土佐のくじら(幸福うさぎ丸)です。
本日8月6日は、広島に原爆が落とされた日です。
広島の原爆慰霊碑には、
「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから。」という碑文が刻まれています。
私は、この言葉が大嫌いです。
この碑文には、 日本が過ちを犯したから、原爆を落とされた・・・
というニュアンスが込められています。
とんでもないことです。
原爆を落としたことが過ちなのです。
広島で死んだ方々は、一般市民なのです。
非戦闘員の虐殺は、国際法違反です。
広島の原爆は、アメリカによる、国際法違反の碑文でなければいけないのです。
今中国領である新疆ウィグル自治区では、中国の核実験による被害が出ています。
その数は、70万人以上と言われています。
世界最大の被爆国は日本ではありません。
中国です。
中国の新疆ウィグル自治区住民こそ、世界最大の核兵器による被害者たちです。
ウィグル人が、何か過ちを犯しましたか?
ただ単にウィグルという地が、中国政府による核実験場にされただけですよね。(怒)
ということは、中国政府は、
「ウィグル人は、核被害によって、死んでも構わない。」と思っているということです。
広島・長崎の原爆投下も同じ構造です。
広島・長崎に落とされた原爆は、タイプの違うものです。
広島はウラン型、長崎はプルトニウム型です。
何が言いたいかと申しますと、これらの2つの事例は実験だ・・・と言うことです。
つまり、
タイプの違う兵器の貴重なサンプリングとして、2つの都市への投下が必要だったということです。
要するに、これは戦況とか、そういうことに関わりなく、
当時のアメリカ軍の事情として、広島・長崎への原爆投下は行われているということです。
日本の降伏を促すためであったら、東京の近くの外洋で落とせば良いことです。
終戦間近のアメリカ軍は、日本の制空権を完全に掌握していましたから、それは十分可能でした。
しぶとい日本を観念させる目的や、
日本が独裁主義で、日本人を開放する目的ならば、絶対にその方が良かったはずです。
つまりアメリカ側からすれば、原爆投下でどれほどの効果が出るか、つまり、
どれほどの放射能汚染があるかや、どれほどの人的被害が出るかを知る必要があったのです。
ではアメリカはなぜ、人のいない外洋で行わなかったか。
それは、アメリカ国内において、人のいないところでの原爆実験は終わっていたからです。
つまり、既にサンプルがあったのです。
人のいるところでのサンプルが欲しかったので、広島・長崎に落としたのです。
アメリカ国内で、人のいるところでのサンプル採取は不可能です。
だから、戦時中の敵国である日本に落としたのです。
広島、そして長崎の方々は、怒らなければならないです。
広島、そして長崎の原爆投下は、白人以外の民族を、原爆投下実験に使った、歴史的証明なのです。
過ちは犯しませんから・・・と、自己を卑下し、自己をないがしろにする必要はありません。
そうではなくて、 決して、過ちは起こさせませんから・・・ と、
世界平和のために、決起する市民であって欲しいと願います。
でなければ、ウィグル住民の核実験被害なども、
世界のニュースでは取り扱われることはないのです。
原爆投下、そして全国の主要都市に空襲をした航空機B29は、爆撃機です。
爆撃機というのは、軍事施設を爆撃するためのものなのですよ。
非戦闘員である、一般市民を爆撃したら、国際法違反なのです。
つまりB29は、国際法違反の航空機なのですよ。
航空機B29の歴史は、 アメリカの国際法違反の歴史であり、
人種差別の歴史であり、市民虐殺の歴史そのものなのです。
アメリカは、これら国際法における重罪を犯しています。
ここらの重罪を、覆い隠し合理化するために、
南京大虐殺をはじめ、戦前日本悪人説が、どうしてもどうしても必要だったのです。
戦後直後の日本人は、そのアメリカの罪を認識していました。
認識してはいたけれども、受け入れました。
受け入れざるを得なかった・・・というのが正確でしょう。
当時の事情は、察するに余るものがあります。
しかし日本国民の皆様、これ以上、毒水を受け入れるのはやめましょう。
歴史をしっかりと見つめましょう。
でなければ、日本人性悪説の元、
子々孫々と、その過去の歴史とやらに、振り回される日々となります。
そしてそれは、過去行われた人類への罪、そして、
今も現実に行われている、人類への罪を覆い隠すことにもなるのです。
そしてそれは同時にその罪は、未来永劫、人類に行われ続けることになるでしょう。
日本人が腹をくくれば、世界は変わります。
つまり、 日本に、自虐史観をやめれば、戦争につながる・・・という怖れがある限り、
世界から、人類への罪が消えることはありません。
日本が、小さな怖れを克服する勇気があれば、世界は変わるのです。
今を生きる日本人が、真実の歴史を、本当の意味で受け入れることです。
日々の生きやすさや、小さな国内の事情や、国内の法律の問題や、
そういった、小さな小さな原理に基づく判断ではなく、
きちんと、人類にとっての正義や、大きな平和への原理に向けた判断に基づき、
日本人は歴史に目覚めるべきなのです。