道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

道の淵源~達摩大師伝『下巻』(四)

2014-07-15 18:23:22 | 達磨寶巻

                    

十一.大師、臨帰の心得を諭す

此処において大師は、宗横に修道の妙景を説かれました。絢爛たる霊界の情景は例えようも無く賛嘆する反面、大師はまた、修行者が臨帰する日を知らないのを恐れ、併せてその道の応験即ち罪があると魔が幻を現わしてその者の舎(しゃ。肉体)を奪う情景を一つ一つ説きたいと思われました。この事は修行者にとって一番大切な事柄で、往生際の良否がその人の修行の過程を量ることになります。そこで大師は、一旦緩急あるとき宗横の心神が舎に帰し眞霊が落ちて侵害されることのないよう、その上早く正果を成就し永遠に菩提を証して欲しいために、引き続き宗横に詳しく開示されました。

(一)臨終時の情景

「弟子に告ぐ。傍らに坐せ。吾、細かく剖(説)いて汝に聴かせよう。

 玄妙を悟るためには、佛法の蘊精の微を知ることが肝要である。

 想うに汝の従前の修行は、糊(みだり)に行なうだけでしかない。

 それでは未来に、些かの奇情が生ずることを知らぬであろう。

 神仙を学ぶと言っても、性命を知ることがない。

 腐った皮嚢(ひのう。肉体)を脱すれば、始めてよく眞に成ずることが適う。

 生来と死去の事を、誰か考証できる者あろうか。

 吾、今日をもって明らかに告げ、後の憑拠(しょうこ)とする。

 功果を圓満に成就すること叶えば、病が生ずるのを防ぐことはない。

四大の肢(両手足)が疼けば、程(理天)に回(かえ)ることを予知する。

 一つに天鼓を打っても響かず、神気を運ぶことが難しい。

 二つに舌が拴(回)らなくなれば、命尽きる時辰(とき)である。

 三つに眼を見て上に藍色の霧が出ていれば、神光は定まらない。

後脳を弾いて銅鑼(どら)が破れるような声(音)がすれば、帰空(帰天)の日が臨んだ証しである。

 四つに漕渓の水が乾けば、将に死ぬ寸前の情景であって、

 手で額を摸(触)ってみて骨頭(骨節)が大きくなっていれば、命を保つことが難しい。

 五つに舌下に津液(じんえき。唾液)が無ければ、危急の大症である。

 脚の掌心(足裏)に針が刺すような痛みがあれば、救おうと恁(想)っても最早手遅れである。

 六つに臍の下の痛みが心(心臓)に連なれば、天に叫んでも応答は無い。

 天根倒れ地根が断たれれば、気は絶たれ神(しん)は奔(ほとばし)る。

 七つに鼻端が頭と同じように歪んでくれば、保命を望んでも難しい。

 腰の疼痛が頂門(頭頂)に昇ってくれば、即ち幽陰(地獄)に赴くと見る。

 丹房に美しい硃砂(しゅしゃ)があり、その明亮なこと鏡のようである。

 好細(よい)茶、一銭(匁)を加えれば、痰も消えて心身ともに清(すがすが)しくなる。

 頂門の心(中心)両脚の心、疼痛しても応ずる所あり。

 時々痛むようであれば、塵(塵界)を脱する時定まる。

 子の時にあたって腰の心が痛めば、命算(かぞ)えられず。

 十八天(日)を隔てた天明(夜明け)の時、寅の刻に身傾(おわ)る。

 丑の時にあたって頂心が痛めば、大数(寿命)まさに尽きる。

 七日の内、黄昏(たそがれ)時になれば一旦終りに臨む。

 寅の時にあたって脚心が痛めば、死日の信(たより)がある。

 半か月、人が寝静まった頃、鶴に乗って雲に昇る。

 卯の時にあたって脚心が疼(痛)めば、天は命を留めず。

 三十天(日)を隔てたまさに正午の頃、苦塵(塵界)を辞して脱す。

 辰の時にあたって脚心が痛めば、十日以内に逝くことになる。

 半夜(夜半)鼠(ネズミ)が食糧を偸(盗)む時が、当に命尽きる時辰である。

 巳の時にあたって頂心が痛めば、丹書の詔(詔勅)があって召される。

 七日、猴(こう)の印を掛ける頃に至って、法身は雲に騰(あが)る。

 午の時にあたって脚心が痛めば、禄馬運び倒れる。

 二六時に猪(イノシシ)泥を拱(こまぬ)けば、西方(浄土)に行くのを停(と)められない。

 未の時にあたって脚心が痛めば、数(命)尽きるまで長くはない。

 十七天(日)に馬を山に放てば、逝って佛尊に會うことになろう。

 申の時にあたって脚心が痛めば、天宮より信(たより)が放たれる。

 十二天(日)を隔てた後、鶴に跨って塵(よ)を出ることになろう。

 酉の時にあたって脚心が痛めば、如何なる薬も症状を治し難く、

 十八日に至って虎が林を出れば、間違いなく陰(地獄)に帰すことになる。

 戌の時にあたって脚心が痛めば、十日間で命が尽きる。

 龍が柱を抱けば寿命を終える。何人もこれを留めることは出来ない。

 亥の時にあたって頂心が痛めば、塵を脱すること更に近く、

 四日の内に龍が海を出れば、去(い)って娘親(おや)に見(まみ)える。

 日時については、人によってまちまちである。

 几(いす。床几)を放れて坐し、佛を拝して念じ、他に心を動かしてはならない。

 玄関竅を守し、神(しん)を存してそこに気を集中させよ。

 三魂と七魄を合わせ、凝り聚(あつ)めて根に帰すべし。

 怕れるのは累劫の寃(あだ)が、正道に転じた後も消え去らないことである。

 一切の幻化(花)の情景を見ても、把憑(とりえ)を認め定めるようにせよ。

 幢幡(どうばん)と寶蓋(ほうがい)を見ても、共に並んで進んではならない。

 或いは楼台や殿閣を見ても、そこへ行ってはならない。

 房屋を見ても、入ってはいけない。心を混沌とさせてはいけない。

 もし飢渇して凡物(酒肉)を見ても、唇に沾(つ)けてはならない。

 白蓮、黄車輦(こうしゃれん)を見、驢馬(ロバ)がその姿を現わし、

 音楽入りで彩女が現れるのを見れば、これは神(しん)を奪う妖精である。

 色彩美(うる)わしき婦人を見れば、それは猪(ぶた)・狗(いぬ)・禽(とり)・獣(けもの)の影である。

 彼に随いて去かないことを切に願う。胎(四生)に転じて形を化す事になるからである。

 街を過ぎ行く紅車輦(こうしゃれん)を見れば、つい紅福に誘い引かれる。

 若しこれに着いて共に行けば、法身は地獄に堕ちて了る。

 修行の人、世音を観じ性命を穏やかに煉るべし。

 魔王陣と戦い退けて了(しま)えば、空身空心なり。

 危に臨むにあたっては、総て美景に貪恋することあってはならない。

 只恐るべきは、胎に投ずるのを錯(あやま)って、自らの身を誤ることである」

 偈を示し終った大師は、臨終の一着について宗横に明らかにされたのであります。宗横は大師の心からの訓導に痛く感激し、大師の言葉を反復して脳裏にしっかりと焼き付けました。

 大師は尚も、臨終の時に種々の雑境が現れて人々を迷いの道に誘引するのを恐れ

「凡そ人が在世して修行するのに、その人の臨終を見ることが一番肝腎である。臨終は、その人の一生の総決算ともなるのである。その時になって、心を迷わすようなことがあってはならない。須く明らかに悟って正しい方向に向かうべきで、各々その状態を併せて汝に明らかに示そう」

 宗横は、謹んで頭を垂れ大師の言葉を伺いました。

ー続くー


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