小田の橋の謎

近所の身近な歴史だけど、それなりに深いのです。本音は、お伊勢参りのついでに小田の橋や古市街道や河崎に寄ってほしい。

おなつ寺(2) 芭蕉の句碑とソロバン

2010-02-03 11:01:29 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

小田の橋参宮道には、

おなつ寺のとなりの、寿巌院の三浦樗良(ちょら) の落葉塚 とか 祖霊社の 芭蕉の句碑の何木塚(なんのきづか) 「 何の木の 花とはしらず にほひかな」。が ありますが、芭蕉の句碑は他にも何ヶ所かあります。

さて、最近(5~6年前)に 文化会館の前に(大喜の前の三角地)にできた句碑についてです。

文化会館で伊勢青年劇場が芭蕉の劇をしたあと 数ヶ月後にできた句碑です。

知人が明智が妻の役をやったこともあり、非常によかった劇でした。

月さびよ 明智が妻の 咄しせん」 です。

月さびよ は   わび さび の世界。 その秋の月のもとで。 

(高尚ですね。よく わからないけど わかるような気もする) 

明智が妻の は 明智光秀の妻 煕子(ひろこ) の 

咄しせん(はなしせん) 否定形でなく 話しをしましょうの意 

 

芭蕉が伊勢山田の西河原(現宮後町)にあった御師の家に宿をとったとき  その若い御師の妻の献身的な姿をみて、その妻に

「明智光秀が、貧しいときだったが 光秀が主催する連歌の会をすることになり、妻は ひそかに自分の髪を売って お金の工面をし、客をもてなした」という その けなげな 光秀の妻の話しをし

この句を詠んだとされてます。 

明智光秀の城のあった 一度焼けたが、

光秀が再興した、滋賀の坂本の西教寺に 煕子(ひろこ)の墓があります。

三浦綾子の本に 墓石には「明智光秀の妻 煕子」と書かれてあるということでしたが、風化してて読み辛く わかりませんでした。

煕子(ひろこ)のことは、三浦綾子の細川ガラシャに関する本に書かれていてあり興味がありました。

明智光秀と 明智家と同じ美濃の妻木家の長女 ひろ子 との縁談がきまり、はれて結婚式の運びとなりました。 事が起こったのは、その当日のことです 光秀は、ひろ子であるはずの、白く化粧し角隠しをかぶった花嫁が  違う人だというのが わかりました。

妻木に 問いただしたところ ひろ子は疱瘡にかかり、顔があばただらけなので、どうしても縁談を壊したくないため 妻木家は 妹を姉と偽り 新婦として 式に出したというのです。 

光秀は 顔がどうであろうが 結婚相手は決まっていると 言い  ひろ子を迎えに行ったそうです。

 

さて、

煕子の墓の斜め下に 伊勢にあるのと同じ、芭蕉のこの歌碑があります。

(ただし 伊勢の句碑の 咄しせん のところは → 咄しせむ 

月さびよ 明智が妻の 咄しせむ

  右の石垣の上に煕子(ひろこ)の墓があります。

その当時は この歌が、芭蕉が伊勢山田で詠まれた俳句だとは知りませんでした。 

 

さて、今の西教寺の本殿の隣には、

そろばんをもった地蔵があります。

 そろばんの祖、長谷川佐兵衛藤広の墓があるからです。

この長谷川藤広のが ちょうど、三浦ちょらの句碑のある寿巌院の東隣にあった お夏寺 家康の側室 つまり清雲院の お奈津(お夏)です。

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