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東海村JCO臨界事故10年 人類史におけるウラン=核原子力の根底的意味を問うー蔵田計成-3 

2009-10-06 | 時事問題
そもそも、高レベル放射性廃棄物をガラスに包み込めば拡散しないと考えるのは、いかにも「幼児的発想」というべきでしょう。しかも、地中深く埋め込めば無化できると考えるのは、いかにも「劇画的思いつき」次元というべきです。人間の浅知恵が、大自然の風雪と猛威の前にいかに無力であることか。その例外をもたない歴史の事実に対して、背を向ける無謀な傲慢さは、あらためるべきだと思います。
後処理に必要な巨額な負担経費問題が露呈した、いい加減さも付記しておきましょう。
日本では、1966年に原発第1号機が始動して以来、使用済み核燃料=高レベル放射性廃棄物の後始末に必要な「後処理経費」に関しては、公表を差し控えてきました。この処理は、明らかに政策的な理由からであった、と思います。ところがようやく、40年が経過してはじめて秘匿のベールを脱いだのでした。
02年発表に次いで、03年、日本電気事業連合会は、負胆総額を公表しました。「向こう80年間で21兆円」(別な試算では19兆円)とする試算結果でした。この消費者負担額は、人口1億人とすれば3人家族で63万円(1人当たり21万円)の総額負担になります。ところが、その発表の3年後、06年政府原子力委員会がその数字を、約3倍増に修正しました。「向こう数10年間で43兆円」(年間国家予算額の約半分)としたのでした。このように、わずか3年間の違いで、「80年間」→「数10年間」へ、「21兆円」→「43兆円」という曖昧数値を公表したのです。というべきかも知れません。
このように、原発第1号機が始動して以来、40年間にわたって国民に対して巨額な負担額を秘匿し続けておきながら、今回のようにその数値を小出しに修正するのは、たちの悪い作為というべきかも知れません。世論操作にも等しい作為の背後には、何があるのでしょうか。おそらく、「後処理」に関する巨額な負担が、核・原子力開発の出口なき闇の世界の経済的隘路を暗示しているにもかかわらず、日本の核開発政策が、民間企業ペースではなくて、国策として推進してはじめて、コストバランスが成り立っているという事実が伏在していると思います。このような杜撰(ずさん)さは、原発行政の常套手段であり、ゆがんだ核原子力開発を象徴しているといえます。
さらに補足すべきは原子炉の廃炉問題(デコミッショニング)があります。
原子炉施設の設計寿命は30年~40年といわれています。かつては、発電コストを試算する際の法定耐用年数を「16年間」として計算したことがありました。その後、耐用年数は「30年間」に変わり、いまでは、耐用年数の予測値「40年~50年間」という数字が、用いられるようになりました。如何に「経験工学」の最たる技術的範疇にあるとはいえ、その曖昧さは呆れるばかりです。
現在、国内で稼働中の原発は55基、そのうち17基(31%)が「廃炉期」を迎えようとしています。そのなかで、商業用原子炉第1号炉(日本原電・東海発電所出力16万㌔㍗)は、1966年に操業開始以来、32年目に運転を停止、2001年から解体作業に入りました。この先、16年間かけて廃炉作業を終えるといいます。だが、高レベル放射性廃棄物の処分技術は未確立です。解体作業の手順が、すべて予定通り進行するとは思えません。その廃炉工法は、すべてが「絵空事」にすぎないというべきかも知れません。
① 密閉管理法
② 解体撤去法、
③ 遮蔽隔離法があります。
例えば、①の密封管理法は、原子炉内の燃料や液体放射性物質をすべて取り除いて、高レベル放射性廃棄材は、地下数10メートルの人工構築物のなかに埋設、密封処分。そのうち原子炉は100年~150年間密封管理して、放射能を自然に減衰させてしまう、という埋設方法です。このような危ない綱渡りが、上首尾に終わる保証はありません。
しかも、その廃炉コストは上限値を知りません。先にも触れたことですが、電気事業連合会は、02年、最初の「長期試算」を発表し、2045年までの「原発後処理総費用」を「43年間で30兆円(朝日新聞02年3/31)と発表しました。一基あたり平均5660億円です。その試算項目には、青森六ヶ所村再処理工場の「稼働期間40年」をくわえた、原発52基の「稼働期間40年」(合計53基分)がふくまれています。
いずれにしても、当初、後処理費や廃炉費の「一基あたり、200億円+アルファ」説が、まことしやかに流布されていた時期もありました。過去に流布された金額が、なんと、00年代に至って、一基あたり5600億円という異常値です。そのけた違いの落差には、驚くばかりです。たんなる欺瞞というよりも、世論を欺く犯罪的欺瞞というべきでしょう。
以上概括したように、ウラン=核原子力問題は、技術体系としての安全性、経済的コスト、軍事的凶器性、後処理上の問題点など、さまざまな未解決な難題を抱え込んだまま、破滅的事態に向ってひたすら直進しています。あたかも、巨大な「核開発」の歯車が歯止めを失ったかのように、音をたてて回転している、というのが実情です。しかも、その危険性と困難性は、地球上の全生命体の生存を脅かす破局的な危機に直結し、地球未来の命運に深く関わっています。いまこそ、根底的に問い直すべきではないでしょうか。(この序章は「ちきゅう座」掲載稿の一部「緒言」に加筆。近作予定「人類史におけるウラン=核原子力の根底的意味を問う」改訂版の冒頭部)