浜田国松は明治元年 1868年4月2日に宇治の今在家町の山村楳香(ばいこう)の第二子として生まれる。(宇治郷の絵図では、今の岩戸屋あたりに、山村という苗字の家がある。)後に、岡村家の養子になり、浜田清三郎家の跡継ぎになった。
国松の父の山村楳香(ばいこう)の楳は梅のことであり、山村家は伊勢の梅香寺と何がしかの繋がりがありそうです。
国松は、三重師範学校を出てから小学校の教師につました。鳥羽小学校にも在任したようです。
後に東京法学院(中央大)を卒業し 弁護士の業務につき、政治活動として、町会議員から県会議員をへて、37年の選挙で国会議員となり、のち12回当選し、衆議員議長をへて
昭和12年の1月 12月に新築されたばかりの国会議事堂の、帝国議会で政友会の浜田はその施政方針の演説の中で、憲政の常道を説き、国家総動員法など軍の横暴を批判した。
浜田の著の「議政壇上に叫ぶ」では、1「広田内閣に告ぐ」に始まり、4「 軍部万能を排す」 5「台頭する軍部の政治推進力」 と軍の政治介入を批判し、最後の13項目 「寺内陸相に問う」で陸相と「腹きり問答}を行い、広田内閣を総辞職に追い込み 本人は辞職した。
さて 尾崎一雄の「父祖の地」に、「父と私は、山田の岡本町に移った。今、某代議士の邸になっているが、当時 参宮館、・・・」 にでてくる この某代議士とは
浜田国松のことです。
この旅館の「参宮館」は明治までは御師の館だった。(御師とは、旅行斡旋業のようであり、講による、その旅費の積み立てから、旅館としてまた案内人として、参拝客のお世話をした)
参宮館のあと、その建物は 津に引越しした、岡村タイさん宅で、 つい最近(2,30年前)まであった。浜田国松が最初養子に行った岡村嵩ー氏と繋がりがあるかもしれない。
尾崎一雄と浜田国松が同じ屋敷に住んでいたことは 間違いない。
さて もう一人の 尾崎行雄ですが、
これは 昔 私が 尾崎の伝記本でなく 地元の明治昭和100年史の類いの書を読んでいたとき 「尾崎が二人とも同じ家とは」 と驚愕した覚えがあるからです。当然 誰でも知っている話しだと ずっと思っていました。あるとき それを確認するのに 図書館にいきましたが 探すことが出来ませんでした。
そこで 川端の尾崎咢堂資料館で聞きましたが、知らないといわれました。
何かわかれば、連絡すると言ってましたが何年も音沙汰なしです。 ただ、伝記本の中には 御師の家を宿にしていた とはあります。 御師は明治には廃止され、尾崎行雄が宇治山田に来た明治5年は旅館になっていた。私の記憶では、尾崎行雄も同じ 一雄や浜田国松と同じ「参宮館」です。
変なコメントが入りました。^^
「はまだ.com」
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