オックスフォード大学出版がこの8月、標記の題で本を出版した。モルモニズムに関心が寄せられていることが分かる。17篇の評論を掲載していて、3篇が末日聖徒の書いたものである。来年、教会ではモルモン書を読むことになるので、ここに目次から一部紹介したい。昨年もO.U.P.がモルモニズムに関する本を出していたが(当ブログ2019.02.18)、この書物も手に入れたいと考えている。編集はエリザベス・フェントン、ジェレド・ヒックマンである。
「モルモン書に見えるアメリカ的特性の分析」
原題 “Americanist Approaches to The Book of Mormon”
一部 金属版から印刷へ
二部 聖典と現実の社会との対比
・「モルモン書と聖書」グラント・ハーディ
三部 土着性と拡張主義
四部 ジャンルと世代の面から
・「モルモン書と聖約の再新」テリル・ギベンズ
・「『わが子らよ、塵の中から立ち上がり、男らしくあれ』:モルモン書における男性優位」エイミー・イーストン・フレイク
(・印の3つが末日聖徒による評論)
ほかに次のような章も興味深いものではないかと思う。
「インディアンはヘブライ人の子孫という説」、「モルモン書における性と人種に関する微妙な記載」、「モルモン書の詩歌」
ご紹介ありがとうございます。
ジャニスさんの次世代の・・・もオックスフォード出版でしたか。
しかしイギリスの名門校がなぜ?
唯一アメリカ人以外で預言者を輩出しているところだからでしょうか。
自分的には以下の2点の論文が欲しかったですね。
①モルモン書において、王政について否定的見解であり、王を立てることは絶対悪ではないが、必ず自由が奪われると警告している点。
②ヤレドの兄弟の船が船内に照明がないことが問題となり、神に何とかしてくださいと祈ると、照明はできる限り自分で具体化しろ、技術的なブレイクスルーは任せなさいという回答が帰ってくるエピソードについて。
それに加えて、アメリカ的というか西洋文化的な特性の分析として、旗の登場でしょうか。
旧約聖書にも旗は登場するが、ライオン、雄牛、人の顔、鷲の4つであって、イスラエル12部族の所属を明らかにする目的でであるのに対して、モルモン書の旗は、ばらばらのものを1つにまとめる国旗的という性質だったり、「自由のため」と文字を書いたりという点はプラカードの性質を帯びている点だったりですね。
取り組んでみたい宿題をいただいた思いです。
Rさんの「視点」には注目しています。
>①モルモン書において、王政について否定的見解であり、
事後予言的に後のアメリカには王がいなかったと。
>②ヤレドの兄弟の船が船内に照明がないことが問題
昔、インステの資料にはラジウムではないかと。。
さすがに長い航海では健康障害がと思ったののです。
>国旗的という性質だったり、「自由のため」
モロ星条旗ですね。
これは、サムエル記の8章に出て来る、サウルを王とするときの約束事に似ています。
>旧約聖書にも旗は登場するが、ライオン、雄牛、人の顔、鷲の4つであって、イスラエル12部族の所属を明らかにする目的でであるのに対して、モルモン書の旗は、ばらばらのものを1つにまとめる国旗的という性質だったり、「自由のため」と文字を書いたりという点はプラカードの性質を帯びている点だったりですね。
確かに、民数記の2章2節に各部族の陣営に旗を立てるように命じたことが書かれています。
しかし、後にイザヤは、5章26節で「主は旗をあげて遠くから一つの国民を招き地の果てから彼らを呼ばれる。見よ、彼らは走って、すみやかに来る。」と言ってます。
他にも、イザヤは11章、49章、62章で、旗と言う言葉を象徴的に使っています。
11章10節では、「その日エッサイの根が立って、もろもろも民の旗となりもろもろの国人はこれを尋ね求め、その置かれる所に栄光が有る。」とイエス・キリストの誕生の予言とも取れる言葉を残しています。
同じく12節では「集合の印」として旗と言う言葉を使っています。詩編60章にも、印としての旗が詠まれてます。
この様な事から、旧約聖書の時代から、「プラカードの様な旗」は一般的だったと思います。
又、キリスト者では、イエスキリストを、旗とする思いも有ったのでは無いでしょうか?
聖典を調べながら様々に思索を巡らすのは楽しいですね。
個人的には
旗と違って「プラカード」といば文字情報があるイメージなので、
司令長官モロナイの「我々の神と宗教、自由、平和、妻子しのために」と書かれた旗はプラカード的だなと思いました。その内容も独立宣言的で、星条旗をイメージしたのですが。。
師匠の投稿を読んで、はて?文字が書かれた国旗があったような?
と調べたらサウジアラビアがそうでした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/サウジアラビアの国旗
「アッラーフ(アラー、神)の他に神はなし。ムハンマドはアッラーフの使徒である」
モルモン書の特徴と言うより、モルモン教の本質だと思いますが、「アメリカ的合理主義」が教義の基本になってるところじゃないですか?
つまり、「人の救いは、その人の努力によって決まる」と言う事ですね。
モルモンにおいて、キリストの贖罪の効力は、バプテスマを受た時にすでに終わっていて、その後は、自分の力と努力によって昇栄を勝ち取る、と言う事です。
これは、アメリカ開拓時代の人々の「幸福の探求」そのものの様な気がします。
わー!!!圧倒的福音の誤解というか「神の恵」のスレッド。。
もしかして、そんなふうに日曜学校で教えてたりして。。(;;)
いやいやいや、モルモンの教義を誤解させる天才のオムナイさんに言われると、恐縮しちゃうな―ー。
オムナイ誤解百貨店って皆さんが言ってるの知ってる?
https://blog.goo.ne.jp/numano_2004/e/1a3ce1481459bc8b1da87d1d955763df
末日聖徒は一般的に、人の救いに「信仰」や「恵み」が果たす役割より、「行ない」がなければと「行ない」を強調する傾向がある。
それで1980年、ニューズウィークが末日聖徒は「恵み」の果たす役割を受け入れておらず、イエス・キリストの贖罪を軽く扱っている、と書いた。
人は罪なく生まれてきて、自由意志を適切に行使して神の如くなれると信じていると報じた。
それに対し、大勢の一般会員にその傾向があっても教義上はそうではない、と教会の指導者やBYUの教授たちが反応した。
ーーー
イエス・キリストを信じる信仰を通して日の栄えの王国における昇栄を勝ち得る人は,特別な祝福を受けます。
https://www.churchofjesuschrist.org/study/manual/gospel-principles/chapter-47-exaltation?lang=jpn
・・・ということで「勝ち取る」ものなのです。ちゃんと公式サイトのテキストに書いてありまっせ!
ニューズウィークとか、この世のメディアに頼る者はわざわいなるかなw
それと大管長のキンボール管長が救いの奇跡で述べた、赦されない罪によって、サタンと共に外の暗闇に追い出される滅びの子は僅かであるという解説も、会員として疑い難いので、救われるかどうかの議論は二重に終ってるでしょう。
それとは別に昇栄は行いで勝ち取るも、教義として当たり前であって、そのふたつを無知や悪意で混同させて、どうのこうの批判されたら、それは誤解だと言ったり思ったりするのは、自然の流れでしょう。
" (ne25)
最善を尽くすほうだけが一人歩きしてしまった??
「28 見よ、わたしは異邦人に彼らの弱さを示し、また信仰と希望と慈愛が彼らをわたしのもとに、すなわち、あらゆる義の源に導くことを彼らに示そう。」
34 あなたが人の子らに対して抱いておられたこの愛が慈愛であることを、わたしは存じています。ですから、人は慈愛を持たなければ、あなたが御父の住まいに用意してくださった場所を受け継ぐことができません。
35 ですから、あなたの言われたこのことから、もし異邦人がわたしたちの弱さを見て慈愛を持たなければ、あなたは彼らを試し、彼らのタラントを、彼らがすでに得ているものまでも取り上げて、もっと豊かに持っている者たちに与えられるということが分かります。」
36 そしてわたしは、異邦人が慈愛を持てるように、主が彼らに恵みを授けてくださることを主に祈った。
37 そこで主はわたしに言われた。「たとえ彼らに慈愛がなくても、あなたにとっては・・
」(エテル12)
異邦人の弱点は愛・慈愛の欠如??!!
>昇栄は行いで勝ち取るも、教義として当たり前であって
その通りです。それはモルモン教義の根幹ですね。だからキリスト教的ではない、という話です。がんばって行いで信仰を示した人だけが勝ち取る来世でのスペシャル・エステート『昇栄』、そんな考え方は聖書で否定されています。
モルモン教義では、悪人が行くべき星の栄でも結構いい場所なんだから、そこへ住まわせてくださることに感謝しろ、それが「救い」だ、結局みんな救われるってことだよ、という説明ですね。きわめて非キリスト教的な考えです。
モルモン教義における「昇栄」と「救い」の違いを、少なくとも私は明確に理解していますよ。しかしRさんが言うように「そのふたつを無知や悪意で混同させて」いる人物がいます。それはオムナイさんやNJさんです。
キリスト教における
「個人の努力ではなく恵みによって救われる」
という意味は、モルモン教義に置き換えると
「個人の努力ではなく恵みによって昇栄を受ける」
に相当します。
この相違を理解していながら、モルモン教会でも恵みによって救われると教えているのだが世間は理解していない、モルモンはキリスト教と同じなのに迫害されている、などと詭弁を弄しているのがモルモン護教派の方々なのですね。彼らを冷めた目で見下してあげましょう。
>昇栄は次の時代に神になることですから、一般のクリスチャンの言うところの救いと同じなんですよと言われても、違うのではないかとしか返せません。
そうです!「違う」のです。
モルモン教義をゴルフコンペに例えるならば、参加賞(肉体の復活)は全員に与えられます。しかし賞品(救い)は点数の高い人に良いもの(日の栄)が与えられ、悪かった人にはそこそこのもの(星の栄)が与えられます。結局、何らかの賞品(救い)が与えられるんだからコンペの主催者の公平性(神の恵み)に感謝して褒め称えましょう、ということですね。
ところがキリスト教的なコンペだと、点数に関係なく全員に同じものが与えられます。神の恵みだからです。
同じ「恵み」という言葉を使っていても意味するところが違います。ということです。
LDS教会に改宗するする人は少ないです、一般キリスト教徒からは、まずゼロじゃないすか、ここ3,40年・・教会は子供たちが8歳くらいでバプテスマ受け、つないでいくみたいな・・?
改宗する人たち・・・
https://ja-jp.facebook.com/President.Sekiguchi2017.2020/
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E9%96%A2%E5%8F%A3%20%E4%BB%99%E5%8F%B0%E4%BC%9D%E9%81%93%E9%83%A8
と始まる「モルモン 書」ビデオ公開されました。
2話ほど観ました。
https://www.churchofjesuschrist.org/media-library/video/2019-07-0800-lehis-family-sails-to-the-promised-land?lang=jpn
ふむふむ。出来も良く素晴らしいですが。。
やはり「本」ほどには福音が入ってきません。
リアホナがあんな形に・・・今回は約束の地に到着するまで。
必見です。
しかし、脚本、セリフ、カメラワーク、どれをとってもダサい・・・
私、高校生の頃は映画研究部でBYUの映像学科へ行きたいなぁなんて思ってましたが、あんまりレベル高くないですね。この程度だったんかいって知ってガッカリです。
神様に頼ってばかりいないで自分でも考えなさい的な教訓的に教えられるこの箇所。昔から違和感ありました。
船を作れと命じ、空気穴のことも教えたのに暗闇の解決方法だけは「どうして欲しいのか?」おまけに窓も火も使えませんよ。と。。
は?である。
ブレークスルーで気がつきました。
「キリストの贖罪は人間には出来ない部分」を補って救って下さる。象徴の物語なのかも。
昔セミナリーで教わりました。
人間が永遠に努力を積み重ねても神様の領域には遥かに及ばない。
努力しようと言う「心の向き」を評価して遥かに高い領域へ昇華させて下さるのです。
ヤレドの兄弟はそのこと知ってたんでしょうね、それで鉱石から溶かしだして透明な石を作って持ってきたと・・・
01 さて(このときに準備された船の数は8隻であった)、ヤレドの兄弟は、非常に高いために彼らがシーレム山と名付けた山に行き、一つの岩から16個の小さな石を溶かし出した。その石は白く、透き通っており、透明なガラスのようであった。そして、彼はそれらの石を両手に持って山の頂上に登り、再び主に祈って言った。 ・・・
02 さて、ヤレドの兄弟が山に持って登った石を主が備えてくださった後、ヤレドの兄弟は山を下り、すでに準備しておいた船の中の、へさきとともにその石を一つずつ置いた。すると見よ、その石によって船の中が明るくなった。
03 このように主は、暗闇の中で石が輝くようにして、男や女、子供たちが暗闇の状態で大海を渡らなくてもよいように、彼らに光を与えられた。・・・
06 そして船は、砕ける山のような波と、激しい風によって生じたすさまじい大暴風雨のために、何度も海の深みに沈められた。
07 さて、彼らの船は深みに沈められても、皿のように透き間がなく、ノアの箱船のようにしっかりして水が漏らなかったので、彼らは少しも水による害を受けなかった。そこで彼らは、海の深みに沈むと、主に叫び求めた。すると、主は船を再び水面に引き戻された。
キリストの贖罪の効力を「参加章」にしてしまって、それで良いのだ~って言いきってしまうところに、信仰の薄さが見えてしまう。
結局、キリストに頼らず、自力で上り詰めるのがモルモンの教義なんです。
すみません、いまさら。
ホー・ホー・ホー!!
フクロウかってなぐらい興味深いφ(゚-゚=)メモニャン
ジョセフ・スミスがそういう話を聞きかじっていて、自分の創作したモルモン書に取り込んだという可能性は?
まぁそうなんですけど・・・じゃあんた自分の力で神になれるんかいってツッコミされると、足りない部分はキリストが補ってくれるから、と言い訳はじめちゃうのがモルモン教義。
ほんとブレてるなぁ・・・
https://knowhy.bookofmormoncentral.org/knowhy/where-did-the-brother-of-jared-get-the-idea-of-shining-stones
たまWEBは、キリスト教、聖書のバックグラウンドなしでモルモン書が最初の接点で、創作か?とかって思い寄らなかったもんで・・・まぁ、創作かとなればその可能性はあるんでしょう・・・
まぁ、今もモルモン書、字義通りには信じるほうですけどねぇぇ・・・人それぞれ、信じてることそれぞれで(創作 または本物)そういうことなんですかね・・・
そうでしたか、私もそうですよ。
ただネットでいろいろな人と交流するうちに、これじゃいかんなと思うようになりまして。特にクリスチャンに聖書の知識で負けているようではダメだなと。で必死に勉強したら、まぁモルモン教義のデタラメなこと、ハッキリ分かっちゃったんですね。
以下私の書き込みです。
>モルモン教義をゴルフコンペに例えるならば、参加賞(肉体の復活)は全員に与えられます。
キリストの贖罪の効力を「参加章」にしてしまって、それで良いのだ~って言いきってしまうところに、信仰の薄さが見えてしまう。
結局、キリストに頼らず、自力で上り詰めるのがモルモンの教義なんです。
すみません、いまさら。
>知識で・・ハッキリ分かっちゃ・・・
どういうことなんでしょうね??牧師さんの数ほどある様々な宗派のひとつkizuka氏の宗教なんですかね??
どんなふうに信じてる宗派なのか???
あるいは全面的に間違い??偽りとかって??
あ、堂々巡りみたいな、例の、創作というのですかね??
モルモン書が真の歴史ではないとか、多妻結婚は神の命令じゃないとか、その程度ですよ。
なんちゃって、たまWEB、だいそれたことは言えませんが・・・まぁ、ひとそれぞれ・・・
蓼食う虫も好き好き・・・・ 百人百様 ・ 十人十色 ・ 人それぞれ ・ その人次第 ・ 各人各様 ・ 三者三様 ・ 千差万別・ まちまち ・ 議論百出 ・ 交錯するさまざま ・ ところ変われば品変わる ・ 多様な ・ 決まっていない ・ とりどり ・ 十人十色 ・ 好き嫌いがある ・ 多様 ・ 各人各様 ・ 三者三様 ・ まとまらない ・ 郷に入れば郷に従え ・ 多士済々 ・ 人それぞれ ・ 多彩な ・ いろいろ ・ 一様ではない ・ みんな違う ・ さまざま ・ 思い思い・
私に言わせると聖霊、いわゆる「みたま」というのは自己暗示ですね。
モルモン教会が教えるところのみたま受け方って、まず自分がよくよく考えて正しいことだと決めてから神に祈って答えを願うと、心が温かくなるように感じるわけでしょ?この答えを受けるプロセスって自己暗示そのものだと言えるのではないかなぁ。
https://search.yahoo.co.jp/search?ei=UTF-8&p=%E8%87%AA%E5%B7%B1%E6%9A%97%E7%A4%BA%20%E5%AE%97%E6%95%99
否定的にとらえてる事柄では平行線ということでぇ、それ以外ということでぇ、kizuka氏にとっては、末日聖徒イエス・キリスト教会について正しいと思われるところは何かありますんですか?それは何なのでしょうかね??
>来るものなのかどうか・・・
なんちゃって、たまWEB、だいそれたことは言えませんが・・・まぁ、ひとそれぞれ・・・
そうなんですよね~、本当は人それぞれに、自分で御霊を感じればいいわけです。
しかし、御霊も相手を選ぶと言うのがモルモンの教義でして、大管長に来る御霊と、平会員に来る御霊は違うらしいんです。
個人的なこと以外は、特定の役職者にだけ御霊がこそっと伝えるらしいんです。
モルモン教会って、正しい教会、正しい教会って王じゃないですか。そのセールスポイント(?)はもうオワコンだと思うのですよ。いつまでもうわ言みたいに正しい、正しいって言い続けているから教会から人が去っていく一因にもなってる気がします。まぁモルモン教会の会員数はキリスト教派の中でも頑張っているとか言い張るアンポンタンさんは置いといてね(笑)
私はすでにそういう考えは捨てています。正しいからモルモン教会に来ているわけじゃない。単に馴染みがあるからです。私らの親や祖父母がお寺に行くのはお寺が正しいからじゃないでしょう。でもさすがに住職が目に余る言動をすれば、なんだあの人はって批判が出ます。わたしもそういうこと、モルモン教会の一員である以上、なんだそれはって思うことは言いますよ。
モルモン教義の来世とかは、死んだらお釈迦様のところに行きますよレベルの話であって、それはそれで信じていればいいのだけれそも、それが真実だと言い張るところがデタラメだと気づいたワケですね。モルモン教会員って信じてはいるのだろうけど、理解はしていない気がするなぁ。
>そういうの、タルムード情報、調べてきたようです・・
むむ。なるほどニブレーさんでしたか。
ご紹介ありがとうございます。
こういうのもありました。
https://www.fairmormon.org/evidences/Source:Nibley:CW06:Ch24:3:The_Brother_of_Jared%27s_Shining_Stones
輝石の物語が古代の源から持ち上げられた場合、その源はタルムード(モルモン書の記述とは遠い関係しか持っていない)ではなく、
より古くて完全な伝統であり、物語はより密接な親和性を示しています。
・・
この素晴らしい輝く石が指定された一般名はパイロフィラスまたは「火の友」であり、
通常は完全に透明な結晶と呼ばれ、インドの情報源(最も充実している)では「ムーンフレンド」および「ジャラカンタ」と呼ばれています。
最後の用語は重要です。「水を分けさせるもの」、
石の独特の力と美徳、多くの奇跡的な力の中で最も有名なのは、
所有者が無傷で通過することを可能にする奇妙な能力です。
ーーー
オムナイはマホンライ・モリアンカマーの物語に「昇栄の道」を観ます。
8つの船(八福の教え・八つの神権時代)
水漏れのない構造(最善を尽くしてもなおダメな僕)
16個の小さな光る石(神の恵・御霊の導き・黙示録の白い石)
約束の地アメリカ(日の栄・昇栄)
主の指(キリストのブレイクスルー的救い)
そういう人がいっぱいいるのご存じですか?モルモン教会が正しい正しいと言えば言うほど、ささいな教会の問題が人を躓かせるんですね。まぁ離れていく人は福音を誤解してるだけ、正しく福音を伝えればっていう意見もあるんでしょうけど。
私はね、世俗派(という表現が適切かどうか分からないが)を受け入れていかないと教会は尻すぼみになるとおもいうんだよなぁ。ユダヤ教だって安息日に電灯もつけない、電話もスマホも使わない厳格な人もいればエルサレムでとんこつラーメン店(結構繁盛しているらしい)を経営している世俗派もいると聞きます。モルモン世俗派っていてもいいんじゃない?
おっ。さすが師匠。
個人でも家庭でもその責任の範疇で御霊が働くわけですね。
https://www.mormonnews.jp/%E8%A8%98%E4%BA%8B/%E5%95%93%E7%A4%BA
・・自分にかかわる事柄や教会の自分の割り当てについて啓示を受けることができます。
ビショップが会員たちのために啓示を受けるのと同様です。
教会全体に対する啓示は大管長(預言者)だけに与えられます。
ーー
何年か前こんことがありました。
青少年のカンファレンスでアメリカ人の家族はコーラを飲んでいたのをある家族の男の子が見て、「僕もコーラ飲みたい!」と家長に訴えたそうです。
家長さんの答えは「我が家は烏龍茶は大丈夫だけどコーラはダメ」
この判断にはワードのビッショップリックもステーク会長会も正しいとか間違いとか踏み込めない。
御霊や啓示の系統のルールとかそんな感じです。
これって、答えるべき知恵を持ち合わせていなかったんじゃないの?
ま、結局は「御霊の導き」と言う「自己責任論」で解決するしかないのが今のモルモンの教義解釈ですね。
言ってみれば、モルモンに規範とすべき教義は存在しない。
だから、豚でも昇栄が出来るって、お得な話。
しかしねぇ・・・
子供がコーラを飲みたいと言ってるんだから飲ませてあげればいいじゃん。パンが欲しいと言ってるのに石をあげるんかいな。こういうのって宗教の名のもとに行われる虐待だよねぇ、アメリカなどではエクレシカル・ハラスメントとかって問題になってるやつね。やってることはエホバの証人の子供へのむち打ちと変わらないやろ。それで預言だのみたまだのと的はずれな事を言ってるから、モルモン教会から人が去って行くんだよ。
遠いような。惜しい様な。。ですね。
もちろんモーセの律法の様な細則は存在しません。
あるのは「原則」だけです。
https://www.ldschurch.jp/acp/bc/cp/Japan/gospel-library/manuals/teaching-of-prophets/of-the-church/36481_300_josephsmith.pdf
P284
「ジョセフ・スミスは,自分や教会員を訪ねて来た立派な人々から,頻繁にこのような質問を受けました。」
人々はあなたの言うことを厳密に実行しているようですが。
人々をそれほど容易に治めることができるのはなぜですか。』
ジョセフは次のように答えました。
『わたしは少しも彼らを治めてはいません。
主はこの末日にわたしたちが従うべきもろもろの原則を,天から明らかにしてこられました。
・・わたしは主が明らかにしてこられた原則を民に教えており,
彼らはそれに従って生活するよう努力し,自分を管理しているのです。』
・指導者は正しい原則を教え,人々が自らを治めるように助ける
ーーー
言い換えれば、指導者は原則だけを教えるべきで細部にわたって判断してはいけないのでしょうね。
もちろん新会員や青少年は「借り物の光」の状態ですから周りの会員の教えや家族のルールに従順に従うべきですが。
これは音楽や語学をおさめるのに最初は模倣から入るのに似ています。
中村勘三郎さん曰く
『型を身に付けねば型破りにはなれない』
型を身につけてから、破るから“型破り”っていうんだよ!
型がなかったら「形無し」
なにごとでも型を身に付ける時期は窮屈に感じるかもしれませんが、“型破り”できる時がきたら楽しく自由な福音を味わうことができるのだと思います。
「師事した霊能者もイエスは否定しなかったけど、自身が学生の時、先輩の勧誘で洗礼、バプテスマを受けて、モルモン教徒になった時、直ぐ、創価学会と同列批判して、それっきりですからね。」
どういう意味なんでしょ???
https://ameblo.jp/z777x888/entry-12542415068.html
彼らはそれに従って生活するよう努力し,自分を管理しているのです。』
この逃げ口上は聞き飽きましたな~・・・。
自分たちの発言に責任を持たないのは、オムナイさんも見習ってるようですが?
>自分たちの発言に責任を持たないのは、オムナイさんも見習ってるようですが?
ハイハイ(^^)
わざとへっぽこな主張をして我が身を犠牲にして読者に考える機会を与える。
崇高な師匠の犠牲的思惑を弟子はキチンと理解しておりますよ。
モルモンにおいて、キリストの贖罪の効力は、バプテスマを受た時にすでに終わっていて、その後は、自分の力と努力によって昇栄を勝ち取る、と言う事です。
>昇栄は行いで勝ち取るも、教義として当たり前であって
主の御計らいを忘れるな
https://www.rcj.gr.jp/_archive/detail.php?id=44
「数えてみよ、主の恵み」
http://keisenchurch.org/archive/2013
全ては、主の御計らいとみ恵みと憐れみと慈悲深さ、愛しみ深さによるものと私はそのように理解しています。
また裁き主と贖い主は同じ方であることを忘れてはなりませんね。
UKさんが福音の原則から昇栄を示してましたが、最後の裁きについても示さないと末日聖徒が教えるキリストの福音の一部を理解できないと思いますね。
第46章最後の裁き
https://www.churchofjesuschrist.org/study/manual/gospel-principles/chapter-46-the-final-judgment?lang=jpn
言葉と行いと思いによって裁かれる、と!
ここには書いてはいないですが、「動機づけ」も裁きの対象となっていると思えます。
バプテスマや聖霊の賜物と聖餐との関係とは何か。
聖餐は罪の悔い改めだけなのでしょうか。
それは違いますね。主の御計らいに感謝することも含まれていると思います。
そして、主に頼りなさいと教えているだと。だから、人は主を忘れやすいと。
キリストの贖罪がバプテスマで終わるなら、教会に行く必要はありませんね。
聖餐を摂る必要がなくなるからです。
また、もしも誕生日の日に8歳の子がバプテスマを受けた場合を考えますと、豚様の仰る意味が理解できなくなるでしょう。
末日聖徒の教えでは、幼い子は主の憐れみによって贖われていると教えられています。
バプテスマを施す権能はなぜ大切なのですか。
https://www.comeuntochrist.org/jpn/FAQ(%E3%82%88%E3%81%8F%E3%81%82%E3%82%8B%E8%B3%AA%E5%95%8F)/%E3%83%90%E3%83%97%E3%83%86%E3%82%B9%E3%83%9E-%E4%BF%A1%E4%BB%B0
「数えてみよう、主の恵み」よりから
詩人は、今までの人生を振り返っています。主に従う道は、決して順風満帆の平坦な道ではありませんでした。また、主の御心を悲しませることも多かったのです。
しかし、その一つ一つを省みると、そのどこにも主の恵みの御手の跡が見えるのです。ですから、主の恵みの数々を数えてみよう。主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。そのように詩人は自らに言い聞かせているのです。
なぜそんなことを自分自身に命じているのでしょうか。
それは、そんなに大きな恵みであるのに、人間はいつの間にか、それを忘れてしまう危険があるからです。
ですから、詩人は、今日まで受けた恵みの一つ一つを、日々、新しい記憶の中に呼び起こしなさいと命じているのです。
「律法全体と預言者は」の律法主義の正体から抜粋
(2)その行動の動機は何か
アメリカで発達した心理療法の一つに行動療法と言う技術があります。これはどちらかと言うと人間を他の動物と変りがないものと考える傾向がある技法です。人間の取る思わしくない行動を改善するためにどのようにすべきかについてこの療法はいくつかの方法を提案します。その一つはアワードつまり、賞品を使って人間の行動を変え、より好ましい行動を行えるように訓練する方法です。たとえば勉強をせずに遊んでばかりいる子供に勉強をさせる習慣をつけさせるために、「勉強をしたら、おまえのほしがっているこれこれをあげようとか。勉強が終わったらおまえが遊びたいだけ遊んでいい」と親は子供と約束をするのです。すると元々勉強に興味を持たなかった子供も親がくれる賞品や、あるいは遊ぶことを目当てに勉強に取り組むことになるのです。別の言葉で言えば「動機づけ」と言いますが、人はその関心がもてる動機を見いだせばそれをすることができるのです。つまり勉強に興味を持つことができない子供はその動機を見つけ出せないからだと言えるのです。行動療法はこの動機づけを賞品などを使って行い、それによって行動に変容を起こさせ、その行動を強化し、習慣化させようとします。
しかし、この方法は用い方を間違うと返って大きな問題を生むのです。もし、子供が勉強自身について正しい動機付けができないままなら、その子供はいつまでも賞品だけを目あてに勉強を続けることになり、逆のことを言えばその賞品がもらえなければ勉強はしなくても良いと言うことになってしまうからです。
実は律法主義の落とし穴はこの動機付けと言う点にあるのです。「神を愛すること、隣人を愛すること」それを彼らは律法に従って熱心に守っていました。しかし、その動機は律法を守る自分が神から正しいと認めてもらうこと、そのような賞品を得るために行われているのです。つまり、律法主義は自分を評価してほしいと言う動機付けのもとに、自分のために神様を愛し、自分のために隣人を愛しているのです。つまりその行動は結局は自分を愛することが最大の目的となってしまうのです。
しかし、イエスの語られた律法の要約には「自分のために」という目的はつけられていません。「神を愛すること」、「隣人を愛すること」。律法は愛すること自身を私たちに与えられた目的と教え、その目的に従って生きよと教えているのです。ですから律法主義者は同じ言葉を使いながら全くこれとは違った教えを人々に語っていたのです。
●末日聖徒の教会員も律法主義者とならないように気をつけなければなりませんね。
自分だけは救われたい、自分のために神と人々を愛するようなことはしてはなりませんね。
賞をもらうために努力することは大事だと思いますが、それが行き過ぎるようなことは主は望んでおられないと思います。
おっしゃるとおりです。
ですがモルモン書にある以下の聖句がしばしば私の脳裏をよぎり心にひっかかってしまうのです。
さて、わたしモロナイは、キリストの裁きの座の前で会うときまで、異邦人とわたしの愛する同胞に別れを告げる。その裁きの座の前で、すべての人は、わたしの衣があなたがたの血で汚れていないことを知るであろう。
(エテル12:38)
こういう言葉って、どうなんだろう?と。
自分だけが高みにいて上から目線で罪びとを蔑んでいるようにも感じるのですね。