郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

郵貯スタンプ・じい散歩

2009-12-29 23:02:09 | Weblog
12月29日(火)  ≪神奈川宿に≫
 年の瀬の皆が磯かしくしている時に、昨日と今日の”ちい散歩”でやっていた
元村さ来も有った、横浜線の大口駅に行こうと家を出たが、京浜東北線の鶴見駅で”次だ”と思っていて、本を読んでいて気がついたら一つ先の「東神奈川駅」
方向転換してここから横浜方面に歩いてみる。
 西口から国道1号線の視線を跨ぐテラスを抜け、マルエツの裏側を回り込んだ
が、気が付いたら完全に方向間違いで、1号線に出て(横浜西神奈川局)そのま
ま歩き、立町交差点の歩道橋で線路側に渡り、京急神奈川新町へ行く為のJRに
掛かる歩道橋を渡り、殆ど人がいない「浦島公園」から京急の引き込み線を渡り
神奈川新町駅の踏切を渡ると国道15号線(通称第一京浜)を渡り、入江川に架
かる荒木橋を渡り(テクニウェイブ100ビル内局)で地域のフレーム切手を買
ったが、そのデザインが”亀”神奈川区には「浦島太郎伝説」が有るとの事で、
住所も新浦島町。子安駅と神奈川新町駅の間に”浦島町”という地名が見える。
日本に何箇所か有るらしいが。
 元来た道を戻り、(横浜郵便集中局)で風景印を貰い、第一京浜を渡り返して、
裏通りに入ると、旧東海道【神奈川宿歴史の道】と掲示板があちこちの神社仏閣に。その道に沿って歩くと、
本尊の木造・虚空蔵菩薩が海中より出現したという【能満寺】。
能満寺と同じ西安元年(1299)創建で極めて密接な関係のある【神明宮】には、
かつて境内を流れていた”上無川”に”牛頭天王”のご神体が現れ、洲崎神社及
びこの神社に祀ったとの伝承も有る。
神奈川小学校の角に、【神奈川宿】の説明絵図がタイルで作られて貼られてある。
≪日本橋を出て、三番目の宿場町で、江戸後期、幕府道中奉行が作った「東海道
分間延絵図」の内の神奈川宿の部分を抜粋したもの。
【上無川】≪この小学校の東脇に有ったと言われ、鎌倉幕府の執権・北条時宗の
発した文書の中にも記されている古い地名であるが、”神奈川本宿の中の町と、
西の町の間の道を横切って流れる小溝で、水は少ししか流れておらず、水源が定
かでないため、上無川という。”カミナシガワ”がミとシを略して”カナガワ”
という様になった」という説が「「江戸名所図会」に記されている。
(東神奈川駅前局)の辺りから、松並木が作られているが、【旧街道】という雰
囲気は感じられない。
京都醍醐寺三宝院の開祖、勝覚僧正により平安末期に造られた古刹【金蔵院】
平安末期に紀伊の熊野権現を祀り「権現様」として親しまれた【熊野神社】は正
月の準備中の中、参拝する。
その先の神奈川本町地区センター前に【高札場】が(写真添付)立派。
直ぐ先の【成仏寺】に「史跡 外国宣教師宿舎跡」の表示が有り、
≪鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺で、安政六年(1859)の開港当初は、
アメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだと
いう。ヘボンはヘボン式ローマ字でしられ、日本最初の和英辞典を完成した。又、ブラウンは、聖書や賛美歌の邦訳に尽した≫
【明治天皇在所之蹟】の石碑のある「滝の川公園」を抜け、水量が多く、ゆっく
り流れている”滝野川”に架かる土橋を渡る時、川の下の方に鯉が見え、川面に
は両脇が白い鴨みたいな鳥が30羽以上集まって来たが、今日はエサを持って来
なかったので、慌てて離れ、神奈川宿の絵図にも描かれていた【滝の橋】で第一
京浜を渡り、(横浜中央卸売市場内局)へ。各地の中央市場に顔を出しているが、
何時も午後なので市場が終わってしまっているので、たまには営業中に行ってみ
ようと思っています。
 第一京浜に戻り渡って、宮前商店街に入ると(神奈川宮前局)の手前に神明宮
の時に出てきた【洲崎大神】≪建久二年(1191)源頼朝が安房国一宮、安房神社
の霊を移して祀った事に始まると伝えられる。神社前から海に向って延びる参道
が、第一京浜に突き当る辺りがかつての船着場。開港されるとこの船着場は開港
場と神奈川宿とを結ぶ渡船場。付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護
にあたる陣屋も造られた。≫
一度京急神奈川駅に行ってみて、国道15号を渡り、(横浜ポートサイド内局)
へ。ここからは、下の道を一切通らず横浜駅へ。パークタワーから横浜ベイクォ
ーターに入り、新田間川に架かる”かもめ歩道橋”の”動く歩道”で「そごう」
側に渡り、外を歩いて、丸井との間を抜け、歩道橋で横浜駅東口に下り、そのま
ま(横浜中央局)へ風景印で入ったら、郵便コーナーだけで20人以上が列を作
っているのにはビックリした。
 3時間50分。郵貯6局。風景3局。13,924歩の散歩。
今年は今日で終わりかも。東京都内殆ど終わってしまっているので、地方と風景
印に、フォルムカードも合わせて、ゆっくりと行こうと思っております。
又、来年も読んで頂ければ幸いです。
 良いお年をお迎え下さい。 

郵貯スタンプ・じい散歩

2009-12-26 13:46:28 | Weblog
12月25日(金)横浜の三渓園へ行って来ました。
 品川で京浜東北根岸線に乗り換えて、根岸駅に初めて下りてみました。
改札口は一か所で、反対側の海側は、”新日本石油の石油コンビナート”が広がっている。駅から東急ストアーの裏を歩いて(根岸駅前局)に。本牧通りに出て”根岸不動下”の交差点を渡って、【白滝不動尊】へ。角度45度位の階段下に立つとソックリ返る位急な階段を登る。95段だったと思うが、登りきったら神主?(私服だった)さんが、「疲れたでしょう。始めてですか?」「この奥に森林公園が有り、抜けられますヨ」と。「ありがとう」と答えるのが息が切れて、精一杯。
≪本尊の不動明王立像は、境内の崖の中段に有った井戸の中から出現したという伝説が有り、信仰は房総・三浦まで広がり、不動下には明治中頃まで茶店や旅館が軒を並べ、参詣の人々で賑わった。不動堂の横の滝は高さ20m、幅5mの滝で、市内でも見事な飛瀑で不動滝の名で呼ばれていましたが、丘陵地帯が開発されて水源を失い、現在はわずかに一筋の水が滝の名残をとどめて、落下しています。≫
境内からの景色も、昔は根岸湾が一望出来たが、今はビルに高速湾岸線にコンビナートばかりでは・・・。
 本牧通りから、関門交差点から産業道路を湾岸線の下を歩いて行くと、本牧市民
公園が有り、「上海横浜友好園」という場所が有り、三渓園の池に水連の中に、鴨が遊んでいる。三渓園に入口が分からずに探してしまったが、南門から入る。
【三渓園】(写真添付)
≪生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三渓(本名:富太郎)の元邸宅。彼はここに京都や鎌倉などから歴史的に価値のある建築物を移築し、明治39
年(1906)”三渓園”として一般に公開しました。175,000㎡(約53,000坪)の園内には、10棟の重要文化財を含む17棟の古建築物が四季折々の自然の景観の中に巧みに配置されています。第二次世界大戦では大きな被害を受けましたが、昭和
28(1953)年原家から財団法人三渓園保勝会の手に移されたのを機に復旧工事が行われ、5年後にほぼ昔の姿を取り戻した。≫
 今日で三回目だと思うが、一人で来たのは初めて。季節的には紅葉も終わってしまい、紅葉も茶色かったりで、その季節に来るときれいだが、今は”茶っぽい”感じ。所々で写真を撮ったりしたが、スタスタ歩いて、正門に。正門の所にボランテイアの方が3人でたたずんでおり、「声を掛けて頂ければ案内をいたします。一時間位掛かります」との事。今度いつ来るかは分からないが、ゆっくり来た時に。
 聖門を出て、本牧通りに抜ける本牧三之谷町を歩いていると、すでに松飾りがされていた。本牧通りの(関門局)から新本牧公園の前を通ると、片側二車線の自動車道と歩道も広く、車道側の桜並木と歩道の真ん中に”コブシ”の街路樹が植えられており、この様な二段構えの街路樹は覚えがない。(余裕を感じる)
「本牧三渓園通」の入口前を通って(本牧元町局)の向の「鈴木屋酒店」を外から見たら、”カクウチ”(酒屋の店頭での立ち飲み)をやっている人達が。関東で見るのは珍しくなっているので、”本当か?”と思いながら(マイカル本牧局)へ寄り、本牧通りに沿って歩くと、流石”ヨコハマ”という米車のディーラーの店頭にアメ車がズラッと。最後に(本牧局)へ寄ってから市営バスで25分掛って横浜駅東口側に着く。
 3時間40分。郵貯4局。風景5局。三渓園。12,550歩の散歩。

郵貯スタンプ・じい散歩

2009-12-21 21:17:48 | Weblog
12月18日(金)”羽子板市”(写真添付)の続き。
 仲見世に入って直ぐの所に、昔からの店が圧倒的なのに、新しいお店が。
”ぬれせんべい”を串に刺して焼いている(温めている)のを見て、一度行き過ぎたのを戻って買って食べてみた。餅の食感と醤油の味で、面白い商品になっている
と思う。正直”美味しかった”。修築中の本殿に参拝して、”羽子板市”を見て回ったが、以前と比べると出ている店の数が、かなり減っている様に感じたが、どうだろうか?。ある店で、”凧”ばかり置いている店が有り、覗いていて、3か月前に生まれた始めての”男の孫”へのお土産に”武者凧”を買った。羽子板を見ていて、”藤娘”が気になってしょうがなくなり、孫の出産の手伝いに中国から来て頂いている嫁のお母さんへのお土産にしようと思い、それと同じ物をその孫用に購入した。買うつもりがなかったのに、見ていてつられてしまった。
 雷門を出て、郵貯は終わっているので、風景印で廻るのに、今まで歩いた事のない道を歩いてみる。雷門通りを渡り、一丁目交差点を左折し、”寿4”の交差点の
(浅草局)から裏通りを歩いて”かっぱ橋道具街通り”を渡り(台東松が谷局)の
後、道具街通りの一本裏通りを歩くと、【矢先稲荷神社】に、”浅草三十三間堂跡”という表示が有り参拝。
≪寛永19年(1642)11月23日、弓師 備後が浅草に於いて、幕府から6247坪8合の土地を拝領し、三十三間堂を創建した。位置はこの付近一帯と推定される。堂創建に際し、備後は矢場(弓の稽古場)を持つ京都三十三間堂にならい、堂の西縁を矢場とし、その北方に的場を設けた。ここでの稽古は京都の例にならって
堂の長さを射通す「通矢」の数を競った。元禄11年(1698)9月6日、世に”勅
額火事”と呼ぶ江戸大火が起り、三十三間堂も焼失。跡地は公収され、同14年に
替え地を供され、三十三間堂は深川に移転して再建。その後両者を区別するため、浅草・深川の地名を冠して呼ぶのが通例になった。的場に隣接していたのに因み、
”矢先”の名がついた。≫
 道具街通を渡り(西浅草局)から再度、道具街通を渡り返して地図を見ると「かっぱ寺」の表示。横から入って見ると、曹洞宗曹源寺。社殿の脇に【かっぱ寺】の
社殿が。≪文化の頃、合羽川太郎が私財を投じ、住民の困窮を救う為に、付近の治水工事を企て、その義に感じた”河童”が工事に協力、完成した。不思議とこの河童を見た者は運が開けたと伝えられ、附近繁栄の義人・川太郎と共に河童も福の神
として当時に祀られた。(道具街に飾られている”金の河童”と同じ説明文)≫
 かっぱ寺の山門を出た右の表示に、「ここが台東区の真中(へそ)」だそうだ。
近くには、”カッパの像”が何体か。(しばられカッパ。足湯カッパ等)が有り、
探して見るのも面白いかも。
(東上野六局)の局員さんから、「この隣の源空寺に伊能忠敬のお墓が有りますヨ」と言われ、横に廻ってみたら、【浄土宗 源空寺】の表に”史跡墓地”の下に、幡随院長兵衛と谷文晁の表示があるが、表からは入れない。裏に廻ってみたら
「史跡墓地は向です」の看板が有り、鉄の扉が閉まっていたが、よく見ると鍵が掛かっていないので、開けて入った真ん中の通路に、伊能忠敬・高橋至時の墓と、その隣りに幡随院長兵衛のお墓が並んでおり、谷文晁のお墓は分からなかった。
詳しく書いていると長くなるので、≪幡随院長兵衛は、有名な江戸初期の町奴で歌舞伎でも「おわけえのおまちなせえやし」という文句で有名。本名は”塚本伊太郎”というらしく、肥前唐津の士族で”幡随院”の住職・向尊に私淑(一説には向淑の実弟、又は院の門守の子ともいう)し、浅草花川戸に住み、口入れ業に従事。
【谷文晁】は江戸後期の文人画家で、テレビの”お宝番組”でも出てくる殆どが偽物ばかりで、本物は中々拝めない。有名な渡辺崋山も彼の門人だそうだ。
【伊能忠敬】は全国を測量して歩き、精巧な”日本地図”を作った方として有名。
 上野学園や保健所の脇を抜けて上野駅に向かうと、昭和通りの手前に電車の線路が有るので何だ?と思ったら、地下鉄銀座線の検車区の引き込み線。昭和通りを渡ると(上野七局)線路沿いの道を歩くと、”入谷口”というJRへの入口があり、始めてそこから入って上野駅の改札口に。
3時間13分。風景5局。9,662歩の散歩。

郵貯スタンプ・じい散歩

2009-12-20 22:42:14 | Weblog
12月18日(金)浅草の”羽子板市”に行って来ました。
 今日は、早朝に地震があり、ニュースを見ていたら、伊豆地方で群発しているとの話だが出掛けにも体感地震が有った。北の方は大雪のニュースが流れているのに、東京は朝から快晴。昨日始まった浅草の”羽子板市”へ行きながら、風景印を貰ってこようと家を出て、池袋から始めて、浅草雷門行(草63系)の都バスに乗ってみる。
 パルコの前のバス停に10人位並んでおり、どのコースを走るのかも案内したいと乗り込み、明治通りの”大正大学”を右に見ながら、西巣鴨の交差点を右折して白山通りへ入り。後から乗ってきた80歳位のおばあちゃん二人、一人が僕の隣りに座り、もう一人が後の座席に座ったが、ズーっと話しっぱなし。聞いていたら、
”とげぬき地蔵”へ行くらしいが、「年賀ハガキが去年65枚来て、喪中のハガキが2枚来たので、足りなくなったので、ハガキを買いに郵便局に寄りたいから巣鴨四丁目で下りたい」と、”とげぬき地蔵前”の一駅手前で下りて行った。失礼だが
あのお年で、年賀状が60枚以上来て、それ以上に書いているとはビックリした。
 巣鴨駅で運転手さんが交代し、千石から不忍通りかと思っていたが直進し、旧白山通りを走り、”東洋大学(先日テレビでやっていた昼飯を、今度食べに来てみよう。)の先の”白山上”で左折し、本郷通りを突っ切って、”団子坂”を下り、不
忍通りを左折して、”道灌山下”で右折。JR西日暮里駅の線路を潜り、真直ぐ尾竹橋通りを走ると、左に、水泳の金メダリスト・北島選手の自宅の肉屋さんが見えて
来る。(店頭に書いてあるから歩けば分かる)つい先の”宮地ロータリー”を右折してバスが出発した池袋駅前と同じ”明治通りに入る。
 それにしても、このバスだけではないかも知れないが、乗って来るお客さんに、年寄りの多い事。”お年寄りの足”になっている事が再認識出来たが、自分の最寄駅から、路線内で動いている様な気がする。乗り換えてあっちこっちへ行ける訳ではない様に思えた。区役所や警察署、消防署等が集中している”サンパール荒川”の先から道なりに右折し、都電荒川線の終点の三ノ輪駅の手前で常磐線を潜り、”
大関横丁”で右折して国際通りに入るともう浅草。「一葉記念館」のある”竜泉”を過ぎ、先月”酉の市”で来た「鷲神社」の前を通過して千束・公園六区入口から
”雷門一丁目”で左折すると、雷門通りに入り「うなぎ 川松」前で下車。
雷門から咲は、明日に持ち越す。
 バスに乗っていただけで、楽だったし、料金も200円で済んだが1時間2分。


郵貯スタンプ・じい散歩

2009-12-19 10:32:34 | Weblog
12月16日(水)
 昨晩のニュースを見て「世田谷ボロ市」に風景印を貰いがてら行って来ました。
 JR渋谷駅で下車し、西口の(東急プラザ側)を出た直ぐのバス乗り場から、
「祖師谷大蔵行」に乗って松陰神社前で下車した時に、渋谷で乗る時に、地元と同じと思い、後から乗ってしまい、下車時に前から下り様としたら”Suica"が使えずに、運転手さんも「結構です」。結局”タダ”で乗せてもらってしまった。
(世田谷三局)から、松陰神社通りという商店街を歩くと、街灯に「初詣は松陰神社へ」の幟と、最初は気がつかなかったが街灯のポールの目線の部分に、プレートがはめ込まれており、”松陰ゆかりの人(教え子)”の紹介分が貼られており、(伊藤博文・高杉晋作・久坂玄瑞等)読んで歩いた。去年も同じ日に来ており、松陰神社もその時に始めて参拝し、ブログにも書かせて貰ったが、今日も天気が良く、キチンと整備された境内を歩き(参拝者も何人か)、参拝したが、先日のテレビで社殿前に立っている”石灯籠”はそれぞれに名前の知られた方々(伊藤博文や
高杉晋作等)が寄贈した物だそうだ。【立看板がある】
 神社を出て、松陰神社通りを歩きだしたら、神社と若林公園との間の、ほんの2間幅の通路に【桂太郎墓所】の表示。
≪長州藩で松陰に師事し、山県有朋・大山巌を助けて軍制改革を図り、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、台湾総督・陸相の後始めて組閣し、明治37年首相として日露戦争の大事を決した。又、自らも明治33年、”台湾協会学校(現拓殖大学)”を設立し、永く校長として育成に尽した。大正2年10月10日に急逝。
享年66歳。遺言により、松陰霊域に接して、当所に葬った≫
中まで入って参拝。隣と違って、殆ど参拝する人もないみたいだ。静か。
 世田谷区役所前の交差点を渡ると、右が国士舘大学。区役所の先を左折し(世田谷四局)に行ったら、「昔は”豪徳寺局”という名前だったので風景印も有ったが
世田谷四局になって、風景印もなくなった」との事。
 東急世田谷線の世田谷駅の踏切を渡ると、古着などを並べた店(?)が見えてきて、”ボロ市”の雰囲気が。世田谷通りを右折し、お店を覗きながら(世田谷一局
)へ。風景印廻りはこれで終わり、後は”ボロ市”を見て回る。(写真添付)
【ボロ市】≪始まりは、430年の昔に開かれた”楽市”に遡る。当時関東地方を支配していた小田原城主北条氏政は、世田谷城主吉良氏朝の城下町である世田谷新宿に、天正六年(1578)に楽市を開きました。楽市というのは、市場税を一切免除して自由な行商販売を認めるというもので、毎月一の日と六の日に月六回開いていたので六斎市(ロクサイイチ)とも言いました。当時世田谷は江戸と小田原を結ぶ相州街道の重要な地点として栄えていました。こn市により、これらの地方の物資の藤龍はいっそう活発になり、江戸と南関東を結ぶ中間市場として」かなり繁栄したであろうと思われる。その後北条氏が秀吉に滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開くに及んで急速に衰え、世田谷城が廃止され、世田谷新宿が城下町としての存在意義を失い、楽市はなくなったが、その伝統は根強く続けられ、近郷の農村の需要をみたす農具市・古着市・正月用品市として毎年十二月十五日に開かれる歳の市として長く保たれた。明治になり、新歴が使われてから正月十五日にも開かれ、やがて十二月十五、十六日の両日、正月にも十五、十六日両日開かれる様になり現在に至る。
(名の由来)徳川時代になって、”市町”という名のもとに開かれていましたが、
後に農家の作業着のつくろいや、草鞋(ワラジ)に編み込む”ボロ”が安く売られる
ようになって、いつとはなしに”ボロ市”の名が生まれた。≫
 天祖神社の境内の植木市を見、地方(山形・群馬・長野など)からの出店(食材が主)を覗きながら”けんちん汁”を買って飲んだりしながら、代官屋敷の中を歩いたり、骨董街を見て歩き、知り合った(去年映画のポスターを10枚買った)おじさんを探したが、見かけなかった。毎年来ていると、見る者は殆ど変わらないが
何かを探して歩きまわる。今年は2点の買い物をして世田谷通りから渋谷行きのバスに乗って、スタートしたバス亭に戻る。
 風景2局。松陰神社からボロ市への 7,568歩の散歩に。

郵貯スタンプ・じい・散歩

2009-12-17 23:43:07 | Weblog
【関西・2009 第九弾】(12月10日 滋賀県大津・三井寺)
 尼崎から新快速で大阪・京都を通り越して山科駅の先でトンネルに入り、滋賀県に入って最初の駅が大津駅。47分掛り、12時25分着。
 駅前に、ここでも「さくら水産」の店が。昨日、部長が宴会のヘルプで来た店。
観光協会で地図を貰い、外に出たら雨が降ってきて、(今までもって来たのに)あせって折りたたみ傘を出したが、(大津駅前局)からダラダラ坂の商店街を下りて行くと京阪電鉄に突き当り、左折し、”浜大津駅”の改札の前を抜けると、目の前に【琵琶湖】が、雨模様の曇り空の中に見えた。展望場所まで出て、写真を撮り、
(浜大津局)局員の方に「何か美味しい所は?」とお聞きしたら、今渡って来た信号の所の中華屋さんを推薦してくれたので、ランチを食べに行く。
 国道161号(北国街道)を歩くと「←三井寺500m」の表示。”琵琶湖周航歌碑”のある観音寺交差点を左折。(大津観音寺局)から大門通りを歩いて行くと、【三井寺】(園城寺)の仁王門前に。
≪円城寺(三井寺)は、天台寺門宗の総本山で、古くから”日本四箇大寺”の一つに数えられています。その歴史をひもとくと、天智・弘文・天武天皇の勅願により弘文天皇の皇子・大友与多王が田園城邑を投じて建立され、天武天皇より「園城(
おんじょう)」の勅願を賜り、「長等山円城寺」と称したのに始まります。俗に「
三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、
「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを、後に知証大師が、当寺の厳儀・三部
 頂の法水に用いられた殊に由来します。長い歴史の中で、当寺は再三の兵火にあい焼失しましたが、豊臣氏や徳川氏の尽力で再興され、現在も国宝・重要文化財・
名園など貴重な寺宝を数多く伝えています。≫
 【仁王門】(写真添付)から【釈迦堂】に上がり、ダラダラ坂を【金堂】へ参拝している時に鐘の音が聞こえて来たので聞いたら「お金を支払えば打てますヨ」と言われ、【鐘楼】(有名な”三井の晩鐘”)に。小屋で300円を支払ったら「引く時に力を使って下さい。打つ時は真中に当てる様に離せば良い」と言われ、鐘楼に行ったら、今突いた方が出てきて「凄いですヨ」。中に入って紐を引いてみが、かなりの強さだ。(他の所と違う)3回目で当てて出てきたら、小屋の方が、「腹筋で打つんです」と見本を見せてくれた。金堂の裏の【三井の霊泉】では、覗いてみたら、今もボコボコという音が聞こえる位湧き出ている。(正面上に、左甚五郎作の龍の彫刻で有名)階段を上がって【弁慶の引摺り鐘】も、「その当時の鐘は長持ちしないし、時代もずれている」という話もお聞きした。その後も歩き廻り、階段を登った【観音堂】に登ると、琵琶湖が見える展望台が。
 総門を出て、長等神社の参道からナカマチ通りの商店街アーケードを歩いていたら、【大津祭 曳山展示館】が有り、入ってみたら、女性が親切に色々説明してくれた。13基有る曳山は、全て江戸時代中期までに完成され、それらは京都の祇園祭の山鉾をまねて創られたと伝えられている。”カラクリ”も見せてもらい、曳山
の前輪は一つで、後方が二輪の”三輪”なので、角での回転も京都に比べれば楽だ
そうだ。祭りは、駅正面の大通りで催されるそうだ。
 先に下りて来た道を戻って大津駅に。
 3時間。郵貯3局。風景2局。9,478の散歩。どうにか天気はもった。
 
京都に戻り、16時22分の”のぞみ”で東京に戻る。無事帰京。
 郵貯30局。風景16局。フォルムカード2府4県。99,821歩。

郵貯スタンプ・じい散歩

2009-12-17 19:43:27 | Weblog
【関西・2009 第八弾】(12月10日)
 朝7時に起きたら、丁度朝日が昇りだした所で、偶々ホテルの窓から、
大阪のビルの上に上がっていく日の出を暫く見てしまった。
 今日の午前中は兵庫県のフォルムカードを買いに、一番大阪府に近い
尼崎に。南口のロータリー越しに「さくら水産」の看板が目に入る。長
洲本通りを行くと、郵便局の前に「尼崎東警察署」が有り、横の駐車場
で制服組も私服組も一緒になって9時前の”体操”をやっているのを見
させてもらった。終わり頃には犯人を逮捕する時の様な恰好をし、一人
の人が何かを叫び、皆で拍手をして解散。どこの署でも毎日やっている
のだろう。(大洲本通局)から波洲通りを左折したら、同じ敷地に県立
の工業高校が二校。(神崎・尼崎)こんな事は初めて見た。住宅街に入
ったら、廃校になった小学校があり、(常光寺局)の先に、抗瀬小学校。
少子化で先程の廃校になった学校と合併されたみたい。(抗瀬局)から
国道2号線を歩き、長洲小学校の所で住宅街に、小学校の隣の幼稚園児
が全員ピンクの帽子を被って元気に飛び回っていた。
 公園の手前を廻り込んだ、長洲中通3-23にガラスの水槽(写真添
付)に一杯の小魚がウジャウジャ。何だろう?と思って近づいたら、”
タナゴ”?。中にご主人が居たので「すいません、これ”タナゴ”です
か?」と聞いたら、色々教えてくれた。一概に”タナゴ”と言ってもこ
の中に、大陸・ヤリ・一文字・カネヒラ・等の種類があり、”カマカツ”
という(関東にはいない)初めてみたハゼの様で模様の違う魚や、”透
明人”という内臓が見える珍しい”フナ”やアブラボ・ドジョウなどが
入っており、いろんな川で獲って来たらしい。獲ってきた魚は、別の水
槽に一握り位の塩を入れ、病気を殺してから一緒にする。ガラス面に巻
貝(ドブ貝)が一杯付いており、コケが付くのを食べてくれるので、水
槽が常に清潔だそうだ。30分位、魚を見ながらおじさんの話しを聞い
ていた。見ていて楽しかった。(長洲局)から(尼崎局)と廻り、風景
印に出ている【玉江橋】を見に行って、尼崎駅に戻る。
 3時間。郵貯5局。風景5局。フォルムカード。10,573歩。

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2009-12-16 20:58:35 | Weblog
【関西・2009 第七弾】(12月9日 大阪の夜)
 宇治から京阪電鉄で中書島・京橋で乗り換え、中之島駅へ18時20分。
【OSAKA光のルネサンス 2009】が中之島で行われているとの張り紙を
見ていたので、奈良から直行したのですが、中之島駅で下りたらリーガロ
イヤルホテルの所に出、堂島川に沿って歩き、駐車場の管理の人に場所を
聞いてみたら、「市役所の方だと思う。歩いたら大変だよ」との事だった
が、中之島を歩くのは初めてなので、きょろきょろしながら歩いたが、中々
イルミネーションが見えない。大江橋まで来て、市役所の正面のイルミネ
ーションが見え、市役所の横の通路のイルミネーションを見る。昨日神戸に
行って来ているので、”こんなもの?”と思ってガッカリしたが、実際は
12日~25日が本番らしい。
 土佐堀川を渡り、淀屋橋駅から地下鉄御堂筋線で心斎橋駅で下り、
【半兵ヱ・心斎橋店】へ。19時半頃入店し、40分間。かなり苦戦して
いそう。帰り際に挨拶して店を出る。
 先日東京のテレビで見て、今回の関西行きの目的の一つである”肉巻き
おにぎり”を探して、東京の歌舞伎町の様な宗右衛門町を歩き、通りの切
れる頃メトロホテルの前の駐車スペースに販売車(写真添付)が止まって、
若い女性が一人で車の中のオーブンで焼いて売っていました。丁度品切れ
で、焼いてもらっている間に、女性に聞いて、直ぐ近くにある、小さな本
店を見に行って帰ってきたら丁度焼きあがっており、さっそく貰って食べ
たら、熱すぎて味が分からなかった。少し冷めてからの方が美味しいので
は。
 道頓堀川を渡り、法善寺横丁の向かいにある、串揚げ店に入る。駅など
にある立飲みでなく、カウンターに座って飲食する居酒屋タイプで、料理
数は少ないが、ドリンクは色々な物を取り入れており、関心した。
 千日前通りを越えて、”なんば花月”前には、9時半なのに、若い女性
が30人位タレントを待っているのか?
 夕方連絡を入れておいた「さくら水産」のお社長から今頃電話が有り、
頼まれたが、今から言われた所に行ってられない(2軒で飲食)ので、ホ
テルへの帰りがけの梅田の住所を聞き、梅田駅で下りてから地下道を歩き、
曽根崎署より先の太融寺町に出て探したが、電話をしたら「ピカデリーと
いう映画館の地下です」というだけで、コンビニの従業員に聞いても分か
らず、住所を言って初めて場所が分かり、店に入って(10時40分)注
文したら”ラストオーダー”だった。客は5組16人入っており、マーマ
ーか。帰りは疲れてしまい、タクシーでホテルまで帰った。
 折角、関西に来ているのに、村さ来・半兵ヱ・さくら水産に串揚げ店で
しか飲食していないとは、何と因果な商売だ。
 中之島から心斉橋・宗右衛門町・法善寺・千日前・なんば・梅田と歩い
て、14,470歩。
今日一日で。郵貯6局。風景5局。フォルムカード2県分。33,050歩。

郵貯スタンプ・じい散歩

2009-12-15 21:19:00 | Weblog
【関西・2009 第六弾】(12月9日 京都府宇治)
 法隆寺駅から大和路線で奈良駅。奈良線の京都行きに乗り換えて宇治駅下車。平等院と反対側の北口に出て、ユニチカ宇治事業所前を歩いて、(宇治局)に。局の先の奈良線の陸橋の坂を歩と、局裏に茶畑。宇治茶だと思うが、自分の知っている茶畑は、刈り込み易い様に半円形になっているのに、ここはただ高さだけ揃えているだけみたいに見えるのは何故? そのまま奈良線を越えて宇治中学校の裏道を通り、県道15号線に出て、宇治橋通り商店街の御旅所の所を右に入ると(宇治壱番局)。前の通りを道なりに平等院の浦口に向かって歩くと、平等院の手前に
【県神社】
≪県(アガタ)とは、大和政権が西日本の要地に設けた地域組織で、特に畿内に有った”県”は政治と祭祀に重要な位置を占めていたといわれており、当時の宇治に属したといわれる。栗隈県(クリクマガタ)に社名の起源を求める事が出来る。祭神は木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)といわれ、永承7年(1052)に藤原頼道が平等院を建立した時に、その鎮守としたものと伝えられる。毎年6月5日から6日の未明に掛けて行われる”県まつり”は暗夜の奇祭と言われ、多くの人出で賑わっている。法隆寺に対する龍田神社と同じ。境内には”宇治市名木百選”の右(イチョウ)と左(ムクの木)の大木が≫
 神社の直ぐ先に、世界遺産【平等院・鳳凰堂】の南門。
≪永承7年(1052)、関白藤原頼道によって開催され、鳳凰堂はその翌年の天喜元年(1053)、阿弥陀如来(国宝)を安置する阿弥陀堂(国宝)として建立されました。庭園は浄土式の借景庭園として史跡名勝庭園に指定され、現在、鳳凰堂周辺の洲浜や平板・反橋、小島などが整備されている≫
 新しいガラス張りの【鳳凰館】の脇を抜け、【浄土院】の救田船乗観音を見て、【羅漢堂】には羅漢様と鏡天井の龍の彩色画から【不動堂】を見てから、鳳凰堂の中を見学する入場券を買い(15時10分)、【観音堂】から【鳳凰堂】の正面に行き、写真を。中学の時には、”二眼レフカメラ”を持って行っていたので、写真を撮った覚えがあるが、正面から納まった様に感じていたが、少しはみ出してしまう。自分の一番好きな建物!!。何枚か撮って、集合場所に並び、時間が来て、50名が一緒に鳳凰堂の中に入れて貰った。「周りのどこにも触らないで下さい」と言われ、おっかなビックリ。かなり大きな阿弥陀様を直接見させてもらい、10分位の説明で、退出。宇治駅方面に行く表参道へ出ようと表門に掛ったら、大きな
太いタイヤを4本付けた車椅子を係りの女性が押していたので見せて貰った。”砂利道用”との事。確かに砂利道での普通の車椅子は動かなくて大変。車椅子の方が来られたら、乗り換えて頂いているそうだ。どこにでも置いてくれると良いが。
 表門を出て、参道(日本かおり風景百選の道)を逆に歩き、”抹茶ソフト”を買って、食べながら宇治橋の西詰に【夢浮橋】。≪紫式部像と夢浮橋ひろば。≫
信号を渡り、駅方面の(宇治橋局)から戻って、【宇治橋】を渡る。
≪1300年以上も昔、大化2年(646)に初めて架けられたと伝えられる、わが国最古級の橋≫
 橋東詰から川沿いに”源氏ろまんの道・さわらびの道”とあり、坂道を上がって行くと、右に【宇治神社】。その先に世界遺産【宇治上神社】
≪明治維新までは、隣接する宇治神社と二社一体で、それぞれ離宮上社・離宮下社と呼ばれていました。祭神は宇治神社の祭神でもある悲運の皇子菟道雅郎子(ウジソワケイラツコ)の他、父の応神天皇と兄の仁徳天皇を祀っています。本殿は平安時代後期の神社建築ととしては最古の物に属する建造物で、”一間社流造”(イッケンシャナガレツクリ)の内殿三棟を左右一列に並べ、後世これらに共通の覆屋を掛けた物です。又、その身舎(モヤ)の扉には建立当時の絵画が遺されています。尚、境内に湧き出ている【桐原水】は宇治七名水の一つとされている。≫
 入って直ぐの社殿に参拝し、右にある【桐原水】の建物の中を覗き、(分からなかった)社殿裏の建物が本殿なので、前まで登って見る。小さな神社なのに”世界遺産”とは。手前の【宇治神社】
≪菟道雅郎子の坐像を祀っており、付近は彼が造営した桐原日桁宮跡(キリハラヒゲタノミヤアト)と伝えられている。現在の本殿及び外陣の狛犬は鎌倉時代に造られた物で、開口する獅子(阿形)と一角を持つ(吽形)で一対とされ、格調高い作品として、極めて貴重なものである≫
 階段を下りて、鳥居を逆に抜けて、宇治川の中の島に架かる、”朝霧橋”を渡り橘島へ降りたら、【宇治川先陣の碑】が。
≪寿永3年(1184)、木曽義仲と朝廷から義仲追討の任を受けた源義経戦いは有名で、天下の激流を挟んだ両軍の決戦は義経軍の名馬「するすみ」に乗った梶原景季と、名馬「いけづき」に乗った佐々木高綱お「先陣争い」で幕を切って落としました。先陣は策にたけた高綱がとり、義経軍が一斉に渡河して義仲軍を打ち破りました。この故事に因んで昭和6年に建立された≫
 南馬込の萬福寺と今年見てきた岐阜の”道の駅・磨墨の里公園”で磨墨(スルスミ)の銅像を見て来たのが、ここで繋がった。
 橘橋を平等院側に渡り、川に沿って紅葉の中を歩いて、途中から参道に戻り、お土産を少し買い、宇治橋通り商店街を歩いて宇治駅に。大阪の中の島で、イルミネーションをやっていると出ていたので、駅員さんに改札に入ってから「中の島に行くには、どこで乗り換えたら良いのか」を聞いたら、4人位が集まって来てくれ、「京阪電車に駅が有るので、宇治川を渡った所にある京阪電車で行った方が良い。取り消しますから」とさっさと取り消してくれてしまったので、仕方なしに、暗くなった通りを10分位掛かって宇治橋を渡り切った所にある、京阪電鉄・宇治駅に。 3時間40分。郵貯3局。風景3局。11,628歩の良い散歩だった。

郵貯スタンプ・じい散歩

2009-12-15 13:37:07 | Weblog
【関西・2009 第五弾】(12月9日・奈良法隆寺)
 ホテルを出るのが遅れたが、JR天王寺で大和路線に乗り換えて法隆寺着
9時10分。社内放送で
「只今人権週間です。お互い相手の立場を考え、良い人間関係を作りまし
ょう。」の放送が流れていた。人材教育にも、チームワークにも通じる基
本だと思う。
 駅で地図(郵便局も出ている)を貰い、駅員さんに”レンタサイクル”
の事を聞いたら、駅前の場所を教えてくれ、3時間300円で借り、サイ
クルマップを貰い、一応の説明を聞き、暫く振りで最初はふらついたが、
動き出したらスムーズに。踏切を渡り、横道に入って(斑鳩興留局)から
重厚な瓦屋根の家の多い”当麻道”を走り、”いきいきプラザ”の先の、
ゆるい坂道を上がって行くと、【吉田寺】の駐車場に観光バスが着き、お
年寄りが多数降りて来た。何のお寺か?と思って止まったら”ぽっくり往
生の寺”の表示。寺の直ぐ先に(竜田局)。局を出て前方を見たら路地の
奥に鳥居が見え、入って行ったら【龍田神社】
 聖徳太子が法隆寺を創建される時、龍田御廟山の南麓の地に守護神とし
てお祀りされた神社で、1400年に渡り、人々から厚い信仰を受け来た。
神社のご神絞は「八葉の楓」で【能楽シテ方の一流、金剛流の発祥の地】
 大和猿楽四座(結崎・円満井・外山・坂戸)の内坂戸座を源流とする。
この名称を法隆寺周辺部にあった古代郷の坂戸郷に由来し、古刹法隆寺に
所属して発展を遂げた猿楽座である。覚元元年(1243)にはこの市の守護
神として祭礼に郷民自身による猿楽が盛んに催されている。
境内には、”正三位稲荷大明神”と立派な”楠大明神”が。
 神社の前から、国道25号線と合流した斑鳩町役場の先を左折して直ぐ
に【藤の木古墳】
 500年代終わり頃に造られた”前方後円墳”だが何方のお墓なのかは
分かっていないそうだ。古墳の中をガラス面から除いたら、石組が見え、
周りを一周してみたがかなり小さな古墳だ。10名前後のツアーが何組か
来ており、説明の方の話しを横で聞いていたら、”のど飴”を貰った。
 法隆寺に行こうと思って、自転車に跨って、右のペダルを位置にもって
こようと動かしていたら右足に引っ掛かった横倒しに倒れてしまった。皆
に見られており、「大丈夫ですか?」」と声を掛けられたりしたので、恥
ずかしいのと、みっともないので「大丈夫です!」と答えて自転車に。
世界遺産【法隆寺】へ。
 用明天皇が自らのご病気平癒を祈って寺と仏像を造ることを誓願されま
したが、その実現をみないままに崩御されたといいます。そこで推古天皇
と聖徳太子が用明天皇のご遺願を継いで、推古15年(607)に寺とその本
尊「薬師如来」を造られたのがこの法隆寺(斑鳩(イカルガ)寺とも呼ばれて
います)であると伝えています。
 【南大門】の脇に駐輪させ、【唐門上土間】を歩いて(西院伽藍】の前
に修学旅行で中学生が集合写真を撮っていた。48年前には自分達も同じ
事をしていたのだろう。
【中門】脇から入場券を買って中に入る。【五重塔】(飛鳥時代)の裏側
の階段を登って御釈迦様の涅槃像を覗き、【大講堂】(薬師三尊像・四天
王像)金堂内部と見て歩き、【西院伽藍】を出ると鏡池の畔に【正岡子規
の有名な俳句】
”柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺”の句碑が有り、妻室と正倉院の様な高倉
の網封蔵の間を抜けて【大宝蔵院】へ。
 飛鳥時代から近世に至る、わが国を代表する宝物類を多数安置している。
修学旅行生の中を抜け、【東大門】を通って【夢殿】への古い白壁を丸太
でつっかえ棒をしている通路を歩くと、左の【四脚門】の傍に、赤い実を
一杯付けた”モチの木”がきれいだった。【夢殿】
 西暦601年に造営された斑鳩宮跡に、行信僧都という高僧が、聖徳太
子の遺徳を偲んで天平11年(739)に建てた伽藍を上宮王院といいます。
その中心となる建物がこの夢殿です。
 の周りを中を覗きながら廻り、先程の通路を戻り、南大門を抜け、自転
車で松並木に入らず、脇道から(法隆寺局)へ。松並木に戻った所に”柿
の葉寿司”の看板が出ており、3種類(鯖・鮭・鰻を各2個づつ)を縁台
を借りて食べる。マーマーだった。そのまま国道25号を越えて走り、レ
ンタサイクル店へ戻ったのが12時20分。20分前に返せた。
”藤の木古墳"の所で倒れた時に打った肘と膝が痛むのと、後のテールラン
プが破損してしまっていたので申告したら、「結構です」との答え。
 JR法隆寺駅。レンタサイクル2時間40分。郵貯3局。風景2局。