道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

道の淵源~達摩大師伝『下巻』(五)

2014-08-12 01:53:14 | 達磨寶巻

達摩大師伝『下巻』(五)  

今回は、前回の最後に掲げた『偈』に続く一行が抜け落ちていましたので、その『偈』の部分から掲載し直しました。

 『双林涅槃、知る人少なし。

  知音は誰ぞ皈依を願わざる。

  若し、また帰空の記に遇り得れば、

  輪廻を免れ得て天梯に上る。

  路頭を一歩一歩前に進み行く。

  西辺の松竹は麻林に似たり。

  道路の埼嶇(きく。凸凹)は、須く仔細(注意)すべし。

  ひとえに彌陀を明らかに証する事となさん』

「修道の人の霊光は、何処に行きますか」

 (四)得道者の帰家寶偈

「現在の修道の人は、霊光が落ちるところが四大に分かれることを知らなければならない。その間に到って進み歩むに、門なく身を退けるに道もない。一度幻躯(げんく。肉体)を離れれば、仔細に路を認めなければならない。

 道には三條あって、一條は光明の大路であり、一條は暗黒の小路であり、一條は青苔の幽路(くらいみち)である。天宮(理天)への正しい路は中央にあり、黒い道は左に、青苔の幽路は右にある。大柱を撩(かす)め、杖を執って立てば一座の須彌山がある。続いて、一座の般若台がある。ここから相離れて行程の遠くない所に行けば、金剛が路を阻むのを防がねばならない。その時、意馬を牢(かた)く拴(と)ざすべきである。念頭を緊しく固くし頭をもたげて見れば、そこに一枝の楊(やなぎ)が垂れている。下に盤陀岩の一峯があって、一時坐ってから始めて行くがよい。遥かなる所に一座の石橋を望み見ることができる。これを羅漢橋と名付ける。この橋の長さは五十里あって、ここを数里過ぎると人が居なくなる。また、一座の金橋を見る。この金橋は一萬三千里あるが、有縁の君子は決して恐懼してはならない。この橋を名付けて趙州橋と言い、三分の濶(ひろ)さしかない。ここを一断されると、寸歩も歩くこと適わない。煩悩妄想を除き尽し、頭を振り返って見てはいけない。過去の昔の事を思ってもいけない。端坐して、念頭を堅固にしなければならない。更に猛勇を加えるべきである。

 橋が断たれて道が尽きると、別の道があって逍遥できる。忽然と金鶏が、盤上へ飛んで来るのを見ることができる。坐り終って、何処から彼岸に行けるのか再びよく見て、四方に道がなくても煩悩を生じさせてはならない。

 三日間坐定(ざじょう)せよ。さらに念頭に堅固を加えるべきである。そうすれば一対の青衣を着た童子が、手に符旗を持って接引に来るのを見ることができる。脚に銀梯を踏み、一歩一歩登って天台に到る。第一に霊官寺に到る。ここで、古佛世尊に散見する。親しく授記を蒙って吩咐(ことづけ)を受ける。また此処から二十里行くと、上下の雲城から無煩の天宮へ到る。門があって両扇があるが、これは鉄灌の中で純鋼によって結成され渾風も透さない。この門前で塔査して、号を合わされるのである」

「ここで得たところの、正法の眞偽を確かめられるのですか」

「然り、ここで汝が来た場所を問われ、明らかに考察してから始めて中へ進むことができる。ここで、必ずこう言われるであろう。

 『この地は非凡であるのに、どうして濫りに入ろうとするのか。もし事無くして往来すれば、輪廻に打ち入れられるであろう』

と、その時はこう答えるがよい。

 『私は、別人ではありません。即ち、嬰児が家に帰って、無生ラウムを参拝に参りました』

と、するとまた、こう問われるであろう。

 『汝の姓と名は何と言うのか。

  何時父母と別離したのか。

  汝は今、どちらへ行こうとするのか。

  何事をしようとするのか。

  今日、どうして家に帰ることを知ったのか』

 その時汝は、一々始めから詳細に説かなければならない。それが正しければ汝を中へ入れ、もしも一句でも差や錯りがあれば決して情をもって容赦されないであろう。その時、帰って来た嬰児はみな、このように答えるべきである。吾から汝に言って聞かせよう」

 そうして大師は、偈に示されて次のように言われました。

「無生ラウムに啓白す。細かく児の稟(りん。請願)を聴かれたし。

 小皇胎、東土より転じて西庭に転回(かえ)る。

 従前、家郷にありし先天の光景を想うに、

 金銀の階(きざはし)、玻璃の地、受用は心に随う。

 無始(寅の會)より東土に下り、眞性を迷い乱す。

 紅塵の内に墜落して六萬余冬(年)。

 酒色を愛し、財寶を思い、生死を知らず。

 生まれては死し、死してはまた生まれ回程(かえるみち)を暁(さと)らず。

 忽ち末刧の到るを聴き得て、師の指示を蒙る。

 口訣を求め単傳を領し、始めて超昇を得る。

 因って、この上に夢中の双父母を思う。

 凡情の境を取り去って始めて双親に見(まみ)ゆ。

 無生ラウム、親しくこれを聴いて双眼に涙流し痛む。

 無生ラウム、嬰児の両眼に涙長く傾(つた)わるを見る。

 老眞空、寶蓮の台上に端坐す。

 喚呼を聴きて、父母と共に大きく悲声を放つ。

 老眞空、忽ち嬰児の叫喚を聴き得て、

 金童を差し遣わし、瓔珞を執りて金門に接し進む。

 小眞空、娑婆にありて故里に帰還す。

 今日、来たりてラウムに見(まみ)え、慟哭傷心す。

 紅塵の境を捨て去れば、玻璃の世界なり。

 雲城に進み、金の沙地に独り尊しとなす。

 十二重の鉄門ありて、渾風も透さず。

 八金剛、路を遮りて衆生を拷(せ)めて問う。

 『いかなる年にラウムと離れて、苦海に懲りるや。

  凡世に転じ、娑婆に住みて幾萬余春。

  いかなる年に斎を吃し、回心して善に向かいしや。

  いかなる年に正教に帰り、いかように修行し、

  明師を拝したるに、他(彼)汝に如何なる寶号を教えしや』

 汝に説くに

 『これ、如何なる道理、經文にして、

  如何なる佛にして彼岸に登り得たるや』

 吾、汝に問う。

 『ラウムを何人と叫(よ)ばん』

 汝、吾に仔細に説かば、汝を放ちて進み去かす。

一句の差、錯あらば、定めし容赦せず。

 小眞空まさに言葉を説くに、金剛これを聴く。

 『汝、吾に始めから終りまで細かく原因を説きて聴かしめ給え』

 無始(寅の會)より故郷を離れ、眞を迷わし妄りを追う。

 東土にありて紅塵に恋し、年春を記さず。

 涙、海の如く、骨、山の如きも転化を知らず。

 終日の間、快楽をはかり生死を想わず。

 張または李家に到りて、男または女となる。

 活(生)計をなし、産業を置(もう)け、心勤を費やす。

 生まれては死し、死しては生まれ、貧しくしてまた富む。

 翻復し来たり、また去れば、いずくんぞ閻君を躱すや。

 過ぎ去ればまた過ぎ来たり、新しきより苦を受く。

 酒色と恩愛に恋し、死するも心回(かえ)らず

 忽然の間に、覚(おも)わず心中に悟り得ることあり。

 始めて家郷に回るを思い立ちて、道を悟り修行す。

 再び汝に問う。

 『某年月に斎を吃して、善に向かいしや。

  某年月、正教に皈依し参じ、教うるは何人ぞ。

  汝の師父幾人あり。これ何の名号なりや。

  他、汝に如何なる法名を取りたるや。

  他、汝に彌陀を念ずるに幾字の寶号を教えしや。

  無生ラウム、大道の原根誰が汝に説くや』

 嬰児答えて

 『かの年より斎を吃し善に向かう。

  我に三師あり。曾て我が姓名を改む。

  我に傳うるに十字の佛、一字の法号あり。

  三皈を持し五戒を守り、道を悟りて修行す。

  我を導きて双林樹下の家路に帰す。

  十二時(つね)に無縫塔に永遠に身を安んず。

  塵情と嗜慾をとりて一概に掃き尽し、

  昼夜の間に勤めて採取し、前降後昇す。

  千花の台に老皇母(ろうこうぼ)、即ちこれラウムなり。

  老眞空、大法王は、これ我が皇爺(ラウム)の身なり。

  三関を透り、九竅を通ぜば無極の金鎖にして、

  紫金池(しこんち)に鑰匙(かぎ)を領して四門に開通す。

  眼に見えず耳に聞こえず、巍巍として動かず。

  心動かず意乱れずば、始めて金身(こんしん)顕わる

  法王、簿を打ち開けば一字の寶号あり、

  雲は散じて光明現われ、乾坤を照らし破る』

 老眞空、一見して双眼に涙流る。

 金剛を喚び

 『金鎖を開き、大いに金門を開け、

  嬰児、家に帰り来る。これ眞に我が子なり』と、

 神通と聖道を顕わす。貼骨これ眞の親なり。

 金童と玉女を喚び、斉しく楽器を備え、

 幢旗を打ち立て、寶蓋を排(なら)べ、金門に進み迎えらる。

 迦陵と頻迦(がりょう・びんが。ゴクラクチョウ)あり、共命の鳥なり。

 白鶴と孔雀は宣し、鸚鵡斉しく鳴(うた)う。

 両路傍に、諸々の菩薩各々香案(机)を並べ、

 蓮華の台に斉しく接迎されるは、我が児孫なり。

 小眞空、ラウムを見て、周囲を繞ること三度、

 ラウムに謝し、恩の光照りて皇親(ラウム)に見え得る。

 天香を散じて哀れみを受け入れ、金身を証すなり。

 老眞空、甘露を酒(そそ)ぎ、頂を摩して授記す。

 今後、このうちにありて長生を永続す。

 無生金蓮の台を証して不生不死となり、

 乾坤毀壊有るに任せども、われ自ら安寧なり。

 汝、小眞空に吩咐す。各々牌位に照らし、

 宗号を証し、宗派を認め楽しみ、穏やかに身を安んずべし。

 功の行ないを論ぜば、九品に分かち、安んじて位を極め定む。

 金生を証し正果を成じ、無生に相伴うべし。

 天人と菩薩ありて、常に供応す。

 仙花を散じ供養し奉り、刻々慇懃なるべし。

 また、来たらず去らず、逍遥自在にして、

 また、生ぜず滅せず、萬劫あれど常に存す」

 大師は宗横に、以上の帰家寶偈を述べて、将来末後の時に一人一人が家に帰る眞義を予め知らせ教えました。さらに宗横が修行の途中に週天の妙用が分からなくなるのを恐れて、再び偈にして指南いたしました。

続く


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