小田の橋の謎

近所の身近な歴史だけど、それなりに深いのです。本音は、お伊勢参りのついでに小田の橋や古市街道や河崎に寄ってほしい。

赤福

2009-10-26 20:12:11 | 宇治橋の謎

昨日のは、江戸時代の宇治橋と周辺の町並みの地図だが

あの 赤福(濱田社長) は 載っているのだろうか?

 

すぐわかりました。

現在と同じ場所

に「濱田長次郎 名物赤福餅」(←と読めるのだが)

がありました。

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町の中の宇治橋

2009-10-25 17:08:20 | 宇治橋の謎

人にブログを見せたら、話題が、あちこち飛んで、わかりづらい と いうので

的を絞って書いていきます。

文久元年の 度会郡宇治郷

昔は、宇治橋を渡っても町があった。

宇治橋を渡ると舘町という町があり、明治の中ごろを過ぎて、立ち退きになった。

 

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蟄居(ちっきょ)1

2009-10-24 20:04:02 | 蟄居 

蟄居(ちっきょ)とは、お屋敷や寺などで謹慎する量刑のひとつ、

朝熊山や その山麓は、武士や大名らが蟄居を命ぜられる陸の島流しの場所であるようだ。

そういうと暗いく孤独な場所の感じだけど、

朝熊岳は、山頂の八大竜王や金剛証寺、風向明媚で爽やかなところであり、人の列が絶えぬ山道であり、また麓の朝熊村も桜の名所で、二見や鳥羽へ行く人々が行き交うところでもある。

有名なのは、 家康の六男、の松平忠輝。また、地元では、蟄居中に万金丹をつくり地元に貢献した 秋田実季 (あきた さねすえ)が知られている。

少し時代を遡ると 九州征伐で秀吉の怒りを買い蟄居させられた 稲葉一鉄の孫 稲葉典通(いなば のりみち)

その他

蟄居させられたというより 自らが篭っていたのは

戦術の失態で、秀吉に所領をとりあげられ 朝熊山に潜伏していた 尾藤 知宣(びとう とものぶ)とか  関が原で西側についたため、嫡男と篭っていた田丸 直昌 (たまる なおまさ)(正妻が蒲生氏郷の姉)とか 大垣城から落ち延びて来た福原長堯(ふくはら ながたか)がいた。

 朝熊は、他にも配流されたり蟄居したり潜伏したりと、何名もの武将がいたことだろう。

ただ なぜ 朝熊がそういう謹慎する場所となったかわかりません。これも、伊勢参りと、繋がりがあるのだろうか。 

                            →蟄居2

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朝熊 あさくま あさま

2009-10-23 14:18:31 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

昔は、宇治橋をわたると町があり、いくつもの分かれ道があり、お参りしたあと、夫婦岩や松下社のある二見に行ったり、朝熊山に登ったり、伊雑宮のある磯部にいったりした。

内宮の裏山、朝熊山(あさま山)には、内宮の鬼門を守る寺がある、金剛証寺で、臨済宗の南禅寺派の別格本山。山号は勝峰山です。

朝熊かけねば片参りと詠われた。鬼門とは、丑寅の方位です。関係ないけど、伊勢には牛トラというスーパーがあります。鬼とは、牛の角と トラのパンツをはいたイメージだから鬼門になったのでしょう。

さて、

朝熊を「あさま」と読むけど、

伊勢神宮の摂社の筆頭で、天から最初に桜の木がついた場所にある由緒ある神社である、朝熊神社は「あさくま神社」 だからやはり「あさくま」が正確なのだろう。

近くの山に浅間山があるから、あさま と読み方変わっていった。

例えば、

あの、蚊野神社の西側にも浅間山があり

内宮とそっくりな滝原宮も 東に浅間山があります。

磯部の伊雑宮の東にも浅間山がある。

(伊雑宮は、江戸初期、伊勢神宮にたいし、本家は自分と主張し神官40名が神島に島流しにあった、当時は巨大な神社)

「あさくま」が「あさま」になったのは、浅間の影響

ただ逆に

浅間信仰の富士の浅間神社では、浅間の名の由来には

Wikipediaでは、伊勢神宮の朝熊神社を現地の人々が「アサマノカミノヤシロ」と呼んでいたため、その名を浅間神社にあてたとする説もある。

この朝熊の名は、有名です。西行に歌われた桜の園 として、また、歴史の舞台にたびたび登場する

それは「蟄居」。

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五十鈴橋? 

2009-10-22 23:28:33 | 宇治橋の謎
内宮の宇治橋は、何時ごろからそう呼ばれるようになったのだろうか。

宇治橋の別名は、御裳濯(みもすそ)橋。

五十鈴川だけど この辺りは、御裳濯川と呼ばれていたそうで、 倭姫が汚れた裾(すそ)を川で洗ったことからついた名前だそうだ。
だから
京都の宇治橋が宇治川の橋というように、御裳濯(みもすそ)橋になった。

裾が抜けてるんじゃないかとか濯が余分だというように
漢字がわかりにくく、言葉も、おぼえにくい名だ。

昔は橋の両側に宇治町の民家があった、つまり町の中の橋として宇治橋にしたのだろうけど、
今は神域と俗界を結ぶ橋だし、
いっそうのことわかりやすく、別名として五十鈴橋にしたらどうだろう。

ps
なお、倭姫ですが、参道の古市のとなりに「倭町」というところがあり、
その辺りが「隠ヶ丘」といわれている。
そこで、倭姫も、アマテラスのように、岩穴にお隠れになったそうだ。
ギリシャ神話に、外宮の豊受のように、豊穣(ほうじょう)の女神であるデメテールがいますが。
あるとき彼女は怒って洞窟に隠れ、そのため地上の作物や果物は枯れ、という話がある本で、紹介されてました。天の岩戸みたいだわ。

ps2
京都の宇治橋は、京都府 宇治市 宇治山田にあるんだそうだ。
もし宇治山田中学とかあったら、どう呼ばれてるのだろう?

伊勢市では、宇治山田高校、宇治山田商業の略称は、宇治高とはけっして言わす、山高、山商という。なお 戦国時代の当地は、常に宇治と山田で戦っていた。


伊勢市は、昭和30年(1955)までは、宇治山田市だった。伊勢とはもともと、国の名前で、たとえば、今でも伊勢木綿といえば津だし、歴史で言う伊勢商人というのは主に松阪商人だった。なお、JRの駅は伊勢駅とはいわず、伊勢市駅と市がつく。