[英語で人物誌は "Who's Who."]
人物誌の構想を具体化しようと2017年春頃書き始めて、1年半くらいになろうとしています。現在、500名強のプロフィールを書き終えて、仕上げの段階に入りたいと思っています。(伝道略史、役職経験者のリストなどを含む)。
聖徒の道やリアホナ、各地のステークが出した記念誌から、日本の教会を築き上げてきた人物を抽出して「あいうえお順」に記載しています(日本人に焦点)。1901年に伝道が開始されて間もなく120年になろうとしています。私はその半分の60年を会員として生きてきて、ぜひ仕上げたい、それは日本の教会史の記録にもなると思っています。
大勢の方々が投稿した証や報告などを読んで、毎日感動を覚えています。傑出した人物や厳しい試しの後に堅固な信仰を得た先達、また私と同時代の方たちの苦労とみわざへの真摯な貢献を読んで、あるいは敬服しあるいは心を痛め、また励まされる日々を送っています。
ただ、ある類型のようなものも見えてきます。それは、初め恵まれずむしろ劣悪な状況から福音を知って、信仰のうちに事業や人生が開花し、社会的・経済的に成功を収めると、教会から離反していく人たちがいるということです。信仰の著しい経験をした後、数十年たって、最近はそういった方たちの名が聞こえてこないのです。あるいは、教会とのつながりが薄らいで、周縁に静かにしているか、また信仰の共同体から姿を消していくのです。モルモン書の警告がここ日本で現代現実となっていると言えるでしょう。
そういった場合、一時期であっても人々が魂の救いを得、生きる力を得たとすれば、末日聖徒イエス・キリスト教会が人びとに心の救済をもたらしていたと見ることができないでしょうか。消極的な見方でお叱りを受けるかもしれませんが。
なお、この本の出版は一二年内に日の目を見るようにしたいと鋭意努めています。
[人物誌の参考例 表紙のみ、イメージのため]
と言う事は、後に残ってるのは、花の咲かなかった豚ばかりってことですかね?
ま、能力のある人は、この教会にのめり込まないんでしょう。
教会でしか認められない人が残るんでしょうけど、豚みたいに、どちらからも認められない天才ってのも・・・?
業務連絡 メール送りました。
>信仰の著しい経験をした後、数十年たって、最近はそういった方たちの名が聞こえてこないのです。あるいは、教会とのつながりが薄らいで、周縁に静かにしているか、また信仰の共同体から姿を消していくのです。
マタイの25章は3つの例えで、それを表していると思います。
①十人の乙女のたとえ
②タラントのたとえ
③羊とヤギに分けられる話
①だけ読むと最後まで耐え忍べなかった貢献者に対して寂しい気持になります。しかし・・・
②は目の前にぶら下がったチャンスもタラントの内だったと考えると、彼らの働きは主から十二分に褒められるしもべと言えると思います。
③はいくら行いを頑張ったとしても、御心でなければ一つも評価されないが、別にそういうつもりで行ってなくても、主に覚えてもらっていて最後に評価されているような行いは沢山あるのかも知れないという希望を与えてくれています。
http://web1.kcn.jp/tombo/v2/MATTHEW25.html
思えば教会は設立当時からその種の問題に直面しており、モルモン書の検証者たちも、迫害を恐れたり、JSと意見が合わなくなって、多くが逃げたり去ったことは今や有名ですが、彼らがあえて変に裁判沙汰にしたりして証を捨てなかったことが強調されており、今でも教会は真心から彼らに感謝していると、私は思います。
とどのつまり、反モルにさえならないかぎりは、貢献は貢献として、主は覚えられているものではないかと思います。
おおー!さすがNJさんは有言実行タイプですね。
時々あれはどうなったかな?と心配していました。
>信仰のうちに事業や人生が開花し、社会的・経済的に成功を収めると、教会から離反していく人たちがいるということです。
どうなんですかね。印象的にはそうですが、高齢者の交通事故が増えている。と同じで当たり前の事象なのかも。
日本の末日聖徒の生涯活発率は1%程度だと聞いたことがあります。
jiro.nmn67@yahoo.com
よろしくお願いします。
そう言えば昔のアドレス使えなくなってます。
失礼しました。