小田の橋の謎

近所の身近な歴史だけど、それなりに深いのです。本音は、お伊勢参りのついでに小田の橋や古市街道や河崎に寄ってほしい。

宇治橋 私の渡り始式 

2009-11-03 22:07:04 | 宇治橋の謎

 万度麻をいれた擬宝珠の取り付け

 三代夫婦の渡り初め

  饗土橋姫社で参拝して

新しい宇治橋をわたりました。

 渡り初め って、本当に、すがすがしい気分でした。。

 

 お菓子とか 木札をいただきました。

最後の提灯行列まで参加し、夜9時半に、市内バスで帰りました。

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外宮と内宮

2009-11-03 12:38:27 | 宇治橋の謎

外宮には。

度会大国玉比賣神社(わたらいおおくにたまひめじんじゃ)

度会国御神社(わたらいくにみじんじゃ)

と似た名前の神社がある。

橋姫 が水ささら姫なら、

その ささら姫 弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)で

外宮の神苑の外がわにある度会大国玉比賣神社の祭神です。

天照が鎮座するまえの、地主神

そして 外宮境内にある、度会国御神社は、ささら姫の息子の彦国見賀岐建與束命(ひこくにみがきたけよつかのみこと)の社です。

 

なんとなくわかるのは宇治橋の二つある鳥居で、入り口つまり神苑の側にあるのが、外宮の前遷宮で正殿の棟持柱 (むなもちばしら)で造られており 側のが内宮の棟持柱でできているから、橋姫は外宮側の姫とされたのかもしれません。

外宮と内宮の名前の由来は、神苑の外や内でなく、

  削ぎの千木(垂直)が外宮

 削ぎの千木(水平)が内宮ということです(と思う)。

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明日は わたり始め式。

2009-11-02 19:23:52 | 宇治橋の謎

明日11月3日は、伊勢神宮宇治橋のわたりはじめ式。

旧暦の神嘗祭の日でもあります。

先着何百人?には、旧宇治橋の木でからつくられた木札がいただけるとか。

前回(20年前)の渡りはじめ式

親子3代夫婦 60組が渡るそうです。

すごい人だろうな。駐車場はいっぱいだから、正月みたいに、アリーナからシャトルバス。

仮説テントもアラブのテントみたいな巨大なものがいくつもたてられてました。

 

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饗土橋姫神社

2009-10-30 16:08:06 | 宇治橋の謎

饗土橋姫神社の蔡神は宇治橋鎮守神で、特に名前はないと思ってたら 神宮の発行する「瑞垣」の211号によると 橋姫は、ささら姫または、水佐々良姫 正式には、度會乃大國玉比賣、またの名を山田姫という、天照が御鎮座する前にいた地主神。 昔の地図には、橋姫社の近くに大国玉比賣社があったから 合祀したのかな? 橋姫がささら姫だと、どうしてわかるのか知れないけど。まあ、名前があったほうがいい 橋姫神社の扉は、隙間のない一枚板。橋姫社からは、宇治橋が奥まで全部 見渡せる。 さて11月3日の渡始式では、橋姫社で念じた「万度麻」を橋の左側2つ目の擬宝珠(神宮では ねぎ型金物)にいれ、初めて 渡り初めができる。 なお宇治橋の橋を支える橋柱は八角柱です。  

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太田小三郎

2009-10-29 12:53:44 | 宇治橋の謎

昔、古市は妓楼(芸者宴会を主にする旅館)が、建ちならび、吉原とか京都島原のような遊郭ではないけど、全国でも名だたる遊びの里でした。明治になってもあり、そのなかでも、三大妓楼のひとつで、牛車楼といわれる妓楼がありました。

   

その名は備前屋(太田家)。

そこに丁稚奉公として福岡から来ていた鷹羽小三郎は、仕事ぶりからみそめられ 太田小三郎(1845~1913)と太田家の養子になりました。

今日のように、私たちが、宇治橋を渡ると、そこは、別世界の神苑が広がります 、これは、太田小三郎の「神苑会」のなしとげた業績です。

明治19年に彼は財団法人「神苑会」を組織し。

翌年 の明治20年 には、

宇治橋を渡り神宮側にあった下、中舘町の民家を買収し、その撤去に成功しました(外宮でも、民家127戸が撤去された)。(当時の撤去された人々のに対する聞き取り調査など モニターがなされなかったのが不思議です。今では殆ど不可能ですが、50年前なら可能だった。地元の歴史家や教師らには興味がなかったのか)

その後整備され、明治27年に、今日のような神苑になったそうです。 「神苑会」の他の業績としては、(おそらく今日、地元(伊勢)の者が聞くと、あまりにもなじみ深いところばかりで、びっくりするのですが)

御幸道路(おなり街道)、外宮勾玉池、二見賓日館、徴古館参宮鉄道(JR参宮線)があります。

なお、小三郎の没後2年の1915年に宇治橋手前の家屋も撤去され、今日のように広いスペースが確保されました。

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