小田の橋の謎

近所の身近な歴史だけど、それなりに深いのです。本音は、お伊勢参りのついでに小田の橋や古市街道や河崎に寄ってほしい。

尾崎行雄(6) 浜田国松

2010-01-31 17:30:05 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

浜田国松は明治元年 1868年4月2日に宇治の今在家町の山村楳香(ばいこう)の第二子として生まれる。(宇治郷の絵図では、今の岩戸屋あたりに、山村という苗字の家がある。)後に、岡村家の養子になり、浜田清三郎家の跡継ぎになった。

国松の父の山村楳香(ばいこう)の楳は梅のことであり、山村家は伊勢の梅香寺と何がしかの繋がりがありそうです。

国松は、三重師範学校を出てから小学校の教師につました。鳥羽小学校にも在任したようです。

後に東京法学院(中央大)を卒業し 弁護士の業務につき、政治活動として、町会議員から県会議員をへて、37年の選挙で国会議員となり、のち12回当選し、衆議員議長をへて

 昭和12年の1月 12月に新築されたばかりの国会議事堂の、帝国議会で政友会の浜田はその施政方針の演説の中で、憲政の常道を説き、国家総動員法など軍の横暴を批判した。

浜田の著の「議政壇上に叫ぶ」では、1「広田内閣に告ぐ」に始まり、4「 軍部万能を排す」 5「台頭する軍部の政治推進力」 と軍の政治介入を批判し、最後の13項目 「寺内陸相に問う」で陸相と「腹きり問答}を行い、広田内閣を総辞職に追い込み 本人は辞職した。

さて 尾崎一雄の「父祖の地」に、「父と私は、山田の岡本町に移った。今、某代議士の邸になっているが、当時 参宮館、・・・」 にでてくる この某代議士とは 

浜田国松のことです。

この旅館の「参宮館」は明治までは御師の館だった。(御師とは、旅行斡旋業のようであり、講による、その旅費の積み立てから、旅館としてまた案内人として、参拝客のお世話をした)

参宮館のあと、その建物は 津に引越しした、岡村タイさん宅で、 つい最近(2,30年前)まであった。浜田国松が最初養子に行った岡村嵩ー氏と繋がりがあるかもしれない。

尾崎一雄と浜田国松が同じ屋敷に住んでいたことは 間違いない。

さて もう一人の 尾崎行雄ですが、

これは 昔 私が 尾崎の伝記本でなく 地元の明治昭和100年史の類いの書を読んでいたとき 「尾崎が二人とも同じ家とは」 と驚愕した覚えがあるからです。当然 誰でも知っている話しだと ずっと思っていました。あるとき それを確認するのに 図書館にいきましたが 探すことが出来ませんでした。

そこで 川端の尾崎咢堂資料館で聞きましたが、知らないといわれました。

何かわかれば、連絡すると言ってましたが何年も音沙汰なしです。 ただ、伝記本の中には 御師の家を宿にしていた とはあります。 御師は明治には廃止され、尾崎行雄が宇治山田に来た明治5年は旅館になっていた。私の記憶では、尾崎行雄も同じ 一雄や浜田国松と同じ「参宮館」です。  

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尾崎行雄(5) 浜田国松

2010-01-30 15:12:37 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 


伊勢市(宇治山田)出身の政治家といえば、なんといっても浜田国松です。

浜田国松は有名でないかもしれないが、大戦を語る上では 欠かせない人物です。

尾崎行雄の門下であり、気概のある政治家です。

著書(共著)「議会主義か・フアツシヨか」。

昭和12年。衆議院本会議で、伯爵の寺内陸相に対し腹切り問答の演説し広田内閣を総辞職においこんだ政治家として有名です。 

(「速記録を調べて、自分が軍を侮辱してたなら切腹して誤る、そうでなかったら 君が切腹せよと」と 寺内陸相に詰め寄った。)

年代背景としては、前年には2.26事件があり、天皇により鎮圧はされたが、次の広田内閣では、軍部の政治介入はますます加速され、軍の圧力により当時のレートとしては破格の36億4千万円という膨大な軍拡予算が編成され 日本が、軍国主義の戦時体制国家に変貌しようとしていた ハイテンションの時期であった。

「腹きり問答」の半年後に日中戦争に突入する。

1937年 。1月21日, 「腹きり問答」

7月7日盧溝橋事件、第二次上海事変と中国大陸で戦端を開いた

 

尾崎行雄が咢堂(がくどう)というように  浜田国松は、孤松。

ただし 尾崎咢堂とはいっても、浜田孤松とはいわない。

おそらく、森の石松 じゃないけど 子分の名前みたいだからだろう。

でも 咢堂の子分(門下)であるのは確かです。

孤松は、咢堂の反対にもかかわらず

明治35年国会議員に立候補した。が落選。(自分と選挙区が同じだから咢堂は反対したようだ) 

浜田は、その次の総選挙も惨敗。したが

明治37年(1904)に三度目の正直で雪辱を果たし 当選。

・・・・

昭和9年から11年(1936年 )まで衆議院議長

1937年 腹きり問答 衆議院解散とともに 退任。

 岡本にある 浜田国松 の碑。

さて、

 われらが伊勢市の誉れ  戦前 同時代に活躍した この3人  

 尾崎行雄 浜田国松 尾崎一雄 は なんと!

3人とも、 同じ 同じ家 に住んでいた ようだ 

え?? 同じ屋根の下?? ほんとかいな?

 

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尾崎行雄(4) 尾崎一雄

2010-01-29 18:50:00 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

尾崎一雄の父がなぜ 勤務先の皇學館(現、宇治浦田 神宮工作所) から わざわざ、遠くはなれた、山田の岡本町に住んだのか。

 この青い線の道(4キロ)を 尾崎一雄の父は 徒歩で通勤した。今の御木本道路のに沿っており、以前は狭い道だった。(当時、御幸道路はまだなく古市を通るより近い)。

なお秀吉が 古市街道をつくる以前は、この道が参宮道だった。

さて父が、歩いて通勤してたのは、

「父祖の地」に書かれてます

明倫小学校1年の尾崎一雄少年は、父の帰る時刻になると 庭はずれの用水路の堀に立ちまだかまだかと待っていると

『やがて はるか「かえる石」の曲がり角に山高帽をみとめると、私は両手をあげ地団駄踏む。聞こえはしないとおもいながら 「おとうさん」 と 呼ぶ。父はステッキを頭上で左右に振っているが、だんだんと 歩調は速くなり、やがて駆け出す』

なんか純朴というか、ほほえましい情景です。

さて、おそらく、無理をしてでも、岡本に住んだのは、単純に、山田は町で便利だった

からだろう。 あるいは、 息子の教育を考え学校を 明倫小学校にしたとか。 明治天皇が名づけた 当時は、ブランドの学校です。父は東大をでているから息子の教育に気をつかった。

追加。

 この回顧録にでてくる「かえる石」です。私も遊んだところですが、今は取り除かれ、今はマンションが建っています。、その真横に「八束山」という山があります。そこにもマンションが建っている。

 八束山は、 尾崎一雄の岡本の 住まいの縁側から、南に見えている山でした。(当時まだ、明倫小が岩淵にあった) 

実は、尾崎の父の名は、「八束」なんです。母はタイ。

岡本から見える「八束山」とは、江戸時代では、山頂に、八束の髭の仙人がいて、毎日、スサノウを拝んでいたといわれた山です。

ちなみに、島根県の八束郡にあるのが出雲大社。 また、八束郡八雲村にはスサノウを祭る熊野大社があります。八束とは、スサノウが八岐大蛇を退治したことが由来とか。 小泉八雲は この八雲村にいたらしい。

なぜ 尾崎一雄の父に出雲の名前がつけられたのだろうか?

その父、尾崎八束は 小田原の曽我郷にある宗我神社(そがじんじゃ)の神主です。須賀神社とちがって宗我神社とスサノウは関係ないと思いますが、

蘇我蝦夷 入鹿=スサノウ 出雲大国主=天武 とかの 興味が沸く おもしろ説はあります・・・

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尾崎行雄(3) 尾崎一雄

2010-01-28 14:07:59 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

尾崎行雄と間違いやすいのは、

尾崎一雄という芥川賞作家。『暢気眼鏡』で受賞。。

文化勲章も受賞しています。

他の、代表作は『虫のいろいろ』『すみっこ』『まぼろしの記』など

尾崎一雄原作の映画は戦前に『暢気眼鏡』、戦後は、(「愛妻紀」 と「モグラ横丁」があります。

 

明治32年(1899)に 宇治山田で生まれる。

出生地は 伊勢市宇治浦田

 浦田交差点の右下隣の2件目あたり

4歳に父の郷里 小田原の曽我村に帰り、7歳にまた、戻り、伊勢の岡本町(当時は岩淵町)の明倫小学校に入学 翌年に沼津小学校に転校。

岡本町では祖霊社の隣に住む。父が教師として勤める皇學館は 今の宇治にある工作所のところで、尾崎の「父祖の地」では岡本から4キロの道のりを徒歩で通勤していたようだ。

どうして岡本に住んだのだろう? はたして、尾崎行雄と関係はあるのか?

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尾崎行雄(2)

2010-01-27 22:57:05 | その他 伊勢周辺 日記 ニュース 

有名な人の中に、ゆきお さんは おおぜいいますが、

 この方でもこの方でもありません。

憲政の神といわれている尾崎行雄です。

 

、憲政というとむずかしいですね。「議会政治の父」ということです。

 ワシントンに桜を寄付したことでも有名です。

ただの肩書きばかりの、偉いさんではないんです。

年をとってからもスゴかった。尾崎行雄は 1941年 83歳を過ぎてからも、大政翼賛会に反対し、三国同盟に反対し、近衛内閣や東条内閣に質問状を出し。不敬罪で巣鴨の拘置所に入れられたりと、国民の為に 国の行く末を憂い、戦い続けました。 その姿は痛々しいばかりであった。

 伊勢市 川端 の尾崎咢堂記念館は建て替える前は、市の経営する市民のための結婚式場でした。(安く結婚式があげられる 料理は料理屋に注文する し出し 。よくホテルがする出張パーティーのようなもの。)

外見からしても、新しい式場が出来ると期待してたら、資料館が主の建物でした。

 尾崎咢堂記念館は、

尾崎の生まれ故郷の神奈川の津久井にもある。

 

さて、

行雄の父に、つまり度会県の役人になり 一年も過ぎようやく慣れてきたころに、、また熊本県へ転任の通達がきました。

尾崎行雄と弟は、明治7年に、九州へ行く 父や母や妹らを見送り、

 行雄は弟をつれ 鳥羽から東京へ船立ちしました。

父は、明治9年10月に 熊本県庁の同僚4人などが死亡する、敬神党の乱があったころもあり、三重県にもどり

川端にあった、紀州藩の倉庫を買い取り、それを自宅とし、上地など周辺地域に養蚕の普及とその指導をした。

つまり、その倉庫のところが 今の尾崎ガク堂会館です。

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