道 (真理)

道は須臾も離るべからざるなり 離るべきは道にあらざるなり

道の淵源~達摩大師伝『下巻』(四)

2014-07-30 23:30:51 | 達磨寶巻

(二)臨終時の接引         

「釋迦が現れて接引されると見れば、野狐(やこ)の胎(四生に化する意。以下同じ)である。

 観音が現れて接引されると見れば、龍の胎である。

 勢至が現れて接引されると見れば、虎の胎である。

 文殊が現れて接引されると見れば、龍の胎である。

 叔伯が現れて接引されると見れば、猫の胎である。

 多くの旗旛(はたのぼり)に迎えられて接引されると見れば、飛禽の胎である。

 寶蓋にて接引されると見れば、鳳凰の胎である。

 四轎(駕)にて接引されると見れば、蟹(カニ)の胎である。

 宮娥(女官)の礼拝を見て接引されるのは、猿猴(さる)の胎である。

 蓮台・車輦を見て接引されるのは、驢馬の胎である。

宮人の礼拝を見て接引されるのは、大虫の胎である。

玲瓏なる瓔珞(ようらく。珠玉を連ねた首飾り)を見て接引されるのは、(ぬひ。)の胎である。

浮橋にて江(かわ)を渡るのを見て接引されるのは、湿性の胎である。

千層(高層)の寶塔を見て接引されるのは、蟷螂(カマキリ)の胎である。

楼台の瓊花(けいか)を見て接引されるのは、蜜蜂の胎である。

金銀の轎子(かご)を見て接引されるのは、卵生の胎である。

笙簫鼓(ふえたいこ)を見て接引されるのは、猪(ブタ)羊の胎である。

紅(くれない)の衣を纏った童子を見て接引されるのは、大官洪福の胎である。

西山に一皓月を見、白衣の僧を見て接引されれば、如来に引見される」

此処において大師は、更に偈を述べられました。

「学道の人は、心が高ぶることあってはならない。

 臨終の時、下稍(くだる)ところが無いのを恐れる。

三寸の気断たれれば、路に迷い、

無駄に娑婆に在って一遭(めぐ)り走る。

臨終に際して昏乱するのを緊急(きび)しく防ぐべし。

輪廻の路上には、萬萬(ばんばん)の條(すじ)がある。

念頭を堅固にして、意馬(心猿意馬)を拴(しめ)よ。

六門が清浄であれば、逍遥を得る」

大師は宗横に臨終の状態を述べ、続いて臨終の時に接引される状態を明らかにして、堅く修行者の戒めとされました。さらに圓満を期すために、大師は臨終九竅の奧妙を偈にして宗横に指示されました。

(三)臨終九竅の奧妙

「楼台の鼓響けば、萬人を驚かす。

 一声震動すれば、太平を定む。

 なんぞ今朝に鼓響かざるや。

 衣冠を整備して、行程を急ぐべし。

 雁門関上にて、金燈亮々とす。

 天を量る尺(さし)、内に明らかに看る。

 吾、今まことの端なることを指示す。

 神光が照らされることなければ、即ち行程(死去)のときである。

 獅子関上に紛々と乱れる。

天門の頂に、金燈亮々と輝く。

銭があっても、長生不死は買い難い。

無常を躱すことが出来れば、南進が定まる。

土橋関上に紛々と乱れる。

柱倒れ、橋崩れて歩行し難い。

満堂の孝なる眷、双涙を流す。

一個の寒き寸土を尋ねて、自ら身を安んず。

金鎖関上に、花開くのを見る。

木人、靴を穿いて胎を脱す。

優曇華(うどんげ)開けば、上路を行き、

漕渓の水乾けば、帰り去るもまた来たる。

般若関上に忙々と乱れる。

太子が刀鎗を動かすことを緊しく防げ。

鍋滾れば、蟹慌て張(ふた)めき、

五気は都(すべて)集まって、中央を混(みだ)す。

水火関上にて陰陽を定める。

左三右四を商量(おしはか)ってはならない。

二龍、球に戯れれば前を収拾(準備)せよ。

龍が深潭(しんたん。深淵)を離れれば、天堂(理天)に上る。

波羅関上、冷たくして侵々たり。

芦の芽が頂を穿つのは、甚だ明らかである。

六賊、黄金の地に落ち、

油乾き燈滅(き)えれば、即ち行程(死亡)す。

十殿の閻君、すべて躱し過ぎ、

身を翻して涅槃門に跳出す。

九関を穿ち透すことを知る人は少ない。

九関を分けて開けば、天機に透る。

清風路上に一箭を穿ち、

崑崙頂上に菩提を証す」

大師は、更に言葉をもって

「修道人であっても、この理は知り難いものである。これを識破することができれば、容易く圓通成就できる。ただし、あらゆる一切の接引は全て胞胎であって、大方四生六道に闖入し、生まれては死し、死しては生まれて輪廻を断つことはできないであろう。金剛經に

 『あらゆる有相者(ゆうそうは)、これみな虚妄なり』また言う

 『一切の有為の法は夢幻泡影のごとし』

と言われているが、これらは全て生死を脱することができないことを意味し、ただ先天の大道の一字だけが骨髄の經を蔵している。これによって始めて生を了え、死を脱することができるのである」

「それでは得道者が臨終を迎える時は、どのように接引されますか」

「ただ西来大意の主人公が来られて接した時にこそ、始めて行くべきである。声もなく色もなく、例えば大海の中にいて四方限りなく、一艘の渡し船があっても東西南北を知らないから岸に到ることができない。その時に忽然として陰陽を知る人が天降って来て、指南針を定め、始めて行く路を知ることができる。これで、彼岸に達することができるのである。

 ただ西南の山上に、一輪の明月を見る。そこに一道の白光があって、白衲(はくのう。白衣の僧)と変化(へんげ)する。これが、無量寿・無量光の阿彌陀佛の接引である。彼に従って行けばよい。直ちに極楽上品(じょうぼん)の位に至り、無生(親神ラウム)の上果を得られるのである。

 彌陀の眷属は、佛道に即成できる。不生不滅、石が爛れ海が乾き切ることがあっても、永遠に朽ち壊れることがない。これが即ち、天宮の聖境である。

 偈に示そう。

 『双林涅槃、知る人少なし。

  知音は誰ぞ皈依を願わざる。

  若し、また帰空の記に遇り得れば、

  輪廻を免れ得て天梯に上る。

  路頭を一歩一歩前に進み行く。

  西辺の松竹は麻林に似たり。

  道路の埼嶇(きく。凸凹)は、須く仔細(注意)すべし。

  ひとえに彌陀を明らかに証する事となさん』

(以下、次回に続く)


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