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[NY州のある教会のステンドグラスに描かれた山上の垂訓の場面]

「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
   天国は彼らのものである。」

マタイ5章3節から始まる「八福の教え」の冒頭の有名な言葉である。もう長年末日聖徒(あるいはクリスチャン)として過ごしてきた人たちは、その意味するところを弁えて補って読み、改めて考え直すことがあまりない。しかし、それが日本語としては不自然であることを頭の片隅で知っているのではないか。

というのは、普通「心が貧しい」という表現には否定的なニュアンスが伴い、「狭量である、さもしい、心が汚く卑しい、自分中心である」などよいイメージではないからである。日本文学やメディアで見かけられた一般人によるこの「心の貧しい」という表現を調べた堀田雄康は、日本人の感性にとってこの言葉が「幸いである」という断定と結びつくことは不可能であると述べている。

この句はむしろ、
「神に寄りすがる『貧しい人たち』は幸いである」(塚本虎二、1963年岩波文庫版 語順を変えて紹介。ルカはただ「貧しい人たち」。)
あるいは
「神の助けを切望する人は幸いである」(NEB参考拙訳)

のように訳した方が自然で、意味をよく伝えられるのではないか、と思われる。

ギリシャ語の本文は、

[Μακάριοι] [οἱ] [πτωχοὶ] [τῷ ] [πνεύματι]
Blessed [are] the poor in the spirit

となっていて、右の四つの語が問題の箇所である。その厳密な検討と解釈を「釈義」というが、核となる”πτωχός” の原義は「うずくまる」といった意味で、「ものを欠いている」状態を指している。それでその意をくんで、直訳が与える矛盾した印象を避けて意訳したものが上の二つである。なお、NEBの英語は、次のようになっている。
 How blest are those who know their need of God;

参考
堀田雄康「『心の貧しい人』は幸いであるか - - - 邦訳聖書の一盲点 - - -」聖書翻訳研究No. 7, Oct. 1973
The New English Bible, 1961
W.E.Arndt, F.W.Gingrich tr. & ed., "A Greek-English Lexicon of the New Testament and other Early Christian Literature." The University of Chicago Press, 1957, 1973

コメント ( 19 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
インステ生徒用資料(新約聖書) (オムナイ)
2015-02-24 10:45:09
>「神に寄りすがる『貧しい人たち』は幸いである」(塚本虎二、1963年岩波文庫版

>「神の助けを切望する人は幸いである」(NEB参考拙訳)

インステ生徒用資料(新約聖書)では以下のように解説してありました。

1.こころの貧しい人たちは,さいわいである
「心の貧しい人とは,霊的なものを常に求めている 人,衣服や食物,呼吸するための空気,健康,はたま た命に至るまですべて主に頼る人である。

このような 人にとって,感謝の祈り,また導きと赦しと強さを求 める心からの祈りを抜きにした生活は1日たりとも考え ることができない。これが日々の糧を得る基となるか らである。」
----

こころの貧しい人=こころの卑しい人的に一瞬思えるのですが、いわゆるチッチャイ奴ではないのだろうと感づきはします。

でも「こころの卑しい人」でも幸いであって欲しいなぁ。

 
 
 
モルモン書からの心の貧しき人 (たまWEB)
2015-02-24 11:35:21
"これだっ! 末日聖徒決定版「山上の垂訓」の解釈!! その2(書きかけ)"、書いてみたなずら。

よろしく御一読のほど、願い申し上げ御座候・・・・

http://blog.goo.ne.jp/yoriissouno
   
 
 
 
相変わらずですね (やれやれ・・・)
2015-02-24 11:57:34
言語学的な考察と、俺はこう思う! とは同列に並べらるものじゃありませんよ。

もっともそうしたところに末日聖徒の宗教レベルが現れているのですが(笑)

 
 
 
本当に心が貧しい豚から見ると ()
2015-02-24 14:18:31
>「こころの貧しい人たちは、さいわいである、天国は彼らのものである。」

武士は食わねど・・・って言うけど・・。
飯が食えないって言うのは本当に心が貧しくなる。

映画や小説の世界では、清く貧しく美しく・・って言うのが存在するけど、現実に貧しいと言う事は、清くも美しくもないのだ。

そんなのは、召しを腹いっぱい食える奴のたわごとだ。

つまり、心が貧しいって言うのは、経済的に困窮していて、今食べるものがないって状態だ。

そのような人に対して、宗教家は「心配するな、天国に行けば腹いっぱい飯が食える」と言い、その為には、バプテスマを受けて、什分の一を納めて、毎週教会にきて、時々神殿に行って・・・。

あほか!そんなことが出来るんなら貧しくはないよー!

世の中には、生きる環境の為に、心を貧しくしている人間が山ほど居る。
高潔な心など持ち合わせる余裕もない。

しかし、イエスが救おうとしたのは、その様な心の貧しい人たちだ。

と、心の貧しい豚は思いたい
 
 
 
現行で問題ない!? (NJ)
2015-02-24 15:50:25
ううん、貧しいと心も貧しくならざるを得ない、という考え方も十分成り立つわけですね。「心の貧しい人達は幸いである」でOK,という説。聖書協会が胸をなでおろす。
 
 
 
プロが訳したんでしょ? ()
2015-02-24 16:16:48
>「心の貧しい人達は幸いである」でOK,という説。聖書協会が胸をなでおろす。

そもそもね、聖書を翻訳するという仕事は、私のような豚には依頼が来ないんです。

たぶん、その道の権威が何人か寄って、いろんな人が校正して、それから、何十年も衆目にさらされて、それでも、生き残ってきたんですよね。

聖書の学者でもなく、語学の研究者でもない、一読者が、「この翻訳はおかしい」って言うのは、それこそ、そういう人の心が貧しいからじゃないかな?

自分が理解できないから、翻訳が変だと言う前に、自分の理解や勉強が足りないって思わないんですかね?
賢い人間ならそう思うはずですよ。

あほな豚はぶーぶー言いますけど。

それにしても、この部分を翻訳した人の説明が聞きたい。ブーブー。
 
 
 
セム語の常套句 ()
2015-02-24 16:57:26
田川健三氏の「宗教とは何か」の第3部の初めに、「貧しいものは幸い」と言うところが有ります。

読むだけでも難しいので、解説は出来ませんが、その中に「幸い、・・・・な者」と言う文体は申命記、箴言、詩編など、旧約聖書の中にも多く見られる、「セム語的文体」と書かれています。

又、「心の(魂の)」と言う言葉は、マタイ的学派の解釈的付加である。と切っている。

さらに、マタイ5:3の「心(魂)の貧しい人たち」と言う表現は、旧約、後期ユダヤ教、新約を通じてクムラン文書にしか出てこない。と言う事で、マタイ教団が敬虔主義の系譜を引き継ぐもので、クムランのエッセネ派等が、自分たちを「貧しいもの」と呼んだとか・・。

http://www6.ocn.ne.jp/~tagawakn/sub9.html

私の持ってる本は古いので、今は下巻の第4部に入っているようです。
 
 
 
幸いでなくてもいいから豊かなほうが好きです (地方の教会員)
2015-02-24 21:47:21
お久しぶりです。
心も生活レベルも底辺の教会員です

ちょっと前にステーク会長が100円クッキーをむき出しで持って家に来たことがありましたが、(えっ こんな粗末な手土産で…)とがっかりして、受け取らずに帰ってもらったことがあります。

普通に交渉ごとをするため、飲食店のはしごが当たり前になってしまうと教会標準の贈り物は貧相に見えるものです。
うまい焼き鳥屋台で一杯飲まなくてもいいからニンニクたれを楽しみながら教会の人と語らうことは多分ないんでしょうね。
「今日は俺に払わせてよ」なんて言いながら
 
多分夢だろうね。みんなそういった無駄使いは、本当に無駄だと思っているから…
 
 
 
Unknown (Unknown)
2015-02-25 13:59:46
地方の教会員さん

私はそういうの好きですよ。いつか行きましょう。
 
 
 
Unknown (Unknown)
2015-02-25 14:40:00
以前のコメントで、NJ さんを口の臭いじじいとか、たまwebさんを気持ち悪いとか書いていたのがいた。どちらも個人的に知っているような口振りで若い教会員のようだが、こんな人間が教会の指導者になるというのが一番気持ち悪い。
 
 
 
貧しさの意味 (落伍者)
2015-02-25 18:40:06
”心が貧しい”というのは”心が満たされていない”
人生に満足していない、救いを求めている状態だと
考えていました。
 そのような人は道を知れば、満たされ、細く長い信仰の道を歩んだ後、天国に入れるからです。
 
 
 
Unknown (教会員)
2015-02-25 23:51:24
「心が貧しい」とは、私的には、突然の不幸に見舞われたりした状況のように、あまりのことに「心がノックアウトされた」「夢も希望もなくなった」状態の者が近いのではないかと思っていました。 絵文字で表現すればこうです。

○| ̄|_

あるいはこういうのもある。

orz

 
 
 
Unknown (教会員)
2015-02-26 00:05:02
「心が貧しい者」というよりは、「心が空しくなった者」に天が開かれているのかも知れませんね。

 
 
 
こころと心 (オムナイ)
2015-02-27 19:04:59
口語訳では ひらがなの「こころ」と「心」区別してあって、

5:3 こころの貧しい人

5:8 心の清い人

「こころ」は霊
「心」はいわゆるハート

「こころの貧しい人」とは霊が遜った人、つまり謙遜な人なのでしょうか。

マタイ28:9ではイエスは「平安あれ」と言ったとありますが、これはヘブライ語の「シャローム」という挨拶の言葉を直訳したのではないかと言われていますから、あるいは「こころの貧しい人」というのはブライ語の直訳なのかもしれませんね。

 
 
 
なるほど (NJ)
2015-02-28 23:40:17
平仮名の「こころ」が「霊」を指し、全人格的な意味を表し、漢字の「心」とは違いがあるのではないかという指摘、ありがとうございました。気づいていませんでした。

福音書の記者たちはもともとアラム語が母国語でしたから、「こころの貧しい人」がアラム語(遡ればヘブライ語)であった可能性があります。曽野綾子はヘブライ語の「アナウィム」を翻訳した言葉であると書いています。(曽野綾子「幸せは弱さにある」2012年)。この語の語根「アナー」は「かがむ」「滅入る、ふさぎ込む」などの意味です。辞書で確認できました。
 
 
 
漢訳聖書でも (NJ)
2015-02-28 23:48:25
教会員さん、漢訳聖書では「虚心的人有福了」(虚心の人は福を得る)とあります(和合本)。同じ方向の訳だと思います。
 
 
 
Unknown (教会員)
2015-03-01 23:41:57
虚心の人は福を得る。

他の点についてはわかりませんが、この点については、漢訳聖書の方がギリシャ語のニュアンスにより近いですね。
 
 
 
貧しさの中にあるもの (黄昏のマリア)
2015-03-12 17:51:52
NJさん、こんにちは。また立ち寄りました。
当時のユダヤ社会は、ものすごい格差社会だったみたいです。
貧しい、ギリシャ語でプトーコス、「ちぢこまる、うずくまる」という意味だそうです。NJさん、あってますか?これは、普通の貧しさではなく、差し迫った窮乏、自己破産した状況を意味するのだとか。(今の自己破産と比較しないでね)
ただ貧しいというだけで、人から踏みつけられ、蔑まれ、人からの助けも求めることができず、無力な存在。支配層の怠慢と無関心に捨てて置かれた。不正な虐待を受け、神殿を仰ぎ見ることすらゆるされない。
まだ豊かな社会に生きているわたしには、極貧ということがどういうことかも彼らの重荷の重さも想像がつきません。でも、彼らがどこに助けを求めようとしたか、天を仰ぎ見るしかできなかっただろうと思います。熱心に祈ったろうと思います。そして、彼らは富裕層よりも神様から憐れみをうけることができる人びとであったとおもいます。
マタイは「心の」と言ったけれど、わたし自身は、特別な意味を
加えずに、「貧しい」は文字通りに読みたいです。
 
 
 
ようこそ (NJ)
2015-03-12 21:11:34
黄昏のマリアさん、歓迎です。

>ギリシャ語でプトーコス、「ちぢこまる、うずくまる」という意味

私もそう読みました。

コメント後半について。ルカは「こころの」を加えずに「貧しい人たち」としていますね。こちらがオリジナルであった可能性があります。
 
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