小田の橋の謎

近所の身近な歴史だけど、それなりに深いのです。本音は、お伊勢参りのついでに小田の橋や古市街道や河崎に寄ってほしい。

のだめカンタービレ 上野樹理

2010-04-17 20:10:36 | 幻の空き地 1-4

今日は、話題の のだめカンタービレの後編を 観に行きました。  実は、一昨日に、前編を放映しており 見に行きました。 主役の上野樹理が来年のNHKの大河ドラマの主人公になる女優というからです。普段、テレビもほとんど見ないし、名前は知ってるくらい。 映画が始まり、いかなる女優かと思ったら そのしゃべりに ガックリし  この人が 大河ドラマの 主役 お江(おごう)を演じる女優? 竹中直人扮するへんな外人が出てくるやら、もう 帰ろうかと思ったくらいでした。それが、 観てると 音楽が心地よく、だんだんその 上野樹理の 個性に引き込まれました。

 帰って 亀蔵のマスターに映画の話しをしたところ、今一番のある女優だということでした。

 で、その映画の前編は なんと 今日テレビでも放映するのがわかり、すこし損した気分になり、いっそうのことと 後編を見に行きました もう 上野樹理の あのしゃべりにも慣れ 結構 楽しめました。

  映画館は いつの間にか 演奏会場の雰囲気になってました、 途中に トイレに行きたくなったのですが、席を立つとほかの人に迷惑かと思い我慢してみてました。 映画が終わり エンディングが過ぎ会場が明るくなるまで誰も席を立ちませんでした。 軽いけど、素敵な映画でした。  

 

のだめカンタービレのドラマや映画には おおくの楽曲が使われています。

のだめカンタービレ 11篇 TVドラマ youtube

ドラマ「のだめカンタービレ」 11lesson 使用楽曲

これでもう あなたは  クラシック通になれます。

 

来年の 大河ドラマ「江(ごう)~姫たちの戦国」の

三姉妹の末っ子のお江与(おえよ)の主役を演じるのが上野樹理で、

「のだめ・・」でバィオリンニスト 三木清良役の

水川あさみも お江の姉の初(はつ)役 としてでるようです。 

なお 長女の淀(よど)は 宮沢理恵デス。

 

 

 

 

 

 

 

 


おなつ寺(3) 江戸謀略史

2010-02-10 14:34:04 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

江戸初期  数々の疑惑や陰謀がありました。大奥の話ではありません。

 岡本大八事件 (1609~1612年)

肥前藩 藩主有馬晴信(ありま はるのぶ)が長崎港に入港したポルトガル船マーデレ・デ・デウス号を包囲し沈没させたことが始まりです。

それは、マカオで、晴信の朱印船の乗組員と家臣の50人殺され、積荷も奪われた報復でした。

そのボルトガル船を襲撃する 監視役(目付役)として派遣されたのが

岡本大八でしたが、つまり 有馬晴信から 金銀6000両をだまし取ったのです。 それは、旧領土の回復を家康に働きかける運動資金としてでしたが、大八は、全て 自分の懐にいれてしまった。

有馬晴信が騙されたのは、岡本大八が 

本多正純の与力(子分)だったからです。本多正純といえば、家康の1,2を争う 側近でした。

岡本大八は死刑になるのですが、有馬晴信を道連れにしてやれと  晴信が、大八と同じ目付け役だった、長崎奉行の長谷川藤広を殺そうとしていると訴えました。

そのため 有馬晴信も結局 改易となり死刑になりました。

以上のような事件ですが、

 岡本大八が いくら騙し取ったとしても金額が高すぎます。

そもそも、有馬晴信は 嫡男「直純」を家康の側近であり、正妻は、家康の曾孫の国姫です。だから、わざわざ岡本大八に6000両もの大金を渡して、 本多正純に家康に願いでてもらう 必要はなかった。 全てが作られた話しのようでもある。

一般的に切支丹弾圧のため本多正純がした謀略といわれています。

が 事件の登場人物として、有馬晴信、岡本大八、本多正純というの他に

 長崎奉行の長谷川藤広がいます。

 そうです、長谷川藤広 はソロバンの祖の長谷川藤広であり 。 家康の側室 清雲院の お夏の兄 です。 岡本大八事件には、もうひとり 隠れた登場人物  いたのでした。

藤広 が 目付け役 として、常に報告していた 人物 は 家康。

つまり、この事件は 本多正純の陰謀であっても、

その裏に、黒幕として家康いた。といえる。

奇妙な事件や突拍子のない事件は おおむね そこに謀略が潜む。

たとえば 千姫略奪疑惑とか  続く

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おなつ寺(2) 芭蕉の句碑とソロバン

2010-02-03 11:01:29 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

小田の橋参宮道には、

おなつ寺のとなりの、寿巌院の三浦樗良(ちょら) の落葉塚 とか 祖霊社の 芭蕉の句碑の何木塚(なんのきづか) 「 何の木の 花とはしらず にほひかな」。が ありますが、芭蕉の句碑は他にも何ヶ所かあります。

さて、最近(5~6年前)に 文化会館の前に(大喜の前の三角地)にできた句碑についてです。

文化会館で伊勢青年劇場が芭蕉の劇をしたあと 数ヶ月後にできた句碑です。

知人が明智が妻の役をやったこともあり、非常によかった劇でした。

月さびよ 明智が妻の 咄しせん」 です。

月さびよ は   わび さび の世界。 その秋の月のもとで。 

(高尚ですね。よく わからないけど わかるような気もする) 

明智が妻の は 明智光秀の妻 煕子(ひろこ) の 

咄しせん(はなしせん) 否定形でなく 話しをしましょうの意 

 

芭蕉が伊勢山田の西河原(現宮後町)にあった御師の家に宿をとったとき  その若い御師の妻の献身的な姿をみて、その妻に

「明智光秀が、貧しいときだったが 光秀が主催する連歌の会をすることになり、妻は ひそかに自分の髪を売って お金の工面をし、客をもてなした」という その けなげな 光秀の妻の話しをし

この句を詠んだとされてます。 

明智光秀の城のあった 一度焼けたが、

光秀が再興した、滋賀の坂本の西教寺に 煕子(ひろこ)の墓があります。

三浦綾子の本に 墓石には「明智光秀の妻 煕子」と書かれてあるということでしたが、風化してて読み辛く わかりませんでした。

煕子(ひろこ)のことは、三浦綾子の細川ガラシャに関する本に書かれていてあり興味がありました。

明智光秀と 明智家と同じ美濃の妻木家の長女 ひろ子 との縁談がきまり、はれて結婚式の運びとなりました。 事が起こったのは、その当日のことです 光秀は、ひろ子であるはずの、白く化粧し角隠しをかぶった花嫁が  違う人だというのが わかりました。

妻木に 問いただしたところ ひろ子は疱瘡にかかり、顔があばただらけなので、どうしても縁談を壊したくないため 妻木家は 妹を姉と偽り 新婦として 式に出したというのです。 

光秀は 顔がどうであろうが 結婚相手は決まっていると 言い  ひろ子を迎えに行ったそうです。

 

さて、

煕子の墓の斜め下に 伊勢にあるのと同じ、芭蕉のこの歌碑があります。

(ただし 伊勢の句碑の 咄しせん のところは → 咄しせむ 

月さびよ 明智が妻の 咄しせむ

  右の石垣の上に煕子(ひろこ)の墓があります。

その当時は この歌が、芭蕉が伊勢山田で詠まれた俳句だとは知りませんでした。 

 

さて、今の西教寺の本殿の隣には、

そろばんをもった地蔵があります。

 そろばんの祖、長谷川佐兵衛藤広の墓があるからです。

この長谷川藤広のが ちょうど、三浦ちょらの句碑のある寿巌院の東隣にあった お夏寺 家康の側室 つまり清雲院の お奈津(お夏)です。

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尾崎行雄(7)   完

2010-02-01 13:57:06 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

 11才の 行雄 と父 尾崎行正

 

 参宮館(最近まであった)

 浜田国松 尾崎一雄 が住んでいた家で、おそらく 間違いなく、尾崎行雄も住んでいた。

向こう隣が 霊祭公社(祖霊社)で、その向こうには 青木亭(松阪から移築)があった。

 

 浜田国松と尾崎行雄

浜田は尾崎の門下であり、10歳尾崎のほうが年上。

 

 小田原文学館では

、敷地内に 尾崎一雄の書斎が移築されています。

これどっかで見た風景だなと思ったら

 (参宮館の離れ)

明倫小の北側の池の向こうにあった、尾崎一雄や浜田国松が住んでいた 離れと そっくりです。

参宮館の場所

さて、

気がついた頃には、参宮館は駐車場になってました。

壊したら後の祭り。小田原がうらやましいです。

また 近くの岩淵町に 少し前まで、あった野球の沢村栄治の生家も 今や駐車場です。練習したボールの痕とかもありました。

これじゃ 歴史もへったくれもなにもなし。 

 伊勢は、神宮の町なので、教師や学者や研究員の肩書きのある歴史の先生方がたくさんいますが、

こうした歴史的な建物が壊される前に 保存とか移築とかの提言はなされたのでしょうか? 

まことに 残念なことですわ。

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尾崎行雄(6) 浜田国松

2010-01-31 17:30:05 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

浜田国松は明治元年 1868年4月2日に宇治の今在家町の山村楳香(ばいこう)の第二子として生まれる。(宇治郷の絵図では、今の岩戸屋あたりに、山村という苗字の家がある。)後に、岡村家の養子になり、浜田清三郎家の跡継ぎになった。

国松の父の山村楳香(ばいこう)の楳は梅のことであり、山村家は伊勢の梅香寺と何がしかの繋がりがありそうです。

国松は、三重師範学校を出てから小学校の教師につました。鳥羽小学校にも在任したようです。

後に東京法学院(中央大)を卒業し 弁護士の業務につき、政治活動として、町会議員から県会議員をへて、37年の選挙で国会議員となり、のち12回当選し、衆議員議長をへて

 昭和12年の1月 12月に新築されたばかりの国会議事堂の、帝国議会で政友会の浜田はその施政方針の演説の中で、憲政の常道を説き、国家総動員法など軍の横暴を批判した。

浜田の著の「議政壇上に叫ぶ」では、1「広田内閣に告ぐ」に始まり、4「 軍部万能を排す」 5「台頭する軍部の政治推進力」 と軍の政治介入を批判し、最後の13項目 「寺内陸相に問う」で陸相と「腹きり問答}を行い、広田内閣を総辞職に追い込み 本人は辞職した。

さて 尾崎一雄の「父祖の地」に、「父と私は、山田の岡本町に移った。今、某代議士の邸になっているが、当時 参宮館、・・・」 にでてくる この某代議士とは 

浜田国松のことです。

この旅館の「参宮館」は明治までは御師の館だった。(御師とは、旅行斡旋業のようであり、講による、その旅費の積み立てから、旅館としてまた案内人として、参拝客のお世話をした)

参宮館のあと、その建物は 津に引越しした、岡村タイさん宅で、 つい最近(2,30年前)まであった。浜田国松が最初養子に行った岡村嵩ー氏と繋がりがあるかもしれない。

尾崎一雄と浜田国松が同じ屋敷に住んでいたことは 間違いない。

さて もう一人の 尾崎行雄ですが、

これは 昔 私が 尾崎の伝記本でなく 地元の明治昭和100年史の類いの書を読んでいたとき 「尾崎が二人とも同じ家とは」 と驚愕した覚えがあるからです。当然 誰でも知っている話しだと ずっと思っていました。あるとき それを確認するのに 図書館にいきましたが 探すことが出来ませんでした。

そこで 川端の尾崎咢堂資料館で聞きましたが、知らないといわれました。

何かわかれば、連絡すると言ってましたが何年も音沙汰なしです。 ただ、伝記本の中には 御師の家を宿にしていた とはあります。 御師は明治には廃止され、尾崎行雄が宇治山田に来た明治5年は旅館になっていた。私の記憶では、尾崎行雄も同じ 一雄や浜田国松と同じ「参宮館」です。  

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