ここ数十年、自分の教職の経験から私は埋め合わせの心理とでも呼べる心理を味わってきたように思う。大学教育の大衆化のおかげで勉学の姿勢に欠ける学生が増え、毎回の授業の後味も芳しくなく、彼らに提出させた課題に目を通す負担も楽しくない、そしてつい自分の趣味や学会出張などで気を紛らすことになっていた。いわば埋め合わせを得ていたのである。
これは考えてみると、いろいろな立場にある人にも大同小異当てはまる。そして心理学でも扱っていることがわかった。私の場合から始めて例を挙げてみたい。
1 私の経験は日本の最初の大学時代に遡る。31年前のことである。偏差値がこれ以上低いところがないような大学であったため、傲慢に聞こえるかも知れないがしばしば精密機械に砂利を入れられるような気がしていた。それは年月がたつにつれひどくなり、二番目の大学でも、今いるハルピンの私学でも事情は変わらない。(少数の優れた学生や真面目な学生がいて教え甲斐や喜びがあったことも否定しないが。)そのような時、私は自分の研究やあてがわれる研究費で関連出張(海外を含む)に出かけることで埋め合わせを行っていたと思う。ここ中国では、休みに他の都市や施設を訪れることが相当している。
アメリカ人たちが週日職場で働いて、週末は楽しみに徹するか寛ぎの日と切り替えているのも同じかもしれない。
2 次に少し性質が変わるかもしれないが、自分がひどい仕打ちに遭っている、被害に遭っている、またはよそに甘い汁を吸っている連中がいる、と思うと仕返しや復讐をするに及んだりする。腹いせをするというような表現が該当する。中国で問題になっている官吏の腐敗に対して部下や大衆が抱いている心理であり、時に実力行使に出る現象である。
3 「カルト宗教」に対して脱会後、元信者が痛烈な批判と反対運動に没頭する姿も、かつて被害に遭っていたからそのことに対して仕返しをしている、あるいは被った損失の埋め合わせをしていると言えるかもしれない。
このような心理もしくは反応は普通に見えて、そもそも許容される健全なものなのだろうか。私は自分も無縁ではない現状にあって、あまりほめられたものではない、と思っていた。本分の面で改善に努めたり、全力を尽くしたりしないで、ほかのことで気を紛らしているからである。その点では、いわば諦観し妥協している。
ユングなど心理学によれば人には「補償」という埋め合わせ機能があり、自分に不足するものがあるときそれを補おうと努力するので、人を成長させるエネルギーとなる、という。身体的なハンディを克服しようと克己勉励し、人の上に立つ例、また身体上でも暑くなれば身体は熱を逃がそうとし、寒くなれば熱を温存しようとするなど。これにより生命が維持される。これをユングは調整機能と呼んでいる。
人を成長させるとまで言えるかどうかわからないが、不快感や不満を抱いたまま生活するのではなく、埋め合わせを得て、平常心をもって暮らせるなら調整を図ろうとしていると言えるし、あるいは自分の才能や能力を伸ばして心に充実感を得られるなら、前半に書いたこと(少なくとも1に記したこと)も自然なことで許容されることと言えるかもしれない。
参考:http://starpalatina.sakura.ne.jp/defense/defense07.html 城太郎日記
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私が書いたのは、何か被害を受けたような気がして求めている補償であり、もう少し重いものと感じています。(執念深い?!)
ただその埋め合わせをして満足するのは
自分だけ…なんですけどね
の部分を読んで、なんか私には良い気分じゃ無かったので、一言文句を書きます。
まず、大学の教授と言うのは、何が仕事か?なにをして金をもらっているのか?
それは、「自分の研究」と、「学問の伝達」じゃないですか?
もし自分の研究だけをしたかったら、自分で金を出してやればいいんです。生活費は道路工事のアルバイトでも稼げるわけです。
しかし、生活費を得る手段として、「学生を教える」と言う労働を選んだんじゃないですか?
それなら、学生の資質に文句を言うのはおかしです。
私も大学には行きましたが、そんなに研究熱心な学生ではなかった。
真面目な学生、熱心な学生が少ないと言うのは、あたりまえの事で、もしそんな学生しか大学に行かなかったら、NJさん自体が、大学教授と言う仕事に就けなかったかもしれません。
どうでも良いような学生がたくさん居るから、大学教授もその数だけ必要なんでしょ!
どうでも良いような学生の授業料で自分の生活が成り立っていたって事に気がつかないんでしょうか?
私は、仕事をしながら大学に行っていましたので、単位を取得する講義に出るのが精一杯で、研究室で何かの研究をするなんて余裕はとても無かったです。
しかし、大学と言うところで得たものは少なくは無かった、と思っています。
教える側に「教えがいや喜び」があるのと同じように、学ぶ側にも「学びがいや楽しみ」が有るんです。
「くだらない学生しか居ない・・・」って思いながら教えるのなら、教わる側も迷惑です。
そんな教授なんてさっさと辞めて欲しい!
自分の研究の穴埋めに、教鞭をとるのなら、あなたのやっている授業は、酔っ払いのおっさんが買って帰る寿司よりまずい!
子供たちを大学にやりたい世の親たちのおかげで生活が成り立っていることも承知しています。(気づき始めたのは1980年に山口県の私学に勤めて間もなくのことでした。)
> 「くだらない学生しか居ない・・・」って思いながら教えるのなら、教わる側も迷惑です。
鋭い指摘です。その通りです。反省しなければなりません。しかし、3つの教育機関を経験していくうちに現実を受け入れてそのような学生に丁寧に接するように、適した内容を適した方法で授業できるように努めるようになりました。奉仕、サービスの精神を念頭において対応するよう努力してきたつもりです。
その過程で、ひとりの人間でもある私は「埋め合わせ」を必要としていたのでしょう。継続してこの「労働」に携わるために。
(なお、ここ中国の後発私学には研究の部分が欠如しています。雰囲気も機会もほとんど目にとまらない。まだ中国全般でもそうなのかもしれません。)
研究と言うのは、学問が有って、それから先の事ではないでしょうか?
http://yangjin.jp/yume/index.html
上のコメントで「学問」というのは「基本的な一般教育」とでも言いかえることができると思います。・・普通は研究と学問は切り離せない、ほぼ同義語と言えると思います。
このチベット出身で、現在吹田の南千里に住んでいるこのおばちゃんの話を聞くと、涙より笑いの方が多いです。吉本か?って思うほど笑えますよ。
その様な講演とコンサートなどの活動で、このおばちゃんは、故郷のチベットに9つの小学校と3つの中学校を作ったそうです。現在進行形です。
(政治的に微妙な地域の話ですので、これぐらいに留めておきますが)
間に合わないと思いますが、今度茨木でもコンサートをするようです。
一流の素晴らしい歌声と、一流の面白い話のギャップが実に良いですよ。
チベットの言葉と、中国語と、日本語と大阪弁、後は歌曲を歌う関係で、ドイツ語、フランス語、イタリヤ語、もこなすとか・・・。
もう少し早くそっちに行ってたら、NJさんの生徒になったかも?(笑)残念!
(もうすぐtwitter, facebookの世界にもどる。今のままでもいい気もするけれど。中国を去るのも寂しい私)
これは、「埋め合わせの心理」と共通するもので、それをもっと強くした気持ちであると言える。この問題、もう少し深めてまとめてみたいと思っている。