2015年12月30日
「道」を伝承する明師 達磨大師の物語をご紹介いたします。はじめは少し難しく感じるかもしれませんが、印象に残ることがあればそこを入口として必ず「道」の真髄に至ることができます。本ブログで繰り返していますが、キリストが「吾は道なり真理なり、性(命)なり・・・」と伝えてきた「道=真理」は同じ道理で、達磨伝の「道=真理」と異なるはずがありません。
西アジア・東アジアと地域が違っても伝える師が違っても、「道=真理」の真髄は違わず天地造物主によってこの人類救済の機会が齎されています。本編は「先天解」と言ってスピリチュアルメッセージと同じように次元を超越して、実際の真伝が伝承された状況についてつぶさに語られています。日本では優れた学識者によって翻訳されていますが、元の物語は高次の神仙によって中国で降ろされていますので、一語一句は深い真理を包含しています。やがて覚醒が進み人類が進化してゆく過程でこの中から多くことを学ぶことができます。
達摩大師伝『上巻』(一)
一.達摩大師、命を奉じて東土に渡る
西暦紀元前五百六十五年印度中部迦毘羅城(かびらじょう)に釈迦牟尼(しゃかむに。釈尊)が誕生し、「道」の天命はやがて中国本土から西域印度の地に移されることになりました。
釈迦は青陽時代の明師である燃灯古仏(ねんとうこぶつ)から道統を受け継いだ後、正法(しょうほう。教化別伝・不立文字・以心伝心の法)である秘法を迦葉尊者(かしょうそんじゃ)に伝えて八十年の生涯を終えましたが、無量の衆生を教化挽回した功徳(くどく)によって仏陀(ぶっだ)の称号を受け、後世にその名を留めました。
迦葉は道統を釈迦の従弟である阿難(あなん)に伝え、阿難は更にそれを商那和修(しょうなわしゅう)に伝え、以後道統は次々に優婆毱多(うばきくた)、提多迦(だいたっか)、弥遮迦(みしゃか)、婆須密(ばしゅみつ)、仏陀難提(ぶっだなんだい)、伏駄密多(ふくだみった)、脇尊者(きょうそんじゃ)、富那夜奢(ふなやしゃ)、馬鳴(めみょう)、迦毘摩羅(かぴまら)、龍樹(りゅうじゅ)、迦那提婆(かなだいば)、羅睺羅多(らごらた)、僧迦難提(そきゃなんだい)、迦耶舎多(かやしゃた)、鳩摩羅多(くまらた)、闍夜多(じゃやた)、婆修盤頭(ばすばんず)、摩拏羅(まぬら)、鶴勒那(かくろくな)、師子(しし)、婆舎斯多(ばしゃすた)、不如密多(ふにょみった)、般若多羅(はんにゃたら)、菩提達摩(ぼだいだるま)と、単伝独授の形で伝えられました。菩提達摩は、釈尊(釈迦牟尼仏)から数えると西域第二十八代祖となりますが、「道」を東土に還した後は東土初祖ということにもなります(現白陽期に於ける明師である天然古仏は、達摩大師を初祖として仰ぐ東土第十八代祖に当たるわけです)。
菩提達摩尊者は、グブタ王朝の中頃南天竺国(みなみてんじくこく)・香至王(こうしおう)の第三王子として生誕され、姓は刹帝利(さつていり)、名は元(げん)、菩提多羅(ぼだいたら)と名付けられていましたが、第二十七代般若多羅の許に出家し、師から菩提達摩(Bodhilrha-Rma)の名を与えられました。
菩提達摩には目浄多羅(もくじょうたら)、功徳多羅(くどくたら)という二人の兄がおりましたが、般若多羅はこれら三人の王子と話し合った末、二兄に勝る菩提達摩を後嗣として選び如来正眼(にょらいしょうげん。正法)を授け
「心地(しんち)諸種を生ず。事によってまた理を生ず。果(功果)満ち、菩提円(まどか)に華(はな)開いて世界起こる」
と付言して菩提達摩を第二十八代祖としました。
般若多羅に師事すること四十年、菩提達摩は聊(いささか)も怠ることなく、師が入寂(にゅうじゃく。帰天)した後も本国に留まり国内を行脚して大いに仏道と大乗(だいじょう)禅観の宣揚に尽くし、衆生の教化に努めました。
当時香至国に、仏大先(ぶつだいせん)、仏大勝多(ぶつだいしょうた)と名乗る小乗(しょうじょう)禅観の二師がいて、仏大先は般若多羅の在世中すでに師の門に入り、小乗を捨てて大乗に赴き師の訓導を受け正宗(せいしゅう)に同化したのに対して、仏大勝多は六つの別門すなわち有相宗(うそうしゅう)・無相宗(むそうしゅう)・定慧宗(じょうえしゅう)・無得宗(むとくしゅう)・寂静宗(じゃくじょうしゅう)・戒行宗(かいぎょうしゅう)と称する六宗派を立てました。
大師は、この小乗禅観六宗の各宗祖に会って、逐次これらを論伏し、六宗を尽く正道に改宗させました。このため大師の名声は南天竺を覆い、他の五印度にも高まり、やがて遠近の学者たちが大師の名声を慕って風に靡くように続々大師に響応してきました。大師は数知れない多くの衆生を救い、甥に当たる異見王(いけんおう)をも終に教化しました。
大師はその後、第二十七祖の
「六十七歳になったら中国本土に赴き、「道」を本源に戻すがよい。あらゆる困難にも打ち勝ち、決して弱音を吐いたり挫けたりしてはならない」
との遺訓に従い、遠く東土(西域印度から見た東方の地。中国を始めとする東方諸国)に縁が熟し教化の時が至ったのを察して、諸々の弟子たちに別れを告げ海路中国に向かわれました。弟子らが懸命に引き止めるのも聞かず、老躯に鞭打ち単身で海を渡ったのです。
中国本土に足を踏み入れた後、三年の歳月を経た梁(りょう)の普通元年(五百二十年)庚子(かのえね)の九月二十一日に、大師は南海(現在の広東)に到達しました。その当時の広州の刺史(しし。州知事)である蕭昂(しょうこう)は、大師に対して主の礼を尽して接見し、急いで金陵(現在の南京)の都に文を送り、時の皇帝である武帝に大師の来訪を報告しました。
武帝は早速詔勅を発して大師の入京を招請しましたので、大師は直ちに金陵に至り宮中に参内して武帝と問答しました。大師は心から梁の武帝を救おうと願い、言葉に謎を含ませ、武帝がこれを悟れるかどうかを試されました。
(続く)