道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

観音菩薩伝~第4話 姫、機知を働かせて蟻の闘いを止められる、 第5話 姫、蝉を救うために大怪我をされる

2016-06-27 22:32:58 | 観音菩薩伝・観音様

2015年1月18日

 

第4話  姫、機知を働かせて蟻の闘いを止められる

 妙善姫御生誕の祝宴の折りに現れた老翁に纏わる話は、たちまち全国津々浦々にまで伝わりました。興林国の民衆は、その老翁が仙仏の権化であると信じて疑いませんでした。この話が拡がるに連れて仏門に帰依する者が多くなり、改宗者も増加の一途を辿りました。時はちょうど西方天竺の仏教勃興時代であり、興林国は天竺に近いため仏教に同化されていたこともあって、この事件を切っ掛けに神仏を信仰する風潮が益々高まってきました。

 妙善姫は父君妙荘王と母君宝徳妃の寵愛と撫育を一身に受け、すくすくと成長されました。生来天資聡明で物事に秀で、美しい容貌・容姿は大きくなるに連れて益々端麗となり、その見目麗しい顔形は高貴な気品に溢れていました。背丈は二方の姉姫よりもやや高く、性格は明朗で、よく話し、よく笑いましたが、尋常の子供と違った性質が見られました。並の子供は美衣を纏い美食を欲しがるものですが、姫は幼少の頃から錦繍の着飾りや生活上の豪華奢侈を好まれず、質素な服装を好んで着用されました。

 何よりも奇異なのは、出生以来、素菜食を摂り、魚介類や獣肉類などの腥物を口にすることがなかったことです。食べたがらなかったわけではなく、食べることができなかったのです。ほんの僅かな腥物でも口に入れたり、また野菜料理でも少しばかりの生物が入り混じっているものを食べようとすれば忽ち嘔吐してしまう有様で、全く喉を通ることができません。これを見て王と妃は、不思議に思いました。しかし嘔吐で体が損なわれるのを見るに忍びず、体質に合わせて、姫には他の者たちとは別に精進の食物を用意させました。

 姫はまた特に書物に親しまれるので、宮中に家庭教師を迎えて読み書きを習わせました。智慧は勝れて二方の姉姫の遠く及ぶところでなく、一度教われば直ぐに読み書きができ、一度解釈すれば何時までも覚えていて忘れることはありません。

 妙荘王と妃はこのため、姫を目の中に入れても痛くないほど寵愛し、掌中の珠のように可愛がりました。女の子でありながら男の子以上に秀でていたので、妙荘王は大いに心が慰められ、時々妃に 「妙善が成人に達したら、文を以て邦を安んじ、武を以て国を定められる十全十美の婿を選んでやろう。もし太子が産まれないならば、王位を女婿に譲ってバキヤの王統を継がせよう。姫には、治国の素質がある。この国を永遠に栄光と平和に治める才能がある。徳を以て国を治めるに違いあるまい」

 妃は、勿論この王の意向に賛同しました。姫に託す将来の望みが大きくなるに従って、王夫妻の太子を求める焦りの心がだんだん薄れてきました。そして只、密かに然るべき人材を選択することに気を遣うようになりました。

 王夫妻のこうした動きに関する噂が、二方の姉姫の耳に入らないわけはありません。二方は互いに自分たちの運命の薄幸を嘆き、心中のモヤモヤが漸次嫉妬に変わり、事ごとに妹姫に対して好い気持ちがしません。同じ王女として、しかも姉として生まれながら、王位を妹姫に譲られることは気位が許しません。こうして姉姫たちは、生来の勝ち気も加わり、妹姫に辛く当たるようになりました。二方は美しく着飾り、陽気に振る舞うのが好きなので、妹の質素・温順な態度が気に入りません。

 ある日の夕方、妙善姫は一人の宮女を従えて花園へ散歩に出掛けました。いつの間にか、仙人洞の辺りまで来てしまいました。夕陽が赤く燃えて雲間から千条の光を放ち、その美しさに心打たれた姫は、暫し我を忘れ、経典にある極楽世界の景色はこれ以上に素晴らしいに違いないと、いろいろ想いを巡らせていました。このまま夕陽が沈むことなく永遠に輝き続けて欲しい…、一瞬姫は何かの囁きを聞いたような気がして空を仰ぐと、一連の雁が親雁に引き連れられ列を成して南の方へ飛んで行くのが見えました。何処へ、何のために飛んで行くのだろう。姫は深い感傷に打たれ、何となく心が身内から離れて行くような侘びしい気持ちに駆られました。

 ふと目を転じて地上を見ると、辺り一面に大蟻が闘争しているのが目に付きました。よく見ると、黒と黄色の二種類の蟻が死に物狂いで咬み合っていました。暫く経っても止みそうになく、その凄まじい有様と言ったらとても一口では表現できないほどです。弱いものは強いものに咬み殺され、あるいは傷つき痙攣して動かなくなりました。その上に覆い被さるようにして、死傷した屍が累々として重なり積もりました。

 姫は、憐れみの情を覚えて仕方がありません。この小さな蟻たちは、普段は平穏に暮らしているはずなのに、どうして闘い合わなければならないのか。一生の命も短く、その上異類からの迫害もあるため、むしろ自分たちの命を護る必要から団結しなければならないのに、何故また闘争して寿命を縮めなければならないのか。どう考えても、解りません。

 哀れな蟻を救って上げようと思い、姫は裾をまくってその場に蹲み込み、両手で蟻の群れを払い分けようとしましたが、直ぐに手を引っ込めました。敵味方を見分けたり、一匹ずつ捕まえて遠くへ放したりすることは容易ではなく、また数が多くとうてい捕らえ切れるものではありません。

 この大蟻は仲間同士では非常に仲が良いが、別の種類や他の巣の蟻には異常なほど敵愾心を燃やすなど、強い排他的な習性があります。いったん咬み合いを始めると、相手が死ぬまで決して止めようとしません。死んでも相手に咬みついたまま離れず、無理に引き離せば双方共に傷付いて死んでしまいます。

 手の施しようがないまま二人が呆然と佇んでいる間に、死骸の山が見る見るうちに沢山できました。蟻は嗅覚が鋭く、両方を引き離したとしても直ぐにまた敵を見つけ出しては咬み合いを始めるため、闘争は何時まで経っても全く収まりそうにありません。姫はどうしたものかと困惑し思案しましたが、直ぐに妙計を考え付きました。

 蟻の争いは畢竟食物を巡るものに相違ない、もし双方に十分な食物がありさえすれば、自然にその食物を自分の巣へ運搬するよう態度を一変させるに違いない。そうなれば咬み合いも止めざるを得なくなるであろう、そう思い定めた姫は急いで宮女に
「甘い飴とお菓子を少し袋に入れて持って来ておくれ」
と命じました。

 宮女は何の意味か解らなかったものの、命じられたとおり宮室へ引き返し、間もなく飴と菓子を詰めた袋を持って戻りました。姫は宮女から袋を受け取ると、両方の蟻の通り道に沿って巣の前まで辿り、飴や菓子類をそれぞれの巣の周辺に撒きました。

 すると現金なもので、新手の援軍は食物を見て急に方針を変え、咬み合うことを忘れて夢中で食物の運搬に精出し始めました。それから双方の蟻道の両側にも袋の中身を少しずつ撒いてやると、蟻の群れはすっかり戦の事を忘れ、列を崩して食糧を漁ることに専念してしまいました。

 続いて姫がなおも咬み合っている現場を上から箒で軽く払いますと、双方の蟻たちは遂に四方へ散り散りに逃げ出し、それぞれの巣へ食べ物を運びながらその場を引き揚げて行くのでした。一場の悪闘もここに終わりを告げましたが、蟻の残骸は辺り一面に散らばっていました。姫は、その牙折れ、足を断たれた情景を見て可哀相に思い、首を傾げて考えました。

 たとえ小さな蟻であっても、やはり一分の生命があるに違いない。それが互いに咬み合い、殺し合って悲惨な横死を遂げ、残骸を曝している。これらの生霊は、どのように苦しがっていることでしょう。姫はいつの間にか涙ぐんで、屍を天に曝して罪の深くなるのを憐れみ、そのままにして置くに忍びず、振り返って宮女に言いました。

「二人で穴を掘って、埋葬して上げましょう」
 二人が箒で蟻の残骸を掃き集め、木の先で穴を掘り始めた頃は、すでに黄昏時で辺りは暗くなりかけていました。その時先方から、二人の姉姫が談笑しながら近づいて来ました。妹姫と宮女が蹲んで何かしているのを見掛けて、二人は怪訝な表情をしました。妙善姫は、姉姫の来られたのを喜び
「姉君、良い所へ来られました。お手伝いして下さいませ」
と声を掛けますと、
「どんな事ですの」
と妙音姫が訊き返しました。

「咬み合いで死んだ蟻を埋めてやりたいと思います」
 これを聞いて妙音姫は思わず吹き出し、そして冷やかに
「妹よ、自分一人で遊びなさい。あなたの詰まらない遊び事のために手を汚したくありません」
と言いながら、向こうへ行きかけました。妙元姫も、姉姫を追いながら
「姉君、妙善はあのように土掘りや泥いじりが好きなのですよ。それでもなお父君も母君も妙善を宝のように可愛がり、文武両全の婿を選ぶと仰せられます。万一母君が太子をお産みにならなければ、妙善の婿が王統を継ぐそうで、素敵ではありませんか」
皮肉混じりの言葉に、妙音姫が相槌を打ちました。

「そうなると妙善は、王妃様にお成りですね。しかし、世間で泥いじりの王妃様なんて聞いたことがありませんね。笑われますわ」
 妙元姫は意地悪そうに
「妙善の行いは、少し下品だと思います。それでも、父君や母君が寵愛されていらっしゃるから仕方がありません。これも、私たちの運命ですわ」
 妙善姫は、これらの遣り取りを聞き流し、黙ったまま土を掘り続けました。姉姫たちが自分の気持ちを理解してくれないのが悲しかったものの、何を言われても我慢して気に掛けません。人を疑うことを知らず、何時までも好い姉君と信じ、素直で大らかで菩薩そのままのお気持ちでした。

 やがて穴が掘り上がったので、蟻の死骸を掃き入れ、その上に土を被せて叮嚀に葬り、その蟻塚に向かって二人は小さな掌を合わせました。これで蟻の生霊も安らぐに違いない、と思うと姫の気持ちは晴れ晴れとなりました。

 辺りはすっかり暗くなり、宮女に促されて二人は宮室へ引き返しました。姉の妙音姫と妙元姫は先に帰っていて、王妃に妙善姫の事を告げました。日頃の羨ましさが妬みに変わり、母君の歓心を買うために尾鰭を付けて話しましたが、王妃は二人の話を聞き一笑に付して取り合いません。

「妙善は、天の慈悲の徳を持っています。そなた達とは何の関わりもありません」
二人の姫は母君の意外な言葉を聞いて、不愉快で仕方がありません。その時ちょうど、妙善姫が蟻塚から帰って来ました。妙善姫は、二人の姉姫が母君の側で満面に不快の色を浮かべているのを見て察し、これは何か母君に教訓されたに違いないと思い、そのまま黙って部屋に引き下がりました。

 翌日妙荘王は、妃から事の次第を聞き、苦笑して
「妙善は聡明怜悧であるが、この性質が玉に瑕なのだ。少しも子供らしさがなく、まるで老婆のようだ。小さい時からこのようでは、将来が案じられる。御身は、よく教導しなければなりません」

妃は、只深く頷くばかりでした。二方の姉姫は、この言葉を聞いて密かに喜び、妙善の性質はとても改まりそうもない…そうであれば、将来には父君の歓心を失うに違いない、と思いました。

 実際、妙善姫には深い仏性があり、閑な時間には、仏書経典を読み書きしてばかりいました。一度目を通すと決して忘れることがないため、普通人の数十倍も悟りが早く、円熟味も加速して行きました。誕生以来美徳だけを考えて生きているようなこの性質を枉げることは、鋼鉄を折るよりも遙かに難しいことは姉君にも明らかです。母君の千万言の勧化も姫の頭には入らず、依然として姫は思い付かれた善徳の数々を行い続けました。




第5話  姫、蝉を救うために大怪我をされる

 蒸し暑い夏の、ある月夜のことでした。姫は宮室の暑苦しい空気から離れて、庭園へ散歩に出られました。姫が柳の下の石台に腰を下ろして納涼していると、芳しい花の匂いが一陣の清風に乗って漂ってきました。その何とも言えない香ばしい薫りは、姫を爽やかな気持ちに誘うのでした。

 静寂な空気の中に、只一匹の蝉が傍らの木の幹に止まって鳴いていました。まるで我が世の春とばかりに、得意な美声を張り上げて歌を唱っているようでした。姫は、この静寂の中で深く思惟しました。

 世上の人はどうして競って労碌を重ね、名利のために奪い合い、勢力のために争い合っているのでしょう。かように大きな罪を作った挙げ句、将来にやってくるそれらの報いである魔障や災難から果たして逃れることができるのであろうか。一切の苦厄や転生輪廻の柵から、果たして逃れることができるのであろうか。

 何らかの妙法を使って、世の人々を悟らせなければならない。人生の一瞬の快楽に、何の意味があろう。両目を一度閉じれば、万物皆空である。儚い仮の快楽よりも、永遠の自在を得たい。仏陀が成道し到達された極楽世界の境地に至れば、どのような感じがするのであろうか。姫の小さな胸は、様々な思いで一杯になりました。いつの間にか、神(しん:註2参照)を凝らして静座し、とうとう恍惚境に入ってしまいました。

 正に元神(げんしん:同じく註2参照)が出ようとするとき、今まで楽しげに鳴いていた蝉が、突然鳴き止んだかと思うと、今度はけたたましく鳴き出しました。普通の鳴き声ではなく、何かに襲われて救いを求める必死の悲鳴に聞こえました。

 姫の霊気は正に無我の境地に至りつつありましたが、この蝉の悲鳴に静寂の気が劈かれました。驚いて我に返り鳴き声のするほうへ頭を向けると、一匹の大螳螂(カマキリ)が長く伸びた胸部を反り、鋭利な鎌状の前肢で慄く蝉を引っ捕らえ、細長い頸を擡げて咬み付こうとしている様子が月の光によって映し出されました。蝉の悲鳴に似た鳴き声は、正に救いを求めていたものでした。

 姫は、暗かに考えました。蝉は、私に救いを求めているに相違ない。もし私がこの難を見て救わなかったならば、蝉は間もなく螳螂に殺されるに違いない。見たところ柳の木は、さほど高くはない。咄嗟に姫は腰掛けていた石台に登り、その上に立って手を伸ばし、螳螂を上から抓み上げました。ところがその大螳螂は、捕らえていた蝉を放しはしましたが、今度はその鋭利な鎌を姫の手の甲を目掛けて打ち込んできました。一方助けられた蝉は、一声鳴いて飛び去って行きました。

 姫はそれを見届けてから手の大蟷螂を放そうとしましたが、螳螂の前肢両鎌は姫の手の甲に深く食い込んでいたため鮮血が流れ出しました。姫は余りの痛さに耐えかね、一瞬目の前が真っ暗になり、足の力が抜けて声を出す間もなく石台の下に崩れ落ちました。
 折悪しく倒れた所に石があり、額の右のほうがその石に強く当たって傷付いたため顔中血だらけになってしまい、その上左足の踵は木の根元に引っ掛かり皮を擦り剥き脱臼してしまいました。姫には、この痛みがどうして堪えられましょうか。忽ちにして、人事不省に陥ってしまいました。

 丁度この時、宮女が妃に命じられて花園へ姫を捜しにやって来ました。柳の木の下に来ると、誰かが倒れているのが目に付き、もしや妙善姫ではないかと恐る恐る近づいてみると、顔一面が血だらけになって気を失っている姫を見付けました。

 宮女は腰を抜かさんばかりにビックリして、震えながら慌てて宮中に駆け込みこの事故を急報しました。急を聞いた王妃を始め宮女一同は、直ちにその場に駆け着け、急いで柔らかい籐で編んだ篭に姫を乗せて宮中に運び込み、宮医を呼んで傷の手当てをさせました。王妃の顔色は真っ青でしたが、終始取り乱すことなく、冷静に宮女達にあれこれ指図しました。知らせを聞いた妙荘王は、急ぎ姫の室に見舞いに臨みました。その後、王と妃は姫の枕元に付ききりです。

 小半時ほど過ぎて姫は気が付き、初めの内は意識が朦朧としていましたが、辺りを見回す内に事情がだんだん解ってきました。父君と母君が自分の顔を心配そうに見守っていたが、気が付いたのを見て安堵の胸を撫で下ろした様子でした。
 妙善姫は、体を動かしたとき踵に激痛が走ったため、思わず呻き声をあげました。妙荘王は「妙善よ。どうしてこんなに酷く転んだのです。申してごらんなさい」

姫は、心の中で父君の怒りを恐れて、言おうか言うまいかと思案しました。言えば厳しく責め咎められるに違いありません。だが姫は嘘が言えず、苦しみながらも一部始終を話しました。妙荘王は、聞き終わるや、首を振り、厳しく姫を諭しました。

「妙善よ。父は、何時もそなたに話していたではないか。父の言いつけを聞かないから、このような苦しみを受けるのです。この度の事で、よく分かったであろう。今後、再びこのような事をしたら許しませんよ」

 姫はただ、頷くばかりでした。額の傷は薬を付けていた所為で左程でもないが、左足首の脱臼は骨折しているのか痛みに堪えきれず、顔を歪めてまた一声呻きました。付き添っていた妃は、姫の苦痛を自分の胸に針を突き刺されたように痛く感じられ、眼に一杯涙を浮かべて「どこが痛いのですか」
 姫は痛さを堪えて
「体全体に痛みを感じますが、額と足首が特に疼きます」
妃は姫の踵を擦ったが、本当に脱臼して腫れ上がっているのを見てビックリしました。妙荘王は、急いで侍官に、接骨医を召し連れるよう命じました。暫くして接骨医が急ぎ参内し、姫の骨を元通りに接ぎ合わせました。痛みが少し和らぎ、いつの間にか姫が睡りに入ったので、皆はようやく安堵しました。

 この怪我で姫は約一箇月ぐらい、体を起こすこともできませんでした。普通の人なら螳螂と蝉の所為にして怨みを抱くところでしょうが、姫は良い事をしたと自ら満足し、肉体的には苦しみが残っていましたが、心中では万分の喜びを感じていました。自分で自分の行為に慰められ、床の上では苦痛を訴えることがありませんでした。

 月日が経つ内に踵と手の甲の痛みはどんどん癒えてきましたが、額の傷口だけがなかなか治りません。種々の薬を付けているうちに傷口はどうにか塞がりましたが、黒い痕が残っていて、完璧の珠に瑕疵が付いたようなもので、この事が人々に惜しまれました。妃は、それが何より痛ましく感じられました。

 ある日、妙荘王に向かって
「こんな玉のように美しい姫が、額に一つの傷痕を残しては、美貌をたいへん損ないます。私が想いますのに、我が国中に良医も少なくありません。王様、令を伝えて霊験ある名医を招き、姫の傷痕を癒させては如何でございましょう」

妙荘王はこの提案を受け入れ、翌日宮廷に登殿するや、早速次の令旨を全国に公布しました。

 凡そ姫の額の傷痕を元通りに治すことができた者には、賞として白銀千両を与え、その上御殿医の職に任ずる。
 この旨が一度公布されるや、国中の医者や大夫らは先を争って薬を献じてきました。連々数十種の薬を試みましたが、毫も効験がありません。妙荘王は、このような大国に一人も役立つ医者がいないのを情けなく思いました。機嫌を損ねた妙荘王は、自分の願い通りにならないことが腹立たしくなり、その思いが全国の医者に対する怒りへと変わっていきました。

(2)神(しん)も元神(げんしん)も同じで、五気の一つです。五気とは、魂・魄・精・神・意の総称で、いずれも人の心を構成する五種類の気を指します。元神は先天の神ですが、人身に宿った後つまり後天では識神と変わります。俗に言う「意識」がこれに当たります。

次回 第6話 ルナフール、妙荘王に霊薬を教える

 


観音菩薩伝~第2話 王妃、第三王女を御出産される、 第3話 老翁、妙荘王に姫のご来歴を告げる

2016-06-22 00:10:09 | 観音菩薩伝・観音様

2015年1月18日

第2話  王妃、第三王女を御出産される

 王妃は、その日から身籠もられました。二・三ヶ月すると、お体は元気であるのに、肉や魚などは喉を通らず、平生の好物でも腥物だけは見ただけで胸が悪くなりました。無理して食べれば、全部嘔吐してしまう有様。精進の菜食以外は、一切の食物を受け付けなくなりました。群臣はこの事を聞いて不思議に思い、この噂は瞬く間に国中に伝わっていきました。
 一日一日と月日が経ち、冬が過ぎて暖かい春がやってきました。妃の産褥の期は日一日と迫り、人々は今度生まれる御子は太子か姫かの予想で持ちきりでした。妙荘王は必ず太子が誕生すると確信し、今度の出産に非常な期待を掛けて、毎日が楽しく胸躍る希望に満ちた生活が続きました。群臣は各々、慶賀の祝典の準備で忙しくしていました。
 その日は二月十九日で少し肌寒い日でしたが、妙荘王が花園で百花を鑑賞していたとき、宮女が面前に跪いて
「申し上げます」
「何事であるか」
 妙荘王の胸は、思わず高鳴りました。

「王妃様には今朝卯の刻(午前五時から七時までの間)に姫君を御出産なさいました。どうか、御命名を賜りますようお願い申し上げます」
 一瞬、妙荘王の顔は曇ってしまいました。予期に反して、また王女が生まれた。一体、どうした事だ。期待していた事が根こそぎ裏切られた妙荘王の心は、黒い雲に包まれました。しばらくは失望の余り言葉も出ない有様でしたが、漸く自分を取り戻して宮女に
「王妃の身体はどうであったか」

 真っ先に気になるのは、やはり妃の身体であります。
「はい。王妃様が御分娩なさる時には、色とりどりの美しく珍しい鳥がたくさん庭園の樹に集まり、それらの囀りはあたかも仙楽を奏でるようでございました。御部屋には芳香が漂い、並み居る人に匂って何時までも消えません。暫くして、苦もなく姫君が御誕生遊ばされました。王妃様も姫様も、お健やかでございます。殊に姫様の産声は、冴えて大きく響きました」

 妙荘王は、密かに思いました。宮女の話によると、珍鳥が樹に集まって仙楽を奏で芳香が部屋に満ちていた事と、前に妃が見た懐胎の夢とを結び合わせて考えてみると、この子には何らかの来歴があるかも知れない。或いは、夙世に善根が深かったのかも分からない。そう思い至った妙荘王の心は、幾分穏やかになってきました。すると急に今度生まれた姫に愛着を感じ出した様子で、居室に入って朱筆を取り金箋に「妙善」と端麗に認め、宮女に渡しました。

 朝野の郡民は、第三の王女が生誕した事を聞き歓喜で上を下への大騒ぎとなり、城内城外で慶祝の行事が幾日か続きました。妙荘王は宮中に宴席を設けて群臣を招き、三日三晩踊り狂いました。至る所に篝火が焚かれ、寺院の鐘は一斉に鳴り響き、慶びの気は天に沖し、歓声は雷のごとく国中に轟き渡りました。百姓農民は豊作に加えて喜びはなお一入で、家々には祭壇を設けて灯明が点され、供え物を献じ、天帝に謝し、姫君の将来に幸多かれと心から祝福しました。




第3話 老翁、妙荘王に姫の御来歴を告げる

  宮中での祝宴の第三日目のこと妙荘王は、宮女に姫を殿上に抱かせ、初見の儀を執り行うことを命じました。ところが宮内に酒宴と肉香の空気が充満していたため、その場に入って来てこの空気に触れた途端、姫は急に火が点いたように泣き出しました。宮女を始め随いてきた乳母が一生懸命にあやしましたが、とても泣きやむ様子がありません。群臣は、一斉に酒杯を置いて、眼を姫のほうに注ぎました。妙荘王は、心中不快気に顔を顰めました。このとき忽然と門官が登殿して妙荘王の前に跪き、
「申し上げます。只今、朝門に一方の老翁が参り、姫に宝物を献上したいと言って謁見を申し込まれました。如何いたしましょう」

 妙荘王は、即座に引見を命じました。暫くすると、長い廊下を通って一人の老翁が登殿してきました。一座の群臣は、視線を老翁の方に向けました。総髪は真っ白で長く背中まで下がり、胸まで垂れる白髯は爽やかに風に靡き、眼光は炯々として鋭く、風貌は威厳に満ちていました。その空気に群臣は息を呑み、正に仙風道骨とはこの姿であろう、と思って見守りました。妙荘王は、静寂を破り、
「老人よ。姓と名を申してみよ。何処の者で、何の宝物を献ずる所存なのか」
 老翁は妙荘王に一礼し、頭を挙げて、
「拙老の来歴を申す前に、本日此処に参上した理由を申し上げましょう」
 老翁は側の姫を暖かい眼差しで見てから、再び妙荘王に向かい、
「承る所によりますと、この度吾が王には姫君を御出産され、大小群臣の慶賀を受けておられるとの事を伺い、拙老も吾が王に謹んで慶賀申し上げると共に、姫君の御来歴をお告げ申し上げたく馳せ参じました。実は、姫君の先天は慈航尊者でございます」

 妙荘王は、可笑しさの余り笑い出して
「老人よ。汝は子どもでもあるまいに、そのような根拠もない偽りを申すな。慈航尊者は極楽世界の楽を享けずに、何故この俗塵に墜ちて一人の凡婦に生まれくる理由があろうか。戯けた事を申すでない」

 すると老翁は、大きく頷いて言葉を続け、
「近来は人心大いに腐敗し、各地で殺・盗・淫を行う乱賊が跋扈し道徳・正教が廃れたため、至る所で災難が生じ、戦禍は止まず、良民は塗炭の苦しみを受けております。この時に尊者は世を憐れみ、衆生の苦を悲しまれて天帝に降世を請われ、世人の苦難を救うことを誓って此の世に降生されたのでございます。姫にはこの人王の世界を仏国の世界と化し、新しく入られた仏道の覚者として永遠に仏法を顕し、大乗の真旨を明らかにし、菩薩道の極を致して衆生を地獄の輪廻から救おうとなされるのでございます」

 老人の目は一層焔のように輝き、神々しく見えてきました。妙荘王は、
「汝は姫に来歴があると申すが、もし慈航尊者が発願して入世するならば当然男に転生する筈である。如何して何かと煩悩の多い女に生まれる理由があろうか」
 妙荘王は、不興気にこのように宣べました。

「これには、理由がございます。古来、男は戒を受け専心出家して修道し、仏仙に成道することも比較的容易に適います。また倫理礼教を知り、教典の義を悟るのも早いものであります。一方婦女子のほうは、仏法から遠く離れ天理の循環を恐れず、世の禁戒も守り難いために堕落した者は数知れません。故に女人に五濁(註1)の災いを解脱させ、後世の模範となり、婦人に広く菩提の道を得させるため特に降生されました」

  老翁は一息吐いて
「婦女子でも西天極楽に成道が得られ、菩薩道を全うできます。将来姫君は、万世婦女にこの事を示す警鐘となるために降生されたのでございます。この重責は、姫以外の人には担うことができません」

  老翁は確信に満ちて、万感の表情を妙荘王に示しました。妙荘王は首を横に振り、
「汝の説く事はとても信じられない」
 と、もう一度大きく首を振りました。
「已むを得ません。将来、自然とお分かりになられましょう。拙老も、これ以上申し上げません」
 老翁は、諦めて妙荘王に一礼して引き下がろうとしました。そのとき乳母に抱かれていた姫が、一層激しく泣き出しました。妙荘王は何を思ったか、老翁を呼び止め、
「もし汝が姫の宿世の因縁を知っているなら、定めし汝は高徳の方に相違あるまい。しかし先刻から姫が狂うように泣いて止みそうもないが、これは果たして如何なる訳か説いてみるがよい」

 すると老翁は、呵々大笑して、
「存じています。その前因も後果も分からないことはありません。姫が泣くのを大悲と申します。実は今回吾が王は姫御誕生を祝って三日連続の宴席を開かれましたが、このために如何ほどの牛・羊・鶏・豚・魚類を惨殺し生命を傷付け、人々の口腹を満たしたか知れません。これを憫れむ大慈の心が姫君を悲しませ、やがてこれが皆自分に大きな罪業を加えることになる故、それを忍びず泣き止まないのでございます」

 老翁は、更に言葉を継いで
「大悲の主旨とは、人類だけに止まらず、世に生を受けている動物から一草一木に至るまで皆同じでございます」
「されば汝の話を信じるとして、今汝は即座に姫の泣き声を息ます方法でもあると申すのか」

 老翁は、キッと眉宇を強く引き締め
「拙老が止めて差し上げましょう」
 と言ったかと思うと老翁は、姫の身辺に寄り、掌で姫の頭と額を撫で、詩を吟じました。
  「哭(な)くな、哭くな、神(しん)は昏み明が閉塞(とざ)される。
  汝が入世の宏願(ぐがん)、入世の老婆心を忘れるな。
  三千の浩劫を識り、汝去(ゆ)きて度すべし。
  三千の善事は須く汝が去きて行うを待つ。
  哭くな。謹みて世音を観じ、梵音を聞け」

  すると摩訶不思議。姫はあたかも一切が解るかのように途端に泣き声を止め、眼を瞠らせてジッと老翁を見詰めニッコリと笑いました。妙荘王は、すっかり感に打たれてしまいました。一座は急にざわめき、感嘆の声が彼方此方から聞こえてきました。この老翁は由緒ある徳の高い隠士に違いない。何と不思議な業であろうと皆が思っていますと、老翁は
「姫の泣き声も止みました。拙老は、最早ここに長く留まる訳には参りません」
 と妙荘王に辞礼して踵を返すや、飄々と風のように門外に出て、止める間もなく飛ぶように立ち去ってしまいました。

 腰は軽く、歩は柔らかく、とても普通の老人の行動とは思えません。妙荘王は、自分の軽妄を悔い、もっと老翁と話をしたい気持ちに駆られてなりません。沢山聞きたい事があったのに、何故もっと鄭重に扱わなかったのだろう。妙荘王は直ぐ侍衛に後を追いかけ叮嚀にお迎えするように命令を下しましたが、朝門にはすでに影も姿も見えません。馬を四方に走らせ、六街三市を追わせましたが、とうとう何処にも老翁を見付けることはできませんでした。

 宰相アナーラは王を慰め、
「先ほど耳にした種々の話の模様から推察するに、あの老人は定めし仙仏の権化でございましょう。老翁は自分から留まらない限り、尋ねられても無益と思われます。時が来ればまた、お会いできることでございましょう」
「卿の言われる事は、本当かも知れない。ああ、惜しい事をした」
 妙荘王は、何時までも老翁の事が忘れられませんでした。

(1) 五濁(ごじょく)とは、この世に起こるけがれで、次の五つのことです。
 一、 劫濁(ごうじょく):人の寿命が二万歳以下に減ずるに至って、見濁等の四濁が起こる時をいう。
 二、 見濁(けんじょく):身見、辺見等の見惑をいう。
 三、 煩悩濁(ぼんのうじょく):貪、瞋、痴等の一切修惑の煩悩をいう。
 四、 衆生濁(しゅじょうじょく):劫濁時の衆生は、見濁・煩悩濁の結果として、人間  の果報漸く衰え、心鈍く、体弱く、苦多く、福少なきをいう。
 五、 命濁(みょうじょく):これまた前の二濁の結果として、寿命漸く縮小すること。

次回 第4話  姫、機知を働かせて蟻の闘いを止められる

 


観音菩薩伝~第1話 王妃、不思議な夢を見られる

2016-06-21 17:29:43 | 観音菩薩伝・観音様

2015年1月18日

観世音菩薩は西暦紀元前二百五十年頃「興林国」の第三王女「妙善姫」として誕生されました。第一王女は妙音姫(みょうおんひめ)のちに成就して文殊菩薩となられ、そして第二王女は妙元姫(みょうげんひめ)のちに普賢菩薩となられました。

観音菩薩伝をご紹介させていただくにあたって、一般に観音菩薩が実在したことがあまり知られていないことがありました。キリスト意識世界でマリア様の存在と同じように、東洋では観音様が女性意識に深く根付いていてその神聖が発揮されています。観音意識(思いやり)・文殊意識(智慧)・普賢意識(勇気)の女性性を引き立てる姉妹愛はやがて相互に感応して聖なる世界の中心的役割をなしてゆきます。

ご承知のようにサンジェルマンとクワンイン(Kuan Yin:観音)は東西を越えて世界の金融経済や統治を見守っています。また後に詳しくお伝えしますが、釈迦3000年(釈迦生誕の紀元前1092年~紀元1900年位まで)の治世のように世界の平和と「一なるもの」の実現については弥勒菩薩と観音菩薩が正・副でその盟主を担っています。

PAOの Kuan Yin 像

観音菩薩伝

第1話 王妃、不思議な夢を見られる

 西暦紀元前二百五十年頃、西域諸国の東南に興林国という いたって泰平な国がありました。この国は峡谷と絶壁によって周囲を閉ざされた高原地帯にあり、この地層は数千里も延々と続いていました。気候は比較的温暖で、国の東南には遠く須弥山の諸峰が峨々と聳え、その頂は年中雪に覆われていました。この連峰の東側は、現在の中国に連なっています。

 当時の中国は周王朝の末期で、秦・斉・魏・燕・楚・衛・韓・趙の列国が覇を競う戦国時代でした。また遙か東北の彼方では、匈奴(きょうど)が虎視眈々と中央進出の機を窺っていました。

 西南に位置する天竺(てんじく。今のインド)はマウリア王朝の時代で、周辺地域の侵略と征服に暴威を振るっていたアショカ王が、自分が冒してきた諸悪業の非を悔い、仏陀の教えに帰依し始めたころのことです。

 また遠く西の彼方では、アレキサンダー王朝が崩壊して、シリア、トラキア、エジプト、マケドニア、ギリシャが互いに勢力を争い、更に西方ではローマ王朝の勃興期に当たっていました。したがって当時は天下を挙げて兵荒・戦禍が絶えることなく、あらゆる地域で争奪と横暴が繰り広げられ、世風・倫理は極度に頽廃し、道徳はすっかり地に落ちてしまいました。その上至る所で旱魃・洪水・疫病が猛威を振るい、世人は塗炭の苦しみに喘いでいました。

 興林国は霊山幽谷に守られていたため諸外国の侵略を受けることもなく、あまつさえ歴史は古く、開化も早かったこともあって、周辺諸国の中では最も文化が進み、群邦の領袖として慕われていました。

 国王の姓はバキヤですが名号は「妙荘王」と称し、賢明な高徳者でした。三万六千里の国土を持ち、数十万人の忠実な良民を領していました。土地は肥沃で気候は温暖、比較的人口は少なく、外敵の憂いが全くなく、しかも穀物は豊かで果実は至る所によく実っていて国は富み栄えていました。男は耕作、女は織物を主としてみな勤勉に職を営み、慈愛深い王と共に日々の生活を楽しんでいました。

 王妃の名はパイヤ、宝徳妃と称し、才色兼備で貞淑、そのうえ聡明で謙譲の徳が高く婦道の模範とされていました。常に夫君妙荘王の良き相談相手であり、内助の功に厚かったので、妙荘王は王妃を心から敬愛していました。

 王夫妻の間には二方の姫宮がおられましたが、惜しいことに太子には恵まれませんでした。姉姫は妙音姫、妹姫は妙元姫と呼ばれました。しかし妙荘王は太子を欲しがられ、王妃と二人きりになると、いつも寂しがっていました。その王の心中を察すると王妃はいつも辛い気持ちで一杯になるため、髪には白いものが目立つようになりました。既に壮年を過ぎていた妙荘王は、後嗣のことを考えると政治も手に付かず、朝な夕なに嘆息する日々が続きました。

 ある年の四月のある暖かい日のことです。御苑内の池の蓮華が一斉に開花して芳しい香りを辺り一面に漂わせ、小鳥は美曲を囀り、百花は今を盛りと咲き誇っていました。妙荘王が悶々の心を晴らすため花園へ散歩に出て石台に座り見事な万朶の睡蓮を眺めていると、自然と気も軽快となり、心のもやもやも消え去りいつの間にか時の経つのも忘れていました。このとき人の気配を察して後を振り向くと、宮女を従えた妃パイヤ・宝徳后が微笑を湛えて立っていました。
「何時の間に来られたのか」

そう言いながら妙荘王は、静かに立ち上がりました。
「王様が余りうっとりと花に見とれておられたので、声を掛けるのを遠慮しました」
 王妃は妙荘王を見て、にこやかに笑いながら「お疲れでございましょう」
 王は王妃の顔を気遣わしそうに見て

「いや、蓮の花を眺めていたら、急に気分が爽快になった」
 妙荘王がそう言って裾に掛かった花弁を軽く払ってゆっくり歩き出したとき、宝徳后は突然
「王様に占っていただきたい事がございますが…」
「如何なる事か」
 妙荘王は、訝しそうに踵を返しました。
「昨夜、私は不思議な夢を見ました。いくら考えても、私には判断出来ません」
 王妃は、ちょっと首を傾げて話し掛けました。
「向こうの涼亭の椅子に腰を掛けて、ゆっくり話を聞こう」
 そう言いながら妙荘王は、先になって歩き出しました。
 涼亭に入ると、暖かい風が肌身を撫でて心地よい気分に打たれました。王妃は言葉を続け、
「私が夢の中で一面茫々とした果てしない海原に立っていたとき、突然海底から轟音が響き、瞬く間に海水が真っ二つに割れたかと思うと、その間から一枝の白い蓮華が忽然と湧き上がってきました」
 王妃は、瞬きもせず妙荘王の顔を見つめたまま話し続けました。
「初め海面に現れたときは普通の蓮華でしたが、水面から出た蓮華は見る見るうちに大きく伸びて、急に金色の光に変わりました」
 妙荘王は、興味深く大きく頷いて、眼で先を促しました。
「あまり眩いので、とても目を開けておられません。暫くして目を開けてみますと、どこにも蓮華は見当たりません」
 王妃は、一息吐いてから、想い出すようにして話し続けました。
「すると前方にいつの間にか一座の神山が聳え立っており、山の上は縹渺として沢山の楼閣が見えました。頂上には鬱蒼と繁茂した樹木、空には珍鳥が飛び交い、天竜、白鶴が静かに妙なる楽の音に聞き入っていました。また、南の方角には一座の七宝の塔があり、塔の上には一個の明珠が安置されていました」
「全く不思議な話だ」
と妙荘王は、王妃の話にすっかり魅了されてしまいました。
「その明珠は、千万条の色とりどりの光を放っていました。私はその荘厳さに打たれ、身じろぎもせずその光を見つめ、自分の身も心もすっかり忘れてしまったほどです。やがて明珠は、ゆっくりと空に舞い上がったかと思うと瞬く間に転じて太陽と変わり、上へ上へと上って行きます。暫くすると、それが私の頭の真上に懸かって参りました」
 熱心に話される王妃のお顔に、一瞬恐怖の色が過ぎりました。
「するとその太陽は、一声大きく鳴り響き、私の懐中目掛けて落ちて参りました。私は驚き慌てて急ぎ逃げようとしましたが、両足が根の生えたように動きません。必死になって藻掻いているとき、パッと目が覚めました」
 王妃は、冷や汗を流しながら、怯えた表情で語りました。
「不思議な夢だ」
 妙荘王は、もう一度同じような言葉を繰り返し、腕を組んで考え込んでしまいました。
「普通の夢ではない」
 と呟きましたが、何か思い当たることがあるのか、心から喜びが湧いてきた様子でした。
「この夢はどんな兆しを示しているか、ご判断が付きましたか」
 王妃は座り直して、真一文字に結んだ妙荘王の口許を見つめました。
「これは正夢で、大吉の兆しと思う。御身の見た景色は、仏国の極楽に違いあるまい。凡人では、とても見られるものではない。あの明珠を仏門では舎利と言い、智慧・聡明の象徴であり、太陽と変わったのは「陽」すなわち「男」を表す。懐中に落ちたことは、懐胎したことを意味する。御身は、この夢を何の意味と思われるか。余の信ずるところ、これは当に懐胎の知らせで、太子が生まれるに相違あるまい。真に喜ばしい吉兆の夢だ」
 妙荘王は喜びを抑えきれない様子で立ち上がり、石卓の周囲を何回かゆっくりと廻られました。王妃はこの判断を聞いて、限りない幸福感に包まれました。


次回 第2話 王妃、第三王女をご出産される


観音菩薩伝~第42話 大師、長眉の老翁に会って指点を受ける、 第43話 大師の一行、無事金光明寺に帰る

2016-03-14 11:04:31 | 観音菩薩伝・観音様

2015年10月 6日

第42話 大師、長眉の老翁に会って指点を受ける

 このようにして大師と保母そして永蓮の三人は、筆舌に尽くせぬ飢えと寒さに堪え忍びながら、雪蓮峰を登りました。全く紆余曲折の多い行程でしたが、五日目に漸く頂上に達することが出来ました。頂上に登りきるとそこには比較的平らな地面があり、ふと見ると萬年雪を被った一座の廟堂がありました。こんな山の頂に一体誰が住んでいるのだろう、大師の心中にもしやと思う気があって胸が高鳴りました。保母と永蓮も一瞬神秘感に打たれ、お互いに顔を見合わせて頷き、大師に従って庵の前に到着しました。三人の瞳は、希望に燃えて輝いています。長い間の艱難辛苦が報われる、目的地に到達したのです。千萬の感慨で、胸が一杯です。究竟涅槃の妙証を得、聖諦義を明らかに悟れる感激が寸前に迫って来ました。

 三人は合掌しながら跪いて廟堂を拝み、立ち上がって三歩歩いてもう一拝しました。畏れ多いという気持ちが、自然にそうさせたのかも知れません。無意識のうちに大師は、御自分の得道時を感得しておられました。

 廟堂は石積みの簡素な作りで、崖の上に一軒だけぽつんと建っています。大師は霊覚で、その中から荘厳華光が無量円光を描いて燦然と輝いているのを観じました。大師は静かに廟前に跪き、改めて深く礼拝してから内(なか)へ入りました。内は狭い石室で、中央の奥まった所に一人の老翁が坐っていました。眉毛は長く両頬まで垂れ、純白な僧衣を纏い、悠然と端坐し瞑目しております。三人が入ってきたのに気付いているのかいないのか、体も動かさず顔色も変えずその身相は威厳と慈愛に満ち、面容は神々しくて百毫の光明を放っています。

 早速叩頭礼拝を為した大師は、老翁の顔を見てはっと胸を打たれました。昔、花園へ御指示に来られた老僧によく似ておられます。大師は、忘れる筈がありません。その御風貌は深く脳裏に刻み込まれていて、昼夜四六時中、その印象は片時も脳裏から離れたことがありません。歓喜が湧いて大師は、二人に言いました。

「功徳甚深の師父様です。私達が来るのを待っておられたのです。謹んで御尊前に進み出て、御指示を仰ぎましょう」

 二人は感極まり、身が引き締まりました。大師は恭しく奥へ進み、五体を地に伏して礼を尽くし、終って胡跪(こき)し、合掌しながら

「上座に坐(おわ)します御尊師様。弟子妙善、約束を違えず所説の妙法を憶持して失わず、永い歳月を求法一途に勤行し、今また一行三人は興林国を発って今日ここまで参りました。師の御尊顔を拝し得ますことは、この上ない幸いでございます。どうぞ御慈悲を垂れ給われて弟子達の迷朦を御指示下さり、般若・陀羅尼の心法を授記して下さいますようお願い申し上げます」

と真心籠めて申し上げました。今まで瞑目して微動だにしなかった長眉の老翁は、大師の言葉が終るや静かに眼を開き、三人を見渡して言いました。

「善哉、善哉。大乗を行ずる者、大荘厳の心を発せる者、大乗を念ずる者よ、汝昔日よく菩提心を発し弘誓の願を立てられた。今また汝等三人は、幾多跋渉の苦しみを辞せず、千里の難関を踏破してよくぞ此処まで参られた。汝に深い前縁があったが故である。先ず、そなたに訊こう。そなたは一切の富貴と栄華を捨てて佛陀に帰依し、一心に修行を志して求法に来たが、佛門の真旨は何であるか。得道した後、如何なる願心を抱かれるか心意の所想を聞きたい」

 大師は、敬虔な心情を尽くして答えました。

「佛門の真旨は、世の迷える霊魂を四生六道の輪廻から救い、世の災難を消滅するにあります。佛陀や諸佛が道を求め、道を修め、道を伝えて身を千劫萬難に晒したのも畢竟この為と思います。弟子の願心としては、得道後は更に修練に励み、大慈大悲を以って三毒・十悪の業縁から衆生を目覚めさすように説法を続けて行きたいと思います。

 若し将来正道(しょうどう)を成就でき肉体を離脱した暁には、誓って三界十方を駆け巡って衆生や萬霊の苦厄を度(ど)し、声を聞いては救苦救難を果たし、世人をして正覚に帰せしめたいと存じます。弟子のこの決定心(けつじょうしん)は、佛門の真旨に合いましょうか」

 老翁は、深く頷いて言いました。

「そなたの固い決心は、大乗菩薩道を成就する人の言葉だ。なるほど、深い来歴は争われないものである」

「御尊師様。どうか佛道の真髄、如来の真実義と正法(しょうほう)を証(あ)かさしめ、吾が心霊を一切苦より解脱する法をお伝え下さい」

 老翁は、大師の初一念に感じ入り、徐(おもむろ)にそして厳粛に大師に道を伝え、佛道最上・最勝の妙法を授記されました。

 涅槃妙心(ねはんみょうしん)・正法眼蔵(しょうほうがんぞう)の機を明かし、以心伝心・心印神通の奥義を授け、教化別伝(きょうげべつでん)・真言秘咒(しんごんひじゅ)の口伝(くでん)を受けた大師の心は、極楽に昇ったような歓喜と感激で打ち震えました。今まで探し求めていた、真法奥玄(しんぽうおうげん)を得たのです。捨身して求めていた正法です。佛道最高の極法を得た大師の満身からは、光毫が輝きました。ここに改めて大悲願をたて、必ず終始一貫永劫に佛陀の得賜った心伝を奉じて衆生済度を心から誓われました。

 老翁は更に保母と永蓮に真経を一巻ずつ授け、終身肌身離さずに所持し、大師を守護して菩薩道を行ずるよう論されました。二人の感激は、まさに頂点に達しました。大師に従って修行を決意したことが正しかった、その労がいま報われ、その苦がいま補われた、保母と永蓮は今までの辛苦も忘れ、限りない悦楽に浸りました。

 長眉老翁は授記を終ってから大師に向かって、大師の前歴は慈航尊者(じこうそんじゃ)であって、今世はその転生である事実を打ち明けました。大師はこれを聞いて驚くと共に入世の本願、弘誓の甚深を痛感し、責任の重大さを一層強く自覚しました。老翁は、更に言葉を続けました。

「そなたの世に尽くす任務は重大である。ここから帰った後も更に修業を積み、一日も早く成道できることを望んで已まない」

「御尊師様の御慈悲で道を得られ、長年の夙願(しゅくがん)を果し得たことを感謝申し上げます。最後に、一つ伺いたい事がございます」

「何事であるかな」

「実は昔、私がまだ宮殿に住んでいた頃、多寶国の行者ルナフールが参って、須彌山に白蓮があり、それが弟子に深い因縁があるとの事で、父王はカシャーバを遣わしたところ事実これがあったとの事でした。いま見廻したところ、その白蓮が見当たりません。尋ねた場所が違ったのか、或いはもう既に無いのでしょうか。実は弟子が父王の逆鱗に触れ花園に貶(おく)られた時、御尊師様が来られて須彌山の白蓮を得よとの御指示がありました」

 これを聞いていた老翁は、笑いながら言いました。

「そうだ。確かに白蓮はここにあった。カシャーバにも、麓で変化して見せた筈だ。そうしなければ、国中の医者が流離辛酸の苦しみを受けたであろう。だが今は既に南海普陀(なんかいふだ)の落迦山(らっかさん)に移り、蓮台と化している。残念ながら、既にここにはない」

 大師は一瞬失望の色を見せましたが、直ぐに気を取り直して訊きました。

「弟子にその白蓮が得られるでしょうか」

「白蓮を得る時と坐する時と二つあるが、今日そなたは既にその白蓮を得たのである。その証拠に、そなたの額を見よ。瘡痕(きずあと)は綺麗に癒(なお)っている。白蓮に坐するには、時期尚早である。それは、そなたの塵劫が未だ満ちていないからだ。此処から帰った後も更に霊光の純熟を修め、機が熟したら無漏法性の妙身、清浄の常なる体を得、世音を観じ菩提薩埵(ぼだいさった)を証せられる。その時には、普陀落迦山の蓮台に坐することができよう。かの紫竹林(しちくりん)こそ、そなたが菩薩を成就して鎮座する場所であり、化身済世の根拠地となる」

 大師は、感激に身を震わせて泣きました。保母と永蓮は期せずして大師の顔を見上げると、神々しく美しい大師の額からは瘡痕が完全に消えていました。老翁は、諄々と説きました。

「しかし、そなたが涅槃に入る場所は、耶麻山の金光明寺でなくてはならない。それは一般の民衆に肉眼を以って見せ、耳音を以って聞かせ、一人でも多く法門へ帰依させ、一切の苦厄を免れさせるためである」

 また、保母と永蓮に向かっても言いました。

「そなた達の正果成就の縁は、まだ至っていない。しかし最後には、菩提を証するであろう」

 二人は、感激して嗚咽するばかりでした。

「弟子の涅槃に入る時期をお教え下さい」

 この大師の言葉に老翁は、一個の白玉の浄瓶(じょうびん)を取り出して、それを大師に手渡しながらこう言いました。

「この浄瓶をそなたに授ける。これを持ち帰って、鄭重にお供えするのだ。やがてこの浄瓶の中から水が湧き、楊柳(ようりゅう)が生えて来るであろう。よく注意するがよい。その時は、そなたが成道し涅槃に入る時である」

 大師は授けられた寶瓶を両手で捧げ、押し頂いて礼拝しました。

「これで、総てを語った。汝等に言った事を忘れてはならない。道中留意して帰りなされ」

 老翁の別れの言葉に、大師は慌てて言いました。

「尊き御指点、御教示を賜り、この御恩は永遠に忘れません。まだ御尊師様の御尊名と御法号を伺っておりません。どうか、お聞かせ下さいませ」

 老翁は、微笑しながら首を振りました。

「今は。言わないでおこう。いずれ分かる時があろう」

「しかし、もうお伺いする機会が無いと思いますが」

「いや、機会は何時でもある。将来必ず分かる時があるから、早く帰るがよい。一刻の猶予は、一刻の成就を遅らせるだけだ。帰路には、色々の魔難に気を付けるがよい」

 大師は再び老翁に会える日を望みながら、庵を辞去することにしました。寶瓶を大事に包んで黄色の荷袋に収(しま)い、改めて老翁を拝み、保母と永蓮を連れ、名残を惜しみつつ帰路につきました。

 

この観世音菩薩の御真影は、砂盤を通じた予告どおり千九百三十二年十二月吉日、中国江西省東部の上空獅子雲中に示現されたものです。指示された時間と場所の空中に向けてシャッターを切った数十台のカメラの一つに、この映像が撮影されていたと伝えられています。これは妙善大師が昇天入寂された時、すなわち観世音菩薩として成道された時のお姿です。従って成道後の尊称は、大師から菩薩に変わり、菩薩道を極めた人の最高位となられました。

第43話 大師の一行、無事金光明寺に帰る

 苦労苦難の連続だった道も帰路となると、不思議にも疲労が感じられません。大師は、大師の帰りを待ち侘びている途中の村里に立ち寄り、約束どおり説法し菩薩道を広めました。須彌山に行くときに比べて、その毫光の輝きは驚くばかりです。大師は、正法一切を悟得されたのであります。如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘蔵の要、如来の一切の甚深の道を得道されたのです。欣喜雀躍とはこの事か、北天竺の地に大師の大足跡が記され、法の華を咲かせ、法輪の大転を見ました。民衆の熱狂的大歓迎は、極度に達しました。興林国の道に甘露と法雨を降らして衆生を潤しながらも、三人は大きな至寶を得た喜びと重大な仕事を果たした快い気分が艱難辛苦を吹き払ったのでしょう、幾多の魔難と闘いながら道を急ぎました。

 ある日、とうとう興林国の国境まで帰って来ました。恐らく途中で宿泊した村やの人達の善意の注進で知ったのでしょう、国中の民衆は仕事を休み、歓迎一色となって大師を迎えました。勿論、金光明寺には早飛脚が走りました。大師の通る村々は、歓迎の人々で埋まりました。中には大師の跣足行脚を見て痛ましく感じ早速新しい草鞋を差し出す人もあったが、大師は鄭重に断りました。また千辛萬苦を経た大師を気の毒に思い駕籠を雇ってきた人もあったが、それにも乗らず、保母と永蓮を従えゆっくりと歩きました。群衆の歓呼の声に大師は合掌していちいちこれに応えながら、金光明寺に向かいました。

 金光明寺では、多利尼、舎利尼ら比丘尼一同は大師のお帰りを知り、躍り上がって喜び合い、早速歓迎の準備に取り掛かりました。やがて大師の到着時刻が迫ると、比丘尼達は正装して、鉦鼓音楽吹奏の人々共に山麓に下り整列して大師のお出でを待ちました。山麓一体の信者もこの日のために仕事を休み、今か今かと大師の到着を待ち望んでいます。群集は耶麻山麓を黒山のようにして埋め、人また人の波で一杯です。

 やがて遠くのほうからざわめきが起こり、それが津波のように伝わって来ました。大師御一行のお姿が現れたのです。「大師様だ」「大師様がお帰りだ」この声が伝わるや、今まで行儀よく道の両側に分かれて待っていた群集は、列を乱して走り出しました。多利尼も舎利尼も駆け出して行って誰よりも先に大師の顔を見たいのですが、それも出来ず、じっと我慢して天王殿の前で待ちました。

 太鼓の音が一斉に響き鐘の音が鳴って、笙楽の旋律が緩やかに奏でられました。群集の賞賛と歓声は益々大きくなり、その群衆の中から、大慈大悲に満ちた優しい大師のお姿が見えました。保母と永蓮を従えた大師は、静かに天王殿の正面に進みました。多利尼と舎利尼ら比丘尼一同は、跪いて大師を迎えました。多利尼が一同を総代して、迎えの挨拶を申し上げました。

「大師様。お帰りなさいませ。永い間の御苦行、さぞお疲れでございましょう」

 ここまで言うと多利尼は、懐かしさの余り涙が先に立って、それきり声が詰まって言葉が出ません。大師は、微笑して言いました。

「永らく留守を務めて、ご苦労さまでした。皆の衆に代わって無事、須彌朝山の役目を果たすことが出来ました。これも、皆さんのお陰です」

 群集に向かっても、合掌し感謝しました。大師の言葉が終るのを待ちかねたようにして、保母が言いました。

「皆さん。お喜び下さい。大師は正法の道を得受なされ、無上正等正覚・菩提薩埵の正果を得給われました」

 感激に震えた声に、群集は一斉に歓声を上げ、誰からともなく大地に五体を投じて大師を伏し拝みました。

 出迎えていた舎利尼は、涙の顔を上げて大師の顔を見ました。旅の疲れか少し痩せていられるが、前にも増して神々しく威厳に満ち、眩いばかりの回光(えこう)が返照するようです。本当にお変わりになられた、大師は菩薩道を成就されたのだ、とうとう大師は世衆萬代の応供(おうぐ)に足るお方にお成り遊ばされた、舎利尼は幼少の頃からの大師の長い御苦労の数々を想い浮かべ、萬感込み上げて涙が溢れるばかりでした。

 大師は群集の祝賀の声に包まれながらも慈容を変えず、洗足を済ませて天王殿を礼拝した後、懐かしい大雄寶殿に入り、彌陀と佛陀に香を献じて無事に帰寺したことを告げました。そして行脚の疲れも見せず直ぐに法堂(はっとう)に行き、喜び溢れる群集を前に帰寺第一回の説法をしました。法堂は立錐の余地もないほどの満座でしたが、誰もが大師の言葉を一言も聴き洩らすまいと、静かな中に緊張しながら耳を傾けていました。

 大師は行脚の途中で起こった数々の出来事や事蹟について話しながら、解り易く佛理を入れて説明しました。群衆は手に汗を握り、感動に身を震わせ、喜びを一杯に表わして終始熱心に聴き入っていました。大師の説法が終ると保母と永蓮が代わる代わる大師得道の様子や、浄瓶授与の状況について話しました。群集は心から佛翁の御慈悲に感謝すると共に、浄瓶に水が沸き、柳の芽が出るように祈りました。しかしその反面、そうなれば大師とお別れしなければならない、という気持ちもあり、喜びと悲しみ、嬉しさと寂しさが入り混じり複雑な表情を隠し切れませんでした。

 大師帰寺の噂と共に得道の事実も国中に伝わり、民衆は益々大師に対する尊敬と崇拝の念を高めました。

続く・・・


観音菩薩伝~第8話 妙荘王、ルナフールを罰す。第9話 妙善姫、修行に専心する決意を固められる

2016-03-07 07:11:13 | 観音菩薩伝・観音様

2015年8月31日

第8話 妙荘王、ルナフールを罰す

 カシャーバは、一隊の精鋭を引率して興林国に帰り着くと、同時に意外な消息を聞いて驚きました。それは、慈愛深い王妃宝徳妃の逝去でありました。前々月の十九日の夜に世を去れたことを聞いたカシャーバは、指折り数えてみたところ、ちょうど逝去の日が須弥山で白蓮を見付けた日と時刻までもが一致していたことを知りました。
 これは、不思議なことだ。こんな二つの大事件発生の日時が完全に一致するのは、そこに何かの因縁があるからに違いない。これは只の偶然の一致ではないと思い、カシャーバは兵士たちを兵営に帰舎させるや、休む間もなく急ぎ宮殿に参内して復命しました。
 妙荘王は悲しみに暮れていたが、カシャーバの帰りを心から待ち望んでいました。カシャーバは先ず心から王妃の逝去を悼み、続いて道中の苦難、沿路の険阻から雪中に白蓮を発見した顛末を一部始終報告しました。
 妙荘王は、妃の逝去で心中が愁傷で顛倒していた丁度その時に白蓮の消えたことを聞いて更に驚き、胸を掻きむしられる想いでした。無理に笑顔を繕って、カシャーバの労を慰め犒いました。雪連峰の奇蹟が事実と解って悦ぶべきところであるが、妙荘王の心は鉛のように重く、苦悶に塞ぎ込む一方でした。それは、他ならぬルナフールの事です。

 ここで話は少し前に戻りますが、カシャーバ一行が出発した数日後、妃が急に病を患いました。初め自覚症状はなかったが、ただ精神的に気分が勝れず、それが日の経つに連れて重くなり、やがて終日昏睡状態が続くようになりました。時に覚めても人と話すのを好まず、話をしないとまた眠ってしまうので妙荘王は不思議に思い、宮医を召し入れて詳しく診察させました。
 ところが驚いた事に、六脈が全然ありません。医者を換えてみたが、みな異口同音に何の病状かも判断が付かず、従って薬の調合の仕様もありません。妙荘王は慌てて諸大臣を招集し、このことについて相談しました。アナーラは前に進んで、
「先日、ルナフールは医薬を研究していると聞きましたが、老臣の見たところ、彼には相当の来歴があるように感じられます。何か特別な才能があるかも知れません。今は軟禁中ですが、彼を喚問して診させては如何でございましょう。もしかすると、王妃様の奇病を治すことが出来るかも知れません」
「これは、よい事を思い付いてくれた。直ぐ此処へ喚べ」
と、自衛官にルナフールの召喚を命じました。
 妙荘王は、ルナフールが登殿するや否や急き込んで
「汝は、妃の病気を治すことができるか」
するとルナフールは
「脈を診て始めて、治せるか否かが分かります」
「それでは直ぐ妃の症状を診てくれ」
 妙荘王は、侍女に命じてルナフールを宮中に案内させました。小半時ほどしてルナフールが殿内に戻って来ますと、待ち焦がれていた王は早速尋ねました。
「どうであったか」
 ルナフールは、首を横に振って
「もう、いけません。王妃様には、六脈が全くありません。これは即ち魂が昇り、魄が降った徴候です。初めに手を執りました時に、已に六脈は絶えていました。後で詳しく計りますと、微かな一縷の気脈しかありません。それが、止まったかと思えば亦動きます。直ぐに危険はありませんが、目下のところ神魂は已に躯から離れています。寿命は、恐らく七日間を超えることがないと存じます」
「それは、如何なる理由によるのか」
「それは大概の場合、前世の罪が未だ果たされていないため、なお幾日か床の間での災いを受けなければ、気が絶えることはないということでございます」
 妙荘王は、この事を聞いて腸が寸断され、心は針で刺されたようで、涙が止めどなく頬を流れました。
「王妃のこの患いは一体何の原因から起こったのか、何とか癒す方法はないのか、どのような犠牲でも払うから、妃の命だけは助けてくれ」
 妙荘王は、哀願にも似た悲しい声を上げました。ルナフールは嘆息して
「王妃様の病気を治すには、お釈迦様の家薬である炉内の丹薬を得て厚生する以外に方法はありません。王様、万に一つの希望も持たれますな。それよりも、早く王妃様の後事をご心配なされたら如何でしょうか」
 妙荘王は、哀しさを堪えて
「果たして妃は、何の病症に罹っているのか。遠慮せず、余に答えるがよい」
 ルナフールは、屹と頭を挙げ、じっと妙荘王を正視して
「この病気の起因は、短い期間に作られたものではありません。実は、人としてこの世に転生し、智識が開かれるに従って、喜怒哀懼愛悪慾の七情を内に感じ、色声香味触法の六賊がこれを外へ誘い出します。それによって凝り固まった人間の精・気・神を擾し、これを擾乱分散させてしまいます。故に人生は、短い一場の春夢の如くになってしまいます。長寿と言いましてもせいぜい百年に過ぎず、精・気・神が完全に散失した時には永眠を免れません。況や王妃様は高貴の身分にお生まれになりましたので、表面は何事も常人より好いようですが、その実七情・六賊に冒される度合いも大きく、常人より凶悪で精・気・神の崩壊も特に早いのでございます。常日頃、妄りに殺生して口腹を充たしたがためにそれが悪業となり、このような病床の災いとなったのでございます。只、業の満ち了るのを待って気は絶たれましょう。もし強いてこの病を名付けるなら、『七情六慾症』と診断できましょう。治癒の方法は、絶対にございません」
 妙荘王は、聞き終わるや否や、怒髪当に冠を衝き大声で叱責しました。
「狂人奴が、口を慎め。汝はこの奇病を治し得ないならそれでもよい、よくも大胆にいい加減な虚言を造って自分の愚庸を掩い隠し、国母を侮辱したものだ。こんな者は、許して置けぬ」
 そう言ったかと思うと、左右の護衛官に向かって
「この小賢しい奴を雁字搦めに梱縛して、一刀の下に処刑せよ」
と声を震わせて命じました。両側の護衛官は、これを聞くや一斉にルナフールを取り押さえ、結び目を固く縛り上げ刑場へ連行しました。刑の執行官は、寒気人に逼るような鋭利な剣を持って刑場で待っていました。そこへ護衛官がルナフールを引き摺り出し、土下座させました。
 妙荘王が高台で処刑を待っていたその時、突然アナーラが急ぎ大股で入って来て
「王様、暫くお怒りを収めて老臣の話をお聞き下さい。ルナフールの無礼は誅するに値しましょうが、只今王妃様は危篤状態で、正に生死の境を彷徨っておられます。なお一つの良い療法も考えられないで、徒に殺人を行うことは甚だ宜しくありません。老臣の愚見によれば、それより彼を赦して、別に王妃様のご病気を治す良策をお考えになられたら如何でございましょう」
 妙荘王は、不満ながら一理ありと考え直して
「老卿が替わって命乞いをしたから、特に卿の顔を立てて赦してやろう。ただし死罪は赦しても、活罪は赦す訳にはゆかぬ。彼を二百の大棒の刑に処し、牢獄に禁固して罪に服させよ」
 アナーラは
「只、彼の命を赦していただきさえすれば、その上何を申しましょう」
と王の恩徳を謝しました。
 武官は、ルナフールを縛り地に倒し、続いて大棒を振るって二百打ちました。傷口から鮮血が吹き出し、体中が紫色に腫れ上がったが、ルナフールは呻き声一つ上げません。大棒二百の刑を終えた後は、死刑囚の牢獄に押送して両手に手錠を掛け、両足を鎖で縛り、首に首枷を嵌め、扉を釘で固く打ち付けました。正しく活地獄の刑法です。
 ところが第六日目の夜、獄官がルナフールの牢獄を調べに来て愕きました。ルナフールの姿形が、跡形もないのです。手錠や鉄の鎖や枷が剥ぎ取られ、それらが一面に散らばっているだけでした。獄官は慌てて牢役人を集めて訊問したが、みな異口同音に
「先刻までは、固く鎖に縛られていました。彼は重犯なので、私たちは更に大紐で頭髪を括って高く吊っておきました。門も開かれず、戸も開けられていないのに、どうして逃走できたのでしょう」
 不気味な空気が漂って、一同は灯火を翳して牢内を隈無く捜しましたが何の痕跡も見付かりません。獄官が事の重大さを察して急ぎ執刑大臣に報告するや、執刑大臣は事態の大きさに肝を潰して、深夜に関わらず急ぎ参内して妙荘王に奏上しました。ちょうど妃の事で会議を開いていた妙荘王は、焦燥と憂悶で気が立っていた時なので、一時に怒りが爆発し
「即座に執刑大臣を解職し、獄官を斬首して、後の戒めとせよ」
との旨を宣しましたが、心の中では早く誰かを派遣してルナフールを捜し出さねばならないと考えました。その時宮女が慌てて登殿して地に伏し
「申し上げます。王妃様は、たった今ご逝去遊ばされました」
妙荘王は、一瞬眼の前が暗くなり暫く呆然としていたが、急に立ち上がりルナフールの事も忘れて足早に後宮に入って行きました。
 王妃は医者たちが手を束ねてから日一日と病状が重くなり、薬石効無く九月十九日の夜遂に息を引き取ってしまいました。
 妙荘王は、声を上げて慟哭しました。妃の死は妙荘王にとっては大打撃であり、悲しさと孤独がヒシヒシと胸に迫りました。王妃の内助の功は妙荘王の善政に関わりが深かったため、あたかも自分の親を失ったように啜り哭く声が家々に聞こえ、国民はみな優しく慈愛に満ちた王妃の死を悼み悲しみました。

第9話  妙善姫、修行に専心する決意を固められる

 姫が怪我をしてからと言うもの王妃は、姫の挙動には格別の注意を払い、常に四・五名の宮女を身辺に侍らせて保護させ、閑なときでも姫が外へ遊びに出るのを制限しました。宮女達には、姫と一緒に危険な遊びに同調したり相手になった場合は厳しく罰すると命令しました。
 姫は宮女達に迷惑が掛かっては自分の罪になると思って、温和しく宮中で坐行に励み、常に瞑想し、書籍・経典を読み耽って、閑な折りには二人の姉姫と琴を奏でて共に寂寞を慰め合っていました。
 暫くは何事もなかったが、図らずも母君が重病を患ってしまいました。その時姫は僅か七歳でしたが、夙根深く、天性厚く、母君の疾病を見て万々の焦慮を感じ、孝心深く終日神仏に祈願し天地に救いを求めました。
 姫・妙善は、母君の病気中、昼夜を分かたず身を介抱に尽くしました。
「どうぞ、私の寿命を短縮してでも、母君の寿命を延ばして上げて下さいませ」
しかし姫の祈る厚い心に関わらず、王妃の病は日々に重くなるばかりでした。姫は甲斐甲斐しく薬を献じ、茶湯を上げるなど、母君の身辺一切は自分の手で面倒を見ました。王妃が何時目を覚ましても、常に姫は側にいて離れず看護を尽くしました。母君の苦しみを見かねて姫は、更に願を掛けて祈りました。
「一生を弥陀に帰依し、衆生を救いますから、どうぞ母君を延寿させて下さいませ」
姫は悲壮な覚悟で祷りましたが、王妃の病状は日ごとに悪化する一方で、死期が日一日と逼っていました。九月十九日の夜、王妃は力なく眼を開け、側に座っている妙善姫の手を執って
「吾が心の姫よ。母は、そなたの成長を待つことが出来ません。中途でそなたを捨てて別離して行くのは、真に忍びないことです。だが母が死んだ後、そなたはよく父君にお仕えして、決して拗ね逆らってはなりません。父君の感情を損ねないように、母の言うことをくれぐれもよく聞くのですよ」
 ここまで言って王妃は嗚咽で言葉が続かず、両頬には二筋の涙が流れました。この母君の臨終の際に残した遺言は、姫の小さな心を針で刺し、刀で腸を抉られる思いでした。熱涙は止めどなく流れ、悲哀の情が高まって目先が一瞬真っ暗になったと思うや、床上に昏倒してしまいました。その瞬間に、王妃は遂に永遠に去って逝きました。
 姫は介抱されてやっと気が付きましたが、王妃の逝去を知らされるや、一層激しく身を震わせて慟哭しました。食事も碌に喉を通らず、七日七夜、室内に閉じ籠もり嘆き悲しみました。最も親愛する母君に去られた幼女の心は、哀れというほかありません。
 しかし、この哀哭の中に、姫は一つの霊機を悟りました。所詮人の世は常ならず、生あるものは必ず滅し、有為は転変して栄枯盛衰・離合集散は限りがない。如何に愛する人であろうとも、遅かれ早かれ別れなければならない諸行無常を、姫はこの時切実に身を以て体験しました。
 高貴な身分の母君でさえも死ななければならないのに、況や一般の衆生においておや、例え王座・権力を有する父君であろうとも、この問題に対する解決方法は見出せないでしょう。人間は誰しも、立場と環境に合わせて、その器なりの悟りに到達するものでありましょう。姫は、密かに想いました。
「母君は、私を生み育てて下さった、どれほど御苦労を重ねて今日まで撫養愛育して下さったことか。この厚い恩徳に対して少しも報うことが出来ないままに、母君は私を棄てて往かれた。私の罪は、非常に重いに違いない。王女の身分でありながらこんなに苦しいのに、一般の人はもっと苦しいに相違ない」と。
 姫の想いは、いよいよ深くなっていくばかりです。この罪を滅ぼすにはどうすればよいのか、姫は一つの問題を真剣に考え始めました。ある日姫の心の中に、大きな閃きが感じられました。
 慈悲深い弥陀とその証者仏陀の得られた道に一心に帰依して、救いを求める以外に方法はない。仏陀が求められた心法は、三界十方を超越して一切の苦厄を救い、九玄七祖共に極楽浄土に返らせる大法力である。今直ちに罪を懺悔して修行を志せば、必ずや一条の光明があるに違いない。よし、決心して身を棄て、仏門に帰依しよう。そうすれば、母君の高恩大徳に報いられるに違いない。母君を救うには、私の功徳が是非必要である。そう決意した姫は、宿願が実現するまでは、この事を誰にも言うまいと心に決めました。
 その日から姫は、終日経典の参悟に没頭し、礼拝に努め、長い光陰を総てこの中に費やしました。はっきりした目標を定め真の生き甲斐を得た姫は、魚が水を得たように心から歓喜し、日一日と磨きを掛けるに従い、その成長と進歩は驚くばかりでした。
 あらゆる経典を克明に読み、丹念に調べ、経義を細密に参悟しているうちに仏陀の真髄が分かってきました。悟れば悟るほどに真実を極めた玄妙の理は、姫の心を捉え、姫の全霊を傾倒させるに到りました。
 姫は瞑想・参悟が進むに連れて、仏陀の得られた道に一つの大事を悟りました。それは、今まで仏陀の得られた道であろうと信じ奉じて進む僧侶達に大きな誤りがあったことです。誰しも徒に形式と念経に力を注ぎ、心の伴わない戒律と勤行を科し、仏陀の得た法と全く遠く懸け離れた行法をしていたことであります。
 更に姫の心中に一つの思索が纏まり、結論に到りました。
「一般の信仰を見るに、ほとんどの者は現世の利益を願い、物慾の満足を条件に帰依して行を修めている。涅槃の道を得るには、そのような心掛けではとても到れるものではない。仏陀の真宗は、永遠に霊的の逍遙自在を得るものである。生死の輪廻を断ち切るには、それらの雑念と慾情を棄てなければならない。棄てなければ更に因果を造ってますます輪廻を余儀なくされるはずで、この繰り返しは尽きない」
 姫は亦、仏陀の真伝は教外別伝であり、一般に信奉されているのは形式的なものであり、真髄ではない。真髄は不立文字であり、どんな経典にも載っている筈のないものであることを発見しました。この事を悟った姫は、今度は一途にその法を得たいとの念に駆られてきました。姫は一心不乱に繰り返し経典を入念に調べ尽くしましたが、心霊を打つべき真髄はやはり何れにも載っていません。姫は、その至上教法を悟得したいと心中に念じました。
「仏・法・僧の三宝は、別の意義があるはずである。仏が求め得た法であって、仏の法であってはならない。法を得るための僧でなければならない。法は眼で見分けが出来るものではなく、全霊に刻み込まれるべきものである。私は、それを得たい。経典はそれに到達する路程を単に指示するだけのものであって、別伝の心法は明師によって得ない限り目的を達することができない。奇蹟も同じく手段であって、真の極楽は空寂無一物、無慾無色の境界でなくてはならない」と気付きました。
 すると姫の口からは、自然と金剛経の一偈が詠まれました。
  若以色見我    若し色を以て我を見んとし(あるいは)
  以音声求我    音声を以て我を求めば
  是人行邪道    是の人は邪道を行ずるものにして
  不能見如来    如来を見たてまつること能わざるなり。
 ここに至って姫は、最高の道を求める決心を固めました。将来、宿願は必ず果たされる。もし私が真法を得た暁には、その法を衆生に施し、行者達を啓蒙したい。と悟った姫は、大きな希望に胸が膨らみ、限りない喜びが湧いてくるのでした。
 天は、常に善き人の路を絶やさず。姫の修行は、幸運にも、亡き母君の妹、つまり叔母である保母の大きな暗助によっていよいよ蕾が膨らんできました。保母も信仰に厚く、姫のよき理解者であります。保母は早くから夫を亡くし、以来ずっと姫の撫育に尽くし、姫の居る所には必ずと言って良いほどに保母が付き添っていました。この保母の温かい心尽くしは、姫にとって満貫の力であり、二人で一緒に坐行し、日夜参悟に努めました。
 姫は相を借りて理を悟らせる譬喩表現に優れていたため、保母は姫の経典講義には常に心霊を傾けて聞き入りました。実際、姫の説法は驚くばかりに宮女達を感動させました。道理・道義を講ずれば奥理に徹し、その雄弁は止まるところを知らず、端座瞑想はいよいよ円熟を極めてきました。
しかし、二人の姉君は逆に冷たい眼で姫を見て、暗かに妹姫を気狂扱いにし、妙荘王に度々告げ口しました。
「一国の王女として生まれながら、富貴栄華の福禄も受けずに、神仏ばかりに妄想していると却って国中の人々から笑われます」
 妙荘王はこれを聞いて顔は曇らせたが、多忙のため姫を見に来られず、心では母君を亡くした淋しさに一時的に気を紛らせ心を慰めている、ぐらいにしか考えていませんでした。当時、仏陀に帰依する人は貧賤な身分か、身寄りのない老婆・老人が殆どでした。その他疾病に罹った人とか寡・孤独者、あるいは生活に痛め付けられた人達で占められ、このような者たちが至る所で托鉢を持って家々を乞食して回っていたため、王家はもとより、良家の子女で仏門に帰依する者はありませんでした。
 仏門に帰依する者たちはむしろ軽視されていた時代であったため、姫が身を棄てて仏陀に帰依することを聞いたら、妙荘王は気も顛倒するばかりに驚き怒るに違いありません。王の面目と名誉と権力に掛けても、必ず姫を制止することは明らかであります。
 善悪に関わらず事実は何時の間にか伝わるもので、姫の修行は何処からともなく全国の仏道を信奉する信者に洩れ伝わって行きました。殊に尼僧達にとっては百万の味方を得たよりも心強く感じられ、人々は躍り上がるほどにこの事を歓迎しました。今までが世間から良く見られていなかっただけに、大きな光が人々の心の中に点じられました。