織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

立山・剱岳「天の記」(18) 『点の記』

2009年07月23日 | 立山・剣岳
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立山・剱岳「天の記」(18) 『点の記』 

新田次郎の小説、そして同名小説からの木村大作監督の映画、「剱岳・点の記」の「点」とは三角点のことで、剱岳山頂に三角点を設置するノンフィクション的物語である。

三角点とは・・、
地図を作成する測量手段の一種で、三角測量に用いる際に経度、緯度、標高の基準になる点のことである。(標高については、別途、基準となる水準点も存在する)
全国を一辺約45㎞の三角の網で覆うことから始まり、この時設定された三角点が一等三角点の本点である。 更に一辺約25㎞ごとに設定された一等三角点補点を加えて作られた三角点の網が一等三角網ともいう。
一等三角網が完成するとより高い精度を求めるため、この点から新たに一辺約8㎞の三角点の網が作られ、これが二等三角網である。 さらに二等三角網を利用して、一辺約4㎞の三等三角網、更に約2km間隔に四等三角点を設け、この成果を利用して基本的な地図である五万分一地図が完成される。
又、三角点は地震など地殻変動を知る重要な地点でもあり、其々、一等は18cm角、二等、三等は15cm角そして四等は12cm角の御影石若しくは硬質の岩石の標石が作られ、その地点に埋設して上面の中央に+が刻まれてある。 その中心が三角点の位置であり、高さでもある。
「剱岳」の標高は、三等三角点の高さで2997.07m、そして最高標高(頂上岩石の突端部)が2999m(2998.6mを四捨五入)となる。

ところでお隣の霊峰立山(雄山)の三角点は、一等三角点として明治28年に設置されたもので、点は雄山神社から離れたところにあり一ノ越から上がり切ったところにある。点の標高は2991.6mで一等三角点本点になっている。 立山(雄山)の最高所は、雄山神社の基礎石部の頂部で「標高3003m」としている。 三角点脇には立山三角点の解説盤があり次のように記されている・・、
『 一等三角点「立山」、この標石は「三角点」といい全国各地に設置されています。地球上の正確な位置(緯度、経度、標高)が 決められています。霊峰立山のこの三角点は、一等三角点として明治28年8月に設置されたものです。三角点は地図の作製を始め、様々な測量の基準として使用されるほか、地震や火山の調査等に必要な地殻の変動を知る上で、極めて重要な役割を果たしています。           
平成8年7月 
北緯 36度34分21.2秒  東経 137度37分02.9秒  標高 2991.6m
国土地理院 世界測地系 (平成14年4月) 』 とある。

地図製作に関しては紀元前13世紀頃、エジプトで世界最古の地図が発見されているという。これは天文学を基礎とした測量法であったが、紀元前6世紀に古代ギリシアの数学者・ピタゴラスの「三平方の定理」の発見によって三角法の測量の原点が定着したといっていい。 日本では8世紀、行基菩薩が行基図(街道図)を編集したとする最古の日本全図が現存するという。 又、ご存知江戸末期、4千万歩の男・伊能忠敬が全国測量で17年間にわたり1817年に「大日本沿海実測図」を作成している。 これらはあくまでも平面図であるが、明治初期、陸地測量法が公布、外国の水準器、メートル原器を採用して高地、山岳地の立体地図を作成するために正式な測量を行い、縮尺20万分の1、更に 5万分の1の地図を作図している。 現在は、写真測量やGPS測量(衛星からの電波)が主流となっている。

『 地図は人間生活を営む上での基本中の基本であり、個々人の生きている存在を示し、存在を証明する指針でもある。 』

次回から「山頂の想い・天の記」


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立山・剱岳「天の記」(17) 「剱岳山頂と標高」

2009年07月22日 | 立山・剣岳




写真:剱岳山頂と祠・2枚(昭和46年8月現在、 当時の古い写真をデジカメで再撮影したもの)
写真:剱岳山頂と祠(左・平成20年遷座、右・平成10年頃の祠)
写真:剱岳山頂の三角点(点標高・2997m)


立山・剱岳「天の記」(17) 「剱岳山頂と標高」

剣岳の標高と三角点の経緯・・、
ところで、小生が登頂した当時(昭和46年)の剱岳山頂の標高指標には、写真のように「3003m」と刻してあった。
明治期の測量で、測量隊が山頂には立ったものの岩場の険しさから重い三角点標石を運び上げることができず三等三角点の設置を断念し、標石のない四等三角点としたという。 そのため三角点の設置場所を記載、作成されなかった。 だがこの時、測量隊が周辺の山々からの観測によって山頂の独立標高点を2998mと計算し、記録しているという。
その後、大正時代の航空測量では、剣岳3003mであったらしい。 これ以降、山頂表記には3003mとしてあり、物の本やお土産用のペナントには3003mとして表示していた。 
その後、昭和の測量では再び2998mとなったらしい。
新田次郎著「剣岳・点の記」の文春文庫版・巻末解説で瓜生卓造氏(作家・登山、探検をテーマとする作品多数)は次のように述べてい・、
『剱岳の標高は長く3003mメ-トルとされていた。2998メ-トルと正確な数字が割り出されたのは、昭和四十年代になってからである・・』 としている。
因みに、立山(雄山)の標高も3003mであり、偶然にも暫くの間は立山と剣は同じ標高であった。

国土地理院は、「剱岳測量100 周年記念事業」の一環として、ごく近年の平成(2004年)になって山頂付近に漸く正式な三等三角点が設置され、「点の記」が付された。 最新測量法のGPS測量(GPS人工衛星の電波を受信しながら高精度の測量を行う)により剱岳の「三等三角点」の標高を2997.07mとし、「剱岳」の最高点の標高が2999m(2998.6mを四捨五入)であることが決められた。
この折、国土地理院により作成された三等三角点・剱岳の「点の記」には、選点日時として「明治40年7月13日」の日付が記され、選点者として明治の測量技師・柴崎芳太郎の名が記載されたという。
それにしても、当時の原始的な・・?三角測量で計測した結果が、GPS等の近代的な機器を駆使しての結果とほぼ同じ数値であった事は驚きである・・!!。 
ところで、3,000mという真の整数でなく、1m満たない2,999mというのが何かを暗示させているようで「剣岳」によく似合って良い。 
『 2つとないぐらい3散(ざん)9労する山 』であろう。 

本年(2009年)映画にもなった新田次郎の小説「剱岳・点の記」は、測量官・柴崎芳太郎一行が1908年7月(明治40年)、当時未踏峰と考えられていた剣岳に登頂する話である。 
大変な苦労をして登頂を果たしてみると、しかし、そこには錫杖の頭や剣の先があり、既に大昔、誰かが登っていた証拠が残されていた。 これは1,000年も前の奈良期のものと推定されているが・・?、 だが、一方では信頼できる確証は無いともされている。 尚、この錫杖の頭と剣の先は、昭和34年に重要文化財に指定されている。
この時、ガイドとして同行したのが、かの「宇治長治郎」であり本峰南東部に横たわる最大の谷筋である雪渓ルートから登頂に成功している。 この時の彼の登頂を記念して、登行ルートの谷を「長次郎谷」と名付けられた。 彼はその後、剣岳や黒部峡谷の全域も踏破し、名ガイドとして尊敬された。

次回は、「点の記」


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立山・剱岳「天の記」(16) 「平蔵のコル」

2009年07月21日 | 立山・剣岳



写真:平蔵のコルとカニのタテバイ(非難小屋が微かに見える)とカニのタテバイの登り
写真:山頂直下から見た「平蔵の頭」の岩峰群、剱の核心部である



立山・剱岳「天の記」(16) 「平蔵のコル」   

一息いれて早々に出立する。
山頂部は一応、狭い岩場の平坦地だが一歩、歩き出すと平蔵の頭は一枚岩のような岩の塊であることが判り、直に絶壁がお出迎えなのである。 この岩壁を越えるのに又々、懸垂のような下降がはじまる。 何本かの鎖を降り、岩壁の中央を数メートル“へつる”ように水平に進み、小岩峰を平蔵谷側に下りる。 つまり、平蔵の頭から先は、底に到るまでは休めるようなところは無く鎖場の連続、緊張の連続である。
しかし、それは大した時間ではなく、直ぐに鞍部に達したようである。 天辺が平蔵の頭なら、こちらは平蔵の肩といったところか・・?、実際は「平蔵のコル」と称している。
進むうちに正面に小屋らしいのが現れた、コンクリート造りの頑丈そうな非難小屋であるが、何せ天井だけが在る岩小屋のようなものである。 

名前は平蔵非難小屋とあった・・、
全くで、現在のような荒れ模様の天候で雨よけ、風除けには充分であり、無論、緊急の場合は文字通りの避難小屋であり安住の小屋である。 今は人っ子一人いない些かさみしい小屋であるが、小休止、チョットした飲食を行い体調を整えるにも有難い存在である。 
さて、外的条件は決して良くないが我らの残存気力、残存体力はまだ充分であり、今後も五感をフル動員してアタックするつもりである。 何故なら、本峰頂上攻略は既に時間の問題でも有るから・・!。
ぼんやりしていて気が付かなかったが、正面周辺は完全なる岩場の壁であった。 避難小屋跡からは道を平蔵谷側に回り込むように、本峰の核心部でもあろう・・?、 「カニのタテバイ」 の取り付きがほんのり見えている。
出発間際になって単独行の岳人にすれ違い、折角だから二言、三言会話を交わす。 別山乗越にある剣御前小屋を早朝に出発したらしく、山慣れした好青年であった。
「この先が最後にして最大の難所です。 雨風に打たれて相当難渋しましたが・・、でも大丈夫です」と力強く云ってくれた。 頂上までは、じっくり登って30分位とのことであった。 少々、勇気を戴いて本峰アタックを開始する。

垂直に近い壁、「カニのタテバイ」である・・、 
天辺までは霞んでいて見え難いが、ビルの高さにして7~8階、20m近くはあるようだ・・!。
ここは当然ながら鎖がしっかりと固定してあるが、クサリにぶら下がると危険であり、あくまで三点支持が基本である。 又、鎖ということは足場、つまりスタンスは確保されているんであろう・・?、もし、そうでなければ梯子を設えて有るはずである。 それにしてもこれだけの高度があれば梯子は無理かな・・?。

(小生の登攀当時、つまり昭和40年代の頃は一筋のルートであったが、近年、この危険箇所は上りルートと下山ルートに分かれているようである)

再びその猛烈な岩盤に取り付く・・、 
垂直の壁は意外と難なくクリアーする。 直後、今度は右に水平に延びているルートに
取り付く。 急峻なクサリ場を数本やり過ごして、又しても大きな壁にぶち当たった。 ハシゴ、クサリが垂直に頭上に伸びている、足場も悪そうだ。 クサリが施されているからといって、足場が不確定であれば何の役にも立たないのである。 岩肌は、そう簡単には手がかり、足がかりがみつからない、前の方がムズムズする・・!。 それでも全身全霊
神経を総動員して、難関を突破するしかない。 
常に思っていたが、これだけの岩稜の悪場に鎖や梯子を設置することは、いくら専門家、山岳管理人といえども並大抵のことではなかったろう。 つくづく頭が下がる思いである。 そして、これらのハシゴ、鎖を攀じ登ってゆく。

濃霧の視界は10m前後であろうか、相変わらず霧は雨を呼び、雨は風を呼ぶ、その風は我らの行く手を阻もうとしている。 
本来なら(好天なら・・、)明瞭な登山路、又は踏み後があり、岩場の危険な箇所にはガッシリとハシゴやクサリが据え付けられていて、婦女子と言えどもやりこなすことは出来るだろう。 しかし、今日、この時ばかりは全く違っていた。 一見、無謀と思われそうな行動は万が一と言う場合も想定しておかなければならない。 生死の如何に関わらず、この時は相当な非難を覚悟しなくてはならないだろう。
打ち付ける雨は額に当たって痛みを覚えるほどであり、体内の熱を奪い、手足を痺れさす。又、濃い霧は道程を消し去り、行く手を塞ぎ、吹き付ける突風は不安定な岩場において、我らを千尋の地獄の谷底へ突き落とそうとしている、
条件は最悪であることに変わりはなかった。
しかし、われ等は怯むことなく、臆することなく気持ちは些かも萎えていなかったし、ごく自然に脚は前へ向かい、頂上を目指していた。
一枚岩の「カニノヨコバイ」を過ぎた辺りから道もしっかりし、どうやら頂上らしき処に到達したようである。 

(現在、カニノタテバイやカニノヨコバイは一方通行にしてあり、登り降りの際の混雑を避けるようになっているらしい)

難渋して踏破したわりには、あの一種独特の満足感、達成感、征服感は全く無く、今はただ「ホッ」としているのみである。 勿論、周囲の展望などは全く無く、頂上は、吹きすさぶ風と吹きつける雨とそして、閉ざされた灰色の世界であった。
気が付くと頂上には小さな祠があり、風雨、風雪に打たれて朽ち果て、寂しそうである。 それに、山頂には木の指標が折れた姿で「3003m」と記載してあり、我らはその指標を抱くようにして、先ずは記念写真を撮った。 
時に、昭和46年(1971年)8月20日(金曜日)午前10時頃であった。

次回、「剱岳山頂の標高」


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立山・剱岳「天の記」(15) 「平蔵の頭」

2009年07月20日 | 立山・剣岳




写真:前剣頂上より本峰(手前のピークは平蔵の頭)
写真:前剣の門
写真:鎖場と平蔵の頭・・?


立山・剱岳「天の記」(15) 「平蔵の頭」

標高差250mの「前剣」を、やっとのおもいで這上がってきた・・!。
稜線は穏やかな地形であるが、吹きすさぶ風に煽られ、一服入れるのも束の間、早々に前剱を下りる。 下りるといっても下山するのではなく、本峰へ向かうため、一旦、ピークを降りるのである。 
下りはじめると又々、急峻な岩場が待ち受けている。
一般にそうであるが、登りの時は比較的安易に行うことが出来る。 それは上方を見ながら目線に近いホールドを探せばよく、確実性と安定性が得られる。 しかし、下りは谷底の恐怖と戦いながら、尚且つ、スタンスが目より遠いところにあって不確実になりやすい。 事故は登るときより下りの時に発生しやすく、より集中力が必要なのである。 尤も、一般道の下山時においても脚部や脚関節などの内傷に陥りやすく、やはり気を配らねばならない。

一先ず下りきった処に鉄のブリッジ、そしてその先の岩壁には横の這い様に長いクサリが取り付けられている。 
ブリッジというのは、ある鞍部まで降りてると長さにして4~5㍍の短い鉄の橋のことである。 この橋の真下はV状に切れていて、両側は、これまたスッパリ切れ落ちていて結構、吸い込まれそうな恐怖を感ずるところである。 一瞬ためらいながらも、風の合間に姿勢を低く保ちバランスをとって急ぎ足で通過する。
その向こうは行き止まりのような垂直の岩壁である。 有るか無いかのはっきりしない足場のルートを横たわるクサリを頼りに、しっかり握って右側へトラバースする。 
脚下は、深い深い平蔵の修羅の谷がバックリと口を開けている筈である。 幸いと言うか、この修羅の谷は濃い霧がすっぽり覆っていて、恐怖心を少なからず和らげているのである。
切れ落ちる岩壁を右に、左にやり過ごしながら、ルートは東側を大方巻くように付いているので、牙をむく西よりの悪魔(風)を少しでも和らげることが出来るので有難い。 
岩場の○印、矢印、そしていたる所に張付けてあるクサリを頼りに、這い這いをしながら、ジワリ、ジワリと進むのみである。 何本かのクサリを頼りにヘツリ部分(絶壁などの険岨な路などのこと)などを慎重にくだると、どうにか一息つける処まできた。

そこには、槍の穂先の様な岩塔が二本不気味に立っている。 所謂、「前剣の門」というらしいが、地獄の入場門、「針の山」のゲートを連想させるのに充分である。 
地獄へ向かう途中には三途の川や賽の河原が待ち受けているが、こちらは山岳の急峻な地、地獄本丸へ到る地獄門といったところか・・?。 「三途の川」は謂わば、千尋の谷底へ連なる、大いなる渓谷に例えれば、「賽の河原」は、その千丈の谷底へ吸い込まれそうな、細く切り立ったガラ場の行程をいうのではなかろうか・・?。
この地獄の本丸、つまり剣岳及び頂上に至るまでの道程は、いかなる修羅場、死の世界が待ち受けているのやら甚だ心細い限りなのである。 しかし、我等は、立山信仰の修行者、回峰行者にもなったつもりで、如何なる修羅が待ち受けていようと内心は無心で、無言で、無我の境地で、地獄本丸の参拝を目的に(頂上制覇)、ただ、そこを目指して突破しなくてはならないのである。

門からは平蔵谷側の細く頼りない岩棚の道を、クサリを利用しながら進む。 更に登りきると、今まで足場もままならないような岩場の連続が嘘のように、狭いながらも平坦な地でホッーとする。 安定した尾根道も束の間、又々岩の大壁が立ち塞がる。 そして左手、東大谷俣が鋭く切れ落ちている。この岩峰の上は「平蔵の頭」というらしく、岩面に矢印のペンキが記されている。 
鎖で攀じ登ること数回、平蔵の頭に達したようである。 山頂には小さいながらも三角錐のケルンが施してあって心が落ち着く。 

次回は、平蔵のコルから山頂


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立山・剱岳「天の記」(14) 「前剣(軍隊剣)」

2009年07月18日 | 立山・剣岳
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写真:前剣全容と頂上


立山・剱岳「天の記」(14) 「前剣(軍隊剣)」

一服剣の頂上で息を整えた後は、直ちに不休直進、前進である。
今まではどちらかと言えば剣御前、一服剣をつなぐ稜線の東側である風下にあって、風力は余り感じられなかったが、一服剣を過ぎると稜線歩きになる。 従って、西の谷あいからモロに吹付ける風圧は相当なものであり、しかも、体が浮かされるように、谷から吹き上がってくるのである。 風の音も、岩角や草花に当たって微妙な音の違いを発し、風波の強弱を現しているようでもある。 風波が強そうな時は、身を屈めて風に逆らわないように、安定を保ちながらソロリと前進する。 又、風には地形によって強弱があり、吹き溜まり・・?のような常時、吹付けているところもあるようで、そんなところは出来るだけ早めに行動をするか、風除けになっているようなところを選びながら進むように気を配るのである。
進路によって、どうしようもなく風に曝されるところもあるが、この尾根はどちらかといえば稜線より微かながら東よりの風下の路程が多いようで助かる。

下りきったところが「武蔵のコル」という。 
鮮明ではないが、この右直下には武蔵谷が口を開いていることだろう・
剱岳周辺には平蔵とか、源次郎、長次郎といった人名が多く使われている。 剱岳黎明期において名だたる名ガイドの名前であり、武蔵というのも同様に人の名前と想像するが、何処の、誰で、どのような人であったかは定かでない。
この稜線の谷に当たる地は、堰の放流口といったところで風の集積場でもあり、強烈な風が絶え間なく吹き付けている。 風の当たる面積を最小限に縮めて、しかも安定姿勢で、いち早くこの場を退散する。
歩きにくいガラ場(山用語で、山の斜面が崩れて、岩石がごろごろしている場所)を少々行ったところから、直に登り返す。 いきなり一枚岩のような大岩にぶつかった、垂直に切り立った岩壁で逃げ道は無い様である。 見ると一本のクサリが張ってあり、踏み跡のスタンスもしっかり付いていたので難なく通過する。 

われ等は遮えぎられっぱなしの、所謂、霧中を(五里霧中ではない)を夢中(無我夢中ではない)になって歩を運んでいるのだが、それでも時折、瞬間的であるが目の前のガスがスーッと消える時がある。 そんな時、どうゆうわけか山高いが故に水平、若しくは足下を見てしまう。 そしてこの地、或いはこの先の足下は間違いなく吸い込まれそうな千尋の谷底が口を開いているのである。 霧中は、それらの恐怖心を幾らかでも和らげて呉れているのか・・?、そして、目の先には要塞のような相変わらずの垂直の灰色の岩稜が立ちはだかっている・・!。
雨も次第に激しくなっている、そして風のほうも相変わらず吹きまくっている。 
行き交う人も無く、われ等は風と霧の世界で沈黙の中、遅々として前進する。 
どうやら前剣のピークへ達したようである、時に8時少々回っていた。 不順な天候と緊張の連続で、時間の経過など気にしなくなっていたようだが、意外と早めに行動しているらしい。 
この前剣のことを戦前の頃までは「軍隊剣」と称していたらしい。 
戦前、中部方面隊え陸軍歩兵部隊の精鋭が濃霧の中、登山訓練と称して剣岳を目指した際、前方が霧で全く見えなかった為、このピークを剣山頂と勘違いして登頂成功を祝い、万歳をして下山したためその名が付いたとされている。
立山・剣の登山地図にも前剣のところに括弧付けで軍隊剣としている。

次回は、平蔵の頭へ・・、


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