そして、この赤岳への稜線で強風に会い、吹き倒されるというシーンがあった。

序ながら、登山家・「加藤文太郎」という人物について・・、
加藤 文太郎(かとう ぶんたろう)は、大正期から昭和初期にかけての孤高の登山家といわれた。
当時の登山は複数の同行者が協力し、パーティーを作って登るのが常識とされた。その常識を覆し、単独行によって数々の登攀記録を残し、その登山に対する精神と劇的な生涯から新田次郎が、そのドラマのモデルとなっている『孤高の人』を著した。
当時の彼の住まいは神戸の須磨にあったため、六甲山が歩いて登れる位置にあった。そこで、六甲全山縦走を始めたのが加藤文太郎の登山の始まりであった。 但し、非常に歩くスピードが速かった彼は、一日に2度往復し、その距離は約100kmに及んだという。
当時の登山は、戦後にブームになった大衆的な登山とは異なり、装備や山行自体に多額の投資が必要であり、また猟師などの山岳ガイドを雇って行く、所謂、高級なスポーツとされていた。その中で、加藤文太郎は、ありあわせの服装をし、また高価な登山靴も持たなかったため、地下足袋を履いて山に登る異色の存在であった。
単独行であることと、地下足袋を履いていることが、彼のトレードマークとなっていた。
単独行で日本アルプスの数々の峰に積雪期の単独登頂を果たし、なかでも槍ヶ岳冬季単独登頂や、富山県から長野県への北アルプスの単独での縦走によって、「単独登擧の加藤」、「不死身の加藤」として一躍有名となった。
1936年(昭和11年)1月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳・北鎌尾根に挑むが猛吹雪に遭い天上沢で30歳の生涯を閉じた。
当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じている。

次回に続きます・・、


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