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短歌味体Ⅲ 3198-3201 ネット海シリーズ・続

2019年04月16日 | 短歌味体Ⅲ-5
[短歌味体 Ⅲ] ネット海シリーズ・続



3198
花冷えの春、人も世界も
しずかに
昏(く)れる世界の渦中歩いて行く



3199
(わからない)とつぶやく
隣を
ふうっと抜けていく風がある



3200
楽しい歌やダンス
いいけどさ
心の内に鳴り響く 異音異韻律



3201
(やけに楽しそうじゃないか)
閉ざされた
行き止まり ぶ厚い雲 ウ

子どもでもわかる世界論 Q&A Q26

2019年04月13日 | 子どもでもわかる世界論 Q&A
子どもでもわかる世界論 Q&A Q26


Q26 書き言葉の文字というものは、始まりにはどんなものだったのですか。

A26

 わが国では、話し言葉だけで書き言葉のない時代がありました。その段階では、今より記憶力が良かったろうと想像します。もちろん、歌うように、リズムを付けたりして覚えるのに工夫もされていたと思います。

 中国から漢字を借りてわが国の書き言葉は始まりました。たぶん相当の苦労をして漢字をわが国のそれまでの言葉(倭語)につなぎ合わせて、最終的には現在のような漢字仮名交じり文を生み出しました。これらに携わった人々は、もちろん、知識や文化に関わる上層部分の人々です。以下にも引用する『呪の思想―神と人との間』の中で、白川静さんはそのような一連のことに関わったのは渡来人の百済人ではないかと述べています。


白川 ところが、おそらく、百済の人が日本に来て、日本語と漢字との関係ということからでね、百済読み出来ん訳ですね。日本では、全部音読してしまうか、分解して読むか、という以外にないのです。百済的な手法が取れん訳ですね。
 日本へ来た人たちが、まだ日本の人では文字はもちろん使えませんから、彼らが皆、「史(ふひと)」としてね、かなり後まで、文章のことは全部彼らがやっておった。日本人は参加していませんからね。だから、彼らが漢語にも通じ、日本語にも通じ、それを折衷してね、日本語に適合する方法として、読むとすれば日本語読み、訓読ですね、これを入れる他にない訳です。だから、本当の訓読を発明したのは、僕は百済人だと思う。

梅原 そうでしょうね。

白川 それで、日本にやって来ても、帰化しているから、「史」ですね、この「史」が何代も、その職を継いでいますね。だから、例えば応仁朝にやって来た百済人の子孫が、雄略朝にあの稲荷山や江田船山の鉄剣銘を書いていますわね。あれなんか、日本式の漢文です。古い資料を見てみると、それで朝鮮式の語法も入っとるんです。
 朝鮮の漢文というのは、ちょっと癖がありましてね。例えば「八月に」という時に、「八月中」と書く。それから、「何々死せり」という場合に、それでもう終わりの言葉は要らんのですけどね、文末に「之」を付ける。そこに「之」を付けるような漢文はないのです。ところがそういうね
百済式漢文の癖があるのですね。この百済式漢文の癖が、推古朝のものであるとか、それから、初期の色んな文章に残っている。例えば近年、太安麻呂の墓碑が出ましたわね、あれにやはりそれが付いとる。「中」と「之」が付いとる。

梅原 そうですね。

白川 あれは百済人が書いているのに違いないんです。だからね、日本人が漢文に習熟したというのはよほど特殊な場合か、或いは律令制が近付いた時、これはまあ、全国的にね、木簡で色々、通達や記録をせんなりませんからね。だから、そういう書記官の養成が必要であっただろうと思う。その時に、日本人が学習を始める。それで近江朝の頃には、貴族階級の中でも、漢詩文もね、下手ながら作ることになった。もちろん立派なものは作っていませんよ。『懐風藻』なんか見ても、やっぱり天武以後にならなければね。
 (『呪の思想―神と人との間』梅原猛・白川静 P68ーP69)



 言葉には現在では話し言葉と書き言葉があり、それ以前には話し言葉しかありませんでした。さらにそれより遙か以前には例えば赤ちゃん言葉に例えられるような言葉のようなものがあったでしょう。現在から見れば、言葉(話し言葉も書き言葉も)は、何かを指し示す面とある気持ちを表に出したい面との二重性を持っているというように捉えられています。しかし、そこには書き言葉の始まり頃の言葉(文字)へのイメージは含まれてはいません。太古の文字、漢字がどんなものだったか、どんなイメージが込められていたかについて、漢字の成り立ちなどの研究の第一人者である白川静さんに聴いてみましょう。


白川 神聖王朝というと、そういう異民族の支配をも含めて、絶対的な権威を持たなければならんから、自分が神でなければならない。神さまと交通出来る者でなければならない。神と交通する手段が文字であった訳です。
 これは統治のために使うというような実務的なものではない。神との交通の手段としてある。甲骨文の場合、それは神に対して、「この問題についてどうか」という風に聞きますが、神は本当に返事をする訳じゃありませんから、自分が期待出来る答が出るまでやって、「神も承諾した」ということにして、やる訳です。


白川 エジプトのヒエログリフでも、ピラミッドの中にしかありませんね。王さまの墳墓にしかない。だから文字というものは一般の現実的な業務には使ってない訳です。
 それは神であった者が地上に王として君臨して、また神に戻られた、その神に対する色々な連絡の方法として、文字が使われている訳ですから、エジプトでも本来は、文字そのものは神との交通の手段であった。
 中国では祖先を祀(まつ)る時にも、祀る器物に文字を入れて祖先に告げる。そういう風なことを、殷代にはやっています。

梅原 しかし現代人は文字というのは人と人との交流手段と考えますからね。神さまなしに、文字を使ってますから。そういう目で古代をみると全く間違う訳ですね。

白川 人と人との交通の手段はね、後の竹簡・木簡の時代になります。それはいわば伝票ですね。時代はずっと下ってしまいます。
 (『呪の思想―神と人との間』梅原猛・白川静 P29、P32-P33)



 「神と交通する手段が文字であった」と言われています。それが、次第に「人と人との交通の手段」として「現実的な業務」にも使われるようになりました。また、白川静さんの漢字の本を見ていると、漢字も最初の複雑なものからしだいにすっきりしたものに切り整えられていきます。今では想像できませんが、文字が神に関わるとても尊い大事なものとして扱われていたことが語られています。それはたぶん、普通の人々の生活世界から遊離した政治や知識世界でのできごとだったように思われます。だから、今では単なる文字にすぎなくなってしまいましたが、最初期の普通の人々は、文字を神々しいものとして受けとめていたと想像されます。(注.1)

 最後に、わたしのメモを記しておきます。話し言葉でも声の高低やリズムを付けて神(世界)への呼びかけや対話ができるはずですが、なぜ文字が生み出されてしまったのでしょうか。文字が生み出されたのは偶然としか言いようがないかもしれませんが、世界の各地でいろんな文字が生み出されていることを考慮すると、人間というものがそういうものを生み出してしまう必然のような性質を持っているからでしょう。文字というものを生み出すきっかけとしては、「壁画」や亀甲などに線を描いて焼いて占いをしていたことなど、つまり外に形ある物として生み出すということが、あったかもしれません。


 (注.1)
 わが国でも文字を神々しく意識した例が以下に語られています。

吉本 僕はそういう問題で、最近、沖縄の学者さんが書いた方言札という表題の、要するに、その学者さんの文章を読むと、日本本土では、ただ言葉だけで言霊(ことだま)といっていたんだけれども、沖縄では、それまで文字なんてあまりなくて、筆記ができるようになる初めだろうと思いますが、中国の漢字が文字として入ってきたときに、文字どおり文字を書いた紙を祀って拝んだりしていたという。本当に神様扱いにして、文字を奉って拝んだりしていたんだという研究が書いてあって、へーっと。
 日本本土では言霊というぐらいで、折口(信夫)さんは、女の人に言霊をつけたくて手紙をやって、女の人もまたそれをつけ返したら恋愛が成立するんだみたいな考え方だと思います。そういう言霊が、手紙とか相聞の歌とか、文字としてできるものだと折口さんは考えているけれども、沖縄の人は漢字を書いた紙をまつって拝むということを本当にやった。
  (「超人間、超言語」P161 吉本隆明・中沢新一対談 「群像」2006年9月号)

作品を読む ⑦ (加藤治郎)

2019年04月13日 | 作品を読む
作品を読む ⑦ (加藤治郎)
 


 ※加藤治郎の以下の短歌は、ツイッターの「加藤治郎bot」から採られている。


61.れれ ろろろ れれ ろろろ 魂なんか鳩にくれちゃえ れれ ろろろ 加藤治郎『昏睡のパラダイス』

★(私のひと言評 4/7)
〈私〉は、ハトの無心な鳴き声(と言っても、ハトなりの事情があるかもしれないが)に感応して、自らの悩み(人間の煩悩に満ちた魂)も「れれ ろろろ」と捨てちまおうぜとふと思う。下の句の「れれ ろろろ」は、ハトの鳴き声から独り立ちして〈私〉の心を通過してきた言葉(擬音)、人間的な無心を表出する言葉となっている。



62.香るまで生姜をすればゆらゆらと中村歌右衛門の肩かな 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 4/7)
自宅で香り立つほど生姜をすっていて、ふとその生姜の揺れ動く様を見ていると、なんだか中村歌右衛門(歌舞伎役者のよう。わたしは知らない。『ハレアカラ』は、1994年刊で、六代目 中村歌右衛門は、2001年に亡くなっているから、この役者のことか)の肩のゆれ(見得を切る姿か)のようだな、というユーモラスな歌。



63.消しゴムの角が尖っていることの気持ちがよくてきさまから死ね  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 4/8)
「きさまから死ね」は、ドキッとする暴力的な言葉だが、これは書いた文字を消すということだろう。だれでも―特に、子どもは―、このように心の内でつぶやいたり、ひとり言を言ってみたりすることがある。

類歌に次の歌がある。「向日葵の種」→「迷惑メール」→「みなごろし」とイメージが、飛躍・連結される。実際は、自宅の庭の向日葵の種の収穫か。これも内心の遊び心のようなものにすぎないが、人間の精神は不可解なことに、そのようなイメージの連結を真面目に病としてしてしまう場合があり得る。カミュの小説『異邦人』では、主人公ムルソーは、「太陽が眩しかったから」というだけの動機で殺人を犯す。吉本隆明『母型論』を経た後のわたしたちは、人の病的な行動には不条理というよりも〈母の物語〉の不幸が深く関わっているのを知っている。また、個が精神の大気として日々呼吸せざるを得ない社会の病もそれに加担している。

向日葵の種は迷惑メールほどみっしりならぶ みなごろしだ  加藤治郎『しんきろう』



64.その顔はわたくしですか(冬でしょう)そうですそれは夜明けなのです  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

★(私のひと言評 4/8)
この歌は、わたしには不明歌である。普通に構成された表現と思ってたどってゆくとつまづいてしまう。〈私〉に現実的にか想像的にか聞こえてくるいろんな言葉を一見ランダムに並べたものであろうか。これが詩なの?と思われそうだが、どんなことにも詩(情)は成り立つ。作者は、いろんな声を聞いている〈私〉のある心の状態を描写している。以前に取り上げた以下の歌と同様の詩的表現の拡張に当たる実験的作品である。
50.ねえ?(ちゃんと聞いているのというふうに)ん?(なんとなく)煙はうたう
55.ねばねばのバンドエイドをはがしたらしわしわのゆび じょうゆうさあん



65.器から器に移す卵黄のたわむたまゆらふかくたのしむ  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

★(私のひと言評 4/9)
わたしは、小さい頃兄弟で生卵を飲み込んでいて失敗した経験があり、おそらくそこから生卵は食べることができなくなった。ちょっと敬遠すべき生々しさを感じてしまう。だから、この〈私〉の感覚はほんとうはよくわからない。ただ、ぷるんとした生命感あふれるもの、それを取り込むことを想像して〈私〉の心波立つのだろうなあとは思う。



66.UnknownそうUnknownひろがりて首都埋め尽くすそうUnknown  加藤治郎『しんきろう』

★(私のひと言評 4/9)
「Unknown」は、プログラム用語としても出会ったことがある。具体的には、そのメッセージに触発されたか。ここは名詞で「無名の人」の意味だろう。当然、社会意識や政治意識の場面での欲求やイメージ表出の表現。「Unknown」がくり返されて、呪文のような響き、あるいは固執されたイメージを響きとして喚起する。『しんきろう』は、2012年刊。政権交代した民主党政権は2009年9月から2012年11月の間だから、このような政治情勢下で上記の歌のような表出・表現のモチーフを抱いたか。



67.昨夜だが。俺のあたまに足あとをつけていったな、鉛の靴で  加藤治郎 『雨の日の回顧展』

★(私のひと言評 4/10)
昨夜〈私〉は飲み過ぎたのか、あるいは悩み事があったのか、今朝は頭が重い。こういったありふれた光景をユーモラスに表現したもの。ありふれたことを「昨夜〈私〉は飲み過ぎたせいか今朝は頭が重い。」とありふれて表現しても詩的な感動はほとんどない。
吉本さんが、古代には敵が攻めてくるなどの人事はそのもとしてではなく木々が揺れ騒ぐなどの自然の喩のような形でしか表現できない段階があったとどこかで述べていたが、その段階でも普通のありふれた表現と詩的な表現の区別はあったのだろうかとふと思ってしまった。少なくとも日常的な話し言葉と知識層の専門的な書き言葉の世界の間には現在以上の断層があったろう。



68.旅立ちの朝の恐れ鶏卵の殻より垂るるひかりは昏し 加藤治郎『ハレアカラ』

★(私のひと言評 4/10)
『ハレアカラ』は1994年刊で、作者35歳頃である。前にも書いたように思うが、作品の本質は実体験かどうかには関わらない。作者が、この世界から素材として選択し表現世界の〈私〉のイメージの旅程として書き留める。ただし、そのことに作者の年齢は関わりがありそうに見える。人は、その年齢によって見える世界の地平が違いそこで感じる情感の質も違ってくるからである。

〈私〉の旅立ちがどういうものなのかはわからない。一般的には就職や結婚など思い浮かべるが、いずれにしても今までと違った世界に入り込んでいくとき、人はどんないいことがあるかなと期待もあるかもしれないが、緊張や恐れもあるだろう。その色んな感情が入り交じった上での「恐れ」を、「鶏卵の殻より垂るるひかりは昏し」と日常の普段はほとんど気にも留めないような微細な情景として描いている。



(不明歌について二首)
加藤治郎の作品で、わたしが読み取れないものは多いのだが、ちょと意識的にそういうのも取り上げてみる。他者理解と同じように固有の作者の作品理解も時間というものがかかるような気がするが、読者は誤読(誤解)を恐れず出会いをくり返していくほかない。ちなみに、専門の歌人たちでさえ―人間関係に例えれば、親しい間柄でさえ―様々な違った読みをすることがある。(『短歌のドア』P152-P157 「雪よ林檎の 北原白秋を読む」 加藤治郎)
付け加えると、吉本さんが晩年に語っている。〈まだ俺は、俺の考え方の底のほうまで理解してくれた人はおらんな、っていうそういう感じがします。〉(「吉本隆明さんを囲んで① 」、聞いたひと…前川藤一、菅原則生 2010年12月21日、「菅原則生のブログ」より) 吉本さんの著作も膨大だが、それに負けないほど吉本隆明論も多いのではなかろうか。それでも、本人の思いは、わかっちゃいないなあと言うことである。このことは、一般には身近な他者の理解さえ難しいということ、同様に、表現者やその作品を、意識的なレベルから無意識的なレベルに渡って、ほんとうに理解することは、とっても難しいということを意味している。

69.あちこちで着信音が鳴る朝のぼくたちはあと一〇〇文字生きる 加藤治郎『環状線のモンスター』
70.toshio_tamogamiとhatoyamayukioに挟まれてつぶやく俺は歯ブラシである 加藤治郎『しんきろう』

(私のひと言評 4/11)
69.
職場の朝、カスタマーサービスの部署か。客からかかってくる電話にまず「ぼくたち」電話機が応答する。マニュアル的な応対の言葉だが、客に応答する「・・・ならば何番、×××ならば何番を押してください」と言うようなメッセージのことを「あと一〇〇文字生きる」と言ったものか。無機物の機械やシステムを「ぼくたち」と擬人化したところが新しい。しかし、現在の社会では、銀行の現金自動預け払い機のように、昔は人間が対処していたこともこのように機械やシステムが取って代わった社会になっている。だんだん『スタートレック』の世界に近づいている。
 
70.
「toshio_tamogami」(2010年1月に登録)と「hatoyamayukio」(2009年12月に登録) は、ツイッターのアカウントで、それぞれ「田母神俊雄」と「鳩山由紀夫」か。「挟まれて」とは、よくわからないけどツイッターのタイムラインで、「toshio_tamogami」のつぶやきの次に〈俺〉がつぶやいて、次に「hatoyamayukio」のつぶやきが流れてきたということ。偶然に実際あったことか架空の表現的な設定かまではわからないし、そんなことはたいした問題ではない。「俺は歯ブラシである」がよくわからない。互いに相対する考えの者(言葉)にはさまれて、それを歯にはさまってきたように感受し、少し圧迫感を感じ、〈俺〉は歯を磨いてきれいにするようにつぶやく、すなわち自分の存在を確保するという意味か・・・。(読みとして、ちょっとすっきりしないなあ。)

調べてみると、政権交代した民主党政権は2009年9月から2012年11月の間であり、『しんきろう』は2012年刊であるからこの作品は、民主党政権時代の作品か。新たに生み出されてきたSNSという仮想世界では、日常の具体的な生活圏では起こりえないようなことが起こる。しかし、人はそんなことにも次第に慣れてゆく。


ツイッター詩84 (4月詩)

2019年04月11日 | ツイッター詩
ツイッター詩84 (4月詩)


空が曇る
風が流れ出し
勢いが付いてくる
空が無慈悲に顔色を変える
激しい雨 雨 雨
いつ止むともわからない
原始の叫びじみてくる
(ぶるっと みぶるいする)

ありふれた光景の
ぐらり
反転することがあり
(しんじられない!
そんないちめんがあったんだ)
けれど
誰もがダースベイダー
ダークサイドに落ち込むことがある
(みぶるいする あんこくめん)

あんこくめん あんこくめん・・・
暗黒面が共鳴する
忘れられた古物語

智恵子の空遠く
大空の古物語がある
信じられない
大きな海進も海退もあった
さらにさらに
この大地が固まる以前から
ぼくらのくらくらするめまいの彼方
暗い暗い cry 空があった
オオカミ声で人が叫んでいる
ワオワオオオオン!