道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

道の淵源~達摩大師伝『下巻』(完)

2014-09-12 02:29:29 | 達磨寶巻

 

達摩大師伝『下巻』(完)    

十二.大師、宗横を宗正に改め、寶巻を示す

 感激溢れる宗横の言葉を聞いて、大師は

「善哉、善哉。汝はいま、大いに惺(めざめ)悟った。我が門弟として恥ずかしくない。この機會をもって、汝の名を宗横から宗正に改めよ。この宗の字は、小さい事ではない。本来の祖家根源であり、その宗主である。只、汝が迷って悟らなかったため横をもって名としたので、これはまさに祖家の不二の法門をまさしく乱し扯(さ)き横行するものである。眞正なる口傳妙訣に遇り會わなければ、どうして法門に入ることが出来ようか。

 いま正の一字に改めれば、先天の正理を明らかにし、単傳の正法を領悟することができよう。務めて須く己れを正しくして人を化し、後の人をして宗源の祖脈を認め定めてよく返本還源させれば、その宗を正すことが出来るのである。宗横の名を宗正と改めさせたのは、正法の深い妙蘊を明らかに汝に教えたかったからであって、いま汝は眞如の性を了悟した。ここに始めて、従前の心の用い方が錯(誤)まっていたことを知ったであろう。祖から祖へ佛の心印が相傳えられ、師から師へ承接して大道が盛んに興った。

 いま汝は、単傳の正訣を領した。無字眞經は、最も上乗である。元機道理は実に緊(厳)しきを要し、末後一着を軽んじてはならない。幸いに奇縁があって、究竟の涅槃を得た。道教から転じて佛教となったことは、欽服にたえない。もし師が憐憫を施さなければ、汝の身はどうして苦淪から出ることが出来たであろうか。従来の三教は道を本とすべきで、性と天道は聞くべからざることである。

 存心養性(そんしんようしょう)して孔聖(孔子)に遵い、『中を執って一を貫く』を幾人が明らかにしているであろうか。六經諸史は治世の論であるが、大学中庸は卒性(そつせい)の憑(あか)しである。

 修心煉性は道祖の定めであり、元を抱きて一を守れば大いなる根を生ずる。治世五千のうちに玄妙が蘊(ひそ)み、眞訣は清浄經に外ならない。

 明心見性は佛の本であり、萬法帰一の理は幽玄にして深いものがある。千經萬典は憑証となるが、最上の一乗は心經に乗載されている。

 初めての龍漢劫には、四字が命となっていた。先天の龍華には、燃燈古佛が主掌していた。

 中天の赤明劫には、六字を命としていた。釋迦が命を奉って、原根を度していたのである。目前に三會が近付いている。これを延康劫という。玄玄上人たるラウムは涙をとめどなく流されている。六萬余年来の陽気は既に尽きた。皇胎が東林の世に苦しむのを見るに忍びず、瑤宮から十字の令を傳え、彌勒に勅令して普渡を興そうとされている。

 諸佛諸菩薩は幇(たす)け襯(やく)となり、まさに九十二億の救われなかった原子(もとのこ)を回程(かえらす)のである。諸仙は、凡の境(よ)に下って會同される。萬霊眞宰は、全てに化身されて、人間界に赴かれるのである。吾はもと、西方(天竺=印度)において佛果を証した。はじめて佛命を奉じ、二十七代の祖師の命を受けて東林(震旦=中国)に赴いて来たのである」

 ここで大師は、暫く黙ってしまいました。宗正は、大師を拝して

「どうぞ、弟子にお話をお続け下さい」と乞いました。

「始めに梁の武帝を度(すく)おうと思ったが、玉棍(棍棒)で打たれた。その後、神光を度して祖の法燈を継がせた。いま汝宗横に遇り會って法を授け、宗横を改め宗正とした。西来の妙意を悉く指示して陳(の)べたが、我が単傳の法を領受したならば、我が命に遵守(したが)わなければならない。先前の道心を乱すようなことを学んではならない。天機を心に抱きて、謹慎を要すべきである。

 慈航を穏やかに駕して原人を釣(えら)び、忠孝節義の人を引(みちび)いて正に帰させなければならない。よき佛子と佛孫になれ。久しからずして一花五葉は尽きて千門萬戸が群がり興り、假りが眞に混じるであろう。天地の位が定まれば、萬霊は正しくなる。普渡し団圓すれば、道果は成就する。末後の龍華は、末刧の會である。斗牛宮(北晨)の内に根生を訪れよ。縁あり分ある者は、吾に随って進め。縁なき者は、紅塵に堕落するであろう。迷昧の者は、我が論ずるところを行ない難く、知覚の者は常に玻璃燈を観ずることができる。始めの一竅を守れば、定静を知る。六神を収回すれば、中庭に到ることが出来る。

 基を築き己れを煉って次第に進めば、採薬して丹を抱いて昇ることが出来る。炉を移し、鼎を換え、時を知って、正しく文武の火侯は老いと嫩(わか)きを分かつ。

 沐浴して温養すれば週天は定まり、二六時中法輪が転じて停留しないであろう。小週(こまわり)から大週(おおまわり)に至って定まり、三十六宮はすべて春となる。この時に至って萬境はともに寂し、性は圓明となる。一念も起こさなければ、大丹は成就する。嬰児も三年哺乳で嫩く、面壁九載を記せば飛昇す。

 ここに、一つの週天の玄妙を汝に説き尽した。ただ望むらくは、知音の人の功果が純熟になることである。一人一人丹書が来て、招請される候(とき)を待て。霊山會(りょうざんえ)の上において娘親(ラウム)に見(まみ)えられよう。九品の蓮台に一分の賞あり、歴代の玄祖悉く超(すく)われ昇らす。九十六億の原子は揃って瑤宮に進めば、龍華三會に大乗の九品が定められる。上中下の品は功によって定まり、一人一人の功果が圓満になれば蓮心に坐れる。天と歳を斉しくし、改められることがない。逍遥としてその快楽は、古(とこしえ)に亘って存するのである。例え功無くとも正に皈依せば、白陽の延康劫に落ちて正根を失うことはないであろう」

 大師は法を悉く宗正に傳えて、東来の使命を圓満に果たしました。無尽の法語を語った大師は、弟子宗正を愛(いとお)しみ、柔らかい眼差しを投げ掛けて結びの詩を述べられました。

 「一巻の法語は萬品を包む。

  三教ともに不二の門に帰す。

  言言は眞の原性を道破して

  句句に祖根の開通を生ず。

  これは、三期の大把柄(だいにぎりえ)にして、

  祖師の慈悲、後音(後の人)に露(あら)わす。

  この書の在るところ、神の護り定まりあり。

  若し、穢し汚すことあらば、過ち軽からず。

  人ありて遇り會えば、常に恭敬すべし。

  されば災星を掃き去りて福は門に臨む。

  果たしてよく力行せば功進み加わり、

  永遠に菩提を証すること萬萬春。

  偈に曰く

  『達して道に至り、經に通ぜば号して眞詮なり。

   摩訶(まか)なる掲諦(ぎゃあてい)は世間を度う。

   寶は一花と五葉に秘め、

   巻は三千および大千を包む』

 西方の佛祖、妙經を傳う。

 華厳海に會するを悉く遥かに聞く。

 斗柄、南を指して六陽尽きる。

 牛女(牛宿)、西に會して萬霊興る。

 郷児に普及して定静を覓(さが)し、

 海を渡れば艄公(船頭)願心を了(はた)す。

 生死の輪廻斉しく抛り尽くし、

 霊山極楽に帰りて、永遠に傾(ころ)ぶことなし」

 大師は宗正に法を悉く授け終り、元来た道に向かって歩き去りました。宗正は、何時までも座を立とうとしませんでした。

(完)

 Deshiより~古い文言が多く、中には違和感を持った方もいたと思います。これを現代的に解りやすく表現すれば、スピリチュアル世界ともかなりに共通性があります。これまでの人類の道義を秘密の内に支えてきた道の伝承は、やがて宗教の中の真理として、修道を極めた聖人にのみ伝えられました。


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