郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

郵貯スタンプ・じい散歩

2010-01-30 13:58:35 | Weblog
 1月28日(木)の続き。
 方向が逆になってしまったので、Uターンして140号線を長瀞方面に荒川に沿って
走る。この対岸にも”ツツジ”の有名な場所もある。(長瀞局)から(長瀞駅前局)
の右前方に大きな石の鳥居が見える。車で鳥居を潜って進むと、正面に宝登山神社。
神社の手前を左折して坂を登り切ると広い駐車場があり、車を置いてまず山頂へ向かう
ロープウェイの乗り場(30分毎)に。丁度14時半発に乗ると、50人乗りに38人
乗って結構ギュウギュウ、5分で山頂(497m)。
 山頂駅を出ると直ぐ前に「蠟梅園」が有り、満開!。梅や桜が一杯咲いている所は全
国的に有るし、あっちこっちに見に行ったが、これだけの量(400株・2000本)
の”蠟梅”だけが咲いているのを見た事がなかったので、来て観て良かった。
蠟梅には3種類(和・素心・満月)有るらしく、梅の中まではなく、(ロウバイ科ロウ
バイ属)中国中部原産で、花がロウ細工の様に美しいという説、花弁の色が蜜蝋に似て
いるからという説があり、名前も表示もされている。
初めの坂道の斜面には、黄色い”福寿草”がパラパラと咲き、蠟梅園の下側には500
本弱の”梅林”の紅梅も花が見える様に。蠟梅の間の坂道を登って行くと、先にも蠟梅
園が有ったが、道を右の林の中にとると、【宝登山神社の”奥宮”】が見え参拝する。
≪この地は、今から1900年の昔、第十二代景行天皇の香子日本武尊(ヤマトタケルノミコト)
が、神霊を拝したところと伝えられます。
 日本武尊は東国平定の折、この山の神秘な雰囲気と美しい姿に心ひかれ、身を清め山
に分け入りました。しばらく進むと突然の炎に包まれ、危うい事態に陥りました。その
時何処からか大きな山犬達が現れ、荒れ狂う火を消し止め、尊を山頂に案内すると姿を
けしてしまいました。尊は山犬達が、山の神の「神使」=大口真神(オオクチマカミ)と悟られ、
山を「火止山」(ホドサン)と名づけ、秩父の山々が幾重にも連なる荘厳な眺めは、神を
祀るに相応しいところとされ、神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト=神武天皇)、大山祇神
(オオヤマツミノカミ)、火産霊神(ホムスヒノカミ)の三社をお祀りしました。
 「火土山」はその後、霊場として栄え、日本武尊が神霊を拝したこの地に奥宮を、麓
に本社を造営しました。弘仁年中(810~824)に宝珠が山上に飛翔する瑞祥から、神社
と山名を「宝登山」と定め今に至ります。≫     ここの狛犬は、山犬。
 もう一度蠟梅園に戻り、坂を下って行くと、”マンサク”が5・6本。同じ黄色い花
だが、こちらの方が蠟梅にも負けない位、香りが強い。
 山頂駅の両面からの景色は良く、天気も良かったので秩父の”武甲山”の砕石跡も良
く見え、【長瀞八景】の看板には、”桜と梅と宝登の山”とあり、桜も有名らしい。
 15時発のロープウェイで下り、駐車場とは反対側の急な坂を下りて行くと、根っこ
が張っていて、歩きにくかったが下りきったら正面に【宝登山】の山門が。
≪奥宮のせつめいばんには”約1900年前”と記されていたが、下に降りたら、11
0年創建され、今年で丁度1900年になる凄い神社だ。34段の階段を上り、中国神
話に登場する四神(青龍・白虎・朱雀・玄武)の彫刻の見える社殿に参拝。
 駐車場への急な坂道をフーフー言いながら登り、15時半発で、140号線に戻り、
(皆野局)から親鼻駅まで戻り、三沢入口交差点を右折し(三沢局)で15時56分。
再度140号線に戻り秩父方面に走った先の黒谷地区に【和銅鉱泉】の「和どう」とい
う旅館で”立ち寄り湯”(800円)を。4時過ぎだったので、一人だったが、外に横
瀬川を下に見る”露天風呂”もあり、ゆっくり入らせて貰った。熱すぎず、丁度良い温
度でジックリ汗が出てくる。室内に戻ると一人の湯客がおり、「お泊りですか?」と話
しかけてみた。大泉の方で、昨日と今日の二泊を奥様と楽しんでいる。今日は狼狽を見
てきた。年に何回かここに来ているんです」との話し。汗びっしょりで湯冷めしない様
に帰らないと。そのまま秩父に向い、元村さ来の「立花」という、市役所の真前にある
蕎麦屋で秩父そばを食べて帰ろうと思って走ったが、着いたら電気が付いておらず、駐
車場に入れたが「本日休業」。お腹ペコペコにして来たのに残念。
 気を持ち変えて、そのまま何時も走っている国道299号線で飯能へ。着いたのが6
時丁度で、3階の村さ来で角本さんと話をしながら食事。(アルコールなし)先日沿線
会で、八丈島へ一緒に行った加盟店の奥さんが急性の糖尿病で、病院に行った時点で、
片方の目の失明を宣告されたらしく、ビックリした。それぞれに歳をとってきているの
で、どこかしら悪くなるのも致し方がないが、個人店舗では”後継ぎ”がいない問題も
解決出来ない問題だ。1時間半話して、20時20分帰宅。
 9時間20分。郵貯9局。風景3局のドライブ散歩でした。
 

郵貯スタンプ・じい散歩

2010-01-28 23:04:06 | Weblog
 1月28日(木曜日)
 朝、息子より電話が有り、孫の保育園で”餅つき会”が有るので来る?
10時半に行ってみたら、外の公園でなく、室内でやっているし、お母さん達が一杯
来ているみたいなので、入らずに家に戻り、車で長瀞に”蠟梅”を見に行ってみる事
に。
 小金井街道から浦所街道で所沢ICから関越道に入り、花園ICを目指す。途中で少し
雨が落ちて来たが、直ぐに上がり、今日は温い。ナビでは花園まで1,500円と言
っていたが、ETCで下りたら、1,350円と一割引き。どの様な割引率になっている
のか見てみれば、もっとうまく使えるのかも。
 花園ICで下り、国道140号線で長瀞方面に向けて走りながら、途中の郵便局に寄
って行く。(花園局)から荒川を渡った(鉢形局)により、地区にある有名な【鉢型
城跡】へ。
≪鉢型城は、荒川に臨んだ絶崖上に位置し、南には深沢川が有って自然の要害をなし
ている。文明8年(1476)に長尾景春が築城し、その後上杉家の持城として栄えた。
室町期に至り、上杉家の家老であった藤田康邦が、北条氏康の三男氏邦を鉢形城主に
迎え入れ、小田原北条氏と提携して北武蔵から上野へかけての拠点としました。
 城跡は、西南旧折原村を大手口とし、東の旧鉢形村を搦め手としています。本丸・
二の丸・三の丸秩父曲輪、諏訪曲輪等があり、西南部には侍屋敷や城下町の名前が伝
えられてあり、寺院、神社があり、土塁、空掘が残っています。
 天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、前田利家、上杉景勝、本多忠勝、
真田安房守らに四方から攻撃され、三か月の戦いの後、落城しました。≫
 荒川の南岸の小高い丘の上にあり、「伝御殿曲輪」に登ってみた。殆ど人はおらず、
建物もトイレしかないが、雰囲気は伝わってくる。自分は時代小説が好きなので、色
々な本を読んでいるが、【鉢形城】は有名。車の通りを挟んで(社)寄居町シルバー
人材センターの建物や、「花木園」という施設が有り、入って見ると直ぐに、黄色の
蠟梅や、紅梅だけが目についた。狭い敷地の奥に谷になっており、下の方からは荒川
の支流の音が聞こえる。
 城跡の笹曲輪の角の正喜橋で荒川を渡り、寄居駅前を左折し、(寄居局)(寄居桜
沢局)から国道140号線に戻り、(寄居末野局)で、ゴム印に”日本名水・日本水
(ヤマトミズ)”と書かれていたので、局の方に聞いてみたら荒川の川向こうの釜伏山の
中腹にある【名水百選・風布川日本水】の事らしいが、結構歩かなければならなそう
なので、やめとこう。
 今1時になる所なので、ここまで、郵貯5局。風景1局。続きは明日に廻します。

郵貯スタンプ・じい散歩

2010-01-26 23:34:50 | Weblog
 1月26日(火曜日)
 今日も温かい日和りになり、午前中、風景印の資料作りをしていたので家を出るのが
遅れ、馬場の信金に寄ってから、地下鉄東西線で西船橋下車。
 京成本線の京成船橋駅まで歩いて7分。何時も思うが、ここが”船橋”という名の付
く駅か?”と思ってしまう様な雰囲気の駅。
 海神・京成船橋と来て次の高架「大神宮下駅」に着いたのが13時57分。
改札を出て、左を見ると「船橋大神宮」の鳥居が見え、鳥居前を右折して(船橋宮本局)
鳥居から大神宮に入ったら、境内で船橋市消防局の主催で地元の方々を対象に消防訓練
をしており、お母さん方が消火器を使っていた。雰囲気の良い【船橋大神宮】に参拝。
≪景行天皇四十年、皇子日本武尊が東国御平定の折、当地にて平定成就と干天に苦しん
でいた住民のために天照大神を祀り祈願された処、御神徳の顕現がありました。これが
当宮の創始であります。同五十三年、天皇御自身が御東行、武尊の御功績を御追憾なさ
れ、「意富比神社」の称号を賜りました。平安時代、延長五年(927)に編纂が完成した
『延喜式』にも当宮が記載されており、式内社としての歴史を知ることができます。
御冷泉天皇の御世、天喜年間(1053~58)には、源頼義・義家おやこが当宮を修造し、
近衛天皇の御世、仁平年間(1151~54)には、船橋六郷の地に御寄付の院宣を賜り、源
義朝が之を奉じて当宮を再建し、その文書には「船橋伊勢大神宮」とあります。
 鎌倉時代、日蓮聖人(1222~82)は宗旨の興隆発展成就の断食祈願を当宮にて修め、
曼荼羅本尊と剣を奉納されました。
 江戸開府の頃、徳川家康公(1546~1616)は当宮に社領を寄進、奉行をして本殿・末
社等を造営し、以来江戸時代を通して五十石が幕府から献納され幕末に至りました。
 近代に入り、明治天皇陛下(1852~1912)には習志野・三里塚へ行幸の都度、勅使を
以って幣料を御奉納遊ばされました≫
 した後、社殿横に、全員赤い帽子を被った小学生の団体が集まっていたので行ってみ
たら、今まで見た事のない燈台の和風建物が丘の上に建っており、小学生がクラス毎に
中に入っていた。【浅間山灯明台】(写真添付)と呼ばれ、木造瓦葺の灯明台は三階建
てで、高さ12m程あり、三階の灯室は、洋風の灯台の様式を採りいれた六角形で、ひ
ときわ目を惹きます。明治13年(1880)、地元の漁業関係者らによって建設された≫
 初めて見た燈台なので、嬉しくなって写真を撮った。ここでは、【奉納相撲】も有名
で、”神楽”や”お酉さま”も催される。
 大神宮を横に下り、「大神宮下」交差点を渡り、先程乗って来た京成線の高架を潜り、
海老川の手前を川に沿って海方面に歩くと、”海老川橋””八千代橋””船橋橋”等に
それぞれのオブジェが飾られ、”碑文”まで添えられているのには感心した。
 舟橋港の最奥になる新船橋を渡り、右に狭い港を見ながら歩き、海老川水門の所で左
折。右にららぽーとの駐車場が見え、その手前に和風の建物が見える。(船橋浜町局)
へ寄ってから、住民の方にお聞きしたら、”「船橋ヘルスセンター」の時からあり、「
三井ガーデンホテル」建築時に、建物ごと今の場所に移動したらしい”との話しで、駐
車場に入って、和風の建物の横にある【正一位伏見稲荷】に参拝し、建物の周りを歩い
たが、何も書いてないので、隣の「三井ガーデンホテル」のフロントに聞きに行ったら、
「ホテルの持ち物ではないのですが、”喜翁閣”という大倉喜八郎さんという方の別荘
だった建物」という答え。大倉さんという方がどんな方かは分からなかった。
 久し振りに”ららぽーと”に入り、平日で空いている店の中を歩いたら「マザー牧場」
という看板が見えたので、ソフトクリームを買って食べながら歩く。
 外に出て、エスカレーターを上がり、東関東自動車道を潜り、IKEA船橋前に出て、廻
り込んでIKEAの前を歩いて行き、郵便局へ行こうと思ったら長いフェンスが有り、途中
に切れ目が有ると思っていたが、一切ない。通行人に聞いたら「元に戻らないと出れま
せん」と言われ、グルッと戻って(船橋若松局)へ。こちら側の若松二丁目団地と区別
しようと、新しく出来た”ワンダーベイシティサザン”という高僧マンション群側が設
置したらしい。”嫌らしい感じ”がする。
 京葉線の南舟橋駅の線路沿いに歩き、東関東自動車道を潜り、枯れ葦ばかりの”谷津
干潟”を右に見ながら、谷津住宅の手前を”谷津干潟公園”へ右折して遊歩道を歩く。
右側は水辺と葦ばかり、遊歩道の外側に板で作られた通路が有り、次回にはそこを歩い
てみても良い。芝生広場から道なりに歩くと、左側に「谷津バラ園」が。ここが昔、小
学校の時に遠足できた【谷津遊園】。干潟の場所辺りで”汐干刈り”をした事を。
 京葉道路の下を潜り、千葉街道から津田沼方面に行く通りにある(習志野谷津局)へ。
局印の前には”バラの花のマーク”がついていた。ここで16時になったので、後は津
田沼駅まで1kmちょっとなので歩く、途中の道路両脇は開発地区になっているみたい
で、これからもっと住宅が立ち並ぶのではないかと思う。
 ”ユザワヤ”の所から、津田沼駅に入ったら、こちらの南口は十年以上来ていないの
で、昔無かった駅前に”丘”(津田沼公園)まで造られており、駅に入る歩道橋の上で
暫く眺めてしまった。北口に出たら、形は全く変わっていないので安心できた。
 2時間30分。郵貯4局。12,182歩の散歩。

その後、事前に連絡しておいた村さ来津田沼店を訪問。立花オーナー(他二人)と会っ
て話す。かなり厳しい状況を感じるが、高田馬場と同じ様に「東方見聞録」「金の蔵」
「土風炉」「千年の宴」「笑笑」などが”270円”という均一価格で値下げ戦争に走
っているので、内の店でさえ影響を受けているのだから、村さ来はもっときついのでは。

郵貯スタンプ・じい散歩

2010-01-25 10:51:37 | Weblog
 1月24日(日曜日)
 今日は17時から川越の橋本氏の店(川越第一ホテル内「光太夫」)にて”おじさん
の会”の新年会が有り、15時に家を出て、西武新宿線で34分。本川越駅に。
 川越は亡くなった妻と年に一回は来ていたので、歩きまわっており、郵貯では全て終
了しているが、新たに始めた風景印の方は、まだどこも廻っていないのでまた別の日に
来る事にして、今回は歩いた事のない、【大正浪漫夢通り】という通りを歩いてみた。
 本川越駅を下りて、”蔵造りの家並”の方へ行く中央通りを歩くと、「中央通りが
20mに広がります」との看板表示が西武バスの土地に建てられていた。”川越祭り”
の時など、歩くのに大変で、車椅子だったので動けずに大変な思いをした事を思いだす
が、広くなっても同じ事かも。
 連雀町の交差点を右折し直ぐ左折した通りが連雀町繁栄会。別名が【大正浪漫夢通り】
何時からその様な名前になったのか知らないが、石畳が敷かれた奇麗で余裕のある通り
だと思っていたが、車が通っている。
 通りを曲がって左に鳥居が見え、【熊野神社】が。参道の両側には”足踏み健康ロー
ド”(靴を脱いでお歩き下さい)と記されていたが、神社の参道にこの様な物があるの
は初めて見た。境内には熊野神社の他に大鷲神社・秋葉神社・厳島神社・加祐稲荷神社
の他に、川越銭洗弁財天で、お金を洗う場所がある。全く知らなかったので今度。
 最初の内は、”どこが大正浪漫なのか?”と思いながら歩いたが、大野屋辺りから、
雰囲気のある建物が見えてきた。看板が右から書かれている教科書販売の”吉田謙受堂”
”シマノコーヒー大正館”和菓子の”いせや”川越市指定文化財・加藤家を店にした
”小江戸手打ちそば・れんじゃく”右から看板の衣料品店”伊勢亀本店””うなぎ小川
菊””酒販店”伊勢源”等が通りの左側に並び、通りの出口右には、昭和2年武州銀行
として建てられた”川越商工会議所”が建っている。今一”大正浪漫”というにはおか
しいと思うが、雰囲気のある建物が有り、”蔵造りの家並”への対抗心として考えれば
マ・イイカ。次回ゆっくり来て”シマノコーヒー”でコーヒーを飲んだり、”小川菊”
でウナギでも食べてみようと思う。商店と商店の間に植わっていた、葉の付いていない
”やまぶき”の細い枝が、茶色に混じって緑色の枝が多く見られる様になった。
 通りをそのまま戻り、川越駅の方に、川越一番の商店街(歩行者専用)を歩く。日曜
日の5時前だからかも知れないが、人通りが多く、活気が有り、自分が見た中では店に
お客が入っていないのは表のガラス戸を閉め切っていた「バイク高価購入」の店と「自
転車屋」位で、これだけ多くの商店が連なっているのは東京でもないのでは。
 1時間。5,223歩の散歩。

郵貯スタンプ・じい散歩

2010-01-24 11:20:17 | Weblog
 1月21日(木)
 今日は、息子夫婦にお母さんを連れて浅草橋の人形店に行って来た。
15時過ぎに息子の家族と別れ、風景印で歩く。「久月」の横の駐車場から隅田川方面
に歩くと、護岸にぶつかり、地図に【文具資料館】という表示が有ったので探してみる。
総武線を潜って直ぐの所の筈だが見当たらず、少し先まで歩いてみたがもう一度線路際
まで戻って”角のビル何だが”と良く見たら、東京文具販売健保会館の前の小さな石碑
に【文具資料館】の表示が有ったが、見た目には分かり難い。
 ビルに入って受付で記名し、若い受付の女性からパンフレットと”みどころ案内”と
書かれた、手書きの紙を渡され、資料質に入った途端、狭い資料館に一杯の商品が並ん
でいるのにビックリ。”みどころ案内”を手に廻ってみた。徳川家康や伊達正宗の鉛筆
や、手回し計算機の所では、昔勤務していた「文祥堂」で扱っていた”マーチャント”
が有ったり、金銭出納機のコーナーには、自分が扱っていた”SWEDA46型”(西友や
ダイエー等の全店に納入していた)が有ったのには感激した。≪筆記具の歴史≫が壁に
貼られていたので書いてみる。
≪筆記具の歴史は今からおよそ60万年前といわれる旧石器時代に始まる。旧石器時代
になると人類は火や道具を使う様になり、不完全ながらある種の言語を持った。
今から5万年ほど前の旧石器時代の後期になると、道具は使用目的によって様々な形に
分化し、筆記専用の道具も出現した。筆記が現在の様に人々の意志や思考の記録の伝達
手段として使われるようになるのは、今から8千年前頃で、メソポタミヤのニップール
で発見された瓦版は粘土製でスタイラスと呼ばれる骨や角で作られた棒状の筆記具で、
キズをつけて文字や記号の記録に用いた。またこのスタイラスは現在の棒状筆記具の原
型といわれるものである。一方エジプトではB・C・2500年頃にパピルスという一種
の紙が出現した。パピルスはナイル河岸に自生しているPAPYRUSという莎草科の草で、
皮の部分をはぎ分け、よく洗滌して敷き並べて乾燥させ、表面を石で磨いて紙状に加工
したものである。それに葦の茎、羽根で作ったペンや先端をくだいた毛筆状の筆記具に
カーボン系のインクや墨を使って文字が書かれた。
 続いて”近代筆記具の登場”として①鉛筆②万年筆③シャープペンシル④ボールペン
等についての説明文が付いていたが、鉛筆の項に
≪1795年にフランコのコンテが黒鉛に粘土を混ぜて高温で焼き固める方法を開発し
た≫と書かれていたが、先程書いた徳川家康・伊達正宗の使用した鉛筆となると、時代
が合わないのではないかと思うが・・・・・?。
 今から約30年前まで扱っていた商品が見れるなんて、一見の価値が有ると思うが、
もう少し広い所で、集めればもっと集まるのではないかと思うし、もったいない。もっ
とPRすべきだと思うが如何でしょうか。
 資料館を出ると、同じ敷地に小さな【火伏神・石塚稲荷神社】が有り、入口の門柱に
左・柳橋料亭組合。右・柳橋ゲイコ組合(文字が出てこない)の表示が。
≪1月13日に来た時に”柳橋”については書いたが、この辺りは江戸中期頃から”花
街”として人によく知られ、橋の畔には船宿が並んで賑わっていた。元禄11年(1698)
に初めて架けられた当時は、”川口出口之橋”(カワグチデグチノハシ)と呼ばれていたが、
橋の畔に柳が植えられていた事から、何時しか”柳橋”と呼ばれる様になった。≫
 総武線の線路を潜り戻って、護岸の所から【隅田川テラス】(写真添付)に出てみた
ら、ほぼ正面に初場所中の国技館の緑色の大屋根が見え、右前方には途中まで出来上が
った【東京スカイツリー】も見える。川と反対側は白壁になっており、白壁には徳川家
が江戸入府時に、隅田川の護岸工事を請け負った前田利長や伊達正宗・本多忠勝などの
”家紋”があり、テラスには安藤広重が描いた【名所江戸百景】(両国回向院先柳橋・
両国橋大川ばた・鎧の渡し小網町など)の浮世絵が陶板焼きに、制作年月を入れられて
展示されている。浅草吾妻橋からの水上バスもゆっくり下って行った。
 蔵前橋の手前で一度テラスが切れ(工事中)、階段を登って橋西詰めに上がると、
【首尾の松】の石碑が。≪この碑から約100m川下に当る浅草御蔵の四番堀と五番堀
の間の隅田川岸に枝が川面にさしかかる様に枝垂れていた【首尾の松】が有った。その
由来の一つに。寛永年間(1624~43)に隅田川が氾濫した時、三代将軍家光の面前で、
謹慎中の阿部豊後守忠秋が列中に伍している中から進み出て、人馬もろとも勇躍して川
中に飛び入り、見事対岸に渡りつき、家光がこれを賞して勘気を解いたので、かたわら
に有った松を【首尾の松】と称した。≫
 【蔵前橋】≪幕府の御米蔵がこの地に有った事に由来しているが、蔵前はの地は札差
達、江戸商人発展の地であり、粋や通のあふれて土地柄となってきた≫とあるが、自分
としては、今の国技館に移る前の”相撲”がこの地の”蔵前国技館”で行われていた事
を思い出す。(くらまえばし局)
 蔵前通りを、蔵前1の交差点で渡ると、【天文台跡】の碑が有る。
≪この地より西側通りを一本隔てた区画(浅草橋3丁目21~24番地の全域及び19・
25・26番地の一部)には江戸時代後期に幕府は天文・歴術・測量・地誌編纂・洋書
翻訳などを行う施設として”天文台”が置かれた。天文台は司天台、浅草天文台などと
呼ばれ、天明2年(1782)牛込藁店(ワラダナ)(現新宿区袋町)から移転、新築された。
正式の名を「頒暦所御用屋敷」という。その名の通り本来は、暦を作る役所「天文方」
の施設であり、正確な暦を作る為にも観測を行う天文台が必要で有った。その規模は、
「天文台記」という資料によると、周囲約93.6m、高さ9.3mの築山の上に、約
5,5m四方の天文台が築かれ、43段の石段が有った。又、別の資料「寛政暦書」で
は、石段は二か所に設けられ、各50段有り、築山の高さは9mだったという≫
 大分暗くなってきた中(鳥越神社前局)から蔵前通りを渡り、一本裏側の「おかず横
丁」に入ってみた。5時に近いので、買いものは終わってしまったのか、殆どお客の姿
は見れないが、横丁に入った右に、入口ガラス戸には「望月米店」と書かれているのに、
中を見ると陶器(徳利とお猪口が首)が並んでおり、中にある看板に「工芸望月」と。
右から書かれた看板の「大佐和茶舗」や、緑青の吹いた家など、面白い通りだ。
 5時には10分位あったので、もう一軒、清洲橋通りの三井記念病院傍の(浅草橋局)
へ。その風景印が、浅草橋駅近くの【銀杏岡八幡神社】という事で、秋葉原に出るつも
りだったのを変更して有名らしい”大銀杏”を探して見に行く。葉が落ちているし、そ
れ程の銀杏ではない。
 2時間10分。風景印3局。5,583歩の散歩でした。

 

の護岸工事を

郵貯スタンプ・じい散歩

2010-01-21 22:54:15 | Weblog
 1月18日(月曜日)
 風景印は作っている区と本局以外は作っていない区がはっきりしているが、今日は
区内の全局が風景印を作っている豊島区を廻って見る。
 近くに別々の風景を設置する事が出来ないので、同じ風景を配置を変えて印にして
いるのが多い。
 西武池袋線の東久留米駅から地下鉄副都心線乗り入れ”渋谷行き”に乗り、練馬か
ら有楽町線に入り、”小竹向原駅”で各駅停車に乗り換え「千川駅」下車。階段を上
がり、3番出口から外に出ると、池袋西口からの”要町通り”に出る。【千早局】の
印が近くにある”親水公園”というので、歩く途中でも有るので見に行ったが、他の
地区の親水公園より悪いが貧弱に見えたが、中に【庚申塔】があり、1680年から
1711年にかけての石像が三体、祀られている。そこに
 「賽銭を盗む心に馬鹿(ウマシカ)の皮太鼓に張られて○に叩かれどんどこどん底」
の短冊が。他にも 「有って無く、無くて有る、信佛は我欲を捨てし心にぞ見ゆ」と。
 千早高・明豊中の前を通り、【長崎六局】の先では路肩とカラータイル工事中。
西武池袋線の線路を渡り、目白通りに出る手前を左折して”南長崎・光和通り商店会”
に入って【南長崎六局】(長崎という名の付く局の風景印は椎名町駅傍の”長崎神社
の獅子舞”だそうだ。【南長崎局】の前の岩崎家(4-23-21)という古い長屋風の建
物が目を引く。局の方の話だと、「区の文化財にはなっているらしい」との事。
 持参の地図の西武池袋線・東長崎駅に行く通りに「コンコン通り」という名が見え
るので通ってみたら、【正一位稲荷大明神・五郎久保稲荷神社】が。
≪全国でも少ない”北向”の稲荷神社で「北向稲荷」とも呼ばれ。稲荷神社は古来よ
り、五穀豊穣・福の神として信仰されていますが、当神社は特に火災災害等の厄除け
の神社としてご利益が有ると伝えられ、境内の手水鉢に天保六年(1835)二月の銘が。
当時この地域は武蔵国豊島郡長崎村字五郎久保といわれ、名称もこの地名による。
 長崎銀座通り商店街に入ったが、こんな細い道なのに車が通る。商店街の為にも考
えた方が良いと思う。東長崎駅に突き当り右折。線路を越えて【長崎局】から長崎商
和会を歩き(この辺りは殆ど一方通行)長崎2の交差点を左折したら、(千早2-5-6)
の庭にある梅の木に赤くなって、今にも開きそうな”蕾”が一杯(今年初)。その少
し手前の家の”銭の成る木”に小さな花が一杯咲いていたり、アロエの朱色の花が咲
いていたり、冬の真っ最中だが季節を感じる物があっちこっちに有るのは、歩いてい
て楽しい。【千早局】から”要町通り”の【要町一局】から椎名町駅方面に戻り、【
長崎一局】の後に、風景印の風景にされている”長崎神社”(写真添付)へ。
≪櫛名田比売命(クシナダヒメノミコト)を祀り、武州豊島郡長崎村の鎮守として信仰を集め、
江戸中期には十羅刹女社(ジュウラセツニョシャ)とも称せられ、境内に享保十八年(1733)に
奉納された。「十羅刹女」と刻まれた手水鉢が残されている。その後、明治五年(18
72)には村社と定められ、同七年、須佐之男命(スサノウノミコト)を合祀して長崎神社と改
称し、現在に。尚、元禄年間(1688~1704)に始まると伝えられる”獅子舞い”は、
五穀豊穣と悪病退散を願って江戸時代から長崎村の人達により伝承されてきた区内唯
一の民族芸能として平成四年に豊島区民族文化財に指定され、毎年五月の第二日曜日
の祭礼では氏子会や獅子連を中心とする地元住民により”獅子舞い”が盛大に奉納さ
れる。≫参拝してから鳥居を逆に出て左折すると、金剛院の前に小さな【長崎不動尊】
≪御本尊に不動明王、脇仏には明王を護る従者である”セイタカ”と”コンガラ”の
二体をお祀りしています。不動明王が剣や索・火焔を備えて怒りの強い形相を示され
ているのは、煩悩を滅して私達を救い、降魔(ワザワイ)を払うため。
 拝む時の”真言”は、
  不動明王:「のうまくさまんだばざらだんかん」
  地蔵尊 :「おんかかかびさんまえいそわか」
  観音菩薩:「おんあろりきゃそわか」
 椎名町駅ではなく、”山手通り(環状六号線)を潜り、工事中の「妙法湯」の先の
「フレッシュおおたや」という米屋の店頭に見慣れない野菜が置いてあるので聞いて
みたら、「ブロッコリーとカリフラワーを掛け合わせた『ユーロスター』というヨー
ロッパの野菜で、一昨年から練馬の甥が栽培していて、今届けに来たばかり」との事。
一個が重たいが、我慢して二個買ってしまった。(最後まで持ち歩いていたので、重
かった)御夫婦でイタリアに行かれた時によく見て、食べても来たらしく、茹で方も
教わった。
 緑道を歩いて、立教通りの霜田橋交差点に出、【立教学院内局】から【西池袋局】
により、東京芸術劇場に突き当り、西口公園の横を通って池袋駅西口に。
 4時間。風景印10局。13,597歩。


郵貯スタンプ・じい散歩

2010-01-19 11:01:07 | Weblog
 1月15日(金)
今日は、早稲田馬場下に有る「放生寺」へ【一陽来福】のお札を返しに。高田馬場か
らいつもの様に歩いてみるが、ウェンディーズもシャッターが下りており、早稲田通
りもかなりの入れ替え店舗も多く、何回か買い物をした「マカラズヤ」という鞄屋も
改装中と思っていたら、”龍生堂薬局”になるそうだ。
 明治通りとの交差点近くには”麺”のお店が多く有るが、今日は”ちゃんぽん”の
店が目に付いた。高校の卒業式の日に、亡くなった葛城を含めた同級生5人と6人で
九州一周旅行をした時に、最初に長崎で食べた”ちゃんぽん”は”あんかけ”で美味
しかったのを覚えており、その後仕事で訪問した時に食べたのは”あんかけ”は一度
もなく、不思議に思っていたのが、「ちゃんぽん太郎」の看板には”あんかけ”の文
字が見え、そのうち食べてみようと思いだした。
 古本屋街を抜けて「ピカソ」という雑貨屋が有り、ドンキホーテプロデューズの店
で、店でも時々買い物をしている店の前を通り、西早稲田交差点を渡って早稲田大学
への路地を入り、裏口から構内に入り、8号館前には「大学入試センター試験保護者
・受験生控え室」(16・17日で終了)の立看板が掛かり、建物前には、早稲田大
学の前身、東京専門学校の創立者で初代総長の【大隈重信銅像】が”デーん”と立っ
ている。その前に、座り込んで何かしている学生を囲んで何人かの学生(友人)が居
たので覗いてみたら、[世界一周雑貨バイヤー』(靴みがき、ただでします」の看板
を置いて、皮を磨いていた。「靴や鞄を磨きますが如何ですか?」と回りの友達から
声を掛けられたが、靴も鞄も皮ではなかったのが残念。
 裏口から入り、余裕のない敷地を正門から出る事になったが、正門手前の植え込み
に、「早稲田大学校歌」の碑を発見。正門向かいに【大隈講堂】が有り、大隈会館と
の間に【大隈庭園】が有るのが分かり、入ってみたが「三月まではお休みです。四月
からは入れます」との事で、外から見ただけで、大隈ガーデンハウスを抜けて裏通り
から”早大通”を渡った【早稲田大学前局】から【新宿馬場下局】を風景印で廻り、
両局共、早稲田大学と穴八幡。
 穴八幡宮の前の交差点を渡り、穴八幡の裏側に有る【放生寺】へ。屋台もなく、参
境者の殆どいない境内に登り、お札を返してから、久し振りに【穴八幡宮】に。
 山門脇の交番横に【早稲田ミョウガ】と【流鏑馬】の表示看板が。
≪江戸時代、早稲田村はミョウガの産地としてその名を知られ、周辺の農家の人達は
豊作祈願に当社を訪れていた。当神社の北を流れる神田川流域にはかつて水田が拓け、
又、神田川へのなだらかな北斜面には昔からミョウガが自生していた。自分の生まれ
育った大塚の最寄駅は「茗荷谷駅」で、地域的には神田川で繋がっているのだろう≫
≪享保13年(1728)徳川将軍・吉宗が世嗣の疱瘡平癒祈願の為、穴八幡神社へ奉納
した流鏑馬を起源として、以来将軍家の厄除けや若君誕生の祝いに、高田馬場で流鏑
馬が奉納された。明治維新以降中断し、昭和9年に皇太子(現天皇)誕生祝いの為に
再興され数回行われたが、戦争の為中断、昭和39年、流鏑馬の古式を保存する為、
水稲荷神社境内で復活し、昭和54年からは、都立戸山公園内に会場を移し、毎年
10月10日”高田馬場流鏑馬保存会”により公開されている。(小笠原流)≫
 何年振りかで新しくなった階段を登り、2月3日の節分までは出ている屋台の間を
抜けて本殿に参拝する。明治通りまで戻って、去年まで季節限定でメーカー協賛を受
けて物凄い人数が並んでいた「太麺堂」に5時前で3人の方が並んでいた。
 2時間。風景2局。6、027歩。


郵貯スタンプ・じい散歩

2010-01-17 21:13:40 | Weblog
 1月13日(水)に戻って。
 午後から池袋の税理士事務所に書類を持参した後、地下鉄丸ノ内線でお茶の水駅で下り、
階段を上がって、東京医科歯科大学付属病院の真下で、湯島聖堂から万世橋に向かう「相
生坂」に出た左にある【お茶の水局】に入って風景印を貰いに寄ったら、局内に”伝統と
最先端がまじわる躍動する街”「湯島本郷百景」のポスターが。地元出身のイラストレー
ター上野啓太という方が書いた作品で、ポストカードになっている。自分で選べるらしい
が(5枚一組)を2セット買ってみた。
 お茶の水駅から総武線で浅草橋駅に。東口の江戸通りにある人形屋さんの【雛人形】を
見て廻った。
≪三月三日のひなまつりは、別名を桃の節句、又は上巳(ジョウシ)(じょううみとも)の
節句と言います。(上巳とは三月最初の巳の日の事ですが、後に三月三日に定着した)。
節句は本来「節供」と書き表し、季節の変わり目に神に供物を捧げて身の安泰を祈る日で
した。これは古代中国から伝わった風習ですが、日本ではこの日、草木や紙でひとがた
(形代)を作り、身の災厄をこれに移して水に流しました。今も各地で行われる流しびな
はその風習の名残でしょう。又、これが三月三日に固定したのは、奇数の月と日が重なる
と、より強い神のご加護が得られるという”重日(チョウジツ)思想”によるものです(五
月五日の端午の節句、九月九日の重陽の節句なども、この考えからうまれました)。
さて、「雛」は「ひひな(ひいな)」とも呼ばれ、もともと「小さな人形」も事でした。
平安時代、貴族の女児の間にこの人形で遊ぶ「ひひな遊び」がありましたが、こうした遊
びと上巳の節句とが長い間に混じり合って、後の”ひなまつり”が形作られた。≫
 店内(久月・写真添付)に入ると従業員の方が説明に寄ってきてくれるが、「一人で見
させてください」と断ると、ゆっくり見て回れる。聞きたい時には声を掛ければ直ぐに教
えてもらえるので聞いてみた。
”京雛””十番”とか”九番”とかの表示が有るが、稚児の大きさで、一番小さいのが”
十番”だそうで、数字が小さくなると大きくなるそうだ。それと、雛人形の前に、「・・作」と記載されているが、それは【着付け師】の名前で呼ばれ、結構若い方が多いのにビ
ックリ。因みに、”木目込み人形”は顔も全て人形師が描いたり、髪の毛を埋め込んだり
するので、【頭師】と呼ぶらしい。
 人形店から出ると、裏通りにある”人形問屋”の方がサービス券を配りながら客引きを
していたので入ってみたが・・・。
 江戸通りを総武線の線路を潜り、神田川に架かる浅草橋を渡った左に、【両国郵便局】。
風景印に”柳橋”が出ていたので、地図で確認すると隅田川側に架かった橋なので見に行
ってみた。局を出て直ぐのビルの二階に【初音森稲荷神社】
≪元弘年間(1330年頃)に創祀され、文明年間に太田道灌により大社殿が建てられたとい
われる神社だが、今は一本の木もない。≫(ポストカードを頂いて来た)
 両国橋の手前を左折すると、神田川に架かる【柳橋】が
≪神田川が隅田川に流入する河口部に位置する第一橋梁で、その起源は江戸時代の中頃で、
当時は、下柳原同朋町(中央区)と対岸の下平右衛門町(台東区)とは渡船で往き来して
いましたが、不便なので元禄十年(1697)に南町奉行所の架橋を願い出て許可され、翌
十一年に完成。その頃の柳橋辺りは隅田川の船遊び客の船宿が多く、”柳橋川へ蒲団をほ
うり込み”と川柳に見られる様な賑わい振りでした。明治二十年(1887)に鋼鉄橋になり、
その柳橋は大正二年(1923)の関東大震災で落ちてしまい、復興局は支流河口部の第一橋
梁には船頭の帰港のの便を考えて各々デザインをを変化させる工夫をしています。柳橋は
ドイツのライン河の橋を参考にした永代橋のデザインを取り入れ、昭和四年(1929)に完
成した。≫
 その下の神田川には釣船・屋形船などがもやっており、橋袂の佃煮屋「小松屋」で”一
口あなご”と”生海苔”を買って帰る。
1時間40分。風景印2局。2、207歩。

郵貯スタンプ・じい散歩

2010-01-15 09:28:20 | Weblog
  1月14日(木) デイズニーランドへ行って来ました。
 三男の長男出産の為に、嫁のお母さんが中国(大連)から昨年9月に来日され、年末
にはお兄さんと甥っ子が日本で働いている奥さん(嫁の友人で内の店も手伝ってくれて
いた)を訪ねて来日しており、17日に帰国(お母さんは3月)するので、今度上海に
も出来るらしいが遠いので”皆で行ってみよう”となり、現地集合で家を出ました。  
 8時半前に家を出て、新青梅街道から四面道で環八に入り、高井戸ICから首都高速道、
箱崎から湾岸道に入って葛西ICで下車。廻り込むと「東京デイズニーランド」に。ひど
渋滞に巻き込まれる様な事はなかったが、2時間半近く掛かった。
 前回迄は、”カミサン”が一緒だったので車椅子駐車場に廻っていましたが、初めて
立体駐車場に。平日と早い時間もあったのか、並んで入って行くと、駐車線が斜めにな
っており、先の車から順に”斜め駐車”。それがまた見事にスムーズに行われていくの
に感激した。
 2階の駐車場から間違えてエスカレーターで4階まで上がってしまい”行き止り”で、
慌てて1階に戻り入場ゲートに。
 入った途端に”三匹の子豚”がいて、そこからスナップが始まる。ミッキーも居たが、
一緒に写真を撮るのには並ばなければならず、最後尾に着こうと思ったが、プラカード
に”締切”。ワールドバザールの右側にミッキーとミニーの大きな縫いぐるみがショー
ケースの中に展示されていたので、孫をそこに立たせてシャッターを。
 孫は以前に買ったポップコーンの入れ物を首から大事にぶら下げて来ているので、ワ
ールドバザールを出て直ぐに、息子が先ず買いに走る。自分はトイレに行って出て来た
ら、植込みの中に何か白い物が見えたのでなんだろうと覗いたら、スズメがポップコー
ンを嘴で咥えてきて、仲間がいない場所でゆっくり食べていた。
 トウーンタウンでお兄ちゃんの家族と合流(写真添付)し、息子は今年の9月から日
本の小学一年生になるので、内の娘とは乗りたい物が違うのと、お兄さんも乗り物が好
きだそうで、一緒の乗り物では満足できないので、途中で又別行動。正月前に一度会い、
正月に会っただけで、言葉も殆ど通じないのに、仲好く手を繋いで飛び回っている。気
持ちは通じるのかも。寒いけれども天気が良いので楽しそう。遊び場の床部分がコンク
リートでなく、幼児が頭から転んでも怪我をしない様な柔らかい材質の物になっている
のは”流石”と。
 3か月半の長男も連れて来ているので、誰かが留守番をしながら、”アリスのテイー
パーティーに皆で乗り、”キャッスルカルーセル(メリーゴーランド)・空飛ぶダンボ。
 午後も2時に近くなり、ファンタジーランドの”バンケットホール”に入り食事を。
時間をずらした事もあり、苦労無く座れ、2人で4人分のトレイを持とうと思っていた
ら、スタッフの女性が「お運びしますヨ」と、手伝って運んでくれた。(味は・・・)
”お子様ランチ”を頼んでいたのに、お子様用のホークとナイフを用意してくれなかっ
たのは、チョッと残念。(ファミレスでも直ぐに用意してくれるのに)
 勇気を出して”スプラッシュ・マウンテン”に行ってみたら「今日はお休み」ホッと
して、並んでいる人を見ながら”カヌー探検”の方に歩いて行くと、先程から並んでい
るのは、”ミニー”との写真を撮れる順番だった。幼児や子供ではなく、いい大人達ば
かり。”何で?”とは思ったが、これが目的の人も多いのだろう。
 ”蒸気船マークトウェイン号”の一番上の先頭に乗り、”ウエスタンリバー鉄道”に
乗ると、蒸気船の外側を走っているので、景色は同じ。下りて来て、入口前に有る木の
枝に、丸々太ったスズメが何匹も。近寄っても逃げない。全体に施設内にいる”スズメ”
は、ポップコーンを食べているので、”メタボ”だがすばしっこく、逃げない。一寸の
スペースでも寄って来る。意外にハトは少なく感じる。
 車椅子だった”カミサン”も乗れた”イッツ・ア・スモールワールド”に皆で乗ろう
となって行ってみたら、ここも”お休み”だった。
 ”ビッグサンダー・マウンテン”や”プーさんのハニーハント”等は、入場直ぐに、
「ディズニー・ファストパス」というシステムが有り、時間予約をしてから、他の乗り
物で遊んでから、その時間に行けば並ばずに乗れるらしいので、有効に使ったら良い。
 季節がら、4時を過ぎると、風も冷たくなり、帰宅する人も多くなってくるが、お兄
ちゃんの家族が、乗り物に夢中で、昼食をキチンととっていないと聞き、コカ・コーラ
の”トゥモローランド・テラス”でハンバーガーと飲み物を。赤ちゃんのオムツを替え
たりするにもスペースに余裕が有るので良かった。
 食事を終え、出てきたら、外は真っ暗な中に色々なイルミネーションがきれい。孫達
は、帰る事など考えてもいない様に、暗い中で走り廻っていた。
 バザールで買い物をして別れる時に、三日後に帰る甥っ子は凄く寂しそうに感じた。
郵貯は無く。殆ど他では歩いていないので、家に帰ったら、10,983歩だった。

郵貯スタンプ・じい散歩

2010-01-13 23:08:52 | Weblog
1月13日(水)
 昨日まで3日間、家を出ずに郵便局の資料整理をしていました。
 東京都では八丈島以外の島を覗き町田市で一局だけ残っているだけで、段々
行ける局が少なくなっているので、今年は地方を中心に動かなければならず、
資料を整理し、全国の確定数字を再度出そうとやっていました。
 一昨年逓信博物館で購入した「全国郵便局名録2008」を元に、関東地区
だけ”市区町村毎に詳細数字”を出していましたが、今回は全国版で作ってみ
ました。後日お知らせ致します。(去年の実数も合わせて)
 その間の9日(土)に年初から鼻がムズムズしていたので”そろそろ”と思
い、ここ何年、毎年通っていたクリニックに20分(バス停で4つ目)、歩い
て行ったが、医院の前まで来たら、患者さんが外まで溢れており、そのまま帰
って来て、残っていた去年の薬を飲んで取りあえずしのいだ。
 昨日、昼前に初雪が降って来た物凄く寒い午後からの診察に再度歩いて行っ
て来ました。歩いている人もいない中、完全防寒して歩いていても、出ている
顔の部分が痛くなるほど寒く、流石に今日は平日の事もあり医院の中は”ガラ
ガラ”で、幼児を連れたお母さんだけで、看護婦さんも「さすがに今日はネ」
と言っていた。一か月分(去年までは2週間分づつだった)の薬を受け取り、
帰りがけの新小金井海道(4・5年前に全通)にはこの辺りに多い、自分の家
で獲れた野菜を無人で販売(100円均一)している農家が多いのだが、一軒
だけ、”八百屋”さん(写真添付)みたいに商品を並べて100円以上でも売
っている農家があり、それでも見た目は悪くても”新鮮”なので、車や自転車
で買いに来る人もいる。バス通りになるまでは狭い、車の一方通行路だけだっ
たのに、変われば変わるものだ。
 隣には錦城高校が有り、高校生が西武新宿線の「小平駅」まで歩いて通って
入るのが見れ、通りの反対側は「東京ガス武蔵野苑」で、サッカーの”FC東京
の小平グランド”がある。「滝山南」の交差点には明治時代調の「がす資料館」
の建物が。