外宮には。
度会大国玉比賣神社(わたらいおおくにたまひめじんじゃ)
と
度会国御神社(わたらいくにみじんじゃ)
と似た名前の神社がある。
橋姫 が水ささら姫なら、
その ささら姫は 弥豆佐佐良比賣命(みずささらひめのみこと)で
外宮の神苑の外がわにある度会大国玉比賣神社の祭神です。
天照が鎮座するまえの、地主神。
そして 外宮境内にある、度会国御神社は、ささら姫の息子の彦国見賀岐建與束命(ひこくにみがきたけよつかのみこと)の社です。
なんとなくわかるのは宇治橋の二つある鳥居で、入り口つまり神苑の外側にあるのが、外宮の前遷宮で正殿の棟持柱 (むなもちばしら)で造られており 内側のが内宮の棟持柱でできているから、橋姫は外宮側の姫とされたのかもしれません。
外宮と内宮の名前の由来は、神苑の外や内でなく、
外削ぎの千木(垂直)が外宮
内削ぎの千木(水平)が内宮ということです(と思う)。
饗土橋姫神社の蔡神は宇治橋鎮守神で、特に名前はないと思ってたら 神宮の発行する「瑞垣」の211号によると 橋姫は、ささら姫または、水佐々良姫 正式には、度會乃大國玉比賣、またの名を山田姫という、天照が御鎮座する前にいた地主神。 昔の地図には、橋姫社の近くに大国玉比賣社があったから 合祀したのかな? 橋姫がささら姫だと、どうしてわかるのか知れないけど。まあ、名前があったほうがいい 橋姫神社の扉は、隙間のない一枚板。橋姫社からは、宇治橋が奥まで全部 見渡せる。 さて11月3日の渡始式では、橋姫社で念じた「万度麻」を橋の左側2つ目の擬宝珠(神宮では ねぎ型金物)にいれ、初めて 渡り初めができる。 なお宇治橋の橋を支える橋柱は八角柱です。
昔、古市は妓楼(芸者宴会を主にする旅館)が、建ちならび、吉原とか京都島原のような遊郭ではないけど、全国でも名だたる遊びの里でした。明治になってもあり、そのなかでも、三大妓楼のひとつで、牛車楼といわれる妓楼がありました。
その名は備前屋(太田家)。
そこに丁稚奉公として福岡から来ていた鷹羽小三郎は、仕事ぶりからみそめられ 太田小三郎(1845~1913)と太田家の養子になりました。
今日のように、私たちが、宇治橋を渡ると、そこは、別世界の神苑が広がります 、これは、太田小三郎の「神苑会」のなしとげた業績です。
明治19年に彼は財団法人「神苑会」を組織し。
翌年 の明治20年 には、
宇治橋を渡り神宮側にあった下、中舘町の民家を買収し、その撤去に成功しました(外宮でも、民家127戸が撤去された)。(当時の撤去された人々のに対する聞き取り調査など モニターがなされなかったのが不思議です。今では殆ど不可能ですが、50年前なら可能だった。地元の歴史家や教師らには興味がなかったのか)
その後整備され、明治27年に、今日のような神苑になったそうです。 「神苑会」の他の業績としては、(おそらく今日、地元(伊勢)の者が聞くと、あまりにもなじみ深いところばかりで、びっくりするのですが)
御幸道路(おなり街道)、外宮勾玉池、二見賓日館、徴古館、参宮鉄道(JR参宮線)があります。
なお、小三郎の没後2年の1915年に宇治橋手前の家屋も撤去され、今日のように広いスペースが確保されました。