道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

道の淵源~達摩大師伝『下巻』(五)の続き

2014-09-12 02:21:17 | 達磨寶巻

(五)週天の妙用について  

「佛は霊山にありて妙經を講ず。

 五千余巻、衆生を度(すく)う。

 天機を泄(も)らし尽くして一着を留め、

 敢えて説破せず、南進を定むべし。

子の時に、南進定まるを観じ看る。

 一陽始めて復(地來復)し、清風昇る。

 性を煉るは、即ち猫鼠を捕るが如く、

 巍巍として動かず六神は會す。

丑の時に、南進定まるを観じ看る。

 二陽来たりて臨(地澤臨)濁気を分かつ。

 金蝉却(さ)って善く金銭に戯れ、

 泥牛に触れ動かして身翻るを要す。

寅の時に、南進定まるを観じ看る。

 三陽開きて泰(地天泰)正に春に逢う。

 白虎、波を興して古洞より出で、

 青衣の童子、笑い吟吟たり。

卯の時に、南進定まるを観じ看る。

 則ち、東方に玉兎(月)の昇る(雷天大壮)を見る。

 萬里の雲煙、空に舞い上がりて散じ、

 一片の金光、頂門を照らす。

辰の時に、南進定まるを観じ看る。

 魁罹(北斗の剣先)正位にして神、眞に存す。

 青龍は波を興して大海を出で、

 霧に駕し、雲に騰(あが)りて天庭(理天)に上る。

巳の時に、南進定まるを観じ看る。

 六陽已(すで)に足りて(乾爲天)炎熱生ず。

 子規(ホトトギス)止めどもなく声々に叫び、

 亀蛇戯れ動き、互いに相親しむ。

午の時に、南進定まるを観じ看る。

 陽の極に陰生じ(天風姤)火侯を均しくす。

 猿馬(心猿意馬)固く双林樹に縛り、

 六賊緊しく梵王城(ぼんおうじょう)に鎖(と)ざす。

未の時に、南進定まるを観じ看る。

 陽光漸次遁(のが)れて(天山遯)微火をもって烹ず。

 六神、蟠桃園(ばんとうえん)に暢(たの)しく飲み、

 恰も子羊、跪きて乳を求めるに似たり。

申の時に、南進定まるを観じ看る。

 瑤池(理天)に長春を寿ぐを朝見す。

 六個(六匹)の猿猴来たりて果を献じ(天地否)、

 満天の諸佛、吟吟として笑う。

酉の時に、南進定まるを観じ看る。

 沐浴池の中に煖(だん)、温温たり。

 恍恍惚惚として、精神爽やかにして、

 金鶏、夢中の人を叫び醒ます。

戌の時に、南進定まるを観じ看る。

 寂寂静静として黄昏を守る。

 独り寒室に坐して賊の侵すを防ぎ、

 黄犬、四鄰(隣)に吠ゆるを教えるなかれ。

亥の時に、南進定まるを観じ看る。

 尚、猪(イノシシ)の行きて江心を過ぐるが如し。

 往来(ゆきき)の波浪身に随いて走り、

 黄河は、逆転して崑崙に上る。

 十二時の針は、指南を定む。

 乾坤萬象、この中に全し。

 人有りて先天の意を識り得れば、

 如来を観るは、また難しからず」

 此処において大師は、十二時辰に区切ってこの一竅の指南の正しい針を悟らせるべく、述べ終わった後も、なお宗横が細心に研究参悟できないのではないかと案じ、反復して宗横の名を喚び、丁寧に造化の根源と無生の眞性について示されました。

(六)造化の根源と無生の眞性

「宗横、汝は知るか、造化の根源を。これは眞に口で表現し難いところである。無為の妙道は、一体誰がこれを詳細に識ることができようか。もし明師に遇り會わなければ、どうして佛の眞なる偈を聴くことができようか。意大きくとも心が粗ければ、自らの虚霊を損なうだけである。今のように汝は正しい法理を聴くことができても、須く意を落ち着けて無為の玄機を参悟するを要す。そうすれば、輪廻を免れよう。眞性を把って修めることができれば、不夜天に登って常に不滅の地に住す。無生無死の眞機、眞機である」

 続いて大師は口調を変えて、宗横に問いました。

「宗横、汝は無生の眞性を知っているであろうか」

「恥ずかしながら、私は存じません」

「汝はこの事を知らないと直ぐに答えたが、もう一度考えて分かるかどうか答えてみよ」

 宗横は一言半句もなく、ただ黙ったまま俯向いていました。

 大師は、更に言葉を続けて

「汝は、本来の面目を尋ね得られたであろうか」

 すると宗横は、感極まって五体を地に投げ出し、大師に哀願しました。

「師よ、法慧をもって、弟子の愚蒙にして未だ悟らない所をどうか御開示下さいませ」

「汝は一身の法を修めると言ったのでそれを説いたが、知らないと言う。吾は、山に例え、水に例えて重ね重ね道破した。それでも未だに醒めず悟らず、と言うのか。一般の人は、この色身を持っているから、生まれる時があればまた必ず死ぬ時があり、そして成り立つ時があればまた壊れる時がある。これは、平易な理である。

 汝はどうして、假(いつわ)りを認めて眞(まこと)に悖(もと)るのか。甘んじて下乗法(げじょうほう)に落ち、些かの口頭禅語を習っておるが、終(つい)には肉眼を持っている凡夫になるに過ぎない。西来の佛性が明らかでなければ、またこれは邪魔外道である。

 汝は、いま大乗の正法を受けたりと雖も修証しなければ、生死界(しょうじかい)の外に超え難く、永遠に淪(ふか)い穽(あな)の中に沉(沈)み陥るであろう。古に曰く

 『世間に佛と做(な)るべきはなし。衆生を度(すく)うべきはなし。涅槃を証すべきはなし』

とあるとおり、既に佛を学ばんとすれば、過去心を思わず、現在心を存せず、未来心に着さず、無我・無人・無衆生・無寿者の四相に至り、一切の空空に至れば、自らの正覚を成ず。汝は半生を修道に費やしたが頑空に落ちてしまい、まさに有用の精神を無用の地に施したのである」

 宗横は、身を引き締めて、一心に大師の言葉に聞き入っていました。

「古人の言葉に

 『迷えば即ち千里も尋ね難く、悟れば即ち一竅の根に帰す』

とある。汝は、いま道教から釋門(佛門)に転じ、吾を師として拝したのは大いに取るべき処がある。汝は跪いて玄妙を問うたが、これは汝の智慧が開かれ通じているからである。これによって、修性煉命を得ることが出来ると見るべきである。眞如と言うものは、地に徹し天に通じている。一切の萬物は、すべて自性圓明の中から生ずるのである。これを放せば即ち六合に彌(み)ち、これを巻けば即ち退いて密に蔵す。その味は窮まりなく、みな実の学である」

 大師の諭しに宗横は、叩頭して謝恩しました。

「今日、師父の明らかなる喝破がなければ、どうして濁を変じて清とすることが出来たでしょうか。いま想えば、前の修法は誤りでありました。みな、祖の勅令に違逆したことによって、自性の法則が明らかでなかったことによるものでした。これでは、どうして河車を運転することが出来たでしょうか。今にして想えば、眞に羞ずかしく慙愧に堪えません。弟子は、只今を以って明心見性を得ました。

 (続く)


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