道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

観音菩薩伝~第6話 ルナフール、妙荘王に霊薬を教える、 第7話 カシャーバ、須弥山に白蓮を探る

2016-07-01 01:31:00 | 道・真理・ Deshi A

2015年1月19日


 


第6話  ルナフール、妙荘王に霊薬を教える 妙荘王は、どの医者も姫の傷痕を元通りキレイにすることができないことに大層立腹され、国中の医者を国外に追放するように指令しました。宰相アナーラは、それを聞き急いで登殿して国王を諫めました。


「王様、御立腹も当然でありましょうが、早まった事を為されますな。追放を命ぜられましたら、忽ち明日から国中に医者は一人も居なくなります。そうなれば病人を治す人はなく、国中はきっと乱れることでございましょう。 妙荘王は、屹として「姫の傷でさえ治せぬ医者共が、どうして民人を治せるのか。民人は、無能な医者に騙されているのだ。そのような無能な医者は、絶対に国内に在住することを許せない」 妙荘王の怒りは、なかなか解けそうもありません。アナーラは、王が一旦言い出すと後へ引かない気性をよく知っていました。「それでは今すぐと仰せられず、十日間の猶予を与えて下さいませ。その間に姫の傷痕を治し得なかったならば、必ず仰せの通り追放いたしましょう」 妙荘王は、詮方なく同意しました。大変な事になりました。この消息が国中に伝えられると、驚いたのは医者達です。全く顔色を失い、毎日が焦燥と恐怖とで生きた心地がしません。全力を尽くし万般の術を施したが治らず、それが罪となって国外へ退去を命ぜられるのですから実に気の毒な話です。 城内城外の民衆は香を焚き、祭壇を設けて頻りに天帝や神仏に奇蹟の顕現を祈り始めました。みな、貴人が現れて姫の傷痕を治してくれることのみを期待していました。苦しい流離輾転の憂き目から逃れたい、だが日一日と無常の日は沈黙の内に過ぎて行きます。 医者達の心は、丁度鍋の中で茹でられる蟹のような気持ちで、居ても立ってもいられません。容赦なき光陰は医者達の一縷の希望も受け入れることなく、瞬く間に十日の日は過ぎてしまいました。妙荘王は、宰相アナーラを召して追放を命じようとしました。 しかし天は、人の路を断絶しません。この時、門官が登殿して妙荘王の前に出て報告しました。「只今、門外に一人の青年書生が現れ、吾が王に謁見を賜りたいと申しております。話によりますと、姫の顔傷を治す方法を知っていると申しております」 妙荘王は、丁度不快な折りでしたから、この事を聞くや忽ち喜んで、直ちに引見を命じました。暫くして門官が、一人の書生を連れて登殿してきました。見たところ風体に気品があり、その端正な学者的相貌からこの者には非凡な才能があるように見受けられました。 書生は、王の前に深く頭を下げました。妙荘王は、特に錦繍の椅子に座るよう命じ「汝の姓名と住居を詳しく申してみよ」 書生は、身を屈めて「私はルナフールと申し、南方の多宝国に住んでおります。生来は薬草を採り、医学を研究し、専ら人々の疾病を救っております。この度、第三姫君の額の傷痕のため御国の医者が挙って治療に当たったが効なく、ために吾が王には殊の外御立腹なされ医者を国外へ追放されるとの事を聞き、無能を顧みず、お伺いに参った次第でございます」「汝は、姫の傷痕を治し得る自信でもあるのか」 妙荘王は、上座からルナフールに訊きました。「姫のこの種の疾患は、確かに世間並みの医薬では元通りに治せません」と、ルナフールはきっぱり答えました。「世間並みの医薬では治せないと言うのであれば、他に霊丹妙薬でもあると言うのか。上を誑かすような事を言うと、重罪に問うぞ」 妙荘王は気色ばんで叱り付けましたが、ルナフールは微笑して「霊丹妙薬はございますが、王様が私の罪をお咎めなさるなら、敢えて申し上げられません」「説明してみよ。首尾良く姫の傷を治すことができたなら、罪は問わない。却って大功があろう。その代わり霊験がなければ、余を欺いた罪を許すことはできないぞ」 ルナフールは、声を上げて笑いました。「吾が王は貴人であられますが、高下の事を御存じありません。もっと、事情をよくお聞き下さい。姫の傷を癒す薬は人界に生えていますが、凡家では持ち合わせていません。この種の薬物は、仙仏の霊根を帯びております。もちろん、私も持ち合わせておりません」 妙荘王は、声を張り上げて「怪しからん事を申すな。汝も持たず凡家にもない薬とは一体何なのか、それは何処にあって、どうやって手に入れると言うのか」 妙荘王は、弄ばれた怒りが心頭に爆発しそうになりました。その時、宰相アナーラが進み出て「老臣が此の男を観ますに、立派な来歴があるように思われます。説く事に信じられる点がございます。どうか気をお鎮めなされて、詳しく御下問なさいませ」 妙荘王は漸く自制して、顎でルナフールを促しますと、ルナフールは慇懃に答えました。「他でもございません。その薬は、すなわち一朶の蓮華でございます」「可怪しいことを言うものだ。蓮華なら、余の花苑の池に何万本とある。一朶ぐらい採るのに、何の難しいことがあろうぞ」 妙荘王は、呵々大笑しました。ルナフールは、首を二三回横に振って「それは違います。あの青い蓮華なら何万本と言わず、仮令何千万本あろうとも用を為しません。私の申す蓮華は、池の中には生えておりません。山の上に生えていて、根は泥土の中に付かず、華は塵に染まらず、雪に逢って開き、人声を聞いて隠れます。もし此の花弁を得て額に付けたならば、即座に傷は癒えましょう」 妙荘王は、このことを聞いて、世にこんな不思議な事があるものか、というような表情をして、続いて首を横に振りました。「汝は、詐りを申して余を騙そうとしている。何処の世に、根が泥の中に張ることなく生える蓮華があると言うのか」 ルナフールは、頷いて「どうして無い筈がございましょう。只少ないだけで、昔から今に至るまで三朶しかございません。一朶は天帝の瑤池に移され、一朶は西天の仏陀が持って行かれて蓮台とされました。もう一朶は、人間界に転落して縁者の採取を待っています」「その人間界に転落した一朶は、何処にあるのか。凡人で採取できなければ、口が渇くまで談じても無駄であろう」 ルナフールは、ちょっと黙想してから静かに目を開き「場所は遠いと言っても余り遠くではなく、また近いと言ってもそれほど近くでもありません。ここから西南の方向に、一連の須弥山(しゅみせん)がございます。その中に徒高峰、またの名を雪蓮峰と呼ばれる山があります。かの転落の蓮華は、この峰の氷雪洞という洞窟の中で生長しております。時には山の麓からでも遠く望み見ることもできますが、常に白雲が周りを繞り、芳しい霧は遙か遠くからでも嗅ぐことができます。これは世上に稀なる宝であり、この白蓮を求め取ろうとしても、無縁の人は千辛万苦を嘗めても得られません。もし縁ある人で一念発起し、誠心を以て艱難を辞せずに求めるなら、遅かれ早かれ必ず願い通りになりましょう」 妙荘王は、暫く黙って考えていたが、首を振り「汝が既にその蓮華の下落を知り、またそれが貴いと知っているなら、どうして汝自身誠を発して採りに行かず、此処へ来て喋る必要があろうか。考えるところ、さぞかし、愚かな医者と共に余を唆し欺くための謀策であろう。余は、もう汝と話したくない。汝の話が真実かどうか、人を須弥山の雪蓮峰へ派遣して詳細に査べさせよう。もし良い報告があれば、汝を上賓の礼で待遇しよう。もし偽りの話であれば、重い刑罰を科し、生命はないであろう」 ルナフールは、微笑して頷き引き退がりました。その結果、全国の医者は暫時追放を延期される事になりましたが、その代わりにルナフールは軟禁される身となってしまいました。


第7話 カシャーバ、須弥山に白蓮を探る 妙荘王は直ぐさまアナーラを呼び、ルナフールの言う蓮華の有無を確かめるための調査隊を派遣することについて相談しました。アナーラは、「ここから須弥山に行くためには、広漠たる高原や鬱蒼と生い茂る森林が随所に繰り広げられる、遙かに遠い路程を越えなければなりません。あまつさえ高い絶壁を攀じ登り、冷たい寒気とも闘わねばなりません。そのため人並み外れた体力と胆力、そして高い識見に冷静沈着を兼ね備えた人を選んでこそ初めて目的を達することが適います。また、この調査隊の統率者は吾が王の腹心の臣下でなければならず、そうでなければ困難を懼れて途中で引き返し、虚報を伝えるかも知れません。よくよく熟慮下さいませ」 妙荘王は、暫く沈思黙考していたが、やがて満面に笑みを湛えて「値殿将のカシャーバを行かせるがよい。カシャーバが一番適任である。カシャーバのみが、この仕事を立派に果たしてくれるに違いない」 もちろんアナーラも、これに賛成の意を表しました。カシャーバは剛直にして武勇に勝れ、智慧に敏く誠実であり、武将にしては珍しく信仰心の厚い家臣でした。特に妙荘王の厚い信任を得ていたため、即刻この大役を仰せつけられました。 カシャーバは喜んで承諾し、目的を達せずば止まない決意を固めました。営隊に戻ったカシャーバは、早速五十名の精鋭な兵士を選び、飲み水・帳幕・糧食・器具・衣服等用意万端整え数日後、妙荘王ならびに文武百官の見送りを受けて出発しました。 出発に臨んで王は、カシャーバに三杯の御酒を賜り、その壮行を鼓舞激励しました。一行は各々駱駝に乗って壮途に就き、一路須弥山へと路を急ぎました。広大な砂漠、鬱蒼たる密林、激しい急流、嶮岨な断崖など種々の難関に行く手を阻まれ、元気な兵士たちもだんだん疲労困憊してきました。 昼間は路を急ぎ、夜は行き着いた所で帳幕を張って休息しました。人里を離れ、数十里の行程に人っ子一人家一軒すら見られないこともあり、水や果実を得ることも困難を極めましたが、幸いにも駱駝は飢えや渇きによく耐えました。こうして暁に発ち、夜は遅くに休み、約二箇月余の月日を過ごしました。漸くにして遙か彼方に白雪を頂いた須弥山の峰が見え始めるや、一行は躍り上がって喜び合いました。 須弥山の峰々は高く険しく巍然として天まで聳え、頂上は真夏でも万年雪に覆われています。連々と続く峰は、未だ太古の姿を留めて永遠の謎に満ち、それを解く鍵は何者かが持っていて、何時の日か来て明かすのを待っているかの様です。 調査隊一行の兵士たちは、自然の神秘に打たれて急に元気付き、勇を鼓して前進を続けました。その後二日目に、とうとう須弥山の北麓に到着しました。しかし付近一帯には、は疎か、一軒の家も見当たりません。七十二の高峰の中で、果たしてどの一座が雪蓮峰なのであろうか。尋ねる人もなく途方に暮れている内に陽は沈み、辺り一面暗くなって、前進することもままならなくなりました。 カシャーバは窪地を見付けて、一隊にそこで野宿するよう命じました。いよいよ明日から、待望の白蓮を捜し始めるのです。食事が済むと兵士たちは疲労のため直ぐに寝てしまいましたが、カシャーバの胸は高鳴るばかりで、血潮は滾ってなかなか寝付かれません。暫く寝返りを打っていたが、急に起きあがると外套を羽織り、一振りの宝剣を帯びて帳幕を出ました。 何時の間にか樹林の辺りまで歩いて来て、上を見上げると、高い山の所為か月は明瞭に映り、夜露は冷たく風を誘い、遠く望めば一帯の森林が茫々として月下に黒々と照らし出されていました。頂上に積もった雪は青白い月光を浴びて燦爛と輝き、眩いばかりのその銀光は眼に美しく壮観でした。カシャーバは、興味を覚え、無意識の内に足を運びました。 雪蓮峰の峰々が遠くに見える場所に出て立ち止まり、一峰から一峰へと目を移して行くうちに、突然中央の峰からそれを取り巻く白雲が開けて白雪に映じた異光が目に止まりました。一瞬心驚き胸高鳴るのを覚え、余りの美景に見取れていると、何処からともなく芳香が辺り一面に漂い、ますます神気が昂まりました。 カシャーバは心中、彼の山は確かに雪蓮峰に違いない。あの不思議な色は、一体何であろうか。その光は、何処から放たれているのであろうか。カシャーバは、喜びました。まさかこのように早く目的の峰が見つかるとは予想もしていなかっただけに、興奮で一度に汗ばんできました。これは大変だ。早く知らせなければならない。咄嗟にそう思ったカシャーバは、弾かれたように踵を返し、一目散に帳幕に駆け戻りました。 その時はすでに暁天に近く、高峰の頂は旭光の七色に映じようとしていました。カシャーバの呼び掛けを聞いた兵士たちは、喜び勇んで跳ね起き支度を調え、カシャーバに従って雪蓮峰に向かいました。一日中登り続けて行くうちに、峰の裏側に回った夕陽に映えて辺り一面緋の薄衣を着せたような神秘的な光景に変わってしまいました。 陽の沈んだ後、なおもカシャーバの一行は登り続けました。薄暮の景も過ぎて各峰々は薄黒い雪帽を冠ったままで静かな睡りに入りましたが、目指す雪蓮峰から放たれる異彩は一行を導くかのごとく輝きを増しているのでした。暫くすると一行の背面から十九夜、下弦の月が加わり照らして、別世界を歩んでいる感じに打たれました。 カシャーバたちは逸る心を抑えてその麓まで辿り着き、気を落ち着けて注意深く辺りを隈無く見渡しました。すると、その中腹に大洞窟があり、その洞窟の中から光が燦然と輝いているのが見えました。カシャーバが大股でその方へと歩みを進め洞窟の前まで来ると、付近一帯は明るくて真昼のようです。カシャーバが全神経を集中して光の中心に目を凝らして見ると、果たして大きな白蓮が一朶、積雪の上に生えています。目を射るような光は、その蓮華の中心から放たれているのでした。 芳しい香りと美しい光に兵士たちは、思わず一斉に歓声を挙げました。手の舞い、足の踊り、互いに妙華を見た幸福を喜び合いました。ところが、どうしたことでしょう。今まで満開であった白蓮が、人の騒ぎ声を聞くや、見る見る裡に雪の中に隠れ、遂に跡形もなく消えて辺りは急に暗くなってしまいました。「しまった」とカシャーバは、慌てて兵士たちの騒ぎを制止しました。しかし、その時を限りに、白蓮は姿を現しません。カシャーバは、この白蓮は人声を聞くと隠れると言われたことを思い出し、自分の軽挙妄動を後悔しました。もっと慎重に行動すべきだったのに、全く取り返しの付かない事をした。 兵士たちも一瞬青ざめ、項垂れ萎れてしまいました。遂に一行は、已むを得ず帳幕に引き返して一夜を過ごすことにしました。高山の針を刺すような寒気はヒシヒシと身に沁みて、後悔の念は譬えようもありません。 翌日は朝早くから夜遅くまで待ったが、白蓮が現れてくる気配は全くありません。七日七夜、昼夜交代で待ち続けたが、白蓮は再びと目前に影も形も顕すことはありませんでした。カシャーバは二度と白蓮を見出すことができないと予感したため、いくら待っても無駄と観念し帰国して復命することに決心しました。今回の任務は採取するのではなく白蓮を探索するだけであるから、一応の目的は達せられたと考え、隊を整えて元来た路を引き返しました。長い往復の道程で、約六箇月余りの月日が過ぎていました。次回 第8話 妙荘王、ルナフールを罰す


 


宗教という船に乗ってきた善男善女がついに目的地に到着

2016-06-03 15:53:42 | 道・真理・ Deshi A
2013年4月8日  

宗教の目的
 
バチカンは、10年以上前に内部改革で1000名を超える多数の牧師が児童虐待などで逮捕され、日本の新聞にも掲載されました。しかしそれ以降、金融や政治などバチカンの闇の中枢の浄化まで、多くの犠牲と年月を要しました。

巨大な闇が白日にさらされ明るい兆しですが、問題となるのは、世界中のキリスト教の信者に与える影響です。どんな時でも真心で神を信じている人にとっては、不正が根本から正され、目の前の曇りが払われれば、瞬く間に浄化が進むことになるでしょう。日本でも各宗教みな同じように浄化が進み、人類は神を信じ、そして全ての人達が宗教を超えてお互いを信じる機会が与えられています。

聖書や仏教の経典の解釈が歪められてきたことは、すでに相当の研究がなされています。中世のキリスト教の絵画には、UFOが描かれているものが数多くあり、宇宙の真実を隠すことによって権力を維持しようとした画策は、真実の公開によって、すべて明らかになります。キリストが言った「我は道なり真理なり、命なり・・・」の教義の核となる「道」すなわち「真理」の解釈と実践の場として新たな集合的コミュニティへと変遷します。そして調和とともに宇宙と一体となる偉大な進化が始まります。

さらに真実の公開が進むことによって、キリスト教のクラス、仏教のクラス、イスラム教のクラス、儒教のクラス、道教のクラスなど各クラス3000年来の宗教の壁が取り除かれ、それぞれの教義の整合も相互に参入できるようになり、マヤ暦のように時代的、あるいは時間的な役割が明確に認識され、その後必然的に闇に改竄された宗教からの脱皮が始まることになります。宗教という船に乗ってきた善男善女がついに目的地に到着し、彼岸に到達しました。その彼岸とは、キリスト教で言う神の幕やが降りて千年王国へ入ることであり、仏教で言う弥勒の世、儒教の大同世界の実現にほかなりません。

宗教は、私たち人類を無事「彼岸」という目的地に運んでくれた方船でした。もうその目的地についているのに、カルマの荒波と長旅の疲れでまだ気がつかない人が大勢います。互いに励ましあい、体をいたわりあってこの喜びを享受し、新天地の創造を始めなければなりません。
 

“性の率うこれ道と謂い”~清静な観察と理解のはじまり

2016-05-31 16:20:11 | 道・真理・ Deshi A

2016年 5月31日

5次元も陰陽界であり時・空間です。人類・宇宙の当面は、3次元~5次元が一体となる変化に対応できるよう、自らのエネルギー・フィールドをマスターした意識状態を維持する方法を思い出し始めます。あらかじめプログラミングされた計画であり、天の恩恵による必然的変化です。キリスト意識でいう神の幕屋が降りる1000年王国の顕現です。

より高次元への進化のために、今は内外とも一つの出発点となるステージが構成される段階です。行き着く先は、地球と人類の一人一人に天命として隠されてきた永遠の進化の軌道を明らかにし、すべての神の子が霊の根源(ふるさと)に帰還することです。その目的のため、創造主の天命を承け、この聖なる戦いのために人類ひとりひとりに賦与された至宝があり、それを「道」といいます。その鍵となる秘法は聖人から聖人に以心伝心で伝承されてきました。

参考(孔子、中庸)   

天の命ずるこれ性と謂い、性の率いるこれ道と謂い、道を修めるこれを教えと謂う。道は須臾も離れるべからざるなり。離れるべきは道にあらざるなり。

天の命ずる天とは唯一絶対の創造主のことです。創造主の命(人の存在の意義)、つまり創造主の分霊(性)を具えた存在、この存在が人類です。魂の核、絶対愛と表現している「純粋な霊」がもともと具わっているのは創造主より付与された、と表現されています。

性の率うこれ道と謂い:性に伴って率いてきたのを「道」といいます。つまり創造主は今日のため、私たちが使命を果たすために「道」を伴わせたのです。

道を修めるこれ教えと謂う:「道を修める」という表現は、今日の時期までは一般公開されない時期だったので「修める」と文章上で表現されています。実際は「道は得て」「修める」もので、道(真理)を伝えてきたものを教といいます。

なぜ性に率いられているのに、あらためて得る必要があるのか、一人一人には役割や縁があって、ブループリントを実行に移すための絶妙な計画に沿って、外側から個々の縁に応じて扉をあける鍵(神聖な法)があります。

5次元世界でも、さらに感性を高めこの道を求めるための殿堂が設けられています。(参照「シリウスの超叡智」パトリシア・コーリ著) この超次元の学びの関門を超えることができたマスターは、更に高次元へと進化します。

今、3~4次元で「道」を得る機会が与えられているのは、天地創造主の限りない恩恵です。それによって地底のアガルタやレムリヤ、そして宇宙の同胞がこの「道」を求めるため人類と同行するときが訪れ、人類の目覚めを急速に促すことができます。この地上に最後まで残り、すべての性命を救済する志を持った勇者達によって、宇宙人類すべての生命が5次元を超える永遠の旅立ちの機会を得ることになります。宇宙の平和も同時に進行し、霊のふるさとに回帰するため、黄金の羅線循環が構成されます。

自由意思によって5次元に上がったものは、さらなる殿堂で高度な学びを得る機会があります。現実の世界に居て、肉体を持ったまま次元上昇することができるのは、3~5次元を自由に移動するためだけではなく、最も重要なことはこの肉体をかりて創造主のこの至福の恩恵を受けることができるからです。肉体を得ていることは魂のシェルターのみならず、その「時」や「土地」とともにこの世で最も尊い宝の一つなのです。人類の意識が高まれば高まるほどこの「道」の降臨という恩恵の価値を理解できるようになり、進化が早まり神殿文明が発展してゆきます。

古代から綿々と続いている、古くて新しいタイムライン(温古知新:古きをたずね新たなることを知る)

静かな湖面に小石を投げ入れると波紋が起ちますが、小石が湖水に吸い込まれる時には一旦表面の水を中に引き込み、もどる力が波紋をたてます。人類は長い間戦争に明け暮れ、自然災害を引き起こしてきました。それがちょうど表面の水を中に引き込んだ状態だとすると、今は元にもどる力が波紋をたてている時期です。この波紋はすべてが一体となるため、光の波動が繰り返し押し寄せ人類を軸に大宇宙の聖なる調和を発進している様子です。

下図に表したように「気天界・象天界・地獄界」という輪廻によって運ばれてきた大宇宙の仕組みが、地獄界が消滅し、気天界と象天界が融合する過程で、進化に必要な「人間の尊厳を回復する」段階に入ってゆきます。それは湖面が静かに月を映しているように、古代からもともとあった営みで、人びとの生活に根ざした真の心の表れです。

※   グレオ暦のその時(紀元前18世紀)、湖底から盤銘(湯の盤銘:湯王が「日に新たなり・・・つねに進歩している。」という戒めを刻んだ石盤)が浮上し、水面を大きく揺らしました。

人間の尊厳を回復し、霊のふるさとに還る、ためのプログラムは、「縁」という微妙な心に通じる機会として訪れます。その鍵は名付ければ「道」という印象で感じることができます。清静な「道」です。しかし、くれぐれも、その訪れには仮もあり偽もあります。謙虚であり誠であるものです。

《図の解説》

 

A:  2013年4月29日にウーテが「過去の伝統的な道における個別のイニシエーションの状況で起きていたことは、いずれ遅かれ早かれ世界規模で起きるでしょうし、人類を高次元に先導する宇宙的なイベントとしても起きるでしょう・・・人類がそれを望むならば」

弟子状態にある人類~ウーテからのメッセージ :

http://blog.goo.ne.jp/oppt777/e/22811d9e6338fb5a942d441b9fe63b2d

というメッセージの意味も含まれます。

この「道」は、1920年代に一般に公開され、縁ある人に人から人へと伝えられています。5次元を経過せずに即7次元に至ります。古来「解脱」や「超生了死の法」と言われてきました。

B: 功徳を積んで5次元に上昇したものが、修道の機会を許されて新世界の殿堂で道を求めることができる。これは中国古代の「状元」のように極めて厳正な試験がある。

C: まだ地獄に残っているものが、象天界の子孫の功徳によって道を求めることができる。

以上の印象では、物質経済中心の時代にあって、政者によって改ざんされた「道」の本質を知ることは甚だ難しく思いますが、一方で科学技術の発展はめざましく、さらに宇宙から高度な技術がディスクローズされると、過去の解釈を遥かに超越した世界が顕現します。双方について人類はまだ白紙の状態ですが、ライトワーカーやウエイシャワーの貢献者・勇者は準備が整ったという布告です。

Deshi A


人類の四つの聖なる仕事

2016-05-25 22:27:21 | 道・真理・ Deshi A

2015年12月26日

参照:サナンダ、レディー・ナダ・・・2015年5月14日 テーブルは用意されている

"四文字”と言われる多くのことに就いて私たちは理解しています(訳者?)。このチャネラーは正にこの瞬間に考えていますが、仕事は難しいはずはありません。あなた方は仕事に邁進する必要はありません。仕事は楽しいものです。新しい社会のこの仕事の中ではイベントの後で行われる仕事も全てのイベントもあなた方が共鳴出来るものでしょう。それはあなた方がしたいことであり、全ての人がこなすのに十分な準備がされています。

Deshi A:説

"四文字”と言われる多くのことに就いて私たちは理解しています(訳者?)。について

”四文字”は四項目と解釈したほうがわかりやすいと思います。これから人類が目標とする四種類の仕事で宇宙および地球社会の生活の柱になります。過去、これにあたる四項目は佛教に

四弘誓願 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%93%E9%A1%98

 がありますが、修道の本位です。現在は、宇宙が一つとなって道を修める時代で、佛教では「華厳経」で伝承されているいわゆる「弥勒の世」に中ります。新しい時代、理想郷を実現するため人類がなさなければならない仕事の大儀は次の四項目ではないでしょうか。

1、人類そして宇宙の存在と地底の存在が一体となって大宇宙の次元上昇を完成させること

2、新しい時代の新しい道徳基盤(宇宙法)を定め世界に公布すること

3、環境問題、天災や疫病などの災厄を防ぐため人類が一致協力すること

4、戦争をなくし人類の尊厳を回復して世界の平和を実現すること。

詳細は 奉仕すれば奉仕するほど見返りが多くなる社会(2) をご参照ください。

これらの地球での仕事を実行するにあたっては、今までの世界を構成してきた歴史的背景・個々の因果を見定め、継続しょうとする強い信念と願いをもって、現実にいどまなければ、自己の心の悪にたちまち引き込まれ、またこの時代の社会システムに攻撃され生死をさ迷い目標をなくしてしまいます。これからもそういう作用が常に働いていると考えなくてはなりません。

心静かに観察し、その時が来るまで、付和雷同する社会に迎合し自身を貶めないよう堅持しなくてはなりません。

天からのメッセージにはそのための多くの智恵が含まれています。あたらしい段階は私たちのこのような洞察から始まる行動指針こそすなわち創造の実践です。

参照:  シェルダン・ナイドルニュース 2015年5月12日

この新しい世界に於いて、あなた方は意識改革を完了しようとしています。それはお金、銀行、或いは自分の意志決定のために誰か他の者を見上げる必要が無い世界です。あなた方は内側から良心(あながの天のガイドたち)と、単に他者と共に自分の暮らしを営むことによって得られる智恵に導かれることになります。この集合的な智恵は私たちの現実に於いては四つの社会的な法によって統治されますこれらの法は、私たちの他者との対話の方法や組織的な成長方法を常にモニターするために私たちを導きます。私たちは途上でのお互いの聖なる奉仕を強調し、社会が遭遇するあらゆる問題を集合的に解決する賢明な方法を与えてくれる暮らしの導きに喜びを感じます。流動的な管理は社会の一員が相互に集まりお互いに光に尽くせる方法です。それは私たち全員を重んじ、真の名誉の光の中でお互いを自由に見させます。それ故に、私たち一人一人は天を重んじ、自分を他者と同等に見ながら生涯を過ごします。私たちは皆が個人であると共に壮大な相互に関連し合う集合であることを学びます。

 


真の学問と学の階級

2016-05-23 21:05:25 | 道・真理・ Deshi A

2015年11月22日

21世紀が感性や直感だけの世界になるような風潮がありますが、確かに今までがあらゆる面でマニアル化され自分自身を見失っていた時代ですから、感性や直感という気づきの段階が必要でした。

しかし人は個々それぞれの進化の存在で、多種多様な環境に置かれています。21世紀は太平の世、大同世界に入りますが、今までの経済中心の汚濁の世界は徐々に風化して、生命本来の道徳的環境が復活してきます。

そこは神々の奇跡、無限の叡智の世界です。自由と尊厳を回復する美しい生活空間ですが、汚れた土足で踏み込むことはできません。身の丈にあった入り口が用意されてます。それが学問の機会です。

學問の道は極めて広泛で奥深く、一生かかっても極めつくされるものではありません。
これを会得するのに、平易な物もあれば困難なものもあり、滑らかなものもあれば険しいものもあります。何れも努力を必要としないものはありません。學問は人に及ばないものであるが、又人より失い易いものであります。ちょうど逆水に船を漕ぐようで、進まなければ即ち後退してしまいます。限度が無いから自分の程度が分かりません。學問は真理に近づく道でありますから分野や性質が違っても完成への到達点は一つであります。

人によって道程の差異はあっても、極めるのに純粋性がなければなりません。頭脳・性別によって早晩の別はあっても、熱意が欠ければ不可能です。孟子は「学問への道は放蕩化・散漫化した心を収めることに外ならない。」といわれました。堕落・怠惰した心に鞭を加えて、奸巧なく精勤し完成にいそしむことです。いかなる道であっても、習い學ばなければ成就できません。

老子は、「わたしは聖人ではない、學んで知ったのである。」といわれました。
孔子は、「わたしは、生まれながらにして道を知り物識りになったのではない、ただ古の道を好んで黽勉(勉強)怠らずして、ついに求め得ただけのものである。」また、「わたしは、何でも知っていると人は思っているらしいが、別に何でも知っている訳ではない。

ただどんなに卑しいつまらぬ人でも誠意をもって聞く時、袋の底を叩いて中のものをすべて外に出し尽くすように、その善悪・陰陽・因果その他何でも両端から説き質して本当のことを懇切に教える。それで教えを受けた人にとって、私は何事も知り尽くしているように見えるかも知れないが、ただ自分としての誠意をもって教えているだけである。」と謙遜されました。學問の大事は博く学ぶのと、深く思考することです。

大事なことを忘れず、変わらない熱意をもって追求して已まず、積極的に勉強して気を散らさず、日々発奮して気を換えてなりません。何れの學問を極めるにしても、自己完成の學を好むものにして始めて出来るものです。顔回(孔子の弟子)の「學を好み、怒りを遷さず、過ちを再びとしない」態度は典型的であります。

一人一人の霊気によって頭脳も違います。これを孔子は、人間の天禀には四通りの等差がある。第一は、生まれながらにしてあらゆる徳義を知り尽くしている者があるが、これが最上級である。(恐らくは聖人がこれに当る)第二は、学びてこれを知る者が次であり、
第三は、初めは學に心坐さず、いよいよ行き詰まって困ったあげくに苦しみ苦労して学んでやっとわかる者はその次であり、第四に、行き詰まって困りながらも学ぶことを知らず、苦しんで学んでも大事なことの分からない人、学ぶ気のない人は、更にその下である。と、四段階に別けて論じられました。

學問は中道の道に達してこそ円熟が得られます。中道の道に反した學問の存在はあり得ません。孔子は、子路に六言六蔽を引用し學問の重要性を説かれました。つまり學には仁、知、信、直、勇、剛の六つの徳目があり、學を好まない為に生ずる六つの弊害が起こることを知らしめたのであります。

一、仁徳・美徳を好むことは極めてよいことであるが、學をこのことをしないと、愚の弊に陥り陳腐します。お人好しの行き過ぎは愚かであり、人に欺かれます。愛着に溺れると反って人間を害毒します。

二、知を好んで、それと共に學をしてよく磨くことをしなければ、空想・妄想家になり、一人合点して取り留めのないことを考えます。行いに締りがなく、ただ徒に高きに馳せ、広きを喜ぶ弊に陥ります。

三、信を好んで學を好まないと條理を弁えず、真実の信を弁えなければ、只徒に盲信してその言葉を守り、間違った約束を守って悪い仲間に落ち入り、物事を傷り害う弊害に陥ります。

四、直を好んで學を好まないと、人間を相手にして人間以上のものを求め、相手に無理を強要し、相手を生かさずに傷つけ責めるのを急ぐあまり、狭くてゆとりのない窮屈な弊害に陥ります。

五、勇を好んで學を好まないと、物事の道理が分からなくなり、乱暴・我儘になります。
徒に人に加える方面にのみ働くから、その末は、叛乱さえも起こすに至る弊害に陥ります。

六、剛を好んで學を好まないと、物事の道理が分からず偏見・狂気になり、落着するところを失って、徒に力を振り回す狂者の弊害に陥ります。要するに六者は美徳ではあるが、その美徳を全うする為には、広い見識を立てる為の學が必要であることを教えたものであります。

これによっても如何に學問を積むことが肝要であるかが想像されましょう。學問家とは、傲慢・不遜の態度をさしているのではなく、學問臭いところがないのが真の學問であります。學の階級は継ぎの五通りの段階に区別されます。

すなわち変化學、認識學、治平學、理数學、性心學であります。これを説明しますと、

一、変化學
これは、通常の社会人が知っている狭義的な変化學ではなく、極めて広い範囲の意味を含んでいます。すなわち神から与えられた宇宙・万象すべての物質が人間の頭脳の機知変化によって一つの物体、一種の利用価値のあるものに創り出されることを変化學といいます。自然的形体から人為的加工体に造り換える學問であります。一脚の机をもって例えると、机の本質も元は樹木で、人間の加工によって変化したものであります。茶碗の元は粘土であり泥であったが、人間の手によって型作られ、それを炉に入れ焼かれることによって成り立ったものであります。一組の機械も同じことで、元はただの鉄や鋼にすぎませんが、人間の精密な研究と努力とによって組み立てられたものであります。数種の物質を応用加工して一個の生産機に造り換えるには、多大の精神力と代価を払わなければなりません。数多い試験と失敗を繰り返してから漸く成功します。また、性能の低いものから性能の高いものへ、粗末劣悪の品質から優良精密の品質へと改革・改良していくには相当の努力を必要とします。生産の遅い、旧い悪い形のものから理想的な新しい良い型のものへと造り換え、自動大量生産化していく、これらの能力を有している人を発明家、又は學士・博士とも言います。工学、農学、建築、物理、化学などはこの中に含まれます。士とは、成功者対する美称であり、學とは、浅きから深きへ、悪しきものから好きものへ、不理想から理想へ、工夫改善することで、博とは広く見聞や研究をされた意味を表します。

二、認識學
これも広義的に説く認識學であります。すなわち宇宙間、上は日・月・星座星雲の天体から、下は河川・山岳・海洋の一切、中は動物・植物・鉱物の動・不動の形物に至るまで如何なる品名と性質を有しているか、その形態の状態とによって、どの地方に生産・発生されるか、どうして始まり、どのような経過を辿り、如何なる結果に終わるかなどを詳細に解明する學問であります。また、天地・気候・年代・潮流とどんな連携をもっているかが認識でき、そして人間に有効であるか否か、応用できるか否かなどを見極める學問です。
一つの薬物がどれ位病体・病状に影響するか、薬効の正確な判断は難しいことであります。一つの薬品が化合して何種もの物品の製造に役立つかを知ることも容易なことではありません。生物・天文・歴史・地理・考古・医学等はこの中に含まれることになります。
これらの能力を有している人を見聞家と称し、あるいは博士とも言います。

三、治平學
これは、徳を以て世の中を和合させ、統治する學であります。我々によって発明・製造された一切のものは、人類が享受する為に為されたはずであり、人々の便宜を図り、人々の幸せを思うがために尽くされたものであります。例えば花壇を造園するのも、人々に鑑賞させ楽しませるが為であり、一つの機械を発明するのも、我々に利用させ生活をより良く向上させるが為で、飛行機・気車・電車・船舶・自動車等の発明も、目的は人間の心を快適にさせ満足させるが為に追求されているに他なりません。人間最大の希望は永遠に争いのない、苦のない、不便のない、太平の幸福にあります。人間の本質は、決してそれを悪用して人類滅亡や幸福を脅かすことなく、又不幸、貧困、戦乱、災禍のない理想的な世界の実現を希望しています。しかし、有史以来の世界は、時には乱れ、時には治まり、不正常であります。人類の熱望するところの幸福の為には、昔から沢山の立派な英雄・豪傑や政治家が現れて暴虐を除き、善良な民を安護してきました。禍や災難を治めて平和たらしめ、天下の同胞が一方の塗炭の苦しみから解脱せしめ、不安恐懼のない安居楽業の生活を享受させました。範囲の広い幸福を計った人ほど人から崇拝敬慕され、これらの能力を有している人を治平家、または英雄と称されます。文学・教育・法曹・政治・経済等はこの中に含まれます。

四、理数學
この理数學も現代社会の知っているところの狭義的なものではありません。広義的理数學は、天地の開闢を知り、日月の盈虧を計り、陰陽の消長、寒暑の往来、世道潮流の変化、時運の変遷を理数の上から計算して悟得する學問のことであります。人心の善悪を弁別でき、時勢の推移を見通し、事の成敗、過去・現在・未来を的確に判断・計議できる能力を有している人を知識家と称し、また賢人とも称されます。易学・哲学・心理学・預言者などはこの中に含まれます。

五、性心學
この性心學も現代社会で知っている所の性心學ではなく、むしろ現代社会の知らない性心學であります。これは、先天・後天の在り方、宇宙森羅万象を含む一切の有形無形のものの創造理を悟り、それに通ずる學であります。すべての物体は、この定理・定数の範囲から出ません。物事の終始本末を悟り、万古不易の真理を定義し、由来と未来の理を確立して人類を苦の因果の梱縛から脱せられる法を参悟する學であります。霊の浄化、心の洗浄法を会得することは至難の業であります。どんなことでも、根本原理を追求して至らねばなりません。この原理は、千秋万古を経て真であり、常に不変の存在であり、如何に攻撃打倒しようとしても不動体であり、どんな強力な力でも覆すことはできません。この真理を求め、これを掌握し、大霊に融合する「道」を得た人、それに到達した人こそ最高の學を修得する人と言えます。前記の仕事を為し得られる人、または、これらの能力を有している人を知慧者と称し、あるいは聖人とも称されます。神學・宗教學はこの中に含まれ、老子・孔子・釈迦・観音菩薩・達磨大師・キリスト・マホメッドなどはこの域に達せられた方々であります。

我々が学んでいる「道」は、すなわち性心學であり、最高位にあたる貴い存在であり、學の五階級の中でも第一等に算えられますが、さらに性心學は五段階に別けられます。

【粗理】=あらいり
聖人は、幽玄なる奥理を人に説明するのに、人によって法を説く関係上、 普通一般の人に説くのを主旨とされています。これは、因果応報の的確と、宿業罪業の報復を「瓜の種には瓜の実、豆の種には豆の実」と述べられています。すなわち善を為せば善の果を得られ、清白の行いがあれば清白の報いがあり、時期が到来すれば必ずその報いが来るという平易な理であります。一般人はこのような啓発によれば一番目覚め易いからであります。

【細理】=こまかいり
聖人が程度のやや高い知識層に説く主旨であります。聖人は、人々に道徳・倫理の根本を教え、義理と人情の必要を説き、禮教・仁愛の大事を納得させました。社会は、天下の人の社会であって、自分1個人の社会ではないから、相互の親愛がなければなりません。だから生きている以上は、人を愛し、世間の危機を救い、己の態度と行為を正しくし、意を誠にし、心を正し、身を修め、家を斎へ、国を治め、天下を平和にする順序を明らかに知り、対人関係に必要な孝・梯・忠・信・禮・義・廉・恥を具備することを教え、人格・教養・道徳を円満に修める為、必要な理を教えるものであります。

【微理】=かすかなり
聖人が程度の一番高い知識層に説く主旨であります。聖人は、聖書・経典を根本にして宣揚し、人々に聖人と凡人、仙人と俗人、仏と衆生の元は完全に一体であり、同様であることを示した理であります。我々の元は一様に、天地創造神・造物主から賦与された霊を持ち、父母から生育された身体を有し、天地から扶養されて生活していますが、ただここに迷いと悟りによって天淵の差に別れてゆくのであります。この理をいち早く悟ることを教えたのが微理であります。もし、明師から真傳心法の伝授を受けることができれば、人々は皆聖賢仙佛に成れましょう。ただ、切実な決心があるか否かによって分別されていくだけであります。この理を悟って偉大なる決意を持てば、万古流傳の名声を獲得できることは言うまでもありません。

【玄理】=おくふかいり
博く千経萬典を覧て、自己の真霊をますます深い玄理に結びつけて、日夜修行煉磨することであり、自己の霊光をいよいよ純熟に仕上げてゆくのを参玄と言います。

【妙理】=たえなるり
ここに到達した人は、もう一宗一派の所説に偏狭することはありません。最高の真理を掌握し、態度は超然として深い妙理のみを悟得師、自分の真なる智慧を発揮して不変不易の理想境界へ至ろうとします。これを「妙を悟る」といいます。まず、妙を悟ってこそ「道の真諦」を発揮でき、輪廻と煩悩、因果と恐懼を脱れて人々に人生の最高幸福を悟らしめることができ、この工夫に到達できる人の學は最高至極と言えます。

以上が性心學の大切を述べた論説で理論上,學問の根幹をなしているものであります。

※「性」とは「霊」とも言います。仏性とか真心とも言いいます。