郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

郵貯スタンプ・じい散歩

2009-12-19 10:32:34 | Weblog
12月16日(水)
 昨晩のニュースを見て「世田谷ボロ市」に風景印を貰いがてら行って来ました。
 JR渋谷駅で下車し、西口の(東急プラザ側)を出た直ぐのバス乗り場から、
「祖師谷大蔵行」に乗って松陰神社前で下車した時に、渋谷で乗る時に、地元と同じと思い、後から乗ってしまい、下車時に前から下り様としたら”Suica"が使えずに、運転手さんも「結構です」。結局”タダ”で乗せてもらってしまった。
(世田谷三局)から、松陰神社通りという商店街を歩くと、街灯に「初詣は松陰神社へ」の幟と、最初は気がつかなかったが街灯のポールの目線の部分に、プレートがはめ込まれており、”松陰ゆかりの人(教え子)”の紹介分が貼られており、(伊藤博文・高杉晋作・久坂玄瑞等)読んで歩いた。去年も同じ日に来ており、松陰神社もその時に始めて参拝し、ブログにも書かせて貰ったが、今日も天気が良く、キチンと整備された境内を歩き(参拝者も何人か)、参拝したが、先日のテレビで社殿前に立っている”石灯籠”はそれぞれに名前の知られた方々(伊藤博文や
高杉晋作等)が寄贈した物だそうだ。【立看板がある】
 神社を出て、松陰神社通りを歩きだしたら、神社と若林公園との間の、ほんの2間幅の通路に【桂太郎墓所】の表示。
≪長州藩で松陰に師事し、山県有朋・大山巌を助けて軍制改革を図り、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、台湾総督・陸相の後始めて組閣し、明治37年首相として日露戦争の大事を決した。又、自らも明治33年、”台湾協会学校(現拓殖大学)”を設立し、永く校長として育成に尽した。大正2年10月10日に急逝。
享年66歳。遺言により、松陰霊域に接して、当所に葬った≫
中まで入って参拝。隣と違って、殆ど参拝する人もないみたいだ。静か。
 世田谷区役所前の交差点を渡ると、右が国士舘大学。区役所の先を左折し(世田谷四局)に行ったら、「昔は”豪徳寺局”という名前だったので風景印も有ったが
世田谷四局になって、風景印もなくなった」との事。
 東急世田谷線の世田谷駅の踏切を渡ると、古着などを並べた店(?)が見えてきて、”ボロ市”の雰囲気が。世田谷通りを右折し、お店を覗きながら(世田谷一局
)へ。風景印廻りはこれで終わり、後は”ボロ市”を見て回る。(写真添付)
【ボロ市】≪始まりは、430年の昔に開かれた”楽市”に遡る。当時関東地方を支配していた小田原城主北条氏政は、世田谷城主吉良氏朝の城下町である世田谷新宿に、天正六年(1578)に楽市を開きました。楽市というのは、市場税を一切免除して自由な行商販売を認めるというもので、毎月一の日と六の日に月六回開いていたので六斎市(ロクサイイチ)とも言いました。当時世田谷は江戸と小田原を結ぶ相州街道の重要な地点として栄えていました。こn市により、これらの地方の物資の藤龍はいっそう活発になり、江戸と南関東を結ぶ中間市場として」かなり繁栄したであろうと思われる。その後北条氏が秀吉に滅ぼされ、徳川家康が江戸に幕府を開くに及んで急速に衰え、世田谷城が廃止され、世田谷新宿が城下町としての存在意義を失い、楽市はなくなったが、その伝統は根強く続けられ、近郷の農村の需要をみたす農具市・古着市・正月用品市として毎年十二月十五日に開かれる歳の市として長く保たれた。明治になり、新歴が使われてから正月十五日にも開かれ、やがて十二月十五、十六日の両日、正月にも十五、十六日両日開かれる様になり現在に至る。
(名の由来)徳川時代になって、”市町”という名のもとに開かれていましたが、
後に農家の作業着のつくろいや、草鞋(ワラジ)に編み込む”ボロ”が安く売られる
ようになって、いつとはなしに”ボロ市”の名が生まれた。≫
 天祖神社の境内の植木市を見、地方(山形・群馬・長野など)からの出店(食材が主)を覗きながら”けんちん汁”を買って飲んだりしながら、代官屋敷の中を歩いたり、骨董街を見て歩き、知り合った(去年映画のポスターを10枚買った)おじさんを探したが、見かけなかった。毎年来ていると、見る者は殆ど変わらないが
何かを探して歩きまわる。今年は2点の買い物をして世田谷通りから渋谷行きのバスに乗って、スタートしたバス亭に戻る。
 風景2局。松陰神社からボロ市への 7,568歩の散歩に。