[右から新改訳、口語訳、新共同訳と英訳(TEV)合本(新約)、フランシスコ会訳(新約)、新共同訳(旧約続編付)、聖書ソフト(Mac版)]
私も聖書について同じように感じていたので、この田川建三の言葉に賛成である。田川は「悪癖」と言う。末日聖徒の間でも何かと言うと英語ではこう書いてあります、と言う人がいる。聖書の場合、本当は背後にヘブライ語(旧約)やギリシャ語(新約)があることを等閑視しているように見える。また、日本語の聖書翻訳が立派な水準に達していることに気付いていないように思われて残念である。
田川が「書物としての新約聖書」(1997年) に一節を割いてこの件に触れているので、紹介したい。まず、日本のキリスト教徒の多くが漠然と抱いている思いについて厳しい。「英語の訳を読めばもっと正確に理解できるのではないか、などと言う人がよくいる。しかし、・・日本語の聖書の翻訳は今やかなり高い水準のものなのである。日本語訳では駄目で、英訳なら信用できる、などというのは、低級な英米崇拝心情以外の何ものでもない。」
聖書の翻訳について、「原典からの距離の遠さは、日本語訳だろうと英語訳だろうと大差ない」と言い、英語についてインドヨーロッパ語族の中でも最も変化(語形変化など文法項目を喪失、簡略化)した言語で、「ギリシャ語にあって英語にない時制を表現するのは厄介である。現にアオリストの訳について、英語訳聖書は非常に苦労している」と例をあげて説明している。(アオリストという時制は、未完了過去が継続的、描写的であるのに対し、瞬間的、列挙的である。あることが過去において片付いたことを表す時制。)
そして、「日本語での聖書の翻訳もすでに百年を越える歴史と経験を持っているのであり、加えて、最近の聖書学の急速な発達は世界的に翻訳の水準を高めた。だから、現在存在している日本語の翻訳は、翻訳としてはすでに十分に評価しうるもの」であると、先達を含めて仲間の聖書学者たちの業績を高く評価する。
それで、聖書の読み方として次のように提案している。「異なった翻訳が多数存在するならば、それらを相互に比較検討することによってより正しい理解が得られるのは確かである。・・現存のどの翻訳も『帯に短し、たすきに長し』であるから、どれか一つの翻訳にだけ頼るのは、本当は、やめた方がいい。従って、可能ならば、自分の知っているいくつかの言語の翻訳を読み比べる」ことを勧めている。
田川建三「書物としての新約聖書」勁草書房、1997年
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当ブログ 2010.04.28 教会の自主独立は原典理解から(玉川直重)
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受講料なしで言語学の勉強ができるのはありがたい(笑い)
モルモン教会内では特にですが、他の宗教でも、「誰が言ったか」とか、「(聖文の)どこに書いてある」と言うのを、正しさの根拠にする人が多いように思います。
ジョセフ.スイスが言ったから正しい、ブリガム.ヤングが言ったから、大管長が言ったから、イエスが言ったから・・・・。
とか、モルモン書のどこに書いてあるから・・聖書のどこに書いてあるから・・。
と、言うのですが、ほとんどの場合、それは単に自分の思いついたことに当てはまる言葉を探し出しているに過ぎないんです。
子供の頃の喧嘩で、「先生がが言ってた!」って言うと「先生が言ったら人でも殺すのか!」ってやり返すわけで。子供のころから、自分の意見を主張するのに、「権威」のバックアップを求めるのが、人間の性なのかも知れません。
ですから、聖書の一言一句について、「本来の意味は・・」って、ギリシャ語だヘブライ語だにさかのぼってしまうんですの。
勿論その様な研究は必要で、重要ですが、結局のところ、一体何が良いのか?と言う事の答えにはならないんです。
挙句の果てに、「グルが言ったからポアした」と言う様な悲劇を生みだすんですね。
とどのつまり、神様が何を言ったかなんて誰にも分らない、それより、神様がくれた、脳みそを使って考える方が良いような気がします。
誰が言ったかより、言ったことの内容を考えるべし!
って、豚が言っても、誰も同意しないんですよね。
常識を用いること、文学的コモンセンスを活用することも肝要です。⇒ 当ブログ 2014.06.05 聖書の読みづらさ(二)
単に自分の思いついたことに当てはまる聖句を探し出しているに過ぎないという指摘は、むしろ的を得ていますよ。 それのどこが背教なのでしょう。 そうならないように教会員は気をつければいいだけのことですよね。
要は、今天使の言葉で語っているかどうかが重要であり、ジョセフスミスが言ったから正しいとかブリガムヤングが言ったら正しいとかは、単なる権威に頼ってるだけですよ。
https://www.lds.org/topics/apostate?lang=jpn
豚から見るとこのような文章を、恥ずかしげもなく出しているのが背教者を生む要因だと思います。
「・・を参照してください」「でも、公式な見解じゃないですよ」
って、人を馬鹿にしてませんかね?
>自分たちを末日聖徒とかいっているので、人々を騙しているし、卑怯です。
神殿と言う重要な教義を教えないまま、バプテスマを受けさせ、会員にするというのは、騙しているのでも卑怯でも無いんですか?
30年ほど前までは、教義と聖約さえ、バプテスマの前には見せなかったのをご存知ですか?
教会の方針や教義、過去の指導者の言動等に異議を唱えるのは、決してモルモン教会を潰したいからじゃない。
自分の良心に照らして、心から世の中の人に広めたいと思える教会に成ってほしいからです。
自分の良心を欺かないと続けられない信仰生活は幸福とは言えない。
2015-03-01 02:22:16
LDS聖書研究同好会
https://www.facebook.com/
聖典批判
http://en.wikipedia.org/wiki/Criticism_of_Mormon_sacred_texts
ダリン・H・オークス長老による説教
http://garyo.or.tv/michi/sinjitu/bomormon/oaks.htm
背教者
https://www.lds.org/topics/apostate?lang=jpn
(公私の別なく)教会の主要な教えに反する行いやそれを無視するような行いをした人は,背教者とみなされます。
あなたたち、自分たちを末日聖徒とかよばないで、背教者とよんでください。
自分たちを末日聖徒とかいっているので、人々を騙しているし、卑怯です。
嫌がらせになっています。
多くの人々から苦情がでています。
信仰上のことで他者を判断したり裁いたりするのは、非常に注意を要するというか、危うい側面があるんではと・・・・人それぞれということで、生まれも育ちも顔かたちも能力もみんな違うように、おんなじ信仰と言うのはありえないというのは、これ現実なわけで、鰯の頭も信心から(第三者の目からはつまらないものに見えても、信心する人にとっては尊くありがたい存在になるということ)を各教会員の信仰の程度にあてはめれるわけで・・・・信仰者としては、皆は、人生おしなべて学んでいく過程にあり信仰を練る過程にいるわけで、例えば、勉強したい人、ネットを通じての勉強も信仰のうち、信仰を深めるうちとする人、意見交換などでもっと高めたい人とか、そういった人たちの学びの場や機会を奪ったり妨げたりするのは、遺憾なのではと・・・・
基本、主イエス・キリストを信ずる信仰ということで、どういった信仰を持ち、どういった聖霊の導きを受けて、そのように裁いているということなんだろう??・・・・理想的には各末日聖徒の信仰者には、聖霊の導きということがあるわけで、その導きなしでさぁ、さらには、人間、教会幹部も含め、人への信仰に置き換わっては、その権威でもって裁いたりでは問題なのでは??どこどこに教会指導手引きにこう書いてあるとかって・・・・
例えば、背教者云々と主張してる鈴木さんが、その権威を借りてるとして、仮定の話として、権威筋のほうが、モルモン書は偽典かもとかって言うようになったとしましたら、今度は、鈴木さんが自分を背教者呼ばわりしなきゃいけなくなるわけで、(鈴木さんが一貫性のある人だとして、その都度、風見鶏のように教会幹部のオウム返し、受け売りじゃなく)モルモンの信仰というのはそういうもんじゃないってことですよねぇぇ、導き手が、人に基づくんでは欺かれますよと、聖文にあるわけで、「56 わたしが栄光のうちに来るその日に、わたしが10人のおとめについて語ったたとえは成就するであろう。
57 賢くて、真理を受け入れ、自分の導き手として聖なる御霊を受け、そして欺かれなかった者、すなわち、まことにわたしはあなたがたに言うが、彼らは切り倒されて火の中に投げ込まれることなく、その日に堪えるであろう。
」(教義と聖約45)・・・・
ということで、どうも納得がいかない感じなんだがなぁ・・・・大切なのは、各個人の自立した信仰、個人の受ける導きということでそういった面を擁護するのが、本来の姿なんでは・・・・そこには、寛容とか広く意見を聞く、裁きは忘れて、学ぶ姿勢みたいな、そういったことが望ましいことになるんでは・・・・
イエスもユダヤ教から見れば背教者
半導体も、不純物が有って初めてその機能が生まれたんですよね。
超伝導の世界も、どんな不純物を入れるかが勝負!
最近話題になている、腸内細菌も人間の体の中に存在する事によって、色々と良い働きをする。
青色発光ダイオードで、ノーベル賞を受けた中村氏も組織内では異端分子だった。
なんでもはじめは、異端なんです。
モルモンも背教者を大事にしないと、衰退して消滅するよ。
茶坊主みたいなのばかり残ったら未来はない!
え?末日だから初めから未来はない・・・そうですね。
19:11 イエスは答えられた、「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」。
19:12 これを聞いて、ピラトはイエスを許そうと努めた。しかしユダヤ人たちが叫んで言った、「もしこの人を許したなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王とするものはすべて、カイザルにそむく者です」。
・・・・
19:14 ・・・・ピラトはユダヤ人らに言った、「見よ、これがあなたがたの王だ」。
19:15 すると彼らは叫んだ、「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」。ピラトは彼らに言った、「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」。祭司長たちは答えた、「わたしたちには、カイザル以外に王はありません」。
19:16 そこでピラトは、十字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した。彼らはイエスを引き取った。
」
(ヨハネ伝)
この権威、権力というのは、ある意味超曲者でっせ、でっせ・・・・
なんて言いながら、らい病を重い皮膚病に言い換えたのでは、意味が違うように思いますけど
豚さんの
自分の良心を欺かないと続けられない信仰生活は幸福とは言えない。
に大賛成です。
私は、自分の良心を欺いて教会員を続けています
どうも口語訳の「らい病」は病気が違うようで現代の何に相当するかわかっていないようです。
らい病・ハンセン病への誤解もあってのことなのでしょうね。
新改訳聖書では「ツァラアト」とヘブライ語の読みのままを採用しているようです。
やはり、聖典の翻訳は精査し続けるべきものなのでしょね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/ツァーラアト
聖文や指導者の言葉に、こう書いてあるからこうだと言って、相手を非難や批判すべきではない。
そして、一般的に心ある教会員は、背教者という言葉はあまり使うべきではないと思う。例え、破門されたとしても、悔い改めの道をすれば、またバプテスマを受けられる。それが、険しい道程だとしても。しかし、それを背教者と言う言葉で、その人の変えようとする力や心をチャンスの芽を奪ってしまうことがあるからである。
それ以上に、キリストの深い愛を実践して欲しいとあなたに願うばかりである。
私がここに来る理由は、知的になるためよりも、皆さんのクレームを聞くことかもしれない。
それは、仕事とつながるが、クレームがあっての企業の発展になるように、教会の発展も同様だと感じるからである。
人から教えてもらい、謙遜になることで、自分のカイゼンやカイリョウができるのではないでしょうか。
教会に行って活発になっているだけで救われるのではなくて、福音の実践して活発になってこそ救われるのではないでしょうか。
真のホームティチャーや訪問教師の役割とは、地方の教会員さんのような方とのたくさん話し合いをすることではないではないかと思います。
皆さんの意見や異見から学びとることができるようになれれば、教会の伝道も活況となるでしょうね。豚さんの言っているように。
さて、「頭で考える」とNJさんが言ってましたが、私は、考えるではなく、“深く考える”ようなことを覚えています。「頭〔の中〕で深く考える」 と誰かが言っていたはずです。私が聖句ガイドを探した記憶があるので。“深く考える”は聖句ガイドに記述されています。
この主旨は、破門された人が悔い改めてもう一度立ち直る道を妨げることになるから背教という言葉は良くないと言うことですね。ではいったいどのような考え方をしている人がこのような文章を書けるのでしょうか。その説明の根底に流れる思想に着目して下さい。
モルモン教会は常に絶対に正しく、一片の誤謬すらない、問題があるとすればそれは会員の側である、だから教会員は積極的に従順となり喜んで教会の導きを受け、幸福と救いを得る、このように教会は完璧だが人間の弱さゆえ道を踏み外す人も出てくるであろう、その場合には我々はキリストのような愛で彼らに接しようではないか、と。
こういう考え方が伝わってきます。
これは自分が正義の組織に所属しているが故に神の正統な継承者であるという思い込みから生じる一種のレイシズムと、他人は愚かで間違っているがそういう者にも手を差し伸べる自分の姿に陶酔しているナルシズムが組み合わさった実にモルモンらしい思考パターンだと言えます。
断言しますがこのような考え方はモルモン教会を取り巻く問題の本質を見抜くための妨げとなり、決して真実に到達できません。
しかしモルモン教会を愛する方々にとって真実を知るのは余りに辛いことになる可能性もあるのです。ですから真実を知らず、その考え方を抱いたまま心地良く生きていくという選択もあります。
モルモン教会の真実を知った人がその苦しみから逃れるために『教会を批判する人はみな勘違いをしていたのだ』などと嘯き、知的モルモンなどと自称して自分を誤魔化しながら形式だけの信仰生活を送るよりは真実を知らないで楽しく暮らしていくほうがずっといいのです。
『モルモン教会では背教したら滅びの子になるって怖い教えだよね』と言われたときに『滅びの子なんて簡単になれませんよ、みんな救われるんです』などと惚け顔でウソを吹聴する教会員がいたのを知っていますが、そんなクズになったら人間オシマイです。
全ての素直で従順なモルモン教会員に幸せがありますように。
「あいつは滅びの子」も同じ。その言葉は悪い行いに決まっています。
聖典にこう書いてある。手引きにこう書いてある。預言者がこう述べた。 「だから」あの教会員は滅びの子だ。 そう口走った瞬間、その教会員は神の権威を権威とも思っていないことを自分で証明してしまってはいないだろうか。
確かにそうなんですがね。
近年の日本のモルモン教会の実情を見ると、そうとも言えない気がします。
宗紀評議会(教会法廷)は、まずワードでビショップリック(神権定員会の会長も入るかも?)が開くわけで、それから、ステークの評議員で開く、ステーク会長会も加わるのかな?
新しい改宗者が少なく、会員が入れ替わらない、今の日本の教会では、回り持ちみたいに、神権者がその責任を果たすことに成るので、神権者のほとんどは、宗紀評議会(教会法廷)にかかわる可能性が有ると思います。
大祭司の神権は、教会の管理運営に必要な人にしか与えられない。ビショップリックとか、ステーク会長かステークの評議員。
活発に出席している成人男性の半分以上は「大祭司」で、と言う事は、宗紀評議会(教会法廷)にかかわる可能性が有るか、過去に有った人です。
「現在」と言う一つの時点を見ても宗紀評議会(教会法廷)にかかわる人は、ステークの中で、少なく見ても、30人以上は居ることに成りますから、「過去も入れると」小さなステークでも、ステークで100人はすぐに超えると思います。
また選ばれた12名の大祭司が裁きの発言が赦されているのは、法廷の中だけで法廷が終れば、内容を他言してはいけないという戒めがある。
これは破門の事実の周知とも違うことだ。
イエスは高慢な大祭司には、冷酷で手厳しかったではないか。
自分は大祭司だから、誰に対しても、好きな時間に何をやっても構わないと思っているとしたら、その人はむしろ大祭司にならない方が良かったのではないでしょうか。
大神権を持つ者が裁かれる場合は、ステーク会長会及び高等評議員の構成によって法廷が開かれるそうです。
それ以外の者は、ビショップリックまたは支部会長会が行います。
と、書いてありました。
◆さて、次の原則を話した指導者の方がいました。
教義と聖約121:43
「聖霊に感じたときは、そのときに厳しく責めなさい。そしてその後、あなたの責めた人があなたを敵視しないために、その人にいっそうの愛を示しなさい」
つまり、裁きをした神権指導者こそが、背教者だの、滅びの子だのと、言うべきではないということなのです。それが、裁きした人以外の人がそんなこと言うのは尚更なことなのです。
このことをされている指導者どれくらいいるのかは分かりませんが。
◆やれやれさんにも感謝します。率直な意見をコメントして下さって。
一応ですが、背教ではなく、背教者ですので、お間違えなく。
教会員の方が、背教したものが滅びの子になると言う話していたようですが、また、救われるとかも、最後の方のコメントですが、
私から言わさせていただければ、よく真理や福音を学んでいない人が言うような発言に気がしますね。私のような、あまり活発ではない教会員が言うでもないのですが。
聖句ガイドから
「地獄」
末日の啓示では、地獄という言葉は少なくとも二つの意味で用いられている。一つは、現世において不従順であった人々が霊界で一時的にとどまる場所を指す。この意味では、地獄にも終わりがある。霊たちはそこで福音を教えられ、悔い改めた後に、自分にふさわしい栄えの階級に復活する。悔い改めないながらも、滅びの子とはならない者は、福千年の間地獄にとどまる。この苦しみの千年の後に、彼らは星の栄えの栄光に復活する(教義と聖約76:81‐86;88:100‐101)
もう一つは、イエス・キリストの贖罪によって贖われない者が永久にとどまる所を指す。この意味では、地獄が永久的である。この地獄は「汚れたまま」の者のためにある(教義と聖約88:35,102)。サタンとその使い、ならびに滅びの子、すなわち御父から御子を示された後に御子を否定した者たちが永遠に住む場所である(教義と聖約76:43‐46)。聖典には、地獄を外の暗闇と表現している箇所が幾つかある。
「滅びの子」
サタンに従う者たち。サタンとともに永遠の苦しみを味わう。滅びの子と呼ばれるのは、(1)前世でサタンに従って反逆したために、天から追放された者。(2)肉体を受けてこの世に生まれることが許されながら、サタンに使え、神にことごとく背いた者。後者は死者の中から復活するが、第二の死(霊の死)から贖われず、栄光の王国に住むことができない(教義と聖約88:32,35)
☆イエス・キリストの贖罪を受けることで、自分のふさわしい昇栄を含む日の栄えの栄光、月の栄えの栄光、星の栄えの栄光の階級に復活するということです。
裁きは、主イエス・キリストが行うと書かれていますから、私たちが何処へ行くのかはわからない。背教したからといって、外の暗闇、つまり滅びの子に全ての人がなるとは言い切れないですし、しかし、贖罪によって全ての人が救われるとも言っていないのです。
「名誉毀損 VS 悪口 」
http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno/e/47d604080bb7d32cc9690cbe35cd0176
同じことをもう一度で、くどくなりますが。
大祭司と言う神権の職は、その人が立派だからとか、その人の信仰があついからと言って授けられるものではない。
例を挙げると、ずっと支部に居る人は通常大祭司に召されることは無い。
それは、支部には大祭司の権能が必要じゃないからです。
逆に言うと、ステークとワードでは、一定数の大祭司が必要です。
それで、ステークやワードの管理役員が足りなくなると、誰かを大祭司に召さないと組織運営が出来なくなるわけです。
そんなわけで、日本でステークが組織された当時は、二十歳を過ぎたばかりの大祭司が沢山居ました。
「むしろ大祭司にならない方がよかった」それは、本当にそうなんですけど、「ならざるを得なかった」と言う実情も有ったんです。
それに、神権と言うのは、一回受けてしまうと、返却不可能なんですよね。
それこそ問題を起こして、神権の剥奪とか、会員権停止、破門、になるまで、返せないんです。
マジで、返せるものなら返したい。
神権が無くなれば、それに付随する教会の仕事もしなくて済むわけですからね。
最近は、運転免許でも、高齢に成ると返却したほうが良いって言われてるんですから、教会も、「神権の返納」と言う制度を作るべきだと思うんですがね。
(名無しの教会員) さん
>豚さんへ
>大神権を持つ者が裁かれる場合は、ステーク会長会及>び高等評議員の構成によって法廷が開かれるそうです。
>それ以外の者は、ビショップリックまたは支部会長会>が行います。
>と、書いてありました。
・・・と書いてありました・・って事は、読んだって事ですね。
青の「教会手引き」を読めると言う事は?
赤の「教会手引き」はネットでも公開されていますが、青は、未公開ですよね。英語では公開されてるのかな?
>また、救われるとかも、最後の方のコメントですが、
すみません、思いつくまま書いていたので分かりにくい話になってしまいました。これは昔の私の経験です。
何年も前のことですが、どこかの掲示板で伝統的キリスト教会、いわゆるクリスチャンと仲良く宗教談義に花を咲かせたいと目論んだ末日聖徒がおりましてね。クリスチャンが「キリスト教では信仰により全ての人が救われるがモルモンはそうではない」と話していたところへしゃしゃり出て「モルモンでも全ての人が救われると教えています」とデタラメを吹聴し始めたんですね。
もうねアホかと・・・「モルモンでは儀式を受け、神権を持ち、最後まで忠実でないと救われないでしょ」って私が指摘すると、この末日聖徒は「一番大事なのは信仰だからモルモンの教えでも信仰によって救われるということなのだ」と強弁するんです。そのうち「モルモンでは他宗教の人も救われると教えている」と、もう息を吐くように嘘をしゃべくり始めたんです。
この末日聖徒は、別の場所では「信仰義認論なんて理解できない、モルモンが教えているように行いが伴わないと救われないはずだ」なんて言ってるんですが。言ってることが180度違うんですよ。笑えるでしょ?
よほどクリスチャンと仲良くなりたい思いが強かったんでしょうかねぇ・・・でもウソを言って彼らに近づいたところで真の信頼関係は築けません。
その末日聖徒に真意を問いただすと、「滅びの子以外は星の栄えでも、月の栄えでも救われていることになるから、モルモンの教えでも全ての人は救われるということだ」との返事。これって詭弁です、詐欺師の語り口ですね。
だから私はその末日聖徒に言ってやったんですよ「死後の世界で、モルモン信者を頂点とした階級社会に全人類が永遠に暮らすことになるという教義にあなたが勝手に『救い』と名づけているだけではないか」
そう言うと彼は尻尾を巻いて去って行きましたが、こうした言動をあちこちで行なっているおバカな末日聖徒がいるんです。今の出来事でクリスチャンがモルモンにどういう印象を持ったか想像できますか?
ちなみにこの不誠実な末日聖徒の神権は大祭司だそうです。
何が言いたいの~って、豚さん混乱していると思いますが(笑)
さて、私が読んだのは、インシュチュートの教義と聖約の生徒資料です。特別講義の欄に掲載されていました。青色手引き書は、一度も読んだことはありません。また、教会法廷に悔い改めする側で出廷した教会員の方から少々聞いたことがありまして。
ところで、豚さんは、大祭司なのですか。なんか、昔のことが詳しいので。
そのような貴重な経験談を話して下さってありがとうございます。
私も、二枚舌にならないように、また、福音を述べる時には、雄々しくあるように、邁進いたします。しかしながら、あまり活発ではない会員ですが。
でも私も、やれやれさんと同じ様なことをするかもしれませんね。
ネットなどでは、言葉が足らないことで、誤解が生じることもありますので、注意しないとなりませんね。特に私自身がそうです。説明するのが苦手なもので、もしも誤解を与えてしまうことがありましたら、どうかお許しください。
これ自体は別に問題のある発言でもないと思いますが、モルモンでは「救い」と「永遠の生命を授かること」が別物であるという説明がなかったら誤解するでしょうね。
普通のクリスチャンは、救い=永遠の生命と信じていますから。
ただこの末日聖徒は、全く逆でして、相手が誤解することを企図して発言しておりましたので極めて悪質でした。
現在は、旧約聖書をヘブライ語で、新約はギリシャ語で読めるようにしています。ただし専門の方の力を借りながらであって、それら言語に私は全くの素人です。
だからこそ、へえー!、なるほど!、そうだったの!と日本語には現れない意味に出会うのは楽しいです。正しく言葉を理解することは大切ですね。
最近、第一戒めについて、ヘブライ語で学ぶ機会がありました。旧約では申命記6:5に「主であるあなたの神を愛しなさい」とあります。ヘブライ語では”ヴェアーハヴター エット アドナーイ エローヘイハー”となりその訳は(そうすればあなたは必ず主を愛するようになる)です。ずいぶん印象が違います。預言的命令形というのだとか。英文では Thou shalt love the LORD thy God です。調べると原典に忠実に訳されていると思うので引用しますね。この話し手はイエス様ですから、SHALTが使われているので、この文の主体はイエス様になります。つまり、イエス様がわたしに神様を愛することができるようにしてくださる。という意味に解釈できます。どうすれば?それが、第二の戒めに続く。あなたの隣人を愛しなさい。つまり、あなたの隣人を愛するならば・・・。イエス様は、よいサマリア人のたとえで、「誰がこの人の隣人になったか」と尋ねました。隣人というのは、「である」ものではなくて「になる」もの、つまり関わりを持ったときにその人の隣人になるのだと言われています。
人と関わりを持つならば、それによって神を愛するようになるのだということでしょうか。
主を愛していますと、言うけれど、それですら神の恵みによって実現されていくこと。それなら、私が誇れることなどないではないか!厚顔無恥にも、そんなことも分からずに人前で「私は神様を愛しています」だなんてね。本当に頭が垂れました。
これは、もちろん私の解釈にすぎないのですが・・・。それでも新しい発見は私の信仰を吟味させ、強め、これからの在り方を定めさせてくれます。
しかし、原典から、また、ユダヤの思想や習慣に学んでいると信仰を揺るがす事柄も出てくるのです。
わたしにとって悩みの始りになったのは、「ゲヘナ」と「シェオール」という言葉です。どちらも地獄と訳されているのをみて、違いは何かを調べてみたのです。
ゲヘナは地獄、シェオールは隠府・黄泉。では、シェオールはイエス様が死後に訪れた所ですね。イエス様は地獄にもいかれましたか?
でも、末日の聖典の中の示現にシェオールが「地獄」の意味で使われている所があるのです。イエス様が、間違って使われた、とは考えにくく、疑問が残るのです。ごめんなさい。その聖句がどこにあったか見つけられない。
他にも、墓を白く塗る習慣がモルモン書の時代にあったのか。しかし、ユダヤの習慣については子孫に伝えなかったとある。イスラエルにとって重要な契約の印である割礼のことについて触れられないのも、よくない習慣とみなされていたのだろうか・・・。
気がつかなければ、のほほんと教会員をしていれたはずなのですが。でも、イエス・キリストに対する信仰は、傷ついてはいませんが、揺れるのです。
揺れながら、主よー!と叫んでいます。
いつもながら、軌道を外れたコメントでした。
これにて。