[右側パウロの三つ目がディアトリベ]
パウロはロマ書やコリント人への手紙で、しばしば路傍説教の口調(問答による論述形式)で読者に語りかけている。ロマ書6:1 の例。(実際には文章は連続している。)
問い: では、私たちは、何と言おうか。恵みが増し加わるために、罪にとどまるべきであろうか。
答え: 断じてそうではない。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なお、その中に生きておれるだろうか。
問い: それとも、あなたがたは知らないのか。
答え: (すぐ続く文)キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けた私たちは・・
パウロは仮想の相手を念頭にこの問答形式をよく用いている。これにはある研究者は次のような4つの要素が含まれていると分析している。(一部省略されることもある。)
1 引用文(パウロはそれが正しいと思っていない)
2 「・・と言われている」「・・と書かれている」(自分の発言ではない)
3 「しかし・・」と反転、「もちろんそうではない」と否定。
4 あなたは何者なのか、そんなことも知らない愚か者よ。
これはかなり定型化していて、2の明確な否定「断じてそうではない」はロマ書に数えてみたところ、9カ所ありった。(3:4, 31, 6:2, 15, 7:7, 13, 9:14, 11:1,11) 原文:μὴ γένοιτο!
[me genoito]=Never + may it be. 「決して・・ない + そのようであり得る」。
そして初めの引用部分は、反対するために引いているのであって、パウロの本心ではないことに留意する必要がある。つい、直解型な読み方に慣れている私は、引用文の内容をそのまま受け入れて読んでいたきらいがあった。書き手が用いた修辞技法を知っておくことも、聖典理解に大きな助けになると思う。
*「ディアトリベ」という語は新約聖書に出てこないが、修辞用語でギリシャ語διατριβή、 diatribḗの音訳である。意味, “way of spending time, lecture.” [διά (diá, “through”) + τρίβω (tríbō, “I waste, wear out”]
[対話の4つの型。ディアトリベは一方向、競争的。]
参考
榊原康夫「新約聖書の生い立ちと成立」
高柳伊三郎「ローマ人への手紙」、山谷省吾他編「新約聖書略解」所収、1958年
Jeremy Myers, “Epistolary Diatribe in the letters of Paul.”
この論法は、なんか、論議の幅を狭くする気がします。
討論の相手にせよ、世間一般の通説にせよ、その多くは幅が有るのに、この論法では、その幅を無視して、自分勝手に相手の主張を切り取って、「貴方(世間)はこう言っている」と決めつけてしまう。
そして、自分勝手に決めつけた事柄を断罪する。
例えば、「会社で昼飯の相談」
A「今日の昼は何食いに行く?」
B「ちょっと涼しくなったから、ラーメンでもいいかも?」
A「ラーメンってか? おいおい!まだ8月だぞ、ラーメンは無いよ、絶対にない!」
新約では、マタイも5章あたりで特に気になりますが、
「パリサイ派はこう言ってるが、我々はそうじゃない(もっと高い律法を持って居る)」と言う論調が見られます。
新しく生まれた宗教集団は、既存の宗教の一部否定から始まるので、この様な論調が多く見られるのではないかと思います。
モルモンもしかり?