小田の橋の謎

近所の身近な歴史だけど、それなりに深いのです。本音は、お伊勢参りのついでに小田の橋や古市街道や河崎に寄ってほしい。

蚊の神社

2009-10-21 23:40:14 | 宇治橋の謎
瀬織津姫は、京都の橋姫でも、伊勢内宮の宇治橋の橋姫の祭神ではなかった。

神宮125社のなかで、祭神になっているのは、伊勢市の隣の玉城にある蚊野神社。
早池峰山の母神、滝の女王、桜の女神と幾つもの肩書きがある女神にしては、ちいさな神社だ。

虫の名前の神社ですが、
滋賀の愛知(エチ)郡にも、同じ名の蚊野というところがあります。
古墳が298基もあったそうだ。
エチハタ古墳といって秦氏一族の古墳群だそうだ。金属を扱う渡来系の氏族でもある。近江の下のほうには古代の製鉄所である鉄遺跡群が60以上あり、滋賀は、近畿地方、最大の製鉄コンビナートであった。

では、近江の蚊野と玉城の蚊野と関係はあるのだろうか、玉城の西側には
丹生があり、金属の精製技術のある秦氏からすれば滋賀と関わりがあるとみるべきでしょう。
地図では蚊野の東に外宮がありますが、丹後では、豊受大神は、食物のほかに鉄(金属)の神でもあるようです。

なぜ瀬織津姫がここに祭られているのか、そもそも「津」と言うのは、海や湖や大きな川の近くと言う意味だし。


地図からすると斎宮にも近いから、斎王が荒祭宮の代わりに天照の荒魂として瀬織津姫を拝みにきていたかもしれない。

なお 蚊野は、そこで立ってみて、確信するのですが、
まさに、ここは、巨大隕石が落ちたあとの、クレーターですね。


橋姫

2009-10-20 23:47:21 | 宇治橋の謎

   -遠野郷の母神、岩手の早池峰山頂のセオリ津姫↑。
京都の橋姫のセオリ津姫は、祇園祭の 山鉾「鈴鹿山」では、鈴鹿権現「瀬織津姫命」→
瀬織津姫は伊勢神宮では、荒祭宮の神 大祓にでてくる。滝や川の神。桜の神。
本居宣長によれば悪神。平田篤胤(あつざね)によれば善神。

違う解釈もある。

ある本では、イセ、いすゞ、いそべ、はIとSからなる。 Iは、接頭語で、SはソウルのSで都の意味だという。

ソウルは、新羅の都《金城》ソボルが変化したもので、都を意味するそうだ。ニニギの尊が降臨させたのは高千穂の添(ソホリ)の山峯で、これも、ソウルと同義語であり、任那の初代長官の塩乗津彦(シホリ津彦)の「シホリ」もおなじである。同じように、セオリ津姫のセオリもセホリ→シホリ といえる、から。
セオリ津姫は、接頭のイをつけるとイセオリ津姫。つまりイセ津姫になる。

鈴鹿の山から逃げ去ったのが伊勢津彦(伊勢風土記)。残った伊勢姫こと瀬織津姫が鈴鹿権現。
京都宇治橋の、橋姫伝説の話に花を添えるか。


 

宇治の地名

2009-10-20 15:01:28 | 宇治橋の謎
宇治橋といえば、京都。源氏物語や古今和歌集にでてきそうで
歴史も大化の改新のころの日本最古の巨大橋。
伊勢の宇治橋も歴史は古いが、有名な京都の橋にはかなわない。
1434年、足利義教の寄進により、下流の岡田郷から岩井田山に架けられていた(競技場の北?)のを、今の位置に移したとある。

伊勢の宇治は、鈴鹿の猿田彦を祭る椿大社で代々奉仕する宇治土公氏から?とおもったりもするが。おそらく 京都の「宇治」が、愛知や岡山などあちこちにあるから、全国に銀座があるように、そのブランド名あやかったのでしょう。

ただし、京都の宇治の語源は兎道(みかえり兎が道案内した道)で「うぢ」という。その語源からすると伊勢のウジも、 書記の、敏達天皇の皇女の
菟道貝蛸皇女(うじの かいたこ のひめみこ)からきているのかもしれない。{斎王として伊勢神宮に仕えていたが、池辺皇子に犯され、事が露見して任を解かれた。後に聖徳太子の妃になる}


京都の宇治橋の橋姫神社の祭神が、あの 秘女神 セオリツ姫という。
から、なんか伊勢との距離が近づきます。。
(つづく)


神嘗祭 と宇治橋

2009-10-18 19:04:02 | 宇治橋の謎
宇治橋と神嘗祭は直接関係はないですが、少しはあります。

今、神宮の行事で、一番大切な神嘗祭(かなめさい)が行われています。(16日から25日)神嘗祭の嘗「なめ」は、饗「あえ」からきているそうで、その饗とか贄「にえ」それに、御饌「みき」は同類です。
宇治橋の守り神の饗土橋姫神社「あえどはしひめ」にも饗が使われています。
(上記の宇治橋の絵(安土桃山時代))では、橋姫神社なってます。 なお 宇治橋を渡っても民家がある。)

さて、神嘗祭は、旧暦の9月17日ですが、新暦になった明治には、10月17日と一ヶ月ずらし、国の祝日でもあった。

新旧 暦相互変換で、正確に新暦にすると、今年は、11月3日 文化の日であり宇治橋渡り初め の日が旧暦9月17日の神嘗祭の日になりました。

No4 宇治橋の詩 竹内浩三

2009-10-09 22:34:14 | 宇治橋の謎

渡り初めか、渡り始めか、過去の一般人はどちらを使っていたかはいうまでもない。 有名な橋の、新橋完成の折には、同じような儀式が行なわれる。

明治から内宮宇治橋でも、三世代夫婦が渡る儀式をするようになった。

その儀式は、隅田川に明暦の大火のあと、1659年(万治2)に新しくできた、両国橋の竣工を祝う「渡り初め」で行われたのが発端らしい。

親子三世代夫婦を実現するには長生きをしなければならない。地元の詩人 竹内浩三の詩 宇治橋に、「わたりぞめ」がつかわれてる のは言うまでもないが 彼の、長生きをしたいという、素直な気持ちが心に伝わってくる。

われわれは、一方で、昔の人は、男は太く短く、お国の為に・・・が良しとしたと決め付けてしまっているが、この自然な気持ちは、今も昔も同じなんだろうね。

 浩三は学徒出陣でルソン島で24歳で戦死した戦没詩人である。東シナ海で戦死した野球の沢村栄治の4歳年下で同じ明倫小学校出身、墓も同じ小田の橋の近くにある一誉坊(いちょぼ)

 彼の詩碑は、内宮の裏側の山 朝熊山のちょうど宇治橋奉行をした九鬼嘉隆の五輪塔の近くにある。上記の写真は石碑に刻まれた彼の 骨のうたの最後の節で、彼の書いた字を写している。