郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

今日の事を書きます。

2011-05-31 21:26:35 | Weblog
 5月31日(火曜日)
 今日は、二番目の兄の病院へ付き合うので、14時前に新宿区戸山の『国立国際医療センター』外科外来で待ち合わせる。それまでの時間を歩いてみる事に。
 高田馬場の信金で記帳し、小口現金を下ろしてから、早稲田通りの「スターバックス」の先の路地を入って歩き出し、更に路地に入ると、以前一度だけ来た「諏訪公園」の横に出た。久しぶりで上がってみたが、相変わらず”のら猫”が多い。上がって「雨水貯留・浸透施設」の写真を撮っていたら、ベンチに座ってそっくりかえっていた若い方が寄ってきて、「太陽の周りに虹が出ているんですよ」と教えてくれ、自分でも”そっくり返って”中天に有る太陽を見たが、初めは”眩しい”だけで何にも見えなかったが、ちょっと外回りを見たら、大きな”輪”が見え、輪の周りに色が付いているのが確認された。なんだか分からなかったが、帰宅後にテレビの天気予報を見ていたら、その中で、「今日の昼間、”環水平アーク”現象が見られたのですが、見られた方はいらっしゃいますか?」と話していたので、現象を確認できた。
≪大気中の氷粒に、太陽光が屈折し、ほぼ水平な”虹”が見える光学現象である。大気光象の一つで、水平環とも呼ばれる。”見る事が出来た人は幸運だと自信を持って良い”と言われる。≫
  「雨水貯留・浸透施設」          施設説明図         ”環水平アーク”現象
    
教えてくれた男性に「いいものを見せて戴いて有難う御座います」と、お礼を。其の後は暫く、何を見ても紫色や黄色に見えてしまい面白かった。諏訪公園の中には「かくれんぼ」の碑が置かれていた。
 公園を下りる途中で”のら猫”二匹。(エサや水をやっているから居なくならない)そのまま歩くと、昔風の「白子米穀店」。パン屋さんの前で男の従業員が外に出ていたので、「太陽の周りの虹の輪、見えます?」と聞いてみたが、分からなかったみたい。突き当りを左折すると「諏訪神社」の裏の「諏訪の森公園」を抜けると”明治通り”の「オリンピック」の裏の道になり、少し戻ると”男子下宿賄付「日本館」
≪昭和11年(1936)に建てられた洋館風の建物は戦災にも耐え、70年以上経った今も、早稲田の学生達を受け入れている。早稲田といえば、かつては下宿屋の町。昭和30年代から40年代までは、4.50軒の下宿屋が有ったが、今も残っているのは、2、3軒になってしまった。
24室(4畳半。他に床の間・押入れ)冷房完備。食事は朝・夕の2食。風呂なし(銭湯まで徒歩2分)。共同設備(洗濯機・物干し台・湯沸器・水洗トイレ他)賃料:(55,000~57,000)円+3,000円(管理費)≫
  諏訪公園の”のら猫”      白子米穀店      男子下宿(賄付)「日本館」
      
諏訪の森公園から『諏訪神社』の横の入口から境内に入り、一度外に出てから入りなおす。社務所に寄って”朱印”をお願いし、書いて頂いているうちに参拝。
≪弘仁年間(810~824)の創建と伝えられ、小野 により大国主命・事代主命を祀ったのが始まりとされる。当初松原神社と命名されたが、徳川義直により、諏訪神社と改名。かつては付近一帯が当神社に因み、諏訪町と呼ばれていたが、住居表示よる町名変更により、地名としては消滅した≫
ここの”湧水”は”お諏訪様の竜神様(水神)”と云われ、特に眼病に効果があり、又、諸病にも御利益が有ると、言い伝えられています。現在は動力で汲み上げてはいますが、大事にお使いください。との事。
    諏訪神社          本殿     明治天皇射的砲術天覧所跡 手水場と諏訪の霊泉
     諏訪神社の向かいの、都営西大久保住宅に入り、団地内を歩き、”明治通り”出る手前の「PARK HILL」というマンションの一階部分(佐久間家)の飾りつけ(殆ど造花だが)
       左側通路              正面         右側通路(入口に)
      
 明治通りに出て、学習院女子大学側に渡り、早稲田大学大久保キャンパスの前で、分からない女性モデルの撮影を路上でやっているのを横目で見ながら(一応写したが)”大久保通り”との交差点まで来ると、それまでと、その先が広くなっているのに、交差点角に、(有)光成という”八百屋”が一軒だけ立退かずに残ってしまったが、一軒の為に、”明治通り”が中途半端な道になっている。 
     明治通り新宿方面へ     (有)光成(八百屋)      明治通り池袋方面へ
            
行政からいうと”ジャマ”な店なんだろうが、凄く安い物も置いてあり、びっくりした。
”大久保通り”を歩いて行くと、元気な声と、行進曲が聞こえてきて、区立東戸山小学校の”運動会”が行われており、金網を通して工程では丁度、新一年生の”玉入れ”が行われており、丁度紅組の勝ち。
    東戸山小学校運動会        総務省省舎   
    
丁度14時前に「国立国際医療センター」着。結果6月2日に入院して、6日の朝から手術に決まる。特殊「腹膜偽粘液腫」な病気なので手術に10時間位掛かるそうで、終わっても一週間位”集中治療室”に入るらしく、チョット心配。昨日、文京区役所の国民健康保険課給付係で、「高額医療費限度額適用証」を申請してきたので、明後日、入院時に保険証と一緒に提出すれば良いらしい。    

両国・第三弾

2011-05-30 20:22:15 | Weblog
 5月18日(水曜日)
 昨晩、第二弾を書いていて、”もう少し”という処で消えてしまい、立ち直れなくてそのままに。今、気を取り直して書こうと思ったら、”投稿する”を押していたらしく、誤字などのチェックをしないまま投稿されていた様で、気を取り直して続きを書きます。
 横網町公園の中には緑地帯も作られており、飛び石を渡って散策してみたが、花が少なく、咲いていたのは葉が”アジサイ”と思われるが、まだ、今年になって”アジサイ”が咲いているのを見ていないのと、変わった花なので”これアジサイ?”なのか。
 「復興記念館」に入ってみよと思ったが丁度4時半で、入館時間切れだったので、次回回しにして横網町公園を出る。
  これ”アジサイ”?      復興記念館          鐘楼
     
”清澄通り”を歩くと、第一ホテルの先の日大一高の敷地に「おいてけ堀・御竹蔵跡(両国物語)」の看板が。”おいてけ堀”とは、本所七不思議の一つで、
≪この辺りは、幕府の資材置き場だった御竹蔵があり、その周りには掘割がありました。ある日、町人がこの辺りの堀で釣りをしたところ、沢山魚が獲れたので、気を良くして帰ろうとすると、堀の中から「置いてけ!」という怪しい声がしました。逃げる様に家に帰って、恐る恐る魚籠を覗くと、釣れた魚が一匹も入っていませんでした。話の内容や、場所には諸説があり、”おいてけ堀”は「錦糸堀」との説もあります。≫
 その先が、「江戸東京博物館」の敷地になり、亡くなった妻とは年に2・3回は見学にきていました。毎回車で来ていたので、通り抜けるこの道は歩いた事がなかったので通り抜けてみたら、”徳川家康”の銅像が立っていた。色々な有名人の銅像を見てきたが、徳川家康の銅像は他で見た事がない。
  徳川家康銅像
  両国駅。2時間30分。6,327歩のゆっくり散歩でした。

追伸:最近、単独で写した”花”を載せて見ます。
    ①5月20日。目白駅と学習院大学との間の坂の道路沿いの”テイカカズラ”
    ②5月21日。店の有るビルの入口の植え込みのあ”アジサイ”今年初めて色ずいたのを。 
    ”テイカカズラ”          ”アジサイ”
      

 

両国・第二弾

2011-05-29 22:04:39 | Weblog
 5月18道(水曜日)
 さっきは晩御飯の”おかず”を作るので、食べ終わるまで一休みさせてもらいました。
一人住まいになってから3年3か月、何もしなければ、何も出てきません。主夫にも慣れました。
 隅田川テラスから、東京スカイツリーを見ながらテラスを下り、水辺ラインの切符売場が国技館の前にあり、トイレを借りてから【旧安田庭園】へ。今回で2度目。
≪元禄四年(1701)、後の常陸笠間藩五万石の藩主、本条因藩守宗資が下屋敷として拝領し、この庭園は宗資が築造したと伝えられる。中心に”心”寺を象り、隅田川の水を引き入れた池を配し、潮の干満によって変化する景観を楽しむ、いわゆる”潮入り池泉回遊式庭園”である。明治になって、旧備前岡山藩主池田章政邸となり、明治24年(1891)安田財閥の創始者、初代安田善次郎の所有となった。大正十一年(1922)東京市に寄付された。”潮入りの池”は都内ではほかに浜離宮庭園や旧芝離宮庭園、清澄庭園などでも取り入れられていましたが、現在も目に出来るのは、浜離宮庭園のみです。(池に”クラゲ”が)≫
水辺ライン切符売場    真後ろにツリーが    旧安田庭園入口  園内の燈籠が倒れたまま
   
   ”潮入”水門     水門脇に”何の花?”     ”旧安田庭園”
  
 庭園のもう一方の出口から出ると、目の前が「都立横網町公園」があり、入ると目の前に養う風に感じる建物が。横を抜けて正面に回ると、【震災記念堂・東京都慰霊堂】
≪大正十二年九月一日、突如として関東に起こった震災は、東京市の大半を焦土と化し、五万八千余人の市民は業火の犠牲となった。この内、最も参滴を極めたのは、当時横網街公園として工事中の陸軍被服廟跡であった。世論は再びかかる惨禍のないことを祈念し、慰霊記念堂を建設することになり、官民協力して、広く浄財を募り、昭和五年九月、この堂を竣工し、東京震災祈念事業協会より東京市に一切を寄付された。
更に、昭和19・20年、東京は空前の空襲により、連日爆撃を受け、数百万の家屋財宝は焼失し、、十万を超える人々はその犠牲となり、関東大震災に数倍する惨状に再び見まわれた。戦禍の最も激しかったのは同20年3月10日であった。高等方面はもとより、全都各地にらたって惨害をこうむり、約77,000人を失った。当時殉難者は公園その他130か所に仮埋葬されたが、同23年より逐次回葬火葬し、この堂の納骨堂を拡張して遺骨を奉安し、同26年春、戦災者整葬事業を完了したので、「東京都慰霊堂」と改め、永く諸霊を奉安する事になった。≫
    「塔虚と慰霊堂」裏    「東京都慰霊堂」      「東京都慰霊堂」全体
      
   慰霊堂内部        「震災避難児弔魂像」      「東京空襲犠牲者の碑」
    
公園内には、色々な碑があり、公園の片隅には、「復興記念館」という建物があり、(他を見ていたら入館時間を過ぎてしまい、入れなかった)建物の外に「震災記念おk外ギャラリー」が。
   ”鉄柱の遺塊”    ””百馬力電動機”   ”自動車のシャーシー”    ”印刷機”
   
公園内には、緑地もあり、チョット散策。

”入れれば久し振りに相撲を見ようかと”両国へ。

2011-05-29 13:56:55 | Weblog
 5月18日(水曜日)
 朝、ふっと思いついて、”両国に行って並んだら、椅子席で相撲が見れるかも”と思い、昼過ぎから出かけてみた。相撲は”桟敷席”で狭い思いをしながら今までに4回位見ているが、今場所はテレビ放送もなく、ニュースと新聞で見るだけですが、とりたてて見たいわけでもなかったが、館内状況などを取材に行ってみようかと思って両国駅西口に。始めて気が付いたが、改札を出たところに小さなオブジェが。
   西口改札口        ”力相撲”         両国駅西口    ”俵星玄藩道場跡”
   
いつも何十本と立っている力士名が書かれた”幟”が一本も見えない駅前から、国技館への通りを歩き、通って来た力士を見ていても、誰が誰だか殆ど分からない。キップ売場へ行こうと思ったら、切符売場の手前に”立札”が有り、忠臣蔵で有名な「俵星玄藩の道場跡」の看板に気が付いた。『五月技量審査場所』の立て看板が有る切符売場へ行ったら、「本日の無料入場券の配布は終わりました」と案内しており、お聞きしたら、「毎朝8時から1000枚配布していましたが、7時過ぎから並ばれ、1時間かからずに配布されてしまう」との事で、その他で無料入場券を手に入れようとすれば、各取扱いプレイガイドで求めなければならないそうだ。少し入り口前に居たが、切符を切っている親方達の方に知っている人が何人か。改札前の路肩に「両国さかさかさ」という、”雨水を貯めて再利用しよう”という試みだそうだが、他では見た事がない。
「がんばろう日本」の幟 「五月技量審査場所」  「両国さかさかさ」      手漕ぎポンプで  
   
結果、入れないので、近所を回ってみる事に、両国駅前の信号を渡ったビルの角に『百本杭跡』の立看板。があり、それにつられて、隅田川の「隅田川テラス」へ出てみたら、両国に関係のある”浮世絵”が色々と壁に貼り付けられていたり、手すりの化粧に相撲四十八手をデザインしたものが嵌め込まれていた。
テラスから隅田川・総武線       ”ひしまわし”             ”おいなげ”
      
     ”きぬかつぎ”           ”そとむそう”          「勧進大相撲土俵入図」
      
「東都両国回向院境内相撲図」   「東京名所見立五行」          「東京名所」
      
「江戸名所百景・両国橋大川」 「相撲番付力士行進」    「不二三十六景東都両国橋下」
          
  「両国大相撲繁栄之図」     「両国大相撲国技館之図」    「相撲表四十八手之図」
    
  「江戸名所一賢双六」     「東都名所永代橋全図」       「江戸一目図」
      
  「隅田川ボートレース」     「東都名所四季之内両国夜蔭光景」
    
写真で載せると、それほどではないが畳二畳位の大きさで、だれも興味を持って見ている人もないが、見ていて飽きない(小さい字で説明文が付いている)。”歳の勢?”。
 テラスを歩いていると、直ぐそばに「東京水辺ライン」の”両国発着所”が有り、丁度浅草方面から来たガラス張りの新しい船が着き、お台場方面に出て行きました。今度乗ってみよう。
東京水辺ライン発着所   お台場方面に   テラスからスカイツリーを   
  
チョット時間が掛かり過ぎたので、食事の用意をするので、一旦休憩します。


チョット前ですが、幕張を歩いて来ました。

2011-05-22 15:17:31 | Weblog
 5月9日(月曜日)
 今日は、3月3日に群馬県の高崎市へ”雛人形”を見がてら二ヶ所回って以来、久しぶりに”郵貯周り”に出る事に。近場は回り終わっているので、千葉県の地図を出して見ると、津田沼の先までは行っているので、幕張に決めて昼に家を出たが、目的地まで2時間掛かる。
 JR幕張駅南口に出、すぐ先の京成千葉線の踏切を渡り(右に京成幕張駅が)、「幕張銀座通り商店街」に入ってみたが、シャッターの閉まった店が多く、写真を撮る間もなく住宅街に。幕張局に行くには、千葉街道に出た右に有るはずなのに見当たらず、近所の方にお聞きしたら「駅前通りに移ったよ」。新しくなった、(幕張局)で郵貯。新千葉街道に架かる、広い歩道橋を登り、まっすぐ歩くと右に『放送大学』の大きな校舎が見えてくる。
     放送大学校舎正面       放送大学敷地の”藤棚”  東関東道の歩道橋から大学を
   
上に東関東自動車道、下に湾岸道路が走る歩道橋を渡ると『国際能力開発支援センター』の綺麗な建物が有るが、22年9月30日に閉館になっており(多分、話題になった”仕訳け”の対象になった施設)、半年以上経っても、他の使い方が検討されていないのでは。センターの脇から裏道に入り、垣根代わりに植え込まれている植木に白い花が。後で見ていたら”トベラ”と。
 東関東自動車道を潜る歩道橋   国際能力開発支援センター       ”トベラ”の花
    
「イオン幕張店」の裏に掛かると、搬入口のタイルがズレており、地震のせいか?。”カナメモチ”の垣根があり、白い花が満開。その先のテクノガーデン交差点を渡り、”テクノガーデン”へ。
    搬入口の段差      ”カナメモチ”の垣根     ”カナメモチ”のアップ
    
入口が分かりにくく、一階の真ん中から入ると、”何だここ?”という感じ、ビルの方がいたので郵便局を聞いたら「2階のこの上です」というので、階段で2階に上がり(幕張テクノガーデン内局)へ。スタンプを貰い、裏から出られる事を聞いて館内を歩くと「ウエザーニュース」の部屋がガラス越しに見え、”こんなところでやっているのか?”。
 テクノガーデン交差点でIBM方面を  ウエザーニュース室     テクノを出て住友ビルを
  
テクノガーデンを出て”ハイテク通り”に出、向かいの住友ケミカルビルの1階にある”内局”へ。外から通りの2階に戻ると回りはビルばかり。一般の住宅は一軒も見えない。住友ビルから見ると
     テクノガーデン方面を                   NTT幕張ビル方面を   
            
  真中のメッセモール(緑地)方面    ”ハマヒサカキ”の花      ”トベラ”の花
  
緑地帯のメッセモールを歩くと、ツツジ以外にあまり花は見られないが、それでもこのビル街の中では憩いの場になっていると思うが、途中で”通行止”のロープが張られており、下に降りて、JR京葉線の京浜幕張駅の前を通って海浜公園へ行こうと思い、駅前ショッピングセンターを回り込もうと思ったら、地震による”液状化”の現象が2か月経ってもそのまま残っていた。
   幕張メッセ交番脇      線路下の侠客部         裏の駐車場前
    
そのまま「幕張海浜公園」に入ろうと思ったら、入口部や通りの路肩が”液状化”で殆ど崩れていた。
   公園入口の路肩        海浜公園入口
 
公園内も所々”立入禁止”の貼り紙がされており、人も少なく、この辺りはあまり見処もない公園なので、スロープを登って、歩道橋に出ると何か日本ではない感じの景色が見えたが、なんか温かみが感じられない。(幕張パークタウン局)へ。
  グランパティオス(公園東の街)        ベイタウン
        
局で待っているうちに16時を超えたので、あとは時間に任せて歩く事に。局の裏の、二丁目公園を歩くと、公園の一部に花壇が造られており、近所の好きな方達が管理されている様で、見させて頂いた。驚いたのは、”ツタンカーメンの墓”から出てきたといわれている紫色のえんどう豆。
”ツタンカーメンエンドウ”      ダイコンの花       ムラサキ花ダイコン
  
   ”ネギボウズ”           何の花?          キャベツの花
  
公園を出て、マンション街を歩くと、「ブエナテラーサ」の敷地に紅白の”ツツジ”が幕植え込まれており、「ひび野交差点」に立つと、向かい側に尖がった建物があり、「ザ・マンハッタン」。
   ブエナテラーサの”ツツジ”       ザ・マンハッタン
     
地図に有る、幕張海浜公園の中にある『見浜園』に行ってみ様と信号を渡り、斜めに敷地に入るも入園は4時半までで、丁度4時半。券売所に誰もいなかったので、取りあえず入らせてもらい、スナップだけ撮らせてもらって出てきたら、券売所から女性が出てきたのでお聞きしたら、「20年前に幕張メッセが出来た時に一緒に開園した」との事で、池を見ながら抹茶も飲めるらしい。今度ゆっくり来てみよう。園の脇の樹間を抜けていくと、海側の公園との間に走る海浜大橋を渡る幕張京浜公園橋があり、ここも”通行止”になっていたが、渡ってみたら、歩いている方が見えたが、入園禁止のような感じだったのと、時間も5時に近かったのでやめても戻ると、橋のサイドに、47都道府県の”県花”をタイルで焼いたものが嵌め込まれていた。脇道から海浜大通りに出て、幕張京浜公園交差点の歩道橋に登ってみたら、「千葉マリンスタジアム」や「幕張メッセ」などがすぐそこに見える。
        見浜園入口から             見浜園庭園
   
  見浜園の踏石の脇がズレて  幕張海浜公園の海側      47都道府県”県花”
    
     千葉マリンスタジアム            幕張メッセ
 
”国際大通り”を海浜幕張駅まで戻ると、丁度駅の階段を車いすの青年を乗せたままで動いている機械があり、あわてて見に行った。少し前にどなただったか、「駅でコーラ等の思い飲み物を運べる器具があり、それと同じ様な方法で階段を簡単に持ち上げられる機械がある」と聞いたばかりだったので、”これか!”という感じで見てしまった。コンパクトでどこの駅にも置けそうな機械だった。
  駅の階段を登っている処      持ち上げ終わった台車
      
JR海浜幕張駅。郵貯スタンプ・4局。3時間10分。13,527歩のゆっくり散歩でした。

帰路、東京駅に着いたが、京葉線のホームは遠い。エスカレーターと歩く歩道を何本も乗り継いで、やっと通常のホーム下に着くと、”駅中”には色々な物販店があり、今日はこんなものを買ってみた。
  ”シレトコドーナッツ”    「芋からく」の”からく焼”  清閑院の”麩饅頭ときんつば”
    
 「豆一豆」の”レンガパンと豆ほうびアンパン”
       
少しずつ、2日に分けて食べたが、「からく焼」だけは餡もきちんと入っておらず、出来立てを食べるのならまだしも、買って帰って食べるにしては”見かけ倒し”に感じた。他はもう一度買っても良い。

府中へ。第三弾

2011-05-20 09:34:13 | Weblog
 5月13日(金曜日)
 一か月前だったら綺麗だったと思う”桜通り”を綺麗な花や、分からない花を見ながら歩き、庭の女性に花の名前を聞いたりすると、「植えたのは主人なので自分は水撒きだけなんです」と言いながら楽しそうに話してくれる。”桜通り”から府中公園に入ると、お年寄りの方々が、”輪投げ”ゲームで楽しそう。
   キンカン(年中?)    ”クレマチス”の花が落ちて    府中公園内で”輪投げ”
           
公園を抜け、”ルミエールの脇を抜けようとしたら、緑地があり”エゴの木”に白い花が鈴生りに。
    ”エゴの木”       花のアップ        ”ベニバナシャリンバイ”とアップ
   
アジサイもソロソロ咲き出しそうで、角の畑で何かの苗を植えていらっしゃったので「何を植えているんですか?」とお聞きしたら「サツマイモ」とぶっきらぼうに返事をしてくれた。畑の先の(府中三局)で風景印を貰ったついでに、今日の目的地(府中市郷土の森博物館)について聞いてみたが、都心の郵便局の方は転勤もあり、地元の方でない方が多く、近所の事を聞いても知らない方が多いので、地図を見直していたら、これから行こうとしている「府中の森公園」の”市美術館”とは全く違う事にやっと気づき、再度地図を確認したら、方向が逆で競馬場の先の多摩川の方だった。ガックリしたが、今日は近い府中の森公園に行く事にして歩くと、公園手前の三本木公園の手前の家の庭に名前の分からない花が。
  ”アジサイ”も    ”サツマイモ”の植え込み    塀の上に”猫”      綺麗な花
   
「府中の森公園」に入り、雑木林の周回道路を歩き、市美術館(牛島憲之記念館)に入ってみようと思ったが、展示品入れ替えで20日まで”休館中”。美術館脇の”桜通り”を歩き出したら、美術館裏に、薄紫の花をつけた木が一本。”キリの木”だそうで、落ちていた花を押し花に(茶色くなってしまった)しようと一枚拾って地図帳に挟む。
       一本の”キリの木”とアップ          ”桜通り”   
  
”桜通り”の左にはテニスコートが南面もあるが、平日なので”女性のみ”。通りに沿って歩くと、ウオーキングの方たちと行き会ったり、子供たちが池でザリガニ捕りをしていたり、花を見て歩くが、この公園は殆どの植木に”名札”が付いており、見て歩く人とすると助かるし、覚えやすい。
  ジャノメエリカ”       ”コデマリ”   ”イロハモミジのプロペラ”  池でザリガニ獲り
   
  ”梅の実”が一杯    いつもここで横に      ”クマシデ”
  
公園を端まで歩くと、「府中の森芸術劇場」へ裏から入る事が出来、中を通って正面入り口から出る。東府中駅に向かう”イチョウ並木を歩いて甲州街道・京王線の線路を渡り、東府中駅を通り越して競馬場通りを歩き、(清水が丘局)で風景印を頂き、東府中駅に戻る。
  「府中の森芸術劇場」       東府中駅へのイチョウ並木
      
風景印:4局。朱印:2寺。3時間35分。12,780歩の”行き先間違っちゃった散歩でした。

府中へ。第二弾

2011-05-19 21:57:46 | Weblog
 5月13日(金曜日)
 【大国魂神社】へ社務所入口寄り入ると、直ぐ前に拝殿があり、参拝。
≪大国魂神を武蔵の国魂と仰いで、鎮祭し、祀った神社である。第十二代景行天皇41年(111)5月5日、大神の託宣によって創立せられ、武蔵国造が代々奉仕して祭務を司った。其の後、孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645)により、武蔵の国府がこの地に置かれて、当社を国衛の斎場として、国司が祭祀を奉祀して国内の祭政を司った。国司が国内諸社の奉幣巡拝等の便により、側に国内の諸神を配祀したので、「武蔵総社」と称し、又、両側に国内著明の神社六社を奉祀したので「六社明神」「六所宮」とも称された。鎌倉幕府以降、徳川幕府に至るまで代々幕府の崇敬厚く、再三社殿を造営し、徳川幕府より社領500石を寄進せられた。明治18年より昭和21年迄、官幣小社に列せられ、其の後宗教法人と成る。≫
 退職してからは、毎年正月の初詣に来ているが、こんなに少ない参拝者の時に来た事がないので、いつも気にならないところに気が付いた。正月来た時には「御鎮座壱千九百年記念事業」で改修中だった”随神門”が完成しており、門の両側に像が安置されていた。
 大黒天像(左)(本殿側から)恵比寿像(右)  豊磐間戸命(左)参道側から櫛磐間戸命(右)  
   
   改修なった随神門     屋台で隠れる”手水場   日露戦役記念碑
  
 改修中の宮之メ神社     相撲場         武蔵国府後(国史跡)
  
境内には、「ふるさと府中歴史館」や、野口雨情作詞、中山晋平作曲の「府中小唄」の碑もあり、”府中小唄ゆかりの地を尋ねる”地図が貼られている。四百年以上経った相撲場の裏の出口を出た処に、「武蔵国府跡」の発掘調査跡がいつの間にか出来ていた。
 武蔵国府跡に”猫”     発掘調査の写真ー1      発掘調査の写真ー2
  
国府跡を出て、そのまま脇道を歩いて旧甲州街道に出て、神社前の交差点から、徳川家康が慶長年間(1596~1615)に六所宮(現大国魂神社)へ馬場を寄進したと伝えられる、”けやき通り”を歩くと、向かい側の通りに人だかり、”なんだろう?”と渡ってみたら、パチンコ屋のグランドオープンだった。順番に番号を呼ばれて、台を与えられるらしい。
 「源義家公とけやき並木」碑    源義家公銅像      「KIBASYA」開店
       
京王線のガードを潜り、そのまま歩くと「府中駅北第二庁舎」があり、その地下3階から地上2階までが自転車の駐車場になっているらしい。歩道も広く、真ん中に、歩道と自転車道を分ける標識が何か所も立っているが、人通りの多い場所では、人と自転車がゴッチャゴチャ。(武蔵府中局)で風景印を頂き、「府中の森公園に向かう事に。
 府中駅北第二庁舎   自転車駐車場入口        道標      駅への”けやき通り”
   
この後、府中の森公園に行ったけれど、この後は第三弾で。

府中を歩いて来ました。(チョット間違えた)

2011-05-17 21:54:12 | Weblog
 5月13日(金)
 一番最近の”じい散歩”を先に書きます。前の日の読売新聞の”多摩版”「アウトローたちの江戸時代」というタイトルでの特別展が行われている事が載っており、”見がてら風景印と朱印を貰ってこよう”と思い、出掛ける事に。
 武蔵小金井迄バスで出て、南口の1番乗り場から約15分で府中北口のバスロータリーに。結構近い。線路下から狭くゴチャゴチャの”南口駅前通り”を抜け、伊勢丹にぶつかって左折。八幡宿交差点の「宗家源吉兆庵』角に”ナデシコ”と「鍋屋横丁」の道標が。信号を渡り、(八幡宿局)で風景印を頂き、”競馬場正門通り”を歩くと”京所通”との交差点角に『多摩八十八ヶ所霊場・二十二番大悲山普門寺』。境内に入ったが社は有っても社務所がなく、社に「朱印をご希望の方は二十三番妙光院でお受け取り下さい。」の貼り紙。参拝だけで境内を出る。正門通りの坂を下ると左前に『東京競馬場正門』が見え、”競馬場通り”を右折すると、流石”競馬場”。「馬霊塔」と「馬頭観音」が。
   ”ナデシコ”       大悲山・普門寺     東京競馬場正門       馬霊塔
   
「馬霊塔」の右側の一番奥に、第四代日本ダービー優勝場”ガヴァナー”の墓。左側の一番奥に10戦10勝でダービー優勝後に破傷風で亡くなった「幻の馬」【”トキノミノル”】の墓が。

≪日本競馬界伝説の一頭で、1948年、当時の映画会社「大映」の社長永田雅一が進められて当時の100万円で購入し、馬主に。さして思い入れを見せず、競争年齢の3歳になっても競走名を付けなかったので、生産者が調教師と相談し、血統名(幼名)”パーフェクト”のまま競走登録し、初出走で芝800mの48秒1は日本レコードで勝利。当日夜に永田に勝利報告の電話を掛けると、買った事を忘れており「何だそれは?」。しかし、数日後に厩舎を訪れた永田は、「競馬に懸けた時が実るときが来た」という意味で”トキノミノル”と命名。又、”トキノ”については、永田が尊敬していた菊池寛が使用した”冠名”の借用で、ダービーを意識する期待馬のみに使用するものだった。
4歳の第3戦目(それまで8戦8勝内レコード勝が5戦)の皐月賞(5月13日)を当時の2000mの日本レコードで快勝。しかし翌日、中山競馬場から帰厩したトキノミノルは歩行異常を来たし、一時は出走取り消しも検討されたが、前日から状態の良化が見られ、6月3日の東京優駿(ダービー)に一番人気で出走(蹄と蹄鉄との間にフェルトを挟み)。7万人を超える観客が集い、競走史上初めて内馬場が観戦用に開放された。道中、初めて8・9番手を進み、向正面で行き脚をつけて先行勢を交わしていくと、そのままゴール迄先頭で押切り、史上2頭目の無敗でのクラシック二冠を達成した。秋には、セントライト以来史上2頭目のクラシック三冠は確実と見られたが、
競走10日後の16日午後になって、目が赤くなっているのが見つかり、
17日の夕方には、破傷風が疑われ、
18日には、身体各部の硬直が見られた。
20日には、ニンジン・青草を食べる程度に回復したが、午後になって容態が急変、全身硬直を二度、三度と繰り返した。庳麻薬の浣腸が行われたが症状は悪化の一途を辿り、午後6時40分には全身痙攣を起こして倒れ、約4時間後の10時34分、”破傷風”に伴う敗血症で死亡した。
 トキノミノルの死を読売新聞は社会面のトップで報じた。こうした中で、作家の吉屋信子が毎日新聞に寄せて、「初出走以来、10戦10勝、目指すダービーに勝って忽然と死んでいったが、あれはダービーに勝つ為に生まれて来た幻の馬だ」という追悼文を発表し、以降この「幻の馬」がトキノミノルの二つ名といて定着した。1966年にブロンズ像が制作され、東京競馬場のパドック脇に設置され、待ち合わせ場所に≫
 馬霊塔の左の馬の墓 馬霊塔の右の馬の墓    馬頭観音像      馬頭観音門扉
   
馬頭観音像の裏山の静かな林の中の「日吉神社」に参拝。戻って、二十三番札所の妙光院へ行くつもりで歩いたが、通用口だったので表に回るつもりで競馬場通りに沿って歩くと、多摩三十三観音「叡光山安養寺」
に入り、参拝して正面から出ると、府中街道に。ゆるい御殿坂を少し歩くと、安養寺駐車場の隣りが「本覚山妙光院」の山門を潜り、寺務所で朱印を二ヶ所分頂く。
   日吉神社           叡光山安養寺        安養寺参道
  
   本覚山妙光院      妙光院山門        大公孫樹         裏の竹林    
妙光院の裏から出ると、さっき通った道に出、すぐ左に「喫茶&音楽・菩提樹」。雰囲気につられて入ってみた。同じ位の年配のご夫婦が二人で、ゆっくりやっている(趣味で)様なお店で、静かにジャズが流れていた。
   「菩提樹」入口     庭の”テッセン”      菩提樹店内       キリマンジャロ
   
菩提樹を出て、住宅街の狭い坂を登って行くと、【大国魂神社】の社務所入口にぶつかり、そこから入る。
 長くなりそうなので、ここで一度切って、第二弾をすぐに書きます。

都電荒川線小台駅へ、”姫リンゴ”の街路樹の花を見に行ってみました。

2011-05-15 20:16:05 | Weblog
 4月28日(木曜日)
二年半前の12月11日に郵貯回りで、初めてこの辺りを歩いた時に、都電小台駅からJR田端駅を結ぶ通りを横道から突っ切って、西尾久二郵便局で貯金をし、通りに戻って歩きだしたら、街路樹に赤黒い小さな実が鈴生りの様についており、”なんんだろう?”と思って見上げたら、”りんご”に見え、近所のおばあちゃんに聞いてみたら「姫リンゴよ」との事。姫リンゴといえば、植木市などで精々1m位の木しか見ていなかったので驚いた。この通りを”アップルロード”という。見渡すと3~4m位の木が街路樹となってズーーーと続いている。全ての木に小さな”りんご”が鈴生り。「桜の終わった頃に来ると白い花が咲いているのが見えて、綺麗ですヨ。」と教えてくれていた。2年間忘れていた。
 午後から、池袋の税理士事務所に寄り、今日は木曜日だけれど連休前なので忙しくなりそうなので、6時から店に入るつもりで出てきたが、”フ”と思いだし、JR大塚駅から都電荒川線に乗って小台駅へ。大塚駅から駅にして12番目で、30分弱。
 駅について”アップルロード”を見たが、街路樹の”姫リンゴ”の木に一杯葉が茂っており、あまり花が見えなかったが、せっかくここまで来たので”小台橋みずき通り”の西尾久三局へ行き、風景印を頂き、その先の隅田川に掛かる小台橋まで行ってみたが、直ぐそばにある”東京水辺ライン”の発着所にも動きがなく、戻って来ると、局の先のガードレールに黄色い”モッコウバラ”が綺麗に。
    小台橋から上流を望む     局前の”モッコウバラ”       都電荒川線小台駅
  
小台駅に戻って”アップルロード”に入ったが、花が白なので見にくく、よく見ると枝先に花が見えたが、”終わったの?”という感じだったので、薬局の方にお聞きしたら「4日前が見頃でした。」と言われた。やっぱり少し遅かった。でも枝先に残った花が、殆ど木の真上だったので、下の方に咲いている花を探す。
     ”アップルロード”        街路樹の”姫りんご”        ”姫りんご”の花
  
小台大通り(通称アップルロード)を田端駅に向かうと、小さな社だが”山谷の神明様”と親しまれている「山谷の神明社(天祖神社)」や、”アップルエンジェル”という小さな像がバス停前に。
 ”明治通り”を越えて高崎線・宇都宮線のガードを潜って田端駅方面に向かい、東田端郵便局で風景印を頂き、駅に向かうスロープを登り、線路を跨ぐ”新田端大橋”に沿って作られている”田端ふれあい橋”からJR田端駅北口へ。    
  山谷の神明社(天祖神社)    東田端局前の”花水木”      田端駅へのスロープ下
  
   田端駅へのスロープ         田端ふれあい橋          ふれあい橋の花壇
  
           両側の花壇に”ひらどつつじ”が植え込まれており、色も3種。
  
ふれあい橋が切れた処に、韓国のおばちゃんが、自家製キムチの入ったボックスを置いて座っており、2種類のキムチを買って駅に。店に直行。
風景印:2局。55分。3001歩の散歩でした。

大塚警察署へ「指定車証」を受け取りに。

2011-05-09 23:09:23 | Weblog
 4月22日(金曜日)
 18日に大塚警察より電話が入り、「申請の書類が届いていますので取りに来て下さい」との連絡が。その後体調を崩し、21日の午後まで家で大人しく。
 今日は、先日買おうと思ったが、遅い時間で”売り切れ”だった「群林堂」の”豆大福”を買いたくて11時に護国寺駅に。11時10分に店(警察署の真前)に着いたら、すでに10人以上が並んでおり、丁度二日後投票の区会議員選挙に立候補した元プロレスラーの西村修が背広姿で、遊説していた。昔、新日本プロレスの時に、”いい選手だ”と思っていたが、背広は似合わない。店へのお土産分も買って、持って歩く事に。買ってから大塚警察署で「駐車禁止除外指定車」証を受け取り、今日は「関口芭蕉庵」を目標に歩いてみる事に。
 大塚警察署の先を右折し、”三丁目坂”を登ると、右に取り壊されたような施設があり、「東京大学総合教育研究所」の看板が読める。その先を左折すると小黒米店の脇に陶器が3個置かれて、それぞれに”メダカ”が飼われていた。”目白通り”の目白台3交差点に出、向かいの目白台一局で風景印を頂く。
 大塚警察署から「群林堂」を  東京大学総合教育研究所        小黒米店
  
”目白通り”を少し歩くと「講談社野間記念館」があり、入ってみる事に。手入れの行き届いた前庭を
     ”椿”             ”藤棚”            ”ハナモモ”
  
  入口前から庭を       「野間記念館」入口       記念館庭の”ツツジ”    
  
館内は、一切撮影禁止なので撮れないが、「野間コレクションの90年」展が開催されており、横山大観・山村耕花・堂本印象・山口蓬春等の絵画が展示された中で、川合玉堂の「鵜飼」という絵が気にいった。
5月28日からは「近代日本の洋画展」が予定されている。又、見に来てもいい。ベランダに出て、自販機で買ったお茶を飲みながら、「群林堂」で買った”豆大福”を食べた。
 記念館を出て、少し戻って”胸突坂”に向かうと、右に「和敬塾」の学生寮が、左には元田中光顕旧邸の「蕉雨園」の入口が見え(入れず)、坂に掛かるところを右に入ると【永青文庫】
≪肥後(熊本)五十四万石の大名、細川家に伝わる器物や古文書、及び十六代細川護立氏蒐集品の保存、研究を目的として、昭和25年に設立された。七百年の長きに渡って蒐集されたその所蔵品は数万店にものぼり、その種類も細川家代々の武器・武具・染織品・古書画を始め、陶器、漆器、彫刻などの美術工芸品や、近代日本画など、多岐にわたっています。とりわけ、南北朝時代以来の様々な事件に関係の深い器物や記録があるがままに残されている点では、他に類を見ず、貴重な資料として、世界的な評価を受けており、現在もその整理・調査・研究が続けられています。≫
  田中光顕旧邸「蕉雨園」    「永青文庫」外観     内部の廊下      内部の階段
  ”昭和”そのままの建物だが、二階の展示室を見て歩いたが、所蔵数に比べて展示品が少なすぎるので、何か物足りない気分で外に出ると、暗い庭に幼稚園児が先生に連れられてドングリ等を拾っていた。庭から直接、元細川家の邸地だった「新江戸川公園」に入る。回遊式庭園になっており、江戸川公園の続きと思っていたので、全く違った感じ。殆ど人がいない中を歩かせてもらった。
 「永青文庫」の庭    公園の”八重山吹”    新江戸川公園の庭園
   
   公園の正門      「松聲閣」(公園集会所)  
 
初めて来たので、「松聲閣」の前にロープが張られており、18年3月末で、老朽化で”利用休止”になっていたが、5年もほったらかし?。中を見学出来る様にすれば良いのに、と思う。
公園を出て、神田川に沿って歩くと【水神社】
≪創建の時代は明らかではないが、伝えによれば、水神が八幡宮社司の夢枕に立ち、
「我水伯(水神)なり、我をこの地に祀らば堰の守護神となり、村民を始め、江戸町ことごとく安泰なり」
と告げたので、ここに水神を祀ったという。我が国最古の”神田上水”は徳川家康の命により、大久保主水が開いた。井の頭池からの流れを、目白台下の現大滝橋の辺りに堰(大洗堰)を築き、水位を上げて、上水を神田、日本橋方面に通じた。上水の恩恵にあずかった神田、日本橋方面の人達の参詣が多かったという。又、この辺りは、田園地帯で、清らかな神田上水が流れ、前には早稲田田んぼが広がり、後には目白台の椿山を控え、西には富士の姿も美しく眺められて、江戸時代には行楽地であった。≫
神田川沿いの”八重桜” 「水神社」鳥居と銀杏    「水神社」社
  
先週来た時には、染井吉野が丁度良かったのに、9日経つと染井吉野は完全に散ってしまい、今は”八重”が丁度いい。水神社に参拝して、今日は「関口芭蕉庵」に入ろうと思ったが、”震災の影響により、しばらくの間臨時休業”で入れず。残念だが次の機会に”関口芭蕉庵”については紹介したいと思います。
    「関口芭蕉庵」         ”シャクヤク”       ”ハナモモ”
   
 駒塚橋を渡り”新目白通り”を渡り、早稲田大学正門から伸びている”早大通り”に出ると、ここの道路沿いに咲く背の低い”ハナモモ”も終わりかけていたが、それでも中には丁度良い木も。満開の時に来ると凄く綺麗だ。正門前からバスに乗って高田馬場へ戻る。
風景印・1局。3時間10分。4,917歩の散歩でした。