二日目は四万十川の沈下橋を見て、源流を歩き、早瀬の一本橋を見て、梼原(ゆすはら)のホテルに泊まる。梼原の町が見られるようでこれも楽しみ。
四万十川は高知県西部で面白い川筋を辿る。それだけ高知はどこも山が多いということ。愛媛から四万十川は不便な所にあり宇和島から中村(四万十市)経由で足摺岬に行ったとき四万十川沿いを走ったことがある。
最初に一斗俵沈下橋。昭和10年に造られた四万十川最古の沈下橋で国の登録有形文化財。ここは上流部分で川幅は広くない。
四万十川の沈下橋は本支流合わせて47橋あるという。昔大洲にある肱川の沈下橋を車で渡ったことがあるが物凄く怖かった。沈下橋は怖いというイメージが今でも残っている。
道の駅布施ヶ坂で小型バスに乗り換え四万十川源流に向かう。
道の駅から細いくねくねした道を30分ほど登ってここが四万十川源流碑。
時の総理大臣宮澤喜一の書だそうだ。隣に橋本大二郎の碑もあった。
ここで昼食後源流点に向かって歩き出す。
源流碑は標高900mで源流点まで100mの登り。
CTは20分でここが中間点。
ここが源流点。四万十川は全長200㎞で標高差1000m。ダムのない日本最後の清流という理由が何となくわかります。
源流点の木札があったがまだ上流があるような流れ。夏場はこの何倍もの水量になるそうで、今日は源流らしい姿とガイドが話していた。
前回のツアーでは転倒し頭を5針縫った人がいたそうだ。添乗員が緊張していた。
これが小型の観光バス。定員20名かな?…このバスがだめならタクシー?…何しろ道が細い。
四万十川は湧き水も支流も多く中流から大河になる。大河のイメージしかない。
次は早瀬の一本橋。沈下橋の原型だというが?
流されないようにワイヤーが片側についていて、流されたら戻せるように橋桁は斜面になっている。
バランス力がなくなってきていて渡るのに緊張しました。
橋の前は吉村寅太郎邸。坂本龍馬に先駆けて脱藩し天誅組を組織したが奈良で敗れて戦死。
最後は今日の宿の梼原(ゆすはら)に。何となくすっきりした町。2010年ごろ道路改造と電柱地中化を行ったという。この道は久万高原を通って松山に出るという。大洲に出る道もあり交通の要所。
これが隈研吾設計の雲の上ホテル別館。壁から藁が飛び出している。
室内は女性に人気がありそうな設計。
時間があったので町をブラブラ。こちらは隈研吾設計の雲の上の図書館。
内部はこんな感じで圧倒されそう~!…垂れ下がっている木材は役に立っているのでしょうね。
続いて近くの三島神社に。参道はユニークな屋根の神幸橋。坂本龍馬脱藩の道だそうだ。
三島神社です。人口3千人の町にとっては立派な神社。
神社から脱藩の道の表示が続く。県境までハイキングコースになっているようだ。
これも隈研吾設計の町役場。これらの建物は2010年前後に造られたもので隈研吾を知っている町の知人を通して設計依頼したそうだ。当時隈研吾はスランプ中で梼原の自然を見て木の建築に目覚めたと地元の人が話してくれましたが、本当かな~?
8人の彫刻がある維新の門。
ここから脱藩した土佐出身の維新の志士。坂本龍馬ら8名と脱藩ルート。高知から愛媛内子まで山中を2泊3日で歩いたそうだが凄い健脚。
ホテルに戻る途中で町民総出で道路の草取りを行っていた。若い人が多いのに驚きました。移住者も多い町なのかもしれない。高知と愛媛の県境に忽然と出来た町のような気がする。隈研吾の人気でしょうか?
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