道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

第二章 ケルトと日本の信仰の比較

2016-03-13 10:12:31 | 古代ケルトとトルイド

転載:http://www.intl.hiroshima-cu.ac.jp/~hikeda/thesis-hanno-japanese/chapter2.htm

第一章で見てきたように、ケルトと日本には類似した民話が存在する。その類似の背景には、一体何があるのだろうか。私は、民話の類似が発生する一因として思想の類似が挙げられるのではないか、と考えた。

 そこで、今回はケルトと日本の思想を比較するために、両地域の信仰に焦点を絞って考えていきたい。信仰も民話と同じように、世界中のどの地域でも見られるものである。また、信仰も人間の思想が顕著に表れたもので、なおかつ生活に密着したものであると言えるため、これを比較の対象とすることにした。

 実際、遠く離れているにも関わらず、ケルトと日本には信仰の面でも多くの共通点を見出すことができる。以下、その類似点を節に分けて紹介していく。

第一節 多神教

 一つ目の類似点は、アイルランドも日本も多神教であるということだ。それは、アイルランドがカトリックを、日本が仏教を受け入れていった過程にも表れている。

今日、アイルランドの主要な宗教はカトリックであり、また、日本の主要な宗教は仏教であると考えられている。しかし、古代ケルト人はもともとドルイド教を信仰し、日本人は神道を信仰していた。カトリックや仏教は、外部からもたらされた宗教なのである。

 まず、アイルランドでのカトリックの受容のされ方について述べていこう。カトリックがアイルランドに入ってきたのは432年で、布教したのは聖パトリックである。彼は、キリスト教の教義である父と子と精霊の三位一体説を、ドルイド教にもともとあった教義と重ね合わせて説いた<!--[if !supportFootnotes]-->[1]<!--[endif]-->。聖パトリックは、ケルトの宗教に対して決して否定的ではなく、むしろ土着の宗教とカトリックを融合させる形で布教を進めた。そのため、一人の殉教者も出すことはなかったと言われている<!--[if !supportFootnotes]-->[2]<!--[endif]-->

 では、次に日本での仏教の需要のされ方について見ていこう。日本には、538年に百済から仏教が伝来してきた。仏教的世界観と古来の神道の考え方は本質的には異なるものであったが、人々は、仏教の神である菩薩や仏をも、神道の八百万の神の一部として受け入れたのである。

 このように、アイルランドも日本も、土着の宗教と外来の宗教を重ね合わせる形で受容していった。なぜ、土着の宗教とは根本的に考え方の異なる新宗教を受け入れたのであろうか。それは、たんに新宗教の勢力が大きかったということだけではなく、アイルランドと日本で古くから信仰されてきた宗教が、多神教的寛容さを持っていたためではないだろうか。先ほども述べたように、ドルイド教も神道も多神教である。そのため、自分たちが本来崇拝していた神への信仰は保ちつつ、なおかつ新宗教の神をも受け入れたのである。

 現在でも日本では、神道は仏教と並んで伝統的な宗教として存続してきた。これに対して、アイルランドのドルイド教は現在、民間の信仰のみにとどまっている。これは、アイルランドに新宗教として布教されたキリスト教がもともと排他的な一神教であったためだと考えられる。仏教は異教に対して比較的寛容であったため、日本古来の宗教であった神道はその地位を守り続けることができたのだ。

 

第二節 アニミズム 

では、その他の類似点を見てみよう。日本とケルトの信仰の大きな共通点と言えるのが、アニミズムである。

アニミズムとは、宗教の超自然的な思想の一つで、宇宙に存在するあらゆるものには神(精霊、魂)が宿っているという考えである<!--[if !supportFootnotes]-->[3]<!--[endif]-->

 スティーブン・ヘンリー・ギルは、このアニミズムの精神はケルトと日本の詩の中にも見ることができる、と述べている<!--[if !supportFootnotes]-->[4]<!--[endif]-->。日本人が生み出した代表的な表現スタイルと言えば、俳句、あるいは短歌である。彼は、論文の中で次の短歌を紹介している。

短歌

歌意

おくやまに もみちふみわけ なくしかの

こえきくときそ あきはかなしき 

人里離れた山奥で、一面に散った紅葉を踏み分けて鳴いている鹿の声を聞くときこそ、いよいよ秋は悲しいものだと感じられる。(猿丸大夫) <!--[if !supportFootnotes]-->[5]<!--[endif]-->

 

このように、和歌(俳句、短歌)とは、十七音、三十一音という限られた音節の中に、自然観、感情、感動などが詰め込まれた、情緒溢れる歌である。俳句や短歌を詠む際には、あまり直接的な表現は好まれない。表現の工夫で余韻を残すことによって、ある程度は作者の思いを表現し、それ以上は読み手の想像力にゆだねられる。古代アイルランドの詩にもこのように、短い音の中に詩人の思いを凝縮させたり、読み手の想像力をかきたてたりするような表現方法が見られる。

意味

Scel lemm duib, dordaid dam,

Snigid gaim, ro-faith sam,

Roruad rath, ro cleth cruth,

Ro gab gnath, giugrann guth.

身の廻りなる出来事は

鳴く鹿 積む雪 遠い夏

錆の色なる羊歯野原

今年も聞こゆ野雁の声<!--[if !supportFootnotes]-->[6]<!--[endif]-->

 

このように、詩人は短い音節の中に、自分の思いを込める。日本の作品もケルトの作品も、季節の移り変わりや風景、それに伴った人々の感情を表したものが多い。これは日本やケルトの人々が、自然とは敬うべきものであり、なおかつ自分たちの生活との結びつきが非常に強いものだと考えていたためではないだろうか。

第三節 太陽信仰 

三つ目の共通点は、太陽信仰である。日本やケルトに限らず、多くの古代信仰には太陽崇拝が見られる。

古代の日本でも、太陽神である女神、天(あま)照(てらす)大神(おおみかみ)を最高神と考えることや、自分たちの国を「日(ひ)の本(もと)」と称することなどから分かるように、太陽に対する信仰が厚かった。太陽は宇宙の根源であり、生命の創造、成育、豊饒のためのエネルギー源であると考えられていたのである。

 一方、古代ケルトのドルイド教でも、太陽は特別な意味を持っていた。古代ケルト人は、全ての生命の源である太陽を、創造と豊饒の神として崇めていた。また、ケルトにはブリギットという女神がいる。かつて太陽が魔の雲によって闇に覆われた暗黒の時代に、その闇を払ったのが、ブリギットである。

 日本でも天照大神が天の岩戸に隠れた時に、世界に暗闇の時期が訪れている。このことから、古代の人々が太陽を特別な存在と見なしており、太陽がなくなれば災いが訪れると考えていたことが分かる。そして、これらの神話は闇の世界(死)から光の世界(生)へ、という、次節で述べる輪廻転生の思想にもつながっていると言える。

第四節 輪廻転生(渦巻き模様と縄文文化)

アニミズムと同様に大きな共通点と言えるのが、輪廻転生の思想である。輪廻転生とは、宇宙に生きるすべてのものは死と再生を繰り返すという考え方である。この思想によると、万物は移り変わっていくが、宇宙の実体というものは不変であり、その中で全てのものは生から死へ、死から生へと、永遠の繰り返しをしている。すなわち、肉体が死んでも、その霊魂は永遠に生まれ変わりを繰り返すのである。

 このような輪廻転生の考え方が色濃く表れているのが、ケルトの渦巻き模様である。ケルトには、『ケルズの書』や『ダロウの書』に描かれているような渦巻き模様が多く見られる。(資料1-1、1-2)この渦巻き模様は、ケルト神話に登場する人間や動物、植物の自然の形態を抽象化、紋様化したものであり、生死を繰り返す永遠性や輪廻転生を象徴するシンボルであると考えられている。   

このケルトの渦巻き模様によく似ていると言われるのが、日本の縄文土器の模様である。たとえば、芸術家の岡本太郎は、ケルトの渦巻き模様に日本の縄文土器の紋様を重ね合わせて、こう述べている。

驚くのは、このケルトと縄文文化の表情に、信じ難いほどそっくりなのがあることだ。地球の反対側と言ってもいいほど、遠く離れているし、時代のズレもある。どう考えても交流があったとは思えない。一方は狩猟・採取民が土をこねて作った土器だし、片方は鉄器文化の段階にある農耕・牧畜の民のもの、石に彫られたり、金属など。まるで異質だ。しかし、にもかかわらず、その両者の表現は、双生児のように響きあっている。部分を写真などで比べてみると、実際区別がつかないくらいだ<!--[if !supportFootnotes]-->[7]<!--[endif]-->。(資料2-1、2-2)

さらに、岡本は、こうも述べている。

この極東の文化とヨーロッパ芸術の源流ともいうべきケルト。あの組紐紋に象徴される永遠に回転し、流れて行く世界観。私が西欧文化で一番惹かれるのはケルトだ。東西の両極、相離れた地域の、この古い文化に見られる不思議な同一性は、いったい何を意味するのだろう。私はこの神秘的な現象に常にうたれるのだ<!--[if !supportFootnotes]-->[8]<!--[endif]-->

また、龍村仁も、「ケルトの人々は、自然界の全ての現象が宇宙的な大霊の現れであり、自然界の全ての生命は一つの大きな命の一部分である、と考えていた。これは、神道の原点である私達の祖先・縄文人の自然観・生命観と同じだった。」<!--[if !supportFootnotes]-->[9]<!--[endif]-->と述べ、ケルトと日本のつながりを強調している。

 アニミズムに加え、渦巻き模様に象徴される輪廻転生の思想、これはケルトと日本の大きな共通点であると言えるであろう。 

    

古代ケルトの暦

2016-03-13 10:11:05 | 古代ケルトとトルイド

中央アジアの草原からヨーロッパにやってきた、インド・ヨーロッパ語の民族がケルト人です。
イギリスやヨーロッパの先住民で古代ローマ人からはガリア人とも呼ばれていました。

ケルト人の1年の終りは10月31日。
これがハロウィンのルーツとして有名な話ですね。
夏の終わりと冬のはじまりでもあるこの日は、収穫祭でもあり、アイルランドと英国のケルト人たちは、作物と動物の犠牲を捧げたそうです。
またこの時期には、この世と霊界との間に目に見えない「門」が開き、この両方の世界の間で自由に行き来が可能となると信じられていたとかで、灯を灯す習慣もあったといいます。
収穫したカボチャをくりぬいて灯を灯すことの起源です。

しかし、現在ハロウィンが行われている10月31日という日付は、グレゴリオ暦です。
古代ケルト暦では、10月31日が年の終わり(大晦日)でハロウィンの起源ということはわかりましたが、いったいどんな暦のことをいうのでしょうか?
そして年初が11月1日であるならば、その年初である新年1月1日とは、いったい現在の暦でいういつに当たるのでしょうか?


ケルト暦は、いまだに研究者たちの間でも謎に満ちた存在です。
それはケルト民族が文字をもたなかったため、多くの記録は時の彼方へと失われていってしまったからです。
しかし、この定説には矛盾点が含まれています。
文字をもたずに衰退していったはずの民族が、なぜ暦には文字を使っていたのでしょう?
それはこの表面的な定説が、ケルト暦のバックボーンになっている隠秘学的な要素を見落としているからです。

ドルイド僧は、歴史の霧に包まれた黎明の時代から、ケルト民族を指導してきた人々です。
彼らは星の動きを読み取り、自然の力に精通し、民を裁き、病を癒し、死後の世界までを司る万能の司祭たちでした。
そのミステリアスなパワーは、己の生涯をその道に捧げる代わりに「秘儀伝授」される知識から生まれていたとされます。



そしてストーンヘンジ。
ストーンヘンジの建立そのものは、ケルト民族の隆盛よりもはるか昔に行われています。
建立した民族についての詳細は不明なままですが、太陽崇拝民族であったことや、この巨大な石造建築を駆使して、太陽や月の運行、日蝕や月蝕などを現代のコンピューター顔負けの精密さで観測していたことが分かっています。
これほどの叡智が簡単に消え去ってしまうはずはありません。

ドルイド僧たちに「秘儀伝授」されていた知識こそ、ストーンヘンジを建立した先住民族の叡智に他ならないのです。
その証拠に、ドルイド僧たちは、その秘密の叡智を活用して、ストーンヘンジを用いて天空の観測を続け、太陽の運行に基づいて、農業を効率的に運営するために季節を8分割し、ケルト民族繁栄の土台を築きました。
そして次に、太陰暦よりも複雑で、かつ魔術的な力に溢れたケルト暦を生み出すことができたのです。
ケルト暦に使われているオガム文字は、普通の文字ではなく、ドルイド僧が呪文を記すときにのみ使った「呪術文字」なのです。
彼らは、このオガム文字と、崇拝の対象であった「樹」を各月に結びつけることで、自由自在に儀式を執り行い、日々の暮らしをも思うがままにコントロールすることができたのだとも言われています。
ケルト守護樹暦とは、それ自体が荘厳な通年の儀式暦だったともいえるでしょう。

さて、ドルイド僧のような呪力を持たない我々一般の人間にとって、ケルト守護樹暦はどのような意味を持つのでしょうか。
それを説明するためには、ケルト民族独特の世界観を知る必要があります。
ケルト世界では、人間はおごりたかぶった特別な存在ではなく、地球の一員でした。
地球上に存在する動物、植物、鉱物・・・すべてが大きなひとつの家族でした。
ある守護樹のもとに生まれるということは、その守護樹に連なる巨大な一族の一員となることなのです。
守護樹は、この地球上に流れている運勢や時間、自然界でのエネルギーなども統合しています。
自分が属する守護樹を知ることで、自分の居場所、運勢の流れ、本当の生き方といった本質的な「自分自身」が理解できる。
つまり自分は独りではない、自分の居るべき場所がわかる、生きている意味を理解することができるのです。




◆古代ケルト暦(太陽暦)

ケルトの暦として一番古いのが、紀元前5世紀頃、つまり一説にケルト文明の最盛期とされている時期のサウェン(Samhain)を扱うものです。
グレゴリオ暦はおろか、その前のユリウス暦(紀元前46年制定)よりはるか以前のことになります。

サウェンというのは、今ではケルト4大祭祀のひとつとされています。
現在の暦で10月31日であるが、ケルトでは1日の始まりは日没からなので翌11月1日までを含む。
他の3つはそれぞれ、2月1日(Imbolc)、5月1日(Beltane)、8月1日(Lughnasad)である。
これらの規則性から、日付の元となるものが太陽の運行であることに気がつきます。
すなわち「Quarter Day」と呼ばれていた節目が冬至、春分、夏至、秋分で、それぞれユール(Yule)、オースターラ(Ostara)、リーザ(Litha)、メイボン(Mabon)と名付けられている。
これに対してケルト4大祭祀の日は「Cross Quarter Day」と呼ばれ、年を8つに区分していました。
その中でもサウェン(Samhain)とベルティナ(Beltane)は重要であったらしい。
ハロウィンの起源といわれる「年の終わりと始まり」の区切りであるサウェンはベルティナを対にした、年の「夏」と「冬」の分かれ目でもある。
もしかしたら10月31日という日付も、10番目の月の最後の日という意味合いだけなのかもしれません。


◆コリニーの暦(太陰太陽暦)

そののち紀元前1世紀末頃、コリニーの暦(太陰太陽暦)というものが使われていたとされている。
これは遺跡の発見により研究が進んでいるものです。
5年周期の暦で、年に30日と29日がほぼ交互に(途中逆になるところもある)12回繰り返され、1年目の頭(もしくは5年目の最後)と3年目の6ヶ月後(冬期の終わり)に閏月(30日)が挿入される。
天文的な意味ではなく、農耕や牧畜のための要素が強く、月に関しての細かい取り決めがある。
冬至点、春分点などの問題を、この暦に組み込むことは難しかったのかもしれません。


◆ケルト守護樹暦(13月の暦)

ケルト守護樹暦は「Beth-Luis-Nion」という月名に樹木の名前を充てたもので、別名「The Ogham Calendar」と呼ばれ、これも碑文などに残されています。
年を13ヶ月に分け、ひと月を28日として13種類の樹木を表しています。

オガム文字の使われていた時代から紀元後3~6世紀頃と推測されています。
ただし、コリニー暦もオガム文字も石に刻まれた文字という形での推定であるので、口承によって実際に使われていた時代はまったく不明です。
ケルトの歴史はキリスト教が布教され(紀元後5世紀~)、6世紀から8世紀にかけて花開いたケルト修道院文化の黄金時代も含めると長いように思いますが、カサエルがローマ軍を率いて制圧する紀元前52年頃には終わったとみる向きもあります。
もしくはケルトの中核を為したドルイドがその力をなくしたとき、ケルトは衰退したと考える方が自然かもしれません。
それならばコリニーの暦もケルト守護樹暦も、同じくらい古くから使われていたと考えられるのではないでしょうか。