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織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

立山・剱岳「天の記」(13) 「登行 一服剣」

2009年07月18日 | 立山・剣岳
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写真:一服剣と付近から見る前剣の岩峰


立山・剱岳「天の記」(13) 「登行 一服剣」  

ゾクゾクするようなこの峰、何時まで経っても見飽きることのない山・・!、この感覚はやはり只者ではない山である。 しかし、このようなセンチメンタルな感傷には慕ってはいられない。この山には明日は是が非でもアタックするのだ。
明日の天気を考えると是非晴れてほしい、穏やかであった欲しいとは思う。 だが、相手は気ままな自然である、峰からくる拒否反応もあるだろうし、威圧的に敬遠されるかもしれない。 しかし、われ等は精神一到、多少の悪天候は覚悟で登頂を心に決める。

夜が明けた・・!、
昨夜から今日にかけての県下・立山地方の天気予報は、前線の影響で山沿いは霧又は小雨とあった。 案の定、明け方は濃霧にスッポリと囲まれていて、時折、風を伴って霧雨が吹き付ける。 昨夕、あれだけ鮮明に望めた本峰も、霧に隠れて姿は無かった。
気が入らないまま簡単な朝食を作って6時過ぎ、取り敢えず「剣山荘」へ向けて出立した。 万が一の時は、どちらかの山小屋で沈没するつもりだ・・!。
小屋のすぐ裏の小さな雪渓をトラバースしながら、ほぼ水平の道を歩くと程なくして「剣山荘」へ着いた。 ちょうど剱岳直下の取付き点のところにあり、最終のベースといったところで、新装成ったモダンな山小屋でもある。

一息入れながら本格的に雨具を装着する・・、 
小屋より上部から完全にガス(濃霧)の世界であり、風に混じって小雨も吹き付けている。
小屋の主人に伺うと「風はそんなに強いわけでないし、岩場も濡れているが足場はしっかりしているから慎重に登って行けば、登れんことはナカヨ・・」という。
勇気をチョット戴いた気分で、早速登りに掛かる。 雨用のナイロンズボン、ザックまで被せるナイロンポンチョ、ナイロン帽に軍手と一通りの準備をして剣山荘を後にした。

小屋脇から直ちに、直登に入った・・、
本来ならすぐ正面に、否、頭上に一服剣の勇姿が聳え立っていて、それを目標に足跡を辿ればよいのだが、霧に阻まれ、濡れた岩場のザク石は足跡もままならない。 それでも道を外さぬよう慎重に、黙々と、ただ黙々と歩を進める。
雪を被ったようなコバイケソウの花が雨に濡れてそよいでいる。 そして、花の終わりかけたシナノキンバイの黄色い群落も、風にチロチロと揺れている。 
花々に励まされながら、こちらもチロチロと歩むのみである。

高度が上がるに従って先刻より雨のほうがやや強くなってきたが、風のほうはさほど変わらず助かる。 下山してきた或るパーティに上の様子を伺ったところ「私たちはアクシデントがあってこの上の一服剣にまでしか行ってませんが、ココと余り変わってはいませんでした、ただ、風がチョット強かったですね・・」と話していた。 
一服剣は、ほんの前衛の峰に過ぎない。 その先の前剣、そして本峰が本来の目的地である。 どんなアクシデントかは知らないが、われらはその様な事が無いように、気持ちを更に引き締めて前進する。
次第に傾斜もきつくなり、岩陵地帯になってきて犬猫よろしく四つ脚で・・?グングン高度を稼ぐ。 巨大な岩を傍に見て、ほぼ垂直の壁を乗り越えたところが「一服剣」の頂上であった。 本来なら眼前にそそり立つ壁のような前剣、そして本峰の巨大な山容が現れ、我らを招いてくれるだろうが、今は全く無常無味である。

次回は、前剣へ


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立山・剱岳「天の記」(12) 「剣岳開山」

2009年07月16日 | 立山・剣岳
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写真:剣山荘と剣岳ルート


立山・剱岳「天の記」(12) 「剣岳開山」

これは又、美事としか言いようがない・・!!。
剣沢小屋の横で見る剣山は、視野に入る総てが金字塔の如く輝いている。 別山尾根から一服剱、前剱のコブを経て三角の頂点、そして頂点右から八つ峰のギザギザな鋸歯が剣沢に落ち込んでいる。 山様は三角の裾の部分は緑の帯に囲まれているが、その上部は、どす黒い褐色の肌が突き上げているのである。 
霧が晴れても尚、濃厚な湿潤の夕刻、云わばの大気のレンズ現象呈していて巨大な山塊は、更に、我々を圧倒するほどに迫ってきている。 山裾には、青い屋根(昭和46年・1971年当時)の「剣山荘」の姿が、小さく印象的である。

この眼前に迫る「剱岳」は、北アルプスの3000mの峰々が全て登り尽くされる中、最後まで残った山だという。 
この冷めた威風は何と言おうか・・!、
他の山は存外、親しみ易く、取り付き易い感じを受けるが、このドス黒い山肌は冷徹にして拒絶反応が激しく、人を永遠に拒んでいるようでもある。
立山(雄山)が立山信仰の頂点に位置付けられ、信者はこぞって山頂参拝へ挑んだが、この剱岳だけは目の前に存在しながら信者たちは敬遠したらしい。 信者たちは、あの山は魔物が住んでいる「魔の山」であり、立山地獄における「針の山」と称して畏怖いたようである。 従って、立山が信仰の山、大衆の山であったのに対し、剱岳は永らく疎外されていて明治後期までは人跡未踏の山とされてきた。

この剱岳は明治40年、「未踏の山」の地形図作成のために三角点を完成すべく、剱岳への初登頂と三角点埋設測量を目的に登攀された。 未踏峰とされて頂上に達した彼らの見たものは、過去の人物によって踏まれていた形跡であった。 そこには槍の穂と錫杖の頭が風雪に耐えてあったのだ。 おそらく強い信仰心に駈られた修行僧であろうが、何処の誰で、どのコースからか、一人か複数か、そして遺物は記念品なのか、遺品なのか、これらは一切判らないという。 剱岳の頂上に残された槍の穂は長さ約1尺、修行者が頂上で修法する時に用いた宗教用の「剱」であったという。
立山信仰において立山(雄山)は霊山であったの対し、隣の岩山は魔の山、針の山であり、又、修行者によって頂上に置かれていた「剱」によって、この山はいつしか「剱岳」と命名するようになったのでは・・?。

ともあれ、測量隊一行が登頂を済ました後は、地元の芦峅寺の信仰心の強い猟師の彼らも、「剱さ、ついに人が入ったな・・、これで俺らも行けるぞ・・!、」と思ったかどうかは疑問だが(立山信仰では、剣岳へは入山禁足である)、宇治長次郎(明治末の測量隊に同行)、佐伯源次郎、佐伯平蔵らが其々の場所から登頂を果たし、其々の谷や尾根にその名前を残した。 その後、彼らは芦峅寺界隈の名ガイドに育っていったのである。
又、この時期、日本山岳会が小島烏水らによって設立され、間もなく剱岳へも烏水らによって登攀された。 この時以降、剱岳は立山信仰の対象の“禁足“の山から、一般登山者にも解放された山になってゆくことになる。
立山開山は奈良期の1200年以上も前のことであったが、即ち、剱岳開山は明治後期以降のことであった。

因みに、芦峅寺では佐伯という性が多いように感じられるが、確かにこの地域では7割が佐伯性、志鷹姓が3割とかいわれる。 この二大姓の由来については、「志鷹」姓は芦峅寺付近の先住民族の子孫とさ、又、「佐伯」姓は1200年もの前、立山を開山したとされる佐伯有頼一族の家系とも伝えられている。

次回、先ず、一服剣へ

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立山・剱岳「天の記」(11) 「剣沢小屋」

2009年07月15日 | 立山・剣岳
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写真:新装前の剣沢小屋と小屋前よりの全景


立山・剱岳「天の記」(11) 「剣沢小屋」

剣沢小屋は往年の芦峅寺の名山岳ガイド・佐伯文蔵氏(1914~1991年、享年77歳)が経営する山小屋である。 そして、現在は長男で2代目の友邦氏が経営に当たっているらしい。 それに南極越冬隊員(1957〜1958)であった佐伯富男氏(佐伯文蔵氏の娘婿)、栄治氏らもこちらに勤務しているらしい。
彼らと直接話する機会はなかったが、小屋の係員に文蔵氏の様子を窺ったところ、遭難救助の功績で文化勲章を戴いたとのこと、そして現在は芦峅の地元で元気に暮らしており、当年56歳とのことであった。

この山小屋には悲しい歴史が記憶されているという・・、
昭和5年1月、大規模雪崩で小屋全体が流され、就寝中だった東京大学スキー登山部4名、芦峅のガイドの佐伯福松・兵次両氏が雪崩の直撃を受け、6名全員が帰らぬ人となった悲しい歴史がある。 小屋のすぐ横には、彼らの霊を祭る、「六字塚」の慰霊碑が立っていた。
大先輩の彼らの霊に対し、軽く目礼を致す。
因みに、孤高の岳人といわれた加藤文太郎が雪崩の前日、剣沢で彼ら一行6名と出会っていたらしい。 
加藤文太郎は、新田次郎の山岳小説・「孤高の人」にも描かれているが、彼も又、山で命を絶っている。 奇しくも6年後の(昭和11年)1月、数年来のパートナーであった吉田富久と共に槍ヶ岳北鎌尾根に挑んでいたが、猛吹雪に遭い天上沢で30歳の生涯を閉ている。 そして、当時の新聞は彼の死を「国宝的山の猛者、槍ヶ岳で遭難」と報じている。
尚、剣沢小屋の雪崩遭難を受けて、近燐地域に緊急避難用として代替の山小屋を建設すべく検討が進められ、剣沢上部の別山乗越に小屋を建設する事を決めている。 これが現在の「剣御前小屋」であり、昭和5年6月の完成当時の名称は、「別山乗越小屋」であったらしい。

小生らが剱澤小屋を宿泊利用したのは昭和46年8月のことであるが・・、
この山小屋は大正期より多くの岳人に愛されてきた。 山小屋は、昭和5年の雪崩遭難事故を含め、その間、豪雪による破壊のための改築や増築、建て直しを繰り返し、平成20年に新たに建設されたらしい。 
現在、新田次郎原作、木村大作監督の映画・『剱岳・点の記』が上映されているが、(2009年6月から)この時の映画制作のためのスタッフ、出演の皆さんの多くが、建替え前の26年を経た最後の年の剱澤小屋に宿泊されたらしい。 山小屋やその他の関係者は、映画の完成も勿論だが、現、山小屋最後の年に皆さんが利用されたことは大変な記念になったのではなかろうか・・?。
因みに、この新田氏も原作本を著すために昭和51年、かっての当山小屋の経営、管理者でもあった佐伯文蔵氏らと共に剣岳へ登り、剱澤小屋に宿泊している。


その八月の中旬過ぎ、お盆も過ぎて、どうやら夏山のシーズンも終わろうとしている時期である。 お陰で山小屋のほうもメッポウ空いていて、今夜は大の字になって眠れる程である。
自前の即席の夕食が済んで、部屋で何となくボーっとしている時、フッーと窓際を見ると何と何と・・、これは驚き・・!!、今まで濃厚なガスで隠れて影さえ見せなかった剱岳の全景威容が目に飛び込んできた。 慌ててカメラ片手に飛び出した・・!。

次回は、剣岳開山


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立山・剱岳「天の記」(10) 「雄山から別山乗越」

2009年07月14日 | 立山・剣岳
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写真:室堂から立山
写真:一の越(山荘)から雄山へのルート
写真:雄山頂上と雄山神社(峰本社)と雄山より剣遠望


立山・剱岳「天の記」(10) 「雄山から別山乗越」     

バスは美女平・標高1000m、室堂・標高2500mと、その標高差1500mを、凡そこの道程を1時間かけて室堂バスセンターに到着した。 
時に、8時半ころであろうか・・、
この大自然のド真ん中、コンクリート造りの室堂展望ターミナルは柄に似合わないが、ともかく屋上へ上がって軽く朝食を戴く。 それにしても周囲は豪壮な山塊に囲まれていて、否が上にも登行意欲を駆り立てる。
正面は大日岳の連山、後方が薬師岳へ連なる浄土山、龍王山の山並、そして正面には立山のポスターでも良く見かける雄山、大汝山、富士の折立のビックスリーの山塊が現実に目の前に迫っている。

食事と小用の後、直ちに出発した。
一ノ越からは本格的な登山の始まりである・・、
一の越へ向かう途中から、剱岳の天辺部分が別山尾根から見え出した。 3015mの雄山は真正面に鎮座していて、頂上に建物が泰然としている姿はチョット違和感を感じないでもない。 そして右手方向には浄土山や龍王岳の三角錐が見事である。
ところで、この辺りはまだ観光地のエリアなのであろう、一の越の道程は登山者というより観光客が多く、しかもきわめて軽装で、サンダル履きの御仁もいる。 中には幼児の手を引きながら無理やり登っている御仁もいたっしゃる・・!。 これらの人々は、横目で登山姿で重装備の我らを珍しそうに眺めている。 そんな状況の中、我らは何故か遠慮がちに小さくなって、隅のほうを歩く始末である。 一の越を過ぎて、立山頂上に向かう急斜面においてもその風景は変わることはなかった。 ただ、心配なのは下りである。 「行き(登り)は良い良い・・だが、帰り(降り)は怖い筈である」。 
少なくとも3000mの高山である天候の急変やアクシデントが無いことを老婆心ながら祈るばかりである。 

観光客らしい人々とは一線を科しながら歩を進めているうちに、いつの間にか頂上に到達した。 先ずは一息入れる。 
そこに老杉で造り上げた立派な社務所があり、丁度神主、巫女が御払いをしている最中だった。 納付所では御守、御札を納めるのに余念がない、下界の中流どころの社務所顔負けといったところである。 社務所の奥に、その名も頂上の「奥の院」があり、そこで、これから先の道中の祈願をしようと進んだところ、その地点への通行料が100円となっていた。 お賽銭とは別らしく、アルバイトらしい受付嬢に窺ったところ参拝料兼入山料とのことであった。

妙な感じを受けながら、奥の院の立山不動尊(峰本社)に御参りして3000mの峰へ歩を進め、立山三山の縦走に入る。 稜線の雰囲気は、雲の上の散歩である。
先ず、大汝山へ向けて小屋の手前をまっすぐ登っていく、山というより積み重なった岩だらけの尾根である。 
山頂は狭くて、高度感がある。 ここ大汝山は立山三山の最高峰3015mの標高であった。
次の富士の折立から真砂岳~別山へ向かう縦走路は、これまでの岩から変わって礫質の砂まじりの道となる。 同じ山系の縦走路でも景色が一変する。
大汝山、富士の折立そして真砂岳を捲いて暫く、雷鳥沢と真砂沢の稜線をゆく。 別山乗越しから別山への十字路に至った頃は、辺りは濃いガスに包まれてしまっている。 そして、小雨交じりの谷から風が吹き上げるようになった。 山の天気は急変するというが、正にその通りであった。

通常、別山乗越とは、室堂乗越や雷鳥沢から登り剣御前の稜線から剣沢へ下る、所謂、剣御前小屋辺りのことを指しているようである。 だが、立山三山を縦走してしてきた場合は、この地、別山と剣御前小屋を結ぶ稜線を乗越す処を言うのが正当であろう。
この辺は本来なら正面に、深く切れ落ちている剣沢から競りあがった剱岳の勇姿が、威圧するように眺められるはずであるが・・、ともあれ、簡単な雨具を装着して剣沢小屋へ急いだ。 
ここより剣沢へはいきなりジグザグの急な下りである。 折角、三千メートル峰まで登ってきたのに、ここで下ってしまうのはチト残念であるが、剣沢小屋は剣岳を目指す岳人ののメッカであり、先ずは今夜の泊まり宿でもあるので納得して小屋へ急いだ。
既に、八月の下旬の時期で、雪渓、残雪も少ないだろうと想像していたが、今年は雪が多かったらしく、所々の凹みの部分には多量の雪が残っていた。 雪渓の右縁をゆっくり下り、広い野営地に達すると小屋は目の前にあった。

次回は、剣沢小屋


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立山・剱岳「天の記」(9) 「弥陀ヶ原・餓鬼田」

2009年07月13日 | 立山・剣岳
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写真:弥陀ヶ原概略図と餓鬼田(2枚)


立山・剱岳「天の記」(9) 「弥陀ヶ原・餓鬼田」  

点在する弥陀ヶ原の「餓鬼田」とは・・、
この弥陀ヶ原の大草原の中の所々に精霊な水を湛えている池塘が見受けられる、この池のことを、この辺りでは「餓鬼田」(ガキの田)と称している。
勿論、餓鬼田という名称も立山らしい用語で、仏教でいう「餓鬼」とは、悪業の報いとして餓鬼道に落ちた亡者のこと、やせ細って、のどが細く飲食することができないなど、常に飢渇に苦しむという、仏道では生前に贅沢をしていたものが落ちるとされる地獄のことをいう。
立山は古来より霊山として崇められ、この世に天国と地獄を見ることができる立山曼荼羅(悟りの世界)でも有名なところであり、弥陀ヶ原に点在する池塘を「餓鬼田」と呼んで地獄に見立てる発想が生まれた。 亡者が餓鬼道に落ち、その空腹を癒すために田んぼのようにも見える池塘・餓鬼田に苗を植えて空腹を満たそうとしたことから、この弥陀ヶ原の池塘が餓鬼田と呼ばれるようになったのだそうである。
ただ実際に見える餓鬼田に生えているのは稲ではなく当然高層湿原の草木である。

この弥陀ヶ原高原は標高約1,600~2,100mに広がる大草原で、そこには木道が敷かれ、湿原には「餓鬼の田」が点在し、カルデラ展望台など散策ポイントも豊富である。
散策木道からは、北に大日連山の勇姿を眺めながら広大な湿原を散策でき、高山植物の可憐な花が一面に咲き競い、辺りには餓鬼田が点在する。
又、ホテルよりチョット南へ足を伸ばし、樹林帯の遊歩道を抜けると一気に視界が開けるカルデラ展望台に達する。 そこには立山噴火口跡が陥没して出来た壮大な立山カルデラが広がり、カルデラの底・湯川谷には立山温泉跡や刈込池、新湯の湯煙り、砂防工事の現場などが見渡せる。 そして、佐々成政が徳川家康に援軍を求めるために越えたといわれる「ザラ峠」(さらさら越え)など、龍王岳付近から鷲岳、鳶山の大迫力の稜線を望むことが出来る。

又、弥陀ヶ原が特に美しく映えるのは10月上旬~中旬頃の紅葉のピークといわれる。
弥陀ヶ原は黄色や紅色に染まる山肌の紅葉は特に美しく、ハイライトは弥陀ヶ原、室堂の中間に位置する「ソーメンの滝」付近で、急峻な山岳風景と相まって織り成す紅葉美は一見の価値があるという。
参考までに・・、 
行程としては室堂から下るコースが楽で、室堂バスターミナルを出発し、寄り道をしながら車道沿いをゆっくり下って天狗平、ソーメン滝、鏡石、美松坂、弥陀ヶ原と、歩くだけなら2時間もあれば到着できる。 勿論、逆の登りのコースを選ぶのも良い。

次回、先ず室堂から立山(雄山)へ


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