土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

元帝国と、万里の長城のミステリー。

2013-09-05 18:33:51 | 歴史の読み方 海外編

土佐のくじらです。
今日は、海外の歴史のミステリーに挑戦です。

とは言え、私はそれほど、世界史に詳しくはないのですが、どうしても腑に落ちない歴史的事実がございます。

というのも、平家の時代が終わり、その後鎌倉幕府の時代に訪れる元寇、蒙古襲来の相手国の元=モンゴル帝国ですが、なぜモンゴルが、当時の中国に進入できたのかが、今の私には全くわからないのです。

紀元前200年頃に中国北部では、秦の始皇帝により、有名な世界遺産でもある【万里の長城】が築かれました。
これは、度々北方から襲来する、匈奴の進入を防ぐための軍事施設です。

匈奴は、日本人は「きょうど」と呼びますが、本来は(諸説ありますが)どうやら、「フンナ」もしくは、「ヒュンナ」という呼ばれ方をしていたようです。

つまり、ローマ帝国の滅亡のきっかけとなった、「フン族」だと思われます。
今でも、ハンガリーやフィンランドという国名に、フン族の名残りがございます。

今ある長城のほとんどは、後代の明の時代に造られたということで、始皇帝の長城はもっと北にあったようです。
この長城の効果は絶大でした。

騎馬大軍による攻撃を主体とする匈奴には、とんでもなく長い城には馬の動きが止められ、兵士は弓矢で射抜かれて、中国にはどうしても侵入できなかったのです。

古代モンゴルには、「ほうき星が出たら、他の地域を侵略せよ・・・。」という言い伝えがあったようです。

このほうき星とは、76年周期で地球に接近するハレー彗星だと思われます。
巨大な彗星が現れると、度々飢饉が訪れることは、皆様もご存知のことだと思います。
彗星が撒き散らすチリが、太陽光線をさえぎるためではないかと言われています。

北方に暮らす遊牧民である匈奴は、ハレー彗星の訪れの度に、家畜に食わせる草を求めて、豊かな中国北部に攻め入っていたと思われます。
北部、高緯度地域の方が、寒冷化の影響が大きいですから、民族の生き残りを賭けた智恵とも言えますね。

ですが匈奴は、秦の始皇帝の造った万里の長城ができて以来、中国への侵略行為ができなくなりました。
それで西部へ移動せざるを得なくなり、フン族の西進となり、それに押される形で、西方に民族大移動が起こり、最終的にゲルマン民族の侵入によって、476年の(西)ローマ帝国の滅亡に至るのですね。

このように、西洋の世界史に影響を与えるほど、モンゴル周辺からの北方遊牧騎馬軍の進入に、絶大な効力を発揮した万里の長城ですが、チンギスハーンの時代のモンゴル帝国だけが、唯一この長城を超えられたのです。

後にも先にも、チンギスハーンだけです。

これは、ミステリーです。(笑)
どうして長い歴史の中で、チンギスハーンだけが長城を超え、南部の中国(当時の金帝国)に侵攻できたのでしょうか?

事実、チンギスハーンは万里の長城攻めに、何度も失敗しています。
それを、彼の軍事的才能で克服した・・・というのは、どうも解せません。
金帝国が、まともに守っていたら、絶対に進入できないからです。

この謎の答えは、私は一つしかないと思います。
金帝国の内部に、チンギスハーンのモンゴルを、手引きする者がいた・・・としか考えられないのです。

鉄壁の城も、一人の内通者がいれば無力です。
国防においては、国防インフラも重要ですが、その 【一人の内通者】 を出さないことが重要です。

とにもかくにも、チンギスハーンのモンゴル帝国は、当時の金帝国の内通者なしでは、後の元帝国にはなりえていないと、歴史のミステリーハンターである私は考えます。


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1 コメント

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Unknown (通りすがり)
2019-05-10 01:02:05
それはあり得ない。
チンギス・ハーン以前にモンゴル統一を成し遂げた遼の太祖、耶律阿保機の子、耶律徳光が五代十国の混乱の中、長城を越えて後晋の石敬王唐(せきけいとう)を援助した見返りに燕京(今の北京)や雲州(今の大同市)など燕雲十六州を割譲し河北及び中原に南下する足がかりを作った。しかし、国力の限界と宋の皇帝真宗率いる親征軍によって双方痛み分けで講和条約を結んだ。
その後、遼は北の金に滅ぼされ(以後、モンゴルはチンギス・ハーンが統一するまで200年も部族同士の抗争で分裂状態だった)宋もまた江南地方の反乱の影響で国力が落ち河北及び中原を占領され皇族の大半も金に連行された(靖康の変)唯一、助かった欽宗の弟である趙構(南宋初代皇帝高宗)が杭州に逃れて南宋を成立。金は宋を制圧するため大軍を催したが揚子江を突破できず、また遼の残党の反乱や和平派と継戦派、皇位継承争いなどまとまってなかった。
その金はモンゴルにも干渉しチンギス・ハーンの父の遠縁に当たるアンバカイ・ハーンを捕虜にし木馬に釘付けにして市中引き回しの末、全身の皮膚を剥がしてから殺害し、モンゴル人の恨みを買った。
長々と書きましたがここで本題。
もちろんチンギス・ハーンも長城をまともに越えようとするのは無茶なのはわかっていた。そこで西にむかい西夏に侵攻し長城の中に入って迂回するルートを選んだ。
長城の玉門関や敦煌を占領すればシルクロードのルートも押さえれるというメリットもあるから。
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