道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

道の淵源~(三)孝親の法論

2016-05-20 04:20:41 | 達磨寶巻

(三)孝親の法論       

「恭敬して誠に虔(つつ)しむのが尊親であり、名利が成就することが栄親であり、晨昏(あさゆう)に親を顧みることが敬親であり、老いを労わり養い奉ることが養親であり、一度呼ばれて百諾するのが即ち順親である。これは、後天倫常(道徳)の道である。これらを通じて、一字の順の字で貫かれている。何をもって親の恩に報いればよいか。これには肉体的な面と、霊的な面とがある。

肉体的な面は小さい孝行であり、目前の孝行である。勿論これには可能と不可能の状態があるから、誰しも出来るとは限らない。汝のように今親と離れている現状では、この小さな孝行の一部すら実行不可能である。

 もう一つの孝行は霊的の孝行で、親の霊を地獄の苦しみから脱離させ生死の輪廻を解脱させ、永遠の極楽浄土へ帰らせて逍遥自在を得させることである。これが最大の孝行であり、永遠の孝行でもある。これは誰しも行なおうと思えば出来るし、窮極的な孝の道を全うし、親の生養の恩に完全に報答できるし、これを九玄七祖(きゅうげんしちそ。九代の子孫と七代の祖先)に及ぼすこともできる。汝は、そのように嘆き悲しむことはない。眼前の孝養を尽くせなくとも、永遠の孝道を全うすればよい」

「それには、どのようにすればよいのですか」

「道を求め正法を得、返本還原の道を修め行じ、内功外功(ないこうげこう)の行を完成すれば玄祖を超抜でき、初めて両親の限りない恩に報いることができるのである。これを全うし得た人を、全一孝子と言うべきである。今汝は道人と詐(いつわ)っているが、道を成す故を知らない。親を放って遠くに遊び、徒に終日を過しているが、恐らく父母がどんなに待ち望んでいるかを知らないであろう。今細かく示し明かすから、よく聞くがよい」

 宗横は伏して、大師の言葉を一句も洩らすまいと聞き入っていました。

「親が孩児を大きく撫養するのは、将来悲しい喪送(野辺の送り)の孝人となって欲しいためである。どうして道人の心は、鉄に似て堅いと思うことができようか。両親を放り別れて外地に行くことは児として別に問題は無いが、児を思う親心は箭(矢)で射られるようなものである。或いは食なくして子の腹の飢えるのを憂い、或いは着るものが無く子の身を遮ることが出来ないことを怕れ、異郷において踏脚(放浪)するのに投奔(みをよせ)る所の無いのを憂い、眼で見るのは生人(みしらぬひと)ばかり、誰か親(親戚)でもいるであろうか。紅日(陽)が西に沈むのを見れば、その悲しみに凄惨を添える。悲しみは切々として房門(家)を守り、三春(旧暦の一月・二月・三月の三か月間を指して言う)来て花開くとも、鶯(ウグイス)の声は恨みを帯びる。九秋(秋の九十日。三か月間のこと)に菊開くとも雁の声は悲しみに鳴き、夏至に子規(ホトトギス)が草原に啼き、冬が来れば斑馬(しまうま)の鳴く声は蕭々(しょうしょう)として悲しく、睡覚の時には三更(午前零時から午前二時の間)の夢に児が帰るのを見て吟々と笑う。然れども忽然として夢から覚め児を探しても見ることが出来ず、涙を含んで月星を望み、枕辺に傷心の涙を流し尽し、堂前に両眼の睛(たま)を穿つほどに子を望む。ある時は書を傳え、信(たより)を送って子の心が転(かえ)るのを望む。面(かお)を會(あ)わす人、みな親(親戚)のないのを憐れみ、この心誰に問いかけるべきであろうか。神に求め佛を拝し、より多くの保佑を願い、孩児が家門に転(かえ)ることだけを願うのである。ある時は籤を引き、卜(うらない)に問うたとて霊験が応じることもなく、香を献じて願いが許されるのを乞うても信音(たより)がなく、両親と離別しても猶自分で可(よ)しとし、波のように漂流して放蕩し定め寄る処がない。

道衣、道帽猶厳たりと言っても、どうして三清(精・気・神)と五行を知っていようか。山へ朝(まい)り廟を拝み、四方に乞い、眞を滅して假りと化し、迷いの人を假り哄す。三災八難があっても顧みる人なく、同伴の道友に幾人の眞の人があろうか。或いは菴堂に住み、或いは寺院に巣食い、徒に經巻を誦え、光陰の時を過す。只、仙を修めて道を悟ることを説くが、どうして根元は尋ねる処の無いことを知ろうか。我は今、一言をもって道破する。どうして虚(いつわ)りの様を装い、虚りの言葉を聞く必要があろうか。佛法僧の三寶に皈依するとは、自分の精・気・神がこれである。感応も慈悲も忠恕も、三教は原来同じ一心である。仙の道は、もと人の道から起ったものである。西方(極楽界)は、全て忠孝の人である。斎を持し、戒を守って大道を成じ、祖宗と諸親を超抜することが肝要である。今我は、汝に一つ一つ説いて聞かせたが、これはひとえに汝の身を苦淪から救い出そうとするものである。只今は、聖凡の全てを道破した。今汝が、我が身を師として拝んだことを無駄にしてはならない」

 宗横は師の温かい言葉と情愛を身内に深く感じて、後悔と感激に打たれ、哭泣(こくきゅう)に堪えず。暫くした後、大師に向かって

「今後は一心一意、邪を改め正に帰し、正等正覚(しょうとうしょうかく)を修め悟り、これによって両親生養の恩に報答いたしたいと存じます」

 ここに宗横は、改めて大師に向かい

「どうぞ、私に正法をお傳え下さい」

と哀求しました。

 続く


道の淵源~達磨大師伝(2)

2016-01-01 13:01:49 | 達磨寶巻
達摩大師伝『上巻』(二)                                      

二.大師、梁(りょう)の武帝と論法す

梁の武帝は元の名を蕭衍(しょうえん)と言いますが、全国に寺院や堂塔を数多く建立し、布教師を各地に派遣して説法と教化に当たらせるなど、極めて佛心(ぶっしん。佛教に対する信仰心)の厚い帝王と言えます。

国中至る所に五里に一つの庵を設け、十里に一寺院を建立して佛法の徹底を図られたほどの力の入れようです。そこで当然の事ながら印度から天命を奉じた名僧が入国したのを聞いて、佛道を更に深く究めようとされました。

大師も一見して道の後継者に相応(ふさわ)しく、武帝に法を傳えれば多くの衆生を目覚めさせることになろうと考えて、この対談に臨みました。

武帝「余は即位して以来、寺を造り、經を写し、僧を養い、衆を渡(度)す(どす。救う)こと数限りない。これらの業績による功徳は如何程あろうか」

大師「何の功徳もありません」

武帝「何をもって、功徳が無いと言うのか」

大師「それは只、ささやかな善行に過ぎず、煩悩の原因となるだけであって、言うなれば形に従う影のようなものです。功徳があるように見えて、実は無に等しいものです。叡智(えいち)は妙圓(みょうえん)であり、体(たい)はすなわち空(くう)です。このような功徳は、この世で求めるべきではありません」

武帝「何を聖諦第一義(しょうたいだいいちぎ)と言うのか」

 大師は、これに対して簡単に「廓然無聖(かくねんむしょう)」と答えました。

武帝は聖なる眞理、佛法の第一義つまり根本原理、究極の眞義は何かと質問したのです。これに対して大師は、大空が爽快に晴れ渡って一片の雲も無い(廓然)ように、大悟の境地には聖諦と俗諦(ぞくたい)、佛と衆生、悟りと迷いというような互いに相反する二つの概念を二元的あるいは対立的に捉えようとする意識は全く存しないと言う意味の返事をしたのですが、もちろん武帝がこの意味を理解できるはずもありません。

武帝「余に対する者は誰か」

大師「識(し)らず」

 余りにも冷たい返事に怒りを覚えた武帝は、言葉を荒げて

「汝、西域から来たならば、本性に通じているはずだ。人の生死(しょうじ)の根源が分かるか」

 大師は平然として

「識っているようで知らず、知らぬようで識っています」

と答えました。

 これに対して武帝は、詩を作って大師に訊きました。

「幾世(いくせ。一世=三十年)人間と生まれ、幾世をもって足るや。

幾時(いつ)から酒と肉とを戒め断ったか。

将(まさ)に何をもって君恩に報ぜんや。

誰が汝の眷属(家族・親戚)なりや。

昼間(ちゅうかん)は何処(いずこ)に行って縁を化し、夜間は何処に向かって宿となすか。

吾は将に八句をもって汝に問う。誰が天堂(極楽・天国)で、誰が地獄か」

 大師も、すかさず詩をもって答えました。

「吾は九世人となり、十世をもって足る。

母の胎内を離れたときに酒肉を戒め断つ。

吾は将に經巻(經典)をもって君恩に報ず。

菩薩は吾の眷属なり。

昼間は千家(多くの家)の門戸に立ちて縁を化し、夜間は茅(あばら)の庵に向かいて宿となす。

吾は将に八句をもって汝に返す。吾は天堂であり、汝は地獄なり」

 最後の詩の一句が理解できない武帝は、大師の心を知らず、怒髪天を衝くばかりに怒り出しました。

「この和尚(おしょう)め。全く道理を知らぬ奴だ」

 大師は、平然として言葉を返されました。

「吾には窮まりない道理があるが、帝にはその事がお分かりにならないでしょう。帝にこそ道理が無いのであって、吾に道理が無いのではありません。吾に対してこのように仰せられた帝の将来に、何の良い事がありましょう」

 これを聞いた武帝は、激昂して

「余は今までに五里に一つの庵を建て、十里に一つの寺院を建立している。庵や寺院は気まぐれに建てたものではなく、佛道を宣揚するためである。すでに大勢の僧侶を養成して、方々に遣わしている。それだけでも、無量の功徳があるはずである。ところが汝は余を地獄と罵り、将来に良い事が無いと言った。瓢(ひさご。ひょうたん)を提(さ)げ杖を頼りに十方(じっぽう)を乞食(こつじき)している貧僧が何で天国であり、そうして何で深い道理があり、また何の良い事があろうか。戯(たわ)けたことを申すな。もう我慢がならぬ」

そう言い放つと武帝は、「直ちに首を刎(は)ねよ」との命令を発しました。大師は、泰然として答えました。

「私の体(たい)は虚空に懸っているから、誰も私を斬首することはできないでしょう」

武帝「汝三歩進めば死し、三歩退けば滅ぶであろう」

大師「それでは横に三歩歩けば、何の妨げもないでしょう」

 この言葉に愚弄されたと思った武帝は、即座に文武百官に命じて

「この僧を西廓(さいかく)の所に監禁せよ。罰として明日高台を設置し、その台の周囲に四十八巻の經典を蓮華の形に積み重ね、その上に座らせて説法させよ。もし眞(まこと)の僧であれば、自然に明心見性(みょうしんけんしょう)ができて、大衆が満足するような法を講ずることができるであろう。もし假(仮)り(いつわり)の僧であれば、そのとき自然に罰が当たり、天譴(てんけん。天罰)を受けるであろう」と、武帝は怒りのために身を震わせながら言いました。 

 その夜、諸々の文武高官が大師を訪れ

「和尚、あなたの来歴をお聞かせください」

と尋ねました。そこで大師は、謎を含めた言葉で諸官を悟らせようとしました。

「諸々の大臣よ、これから私の言うことをよく聞かれよ。私は混元一気(こんげんいっき)から来た。無生(むせい。無生ラウム)が私の親である。幼名は小皇胎(しょうこうたい)と言い、兄弟は非常に多く九十六億あって娑婆の世界に住んでいる。或る者は朝廷にあって天子となり、或る者は大臣高官となって快楽を享け、或る者は富貴栄華の家庭に生まれて財を恣(ほしいまま)にし、或る者は貧乏な家庭に生まれて苦しみに喘ぎ、或る者は罪多くして四生六道(ししょうろくどう)に輪廻(りんね)し、また中には参悟修練して神仙・菩薩・聖人の位に達している者もいる。この魂の兄弟たちは、寅の會(かい。一會=一萬八百年。天の時は、子の會から始めて亥の會に至る十二會すなわち十二萬九千六百年をもって一巡し、この周期を一元と言う)に別離してから今日まで数えて六萬年經っている。私が今ここへ来たのは、無生の命を受け、努力して兄弟たちを早く故郷(理天)へ帰らせんが為である。それなのに却って笑われ、あるいは誹(そし)られ、吾の言など一向に聞き入れられない。西方の地に帰りたくても、まだ目的を達していないから帰ることもできない」

 これを聞いた文武百官は、大師の言葉の眞意を悟ることができず、むしろ大師は気が狂ったのではないかと訝(いぶか)って一人残らず退散してしまいました。

 翌日大師の噂を聞いた都の人々は、朝から高台の周囲に集まり、黒山のような人垣を作りました。正午には、武帝が文武百官を従えて貴賓席に姿を見せました。

 大師は高台に登って蓮台に座り、四十八巻の經典を一通り見渡しただけで、言葉を発することもなくじっと黙り込んでしまわれました。

 大師の道は無字眞經(むじしんきょう)であり、以心傳心の法ですから文字によっては人に傳えられません。勿論大師は一切の大蔵經(だいぞうきょう)に精通されていますが、大衆が文字經文に執着することを惧(おそ)れ、敢えて口を開かれなかったのです。

 何時まで經っても大師が一向に口を開こうとしないのを見て武帝は、

「汝に經を講じ法を説けと申し付けたのに、どうして一言も吐こうとしないのか」

と問い質しました。大師は、武帝の目をじっと見据えて

「見性すれば一転して三千巻、了意すれば一刻にして百部經。

迷いし人は西来の意を知らず、無字眞經は世に尋ね難し」

と詩で答えました。

 武帝はその意を解することができず、大師を狂人と見做し、心の底から怒って

「棍棒をもって、この和尚を叩き出してしまえ」

と左右の護衛官に命じました。

大師「叩き出されるまで待っている必要は無い。貴方は恐らく福を断たれて、台城に於いて餓死し、瞑目できないであろう」

武帝はこの言葉を聞いて益々怒り狂い、「速やかに追い出してしまえ」と命じました。

 大師は、一斉に打ち掛かってくる棍棒を僅かに受けたものの、軽々と身を躱(かわ)して殿外に難を逃れ、

「無縁かな、無縁かな、無縁かな」

と如何にも嘆かわしく三唱し、詩を吟じながら行く当ても無く歩き出しました。

「富貴の人を歎く。假(いつわ)りの名利の中に迷う人が余りにも多い。

塵の世の衆(衆生)の皇胎(こうたい。肉体)は、概ね紅塵(こうじん。この世)に困苦を味わう。

只、紅福(幸福)を享(う)け、勢力・利益の僥倖あれと願うのみ。

気が付けば、何時の間にか孼(げつ。罪)を重ね、その債(おいめ。借り)を背負ってしまっている。

梁の武帝、佛縁を結んで人爵の分は少なくないものの、惜しいことに彼は寃孼(えんげつ。罪)重く、一竅(いっきょう。玄関)を開く意味も解せない。

只心配なのは、福が尽きた時、彼の身に災禍が降り掛かることである。

将来、寃(つみ。罪)は寃を生み、やがて台城で困死することになろう。

佛はこれを忍びず、特に吾に命じ、前もって彼を指惺(しせい。指破)させようとしたが、遺憾ながら彼は迷昧すること甚だしく、全く我が意を理解することも出来ない。

已(や)むを得ず法船に乗って、また別郡に行くほか無い。

四部洲(*)を巡り歩き、有縁の人を尋ね訪れることにしよう」

(* 四部洲。須彌洲を中心に、東西南北の順に勝神洲・牛賀洲・胆部洲・倶盧洲に分かれる四部大洲。すなわち都の周辺諸国を指す。)

 詩を詠い終って大師は、金陵の都に渡すべき人がないのを悟り、機の至らざることを知って十月十九日密に江北に廻り、十一月二十三日洛陽に着きました。

周 武帝

 (続く)


道の淵源~達磨大師伝(1)

2015-12-30 23:48:26 | 達磨寶巻

2015年12月30日                 

「道」を伝承する明師 達磨大師の物語をご紹介いたします。はじめは少し難しく感じるかもしれませんが、印象に残ることがあればそこを入口として必ず「道」の真髄に至ることができます。本ブログで繰り返していますが、キリストが「吾は道なり真理なり、性(命)なり・・・」と伝えてきた「道=真理」は同じ道理で、達磨伝の「道=真理」と異なるはずがありません。

西アジア・東アジアと地域が違っても伝える師が違っても、「道=真理」の真髄は違わず天地造物主によってこの人類救済の機会が齎されています。本編は「先天解」と言ってスピリチュアルメッセージと同じように次元を超越して、実際の真伝が伝承された状況についてつぶさに語られています。日本では優れた学識者によって翻訳されていますが、元の物語は高次の神仙によって中国で降ろされていますので、一語一句は深い真理を包含しています。やがて覚醒が進み人類が進化してゆく過程でこの中から多くことを学ぶことができます。

達摩大師伝『上巻』(一) 

一.達摩大師、命を奉じて東土に渡る

西暦紀元前五百六十五年印度中部迦毘羅城(かびらじょう)に釈迦牟尼(しゃかむに。釈尊)が誕生し、「道」の天命はやがて中国本土から西域印度の地に移されることになりました。

釈迦は青陽時代の明師である燃灯古仏(ねんとうこぶつ)から道統を受け継いだ後、正法(しょうほう。教化別伝・不立文字・以心伝心の法)である秘法を迦葉尊者(かしょうそんじゃ)に伝えて八十年の生涯を終えましたが、無量の衆生を教化挽回した功徳(くどく)によって仏陀(ぶっだ)の称号を受け、後世にその名を留めました。

迦葉は道統を釈迦の従弟である阿難(あなん)に伝え、阿難は更にそれを商那和修(しょうなわしゅう)に伝え、以後道統は次々に優婆毱多(うばきくた)、提多迦(だいたっか)、弥遮迦(みしゃか)、婆須密(ばしゅみつ)、仏陀難提(ぶっだなんだい)、伏駄密多(ふくだみった)、脇尊者(きょうそんじゃ)、富那夜奢(ふなやしゃ)、馬鳴(めみょう)、迦毘摩羅(かぴまら)、龍樹(りゅうじゅ)、迦那提婆(かなだいば)、羅睺羅多(らごらた)、僧迦難提(そきゃなんだい)、迦耶舎多(かやしゃた)、鳩摩羅多(くまらた)、闍夜多(じゃやた)、婆修盤頭(ばすばんず)、摩拏羅(まぬら)、鶴勒那(かくろくな)、師子(しし)、婆舎斯多(ばしゃすた)、不如密多(ふにょみった)、般若多羅(はんにゃたら)、菩提達摩(ぼだいだるま)と、単伝独授の形で伝えられました。菩提達摩は、釈尊(釈迦牟尼仏)から数えると西域第二十八代祖となりますが、「道」を東土に還した後は東土初祖ということにもなります(現白陽期に於ける明師である天然古仏は、達摩大師を初祖として仰ぐ東土第十八代祖に当たるわけです)。

菩提達摩尊者は、グブタ王朝の中頃南天竺国(みなみてんじくこく)・香至王(こうしおう)の第三王子として生誕され、姓は刹帝利(さつていり)、名は元(げん)、菩提多羅(ぼだいたら)と名付けられていましたが、第二十七代般若多羅の許に出家し、師から菩提達摩(Bodhilrha-Rma)の名を与えられました。

菩提達摩には目浄多羅(もくじょうたら)、功徳多羅(くどくたら)という二人の兄がおりましたが、般若多羅はこれら三人の王子と話し合った末、二兄に勝る菩提達摩を後嗣として選び如来正眼(にょらいしょうげん。正法)を授け

「心地(しんち)諸種を生ず。事によってまた理を生ず。果(功果)満ち、菩提円(まどか)に華(はな)開いて世界起こる」

と付言して菩提達摩を第二十八代祖としました。

 般若多羅に師事すること四十年、菩提達摩は聊(いささか)も怠ることなく、師が入寂(にゅうじゃく。帰天)した後も本国に留まり国内を行脚して大いに仏道と大乗(だいじょう)禅観の宣揚に尽くし、衆生の教化に努めました。

当時香至国に、仏大先(ぶつだいせん)、仏大勝多(ぶつだいしょうた)と名乗る小乗(しょうじょう)禅観の二師がいて、仏大先は般若多羅の在世中すでに師の門に入り、小乗を捨てて大乗に赴き師の訓導を受け正宗(せいしゅう)に同化したのに対して、仏大勝多は六つの別門すなわち有相宗(うそうしゅう)・無相宗(むそうしゅう)・定慧宗(じょうえしゅう)・無得宗(むとくしゅう)・寂静宗(じゃくじょうしゅう)・戒行宗(かいぎょうしゅう)と称する六宗派を立てました。

 大師は、この小乗禅観六宗の各宗祖に会って、逐次これらを論伏し、六宗を尽く正道に改宗させました。このため大師の名声は南天竺を覆い、他の五印度にも高まり、やがて遠近の学者たちが大師の名声を慕って風に靡くように続々大師に響応してきました。大師は数知れない多くの衆生を救い、甥に当たる異見王(いけんおう)をも終に教化しました。

大師はその後、第二十七祖の

「六十七歳になったら中国本土に赴き、「道」を本源に戻すがよい。あらゆる困難にも打ち勝ち、決して弱音を吐いたり挫けたりしてはならない」

との遺訓に従い、遠く東土(西域印度から見た東方の地。中国を始めとする東方諸国)に縁が熟し教化の時が至ったのを察して、諸々の弟子たちに別れを告げ海路中国に向かわれました。弟子らが懸命に引き止めるのも聞かず、老躯に鞭打ち単身で海を渡ったのです。

 中国本土に足を踏み入れた後、三年の歳月を経た梁(りょう)の普通元年(五百二十年)庚子(かのえね)の九月二十一日に、大師は南海(現在の広東)に到達しました。その当時の広州の刺史(しし。州知事)である蕭昂(しょうこう)は、大師に対して主の礼を尽して接見し、急いで金陵(現在の南京)の都に文を送り、時の皇帝である武帝に大師の来訪を報告しました。

武帝は早速詔勅を発して大師の入京を招請しましたので、大師は直ちに金陵に至り宮中に参内して武帝と問答しました。大師は心から梁の武帝を救おうと願い、言葉に謎を含ませ、武帝がこれを悟れるかどうかを試されました。

 (続く)


道の淵源~達摩大師伝『下巻』(完)

2014-09-12 02:29:29 | 達磨寶巻

 

達摩大師伝『下巻』(完)    

十二.大師、宗横を宗正に改め、寶巻を示す

 感激溢れる宗横の言葉を聞いて、大師は

「善哉、善哉。汝はいま、大いに惺(めざめ)悟った。我が門弟として恥ずかしくない。この機會をもって、汝の名を宗横から宗正に改めよ。この宗の字は、小さい事ではない。本来の祖家根源であり、その宗主である。只、汝が迷って悟らなかったため横をもって名としたので、これはまさに祖家の不二の法門をまさしく乱し扯(さ)き横行するものである。眞正なる口傳妙訣に遇り會わなければ、どうして法門に入ることが出来ようか。

 いま正の一字に改めれば、先天の正理を明らかにし、単傳の正法を領悟することができよう。務めて須く己れを正しくして人を化し、後の人をして宗源の祖脈を認め定めてよく返本還源させれば、その宗を正すことが出来るのである。宗横の名を宗正と改めさせたのは、正法の深い妙蘊を明らかに汝に教えたかったからであって、いま汝は眞如の性を了悟した。ここに始めて、従前の心の用い方が錯(誤)まっていたことを知ったであろう。祖から祖へ佛の心印が相傳えられ、師から師へ承接して大道が盛んに興った。

 いま汝は、単傳の正訣を領した。無字眞經は、最も上乗である。元機道理は実に緊(厳)しきを要し、末後一着を軽んじてはならない。幸いに奇縁があって、究竟の涅槃を得た。道教から転じて佛教となったことは、欽服にたえない。もし師が憐憫を施さなければ、汝の身はどうして苦淪から出ることが出来たであろうか。従来の三教は道を本とすべきで、性と天道は聞くべからざることである。

 存心養性(そんしんようしょう)して孔聖(孔子)に遵い、『中を執って一を貫く』を幾人が明らかにしているであろうか。六經諸史は治世の論であるが、大学中庸は卒性(そつせい)の憑(あか)しである。

 修心煉性は道祖の定めであり、元を抱きて一を守れば大いなる根を生ずる。治世五千のうちに玄妙が蘊(ひそ)み、眞訣は清浄經に外ならない。

 明心見性は佛の本であり、萬法帰一の理は幽玄にして深いものがある。千經萬典は憑証となるが、最上の一乗は心經に乗載されている。

 初めての龍漢劫には、四字が命となっていた。先天の龍華には、燃燈古佛が主掌していた。

 中天の赤明劫には、六字を命としていた。釋迦が命を奉って、原根を度していたのである。目前に三會が近付いている。これを延康劫という。玄玄上人たるラウムは涙をとめどなく流されている。六萬余年来の陽気は既に尽きた。皇胎が東林の世に苦しむのを見るに忍びず、瑤宮から十字の令を傳え、彌勒に勅令して普渡を興そうとされている。

 諸佛諸菩薩は幇(たす)け襯(やく)となり、まさに九十二億の救われなかった原子(もとのこ)を回程(かえらす)のである。諸仙は、凡の境(よ)に下って會同される。萬霊眞宰は、全てに化身されて、人間界に赴かれるのである。吾はもと、西方(天竺=印度)において佛果を証した。はじめて佛命を奉じ、二十七代の祖師の命を受けて東林(震旦=中国)に赴いて来たのである」

 ここで大師は、暫く黙ってしまいました。宗正は、大師を拝して

「どうぞ、弟子にお話をお続け下さい」と乞いました。

「始めに梁の武帝を度(すく)おうと思ったが、玉棍(棍棒)で打たれた。その後、神光を度して祖の法燈を継がせた。いま汝宗横に遇り會って法を授け、宗横を改め宗正とした。西来の妙意を悉く指示して陳(の)べたが、我が単傳の法を領受したならば、我が命に遵守(したが)わなければならない。先前の道心を乱すようなことを学んではならない。天機を心に抱きて、謹慎を要すべきである。

 慈航を穏やかに駕して原人を釣(えら)び、忠孝節義の人を引(みちび)いて正に帰させなければならない。よき佛子と佛孫になれ。久しからずして一花五葉は尽きて千門萬戸が群がり興り、假りが眞に混じるであろう。天地の位が定まれば、萬霊は正しくなる。普渡し団圓すれば、道果は成就する。末後の龍華は、末刧の會である。斗牛宮(北晨)の内に根生を訪れよ。縁あり分ある者は、吾に随って進め。縁なき者は、紅塵に堕落するであろう。迷昧の者は、我が論ずるところを行ない難く、知覚の者は常に玻璃燈を観ずることができる。始めの一竅を守れば、定静を知る。六神を収回すれば、中庭に到ることが出来る。

 基を築き己れを煉って次第に進めば、採薬して丹を抱いて昇ることが出来る。炉を移し、鼎を換え、時を知って、正しく文武の火侯は老いと嫩(わか)きを分かつ。

 沐浴して温養すれば週天は定まり、二六時中法輪が転じて停留しないであろう。小週(こまわり)から大週(おおまわり)に至って定まり、三十六宮はすべて春となる。この時に至って萬境はともに寂し、性は圓明となる。一念も起こさなければ、大丹は成就する。嬰児も三年哺乳で嫩く、面壁九載を記せば飛昇す。

 ここに、一つの週天の玄妙を汝に説き尽した。ただ望むらくは、知音の人の功果が純熟になることである。一人一人丹書が来て、招請される候(とき)を待て。霊山會(りょうざんえ)の上において娘親(ラウム)に見(まみ)えられよう。九品の蓮台に一分の賞あり、歴代の玄祖悉く超(すく)われ昇らす。九十六億の原子は揃って瑤宮に進めば、龍華三會に大乗の九品が定められる。上中下の品は功によって定まり、一人一人の功果が圓満になれば蓮心に坐れる。天と歳を斉しくし、改められることがない。逍遥としてその快楽は、古(とこしえ)に亘って存するのである。例え功無くとも正に皈依せば、白陽の延康劫に落ちて正根を失うことはないであろう」

 大師は法を悉く宗正に傳えて、東来の使命を圓満に果たしました。無尽の法語を語った大師は、弟子宗正を愛(いとお)しみ、柔らかい眼差しを投げ掛けて結びの詩を述べられました。

 「一巻の法語は萬品を包む。

  三教ともに不二の門に帰す。

  言言は眞の原性を道破して

  句句に祖根の開通を生ず。

  これは、三期の大把柄(だいにぎりえ)にして、

  祖師の慈悲、後音(後の人)に露(あら)わす。

  この書の在るところ、神の護り定まりあり。

  若し、穢し汚すことあらば、過ち軽からず。

  人ありて遇り會えば、常に恭敬すべし。

  されば災星を掃き去りて福は門に臨む。

  果たしてよく力行せば功進み加わり、

  永遠に菩提を証すること萬萬春。

  偈に曰く

  『達して道に至り、經に通ぜば号して眞詮なり。

   摩訶(まか)なる掲諦(ぎゃあてい)は世間を度う。

   寶は一花と五葉に秘め、

   巻は三千および大千を包む』

 西方の佛祖、妙經を傳う。

 華厳海に會するを悉く遥かに聞く。

 斗柄、南を指して六陽尽きる。

 牛女(牛宿)、西に會して萬霊興る。

 郷児に普及して定静を覓(さが)し、

 海を渡れば艄公(船頭)願心を了(はた)す。

 生死の輪廻斉しく抛り尽くし、

 霊山極楽に帰りて、永遠に傾(ころ)ぶことなし」

 大師は宗正に法を悉く授け終り、元来た道に向かって歩き去りました。宗正は、何時までも座を立とうとしませんでした。

(完)

 Deshiより~古い文言が多く、中には違和感を持った方もいたと思います。これを現代的に解りやすく表現すれば、スピリチュアル世界ともかなりに共通性があります。これまでの人類の道義を秘密の内に支えてきた道の伝承は、やがて宗教の中の真理として、修道を極めた聖人にのみ伝えられました。


道の淵源~達摩大師伝『下巻』(五)の続き

2014-09-12 02:21:17 | 達磨寶巻

(五)週天の妙用について  

「佛は霊山にありて妙經を講ず。

 五千余巻、衆生を度(すく)う。

 天機を泄(も)らし尽くして一着を留め、

 敢えて説破せず、南進を定むべし。

子の時に、南進定まるを観じ看る。

 一陽始めて復(地來復)し、清風昇る。

 性を煉るは、即ち猫鼠を捕るが如く、

 巍巍として動かず六神は會す。

丑の時に、南進定まるを観じ看る。

 二陽来たりて臨(地澤臨)濁気を分かつ。

 金蝉却(さ)って善く金銭に戯れ、

 泥牛に触れ動かして身翻るを要す。

寅の時に、南進定まるを観じ看る。

 三陽開きて泰(地天泰)正に春に逢う。

 白虎、波を興して古洞より出で、

 青衣の童子、笑い吟吟たり。

卯の時に、南進定まるを観じ看る。

 則ち、東方に玉兎(月)の昇る(雷天大壮)を見る。

 萬里の雲煙、空に舞い上がりて散じ、

 一片の金光、頂門を照らす。

辰の時に、南進定まるを観じ看る。

 魁罹(北斗の剣先)正位にして神、眞に存す。

 青龍は波を興して大海を出で、

 霧に駕し、雲に騰(あが)りて天庭(理天)に上る。

巳の時に、南進定まるを観じ看る。

 六陽已(すで)に足りて(乾爲天)炎熱生ず。

 子規(ホトトギス)止めどもなく声々に叫び、

 亀蛇戯れ動き、互いに相親しむ。

午の時に、南進定まるを観じ看る。

 陽の極に陰生じ(天風姤)火侯を均しくす。

 猿馬(心猿意馬)固く双林樹に縛り、

 六賊緊しく梵王城(ぼんおうじょう)に鎖(と)ざす。

未の時に、南進定まるを観じ看る。

 陽光漸次遁(のが)れて(天山遯)微火をもって烹ず。

 六神、蟠桃園(ばんとうえん)に暢(たの)しく飲み、

 恰も子羊、跪きて乳を求めるに似たり。

申の時に、南進定まるを観じ看る。

 瑤池(理天)に長春を寿ぐを朝見す。

 六個(六匹)の猿猴来たりて果を献じ(天地否)、

 満天の諸佛、吟吟として笑う。

酉の時に、南進定まるを観じ看る。

 沐浴池の中に煖(だん)、温温たり。

 恍恍惚惚として、精神爽やかにして、

 金鶏、夢中の人を叫び醒ます。

戌の時に、南進定まるを観じ看る。

 寂寂静静として黄昏を守る。

 独り寒室に坐して賊の侵すを防ぎ、

 黄犬、四鄰(隣)に吠ゆるを教えるなかれ。

亥の時に、南進定まるを観じ看る。

 尚、猪(イノシシ)の行きて江心を過ぐるが如し。

 往来(ゆきき)の波浪身に随いて走り、

 黄河は、逆転して崑崙に上る。

 十二時の針は、指南を定む。

 乾坤萬象、この中に全し。

 人有りて先天の意を識り得れば、

 如来を観るは、また難しからず」

 此処において大師は、十二時辰に区切ってこの一竅の指南の正しい針を悟らせるべく、述べ終わった後も、なお宗横が細心に研究参悟できないのではないかと案じ、反復して宗横の名を喚び、丁寧に造化の根源と無生の眞性について示されました。

(六)造化の根源と無生の眞性

「宗横、汝は知るか、造化の根源を。これは眞に口で表現し難いところである。無為の妙道は、一体誰がこれを詳細に識ることができようか。もし明師に遇り會わなければ、どうして佛の眞なる偈を聴くことができようか。意大きくとも心が粗ければ、自らの虚霊を損なうだけである。今のように汝は正しい法理を聴くことができても、須く意を落ち着けて無為の玄機を参悟するを要す。そうすれば、輪廻を免れよう。眞性を把って修めることができれば、不夜天に登って常に不滅の地に住す。無生無死の眞機、眞機である」

 続いて大師は口調を変えて、宗横に問いました。

「宗横、汝は無生の眞性を知っているであろうか」

「恥ずかしながら、私は存じません」

「汝はこの事を知らないと直ぐに答えたが、もう一度考えて分かるかどうか答えてみよ」

 宗横は一言半句もなく、ただ黙ったまま俯向いていました。

 大師は、更に言葉を続けて

「汝は、本来の面目を尋ね得られたであろうか」

 すると宗横は、感極まって五体を地に投げ出し、大師に哀願しました。

「師よ、法慧をもって、弟子の愚蒙にして未だ悟らない所をどうか御開示下さいませ」

「汝は一身の法を修めると言ったのでそれを説いたが、知らないと言う。吾は、山に例え、水に例えて重ね重ね道破した。それでも未だに醒めず悟らず、と言うのか。一般の人は、この色身を持っているから、生まれる時があればまた必ず死ぬ時があり、そして成り立つ時があればまた壊れる時がある。これは、平易な理である。

 汝はどうして、假(いつわ)りを認めて眞(まこと)に悖(もと)るのか。甘んじて下乗法(げじょうほう)に落ち、些かの口頭禅語を習っておるが、終(つい)には肉眼を持っている凡夫になるに過ぎない。西来の佛性が明らかでなければ、またこれは邪魔外道である。

 汝は、いま大乗の正法を受けたりと雖も修証しなければ、生死界(しょうじかい)の外に超え難く、永遠に淪(ふか)い穽(あな)の中に沉(沈)み陥るであろう。古に曰く

 『世間に佛と做(な)るべきはなし。衆生を度(すく)うべきはなし。涅槃を証すべきはなし』

とあるとおり、既に佛を学ばんとすれば、過去心を思わず、現在心を存せず、未来心に着さず、無我・無人・無衆生・無寿者の四相に至り、一切の空空に至れば、自らの正覚を成ず。汝は半生を修道に費やしたが頑空に落ちてしまい、まさに有用の精神を無用の地に施したのである」

 宗横は、身を引き締めて、一心に大師の言葉に聞き入っていました。

「古人の言葉に

 『迷えば即ち千里も尋ね難く、悟れば即ち一竅の根に帰す』

とある。汝は、いま道教から釋門(佛門)に転じ、吾を師として拝したのは大いに取るべき処がある。汝は跪いて玄妙を問うたが、これは汝の智慧が開かれ通じているからである。これによって、修性煉命を得ることが出来ると見るべきである。眞如と言うものは、地に徹し天に通じている。一切の萬物は、すべて自性圓明の中から生ずるのである。これを放せば即ち六合に彌(み)ち、これを巻けば即ち退いて密に蔵す。その味は窮まりなく、みな実の学である」

 大師の諭しに宗横は、叩頭して謝恩しました。

「今日、師父の明らかなる喝破がなければ、どうして濁を変じて清とすることが出来たでしょうか。いま想えば、前の修法は誤りでありました。みな、祖の勅令に違逆したことによって、自性の法則が明らかでなかったことによるものでした。これでは、どうして河車を運転することが出来たでしょうか。今にして想えば、眞に羞ずかしく慙愧に堪えません。弟子は、只今を以って明心見性を得ました。

 (続く)