小田の橋の謎

近所の身近な歴史だけど、それなりに深いのです。本音は、お伊勢参りのついでに小田の橋や古市街道や河崎に寄ってほしい。

おなつ寺(3) 江戸謀略史

2010-02-10 14:34:04 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

江戸初期  数々の疑惑や陰謀がありました。大奥の話ではありません。

 岡本大八事件 (1609~1612年)

肥前藩 藩主有馬晴信(ありま はるのぶ)が長崎港に入港したポルトガル船マーデレ・デ・デウス号を包囲し沈没させたことが始まりです。

それは、マカオで、晴信の朱印船の乗組員と家臣の50人殺され、積荷も奪われた報復でした。

そのボルトガル船を襲撃する 監視役(目付役)として派遣されたのが

岡本大八でしたが、つまり 有馬晴信から 金銀6000両をだまし取ったのです。 それは、旧領土の回復を家康に働きかける運動資金としてでしたが、大八は、全て 自分の懐にいれてしまった。

有馬晴信が騙されたのは、岡本大八が 

本多正純の与力(子分)だったからです。本多正純といえば、家康の1,2を争う 側近でした。

岡本大八は死刑になるのですが、有馬晴信を道連れにしてやれと  晴信が、大八と同じ目付け役だった、長崎奉行の長谷川藤広を殺そうとしていると訴えました。

そのため 有馬晴信も結局 改易となり死刑になりました。

以上のような事件ですが、

 岡本大八が いくら騙し取ったとしても金額が高すぎます。

そもそも、有馬晴信は 嫡男「直純」を家康の側近であり、正妻は、家康の曾孫の国姫です。だから、わざわざ岡本大八に6000両もの大金を渡して、 本多正純に家康に願いでてもらう 必要はなかった。 全てが作られた話しのようでもある。

一般的に切支丹弾圧のため本多正純がした謀略といわれています。

が 事件の登場人物として、有馬晴信、岡本大八、本多正純というの他に

 長崎奉行の長谷川藤広がいます。

 そうです、長谷川藤広 はソロバンの祖の長谷川藤広であり 。 家康の側室 清雲院の お夏の兄 です。 岡本大八事件には、もうひとり 隠れた登場人物  いたのでした。

藤広 が 目付け役 として、常に報告していた 人物 は 家康。

つまり、この事件は 本多正純の陰謀であっても、

その裏に、黒幕として家康いた。といえる。

奇妙な事件や突拍子のない事件は おおむね そこに謀略が潜む。

たとえば 千姫略奪疑惑とか  続く

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おなつ寺(2) 芭蕉の句碑とソロバン

2010-02-03 11:01:29 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

小田の橋参宮道には、

おなつ寺のとなりの、寿巌院の三浦樗良(ちょら) の落葉塚 とか 祖霊社の 芭蕉の句碑の何木塚(なんのきづか) 「 何の木の 花とはしらず にほひかな」。が ありますが、芭蕉の句碑は他にも何ヶ所かあります。

さて、最近(5~6年前)に 文化会館の前に(大喜の前の三角地)にできた句碑についてです。

文化会館で伊勢青年劇場が芭蕉の劇をしたあと 数ヶ月後にできた句碑です。

知人が明智が妻の役をやったこともあり、非常によかった劇でした。

月さびよ 明智が妻の 咄しせん」 です。

月さびよ は   わび さび の世界。 その秋の月のもとで。 

(高尚ですね。よく わからないけど わかるような気もする) 

明智が妻の は 明智光秀の妻 煕子(ひろこ) の 

咄しせん(はなしせん) 否定形でなく 話しをしましょうの意 

 

芭蕉が伊勢山田の西河原(現宮後町)にあった御師の家に宿をとったとき  その若い御師の妻の献身的な姿をみて、その妻に

「明智光秀が、貧しいときだったが 光秀が主催する連歌の会をすることになり、妻は ひそかに自分の髪を売って お金の工面をし、客をもてなした」という その けなげな 光秀の妻の話しをし

この句を詠んだとされてます。 

明智光秀の城のあった 一度焼けたが、

光秀が再興した、滋賀の坂本の西教寺に 煕子(ひろこ)の墓があります。

三浦綾子の本に 墓石には「明智光秀の妻 煕子」と書かれてあるということでしたが、風化してて読み辛く わかりませんでした。

煕子(ひろこ)のことは、三浦綾子の細川ガラシャに関する本に書かれていてあり興味がありました。

明智光秀と 明智家と同じ美濃の妻木家の長女 ひろ子 との縁談がきまり、はれて結婚式の運びとなりました。 事が起こったのは、その当日のことです 光秀は、ひろ子であるはずの、白く化粧し角隠しをかぶった花嫁が  違う人だというのが わかりました。

妻木に 問いただしたところ ひろ子は疱瘡にかかり、顔があばただらけなので、どうしても縁談を壊したくないため 妻木家は 妹を姉と偽り 新婦として 式に出したというのです。 

光秀は 顔がどうであろうが 結婚相手は決まっていると 言い  ひろ子を迎えに行ったそうです。

 

さて、

煕子の墓の斜め下に 伊勢にあるのと同じ、芭蕉のこの歌碑があります。

(ただし 伊勢の句碑の 咄しせん のところは → 咄しせむ 

月さびよ 明智が妻の 咄しせむ

  右の石垣の上に煕子(ひろこ)の墓があります。

その当時は この歌が、芭蕉が伊勢山田で詠まれた俳句だとは知りませんでした。 

 

さて、今の西教寺の本殿の隣には、

そろばんをもった地蔵があります。

 そろばんの祖、長谷川佐兵衛藤広の墓があるからです。

この長谷川藤広のが ちょうど、三浦ちょらの句碑のある寿巌院の東隣にあった お夏寺 家康の側室 つまり清雲院の お奈津(お夏)です。

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尾崎行雄(7)   完

2010-02-01 13:57:06 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

 11才の 行雄 と父 尾崎行正

 

 参宮館(最近まであった)

 浜田国松 尾崎一雄 が住んでいた家で、おそらく 間違いなく、尾崎行雄も住んでいた。

向こう隣が 霊祭公社(祖霊社)で、その向こうには 青木亭(松阪から移築)があった。

 

 浜田国松と尾崎行雄

浜田は尾崎の門下であり、10歳尾崎のほうが年上。

 

 小田原文学館では

、敷地内に 尾崎一雄の書斎が移築されています。

これどっかで見た風景だなと思ったら

 (参宮館の離れ)

明倫小の北側の池の向こうにあった、尾崎一雄や浜田国松が住んでいた 離れと そっくりです。

参宮館の場所

さて、

気がついた頃には、参宮館は駐車場になってました。

壊したら後の祭り。小田原がうらやましいです。

また 近くの岩淵町に 少し前まで、あった野球の沢村栄治の生家も 今や駐車場です。練習したボールの痕とかもありました。

これじゃ 歴史もへったくれもなにもなし。 

 伊勢は、神宮の町なので、教師や学者や研究員の肩書きのある歴史の先生方がたくさんいますが、

こうした歴史的な建物が壊される前に 保存とか移築とかの提言はなされたのでしょうか? 

まことに 残念なことですわ。

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