郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

「小金井公園」へ。

2013-02-24 22:42:56 | Weblog
 2月10日(日曜日)
 1月にに行った時に、ヤマガラやソウシチョウ等を見る事が出来たので、黒目川を歩いていても、少し見れるようになってきた梅の具合を見ながらもう一度寄ってみた。
今日も10時過ぎに着き梅園(梅まつりは2/16~)へ。最初は「まだ咲いていないか」と思っていたら、その手前の”蝋梅”がほぼ満開状態で、その黄色い色が目に飛び込んできた。梅林も近付いてみると、花がほころんでいる木も。その奥で目に飛び込んできたのが”ベニバナマンサク”が見事だった。
   「八重の梅」     「小梅(甲州系)」       「長寿」         「水心鏡」        「緋の司」     「月影(蕾が緑)」
     
      「蝋梅園」          「蝋梅」       「キバナマンサク」   「アカバナマンサク」 「ムクロジ」の木に凧     「ムクロジ」の実
     
梅園から広場に出ると、5本並んでいる”ムクロジ”の木の下で、何かを探している女性がおり、近付いてみたら”ムクロジ”の実が落ちてた。その女性も実を拾っていたので少し拾って渡したら「エコな洗濯に使うんです」と、”ムクロジ”というと、羽子板の羽の頭に使っている真っ黒い玉が実の中に入って居るのだが、選択の石鹸代わりになるとは全く知らなかった。
 「江戸東京建物園」の外の堀に人がたかって写真を撮っているので見に行くと、”オシドリ”かと思う”トモエガモ”という鴨が皆の中心。そのまま公園内の一番外れの池の傍の小鳥が集まる場所に行ってみた。毎日の様にカメラをセットしたままで話し込んでいる方や、自分みたいに、知った為に時々寄る人など、手にエサを乗せて差し出すと、人を恐れる風もなく手に乗ってくる。チョッと感激もの。
              「トモエガモ」                 「ヤマガラ」       「ヤマガラ」    自分の手にも乗って    逃げちゃうよ
     
  餌を手に載せて待つ人達      乗ってくれた     ”ソウシチョウ”が3羽   ”ソウシチョウ”     ”ソウシチョウ”
    
 完全に”餌付け”している感じだが、写真を撮る位なので、楽しい一時を過ごさせてくれる。又、今度来てみよう。それにしても前回同様、違う種類の小鳥は居ない。    

「増上寺」節分

2013-02-23 13:18:27 | Weblog
 2月3日(日曜日)
 今年の”節分の豆まき”にどこかに行って見ようと調べ、何か所か調べてみたが、夕方からの場所も有り、夕方には約束が有ったので、昼に行われる場所を探し芝の「増上寺」に決めて出掛けた。
11時半に「大門駅」に着き、【増上寺】へ。
≪浄土宗の七大本山の一つで、「三緑山広度院増上寺」が正式の呼称です。開山は明徳四年(1393)、浄土宗八祖 西誉聖聡上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区紀尾井町)の地に”浄土宗正統根本念仏道場”として創建され、慶長三年(1598)に現在の地に移転しました。文明二年(1470)いは勅願所に任ぜられる等、関東における浄土宗教学の殿堂として宗門の発展に寄与し、大きく発展してきました。江戸時代初期、増上寺法主十二世 源誉存応上人、後の「観智国師」は徳川家康公から深く帰依を受け、手厚い保護もあり、増上寺は大隆盛えと向って行きました。
 徳川将軍家の菩提寺(二代秀忠、六代家宣、七代家継、九代家重、十二代家慶、十四代家茂)として、又、関東十八檀林の筆頭として興隆し、浄土宗の統制機関となりました。その大きさは、寺領一万石余、二十数万坪の境内地、山内寺院四十八𡧃、学寮百数十軒、常時三千名の僧侶が修学する大寺院でした。現在でも浄土宗大本山として格式を保ち、宗教活動の他文化活動も幅広く行われ、建造物、古文書、経典など多数の重要文化財を保管しています。≫
      「芝大門」    「増上寺三解脱門」と東京タワー 豆まき場の「大殿」とタワー  屋根越しにタワー
   
              先ずは”お練り”三解脱門から大僧正を先頭に                               増上寺・神輿講の方達で「餅つき」が            
     
           神輿講の方達で”餅まき”                    一回目の”豆まき”と拾った”豆”
   
                  舞台で”鬼問答”が始まり、明徳幼稚園の園児達が「鬼は~外!」                         ”キャラメルコーンまき”                   
     
            タレントさん達も混じった二回目の”豆まき”が始まる               大僧正          中村玉緒・岡田まり子・浅丘雪路・服部真湖等
   
 それ程の人出ではないものの、撒いてくれても奥までは殆ど届かず、入れ替え制で五回行われたが、中々取ることは難しい。掴んでいても、強引に引っ張って行ってしまう人達も居り、自分みたいに”遠慮深い人間”は、こういうのには合わない。二個取れたけれど・・・。
 徳川家墓所の裏に、お地蔵様が並んでいる場所が有り、”水子地蔵”かと思って聞いてみたら、「子供さんが無事に育ってくれるようにお祈りする為のお地蔵さんです」と。外に出て、「愛宕神社」へ寄ってみようと思い、「東京プリンスホテル」の駐車場に、ベンツスポーツ等の、全てベンツが並んでいた。何か”ベンツの会”等が有るのだろうか?。。
東京タワーをバックに「徳川家墓所」           子供が無事に育ってくれる様に     「東京プリンスホテル」駐車場に”ベンツ”ばかり。会の集まりか?
     
 増上寺を出て約15分歩いて【愛宕神社】へ。
≪慶長八年(1603)、江戸に幕府を設く徳川家康公の命により、防火の神様として祀られました。この神社には有名な逸話があり、急な階段を”出世の石段”と呼んでいます。
寛永十一年(1634)、時の将軍徳川家光公が菩提寺である増上寺へ参拝した帰り道、愛宕神社の前を通りかかり、ふと見た愛宕山には見事な梅が咲いています。そこで家光公が鶴の一声、「誰かあの梅を馬に乗って今すぐ取ってこい!!」。現代でいう”ムチャ振り”ですが、流石の猛者達もこれには仰天。この急な石段を?。”下手をしたら自分も愛馬も命を落としかねません。絶対に出来っこない。”そんな気まずい沈黙の中、突然一人の家臣が見事な手綱さばきでパカパカと一気に石段を登りきり、あっという間に美しい梅は家光公へと献上されました。その危険をかえりみない忠誠心と馬術の腕を高く評価された曲垣平九郎は一夜のうちにその名を全国にとどろかせたといいます。これがいわゆる「出世の石段」の由来です。≫
 着いた時に、「ガッツだそう! 日本!」というシャツを来た若者が85段有るこの急な石段を100往復する事に挑戦しており、自分が上りだした時には、若い女性が上りだしていたのでチョット声を掛けてみた。
  「出世の石段」       「ガッツだそう! 日本!」(100往復)     階段上から下を覘くと             山上の「愛宕神社」
     
 愛宕神社は、都内の繁華街と云っていい場所に有るのに、上ったのは初めて。目の前に石段があるので”こんな急な石段を馬で登るなんて考えられない”と思いながらやっと上った。ご朱印を頂いて、帰りは女坂(106段)をゆっくり下りてきた。
 

「唐招提寺」へ。

2013-02-11 21:49:12 | Weblog
 1月21日(月曜日)
 「薬師寺」「玄奘三蔵院」と廻って、もう一か所。5分も歩けば、鑑真和上が創建した【唐招提寺】の「南大門」に。
≪鑑真和上は688年に中国揚州で誕生、14歳の時、揚州の大雲寺で出家。21歳で長安実際寺の戒壇で弘景律師に授戒を受けたのち、揚州の大明寺で広く戒律を講義し、長安・洛陽に並ぶ者のない律師と称えられました。742年に日本からの熱心な招きに応じ渡日を決意されましたが、当時の航海は極めて難しいもので、鑑真和上は五度の失敗を重ね、盲目の身となられました。しかし和上の意志は堅く、753年12月、六度目の航海で遂に来朝を果たされました。翌年、和上は東大寺大仏殿の前に戒壇を築き、聖武太上天皇を始め四百余人の僧俗に戒を授けました。これは日本初の正式授戒です。鑑真和上は東大寺で五年を過ごされたのち、758年大和上の称号を賜りました。あわせて右京五条二坊の地、新田部(にたべ)親王の旧宅地を賜わり、天平宝字三年(759)八月戒律の専修道場を創建されました。これが現在の律宗総本山唐招提寺の始まりです。≫
 「秋篠寺」から勘違いして書いてきてしまったが、今日は平日の月曜日。観光客が少ないのも分る。有名なお寺なのに本当に少ない。全体で見ても5組位か。
   「唐招提寺」の南大門      「世界遺産」プレート          「金堂」             「鐘楼」           「講堂」            ご朱印
     
 「金堂」に入った途端、仏像の大きさに圧倒される。一人で歩いていると、話し相手がいない位寂しく感じる時はない。自分も”おしゃべり”ではないが、時々、無性に相手が欲しくなる。
「講堂」に大きな「阿弥陀如来坐像」が有り、金堂の千手観音立像の”脇手解体(展開)図”が置かれており、見入ってしまった。
 その後、「芭蕉句碑」「北原白秋句碑」等を見、一番奥にある「鑑真和上御廟」へ行ってみたら、そこの前庭の”苔”が、綺麗で、「秋篠寺」よりも良かった。
   「芭蕉句碑」     「北原白秋句碑」   「鑑真和上御廟」入口   参道(両脇に”苔”)         庭の”苔”          「鑑真和上御廟」      
     
     「宝蔵と経蔵」          経蔵の”鬼瓦”         「鼓楼」
  
 売店でご朱印を頂き、待っている間に、奈良漬けと招堤味噌をお土産用に買い、大和西大寺駅まで歩いて行くつもりだったが、東京に着いて直ぐに有楽町の「吉乃川」での新年会が5時半からなので、それまでに帰京しなければならず、売店でタクシーを呼んでもらったら、隣の西の京駅で待機しているとの事で、5分も待つと来てくれ、大和西大寺へ向かってもらうが、途中の尼ヶ辻駅近くの郵便局へ寄ってもらう様にお願いしてタクシーに乗ると、尼ヶ辻駅の手前に”前方後円墳”の【垂仁天皇陵」が有り、運転手さんが「お客さん、この天皇陵の池の中に、川鵜の一杯止まっている島の様なのが有るでしょ。あれはこの天皇にお使いした”タヂマノモリ”という方のお墓で、天皇の命令で中国へ不老長寿の薬を探しに行って、結局日本へ、今ある色々な食べ物を持ち込んだ人なんです。天皇陵の中にお墓が有る人はこの人だけなんです」と説明してくれた。帰宅後に調べたのを書いてみる。
≪日本の古墳時代の人物。菓子の神としても崇敬される。『古事記』では多遅麻毛理、『日本書紀』では田道間守と表記される。11代垂仁天皇の命により、非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めて常世の国に渡った。10年掛かって葉附きの枝と果実附きの枝を日本に持ち帰ってきたが、垂仁天皇はすでに亡くなっていた。タヂマモリは半分を垂仁天皇の皇后に献上し、残りを垂仁天皇の御陵に捧げ、悲しみのあまり泣き叫びながら亡くなったという。タヂマモリが持ち帰った「非時の香菓」は、記紀では現在の橘のこととしている。「タチバナ」という名前自体、タヂマバナ(田道間花)が転じたものとする説もある。当寺、「菓」といえば果物のことであったが、この説話からタヂマモリは菓子の神「菓祖」として信仰されている。”タヂマモリ”は、菓子の神として中嶋神社(兵庫県豊岡市)に祀られている。中嶋神社の分霊が大宰府天満宮(福岡県太宰府市)、吉田神社(京都府)など全国に祀られており、菓子業者の信仰を集めている。≫
    「垂仁天皇陵」     陵の中の”タヂマモリ”の墓地
 
 天皇陵で一度社外へ出て、その後(奈良宝来局)で郵貯・風景印を頂き、大和西大寺駅に13時過ぎに着。2時頃の新幹線に乗りたかったが、京都まで急行で約40分掛かるし直ぐになかったので、西大寺駅でお弁当とお土産を買って京都へ。結果東京駅に着いたのが17時10分。そのまま有楽町の新年会の会場へ直行したら、一番乗りで、誰も来ていなかった。

20年位振りで「薬師寺」へ。

2013-02-10 22:57:47 | Weblog
 1月21日(月曜日)
 ”大和西大寺駅”から、近鉄橿原線で隣りの”尼ヶ辻駅”から「唐招提寺」へ向かうか、二個目の”西ノ京駅”から「薬師寺」に向うかのどっちかだったのですが、「大和西大寺駅」で直ぐに急行が来たので、「西ノ京」駅へ。先ず、「薬師寺」とは線路の反対側にある(奈良西の京郵便局)に寄り、スタンプと風景印を頂き、線路を渡り返して少し歩くと直ぐに法相宗 大本山【薬師寺】の「與楽門」。
≪天武天皇により発願(680)、持統天皇によって本尊開眼(697)、更に文武天皇の時代に至り、飛鳥の地において堂宇の完成を見ました。その後、平城遷都(710)に伴い、現在地に移された。南都七大寺の一つとして、その大伽藍は我が国随一の壮美を誇りました。すなわち、金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が立ち並び、中でも裳階(モコシ:補強用の軒)を施した金堂や塔の佇まいの美しさは”龍宮造り”と呼ばれて、人々の目を奪いました。≫
      「與楽門」          「與楽門」を内側から      「世界遺産」プレート     西塔  中門  東塔          「金堂」          「金堂」の注連縄     
     
     「西塔」       修繕中の「東塔」         「講堂」         朱印「薬師如来」    朱印「聖観世音」    朱印「南無佛」     朱印「弥勒佛」
      
  「旧食堂」跡発掘調査      「大講堂から東塔」
 
 両側の五重塔の内、修繕が済んだ西塔は良いが、好きな方の東塔が修繕中ですっぽりカバーされていた全く見えない。一昨年行った「出雲大社」の時も改修中だったが、逆に考えると、”こんな姿を見れる方が少ないのだ”と考える事にしている。ラッキー!!。心配だったのが、修繕後の東塔が西塔と同じ様になるのではないか?と心配していたら、講堂で、ご朱印を貰う時に書いてくれた方にお聞きしたら「東塔は国宝なので、修繕だけです」とお聞きして、”朱色には塗られない”事に安心した。
 以前来た時に、門の手前にあった奈良漬け店で、始めて小さな”ひょうたん”の奈良漬けを見て、買って帰った覚えが有り、探してみたがどこにもない。帰ってから聞いてみたら、「中門」も前にある「南門」の前のお店だった様で、残念ながら買って帰れなかった。今は、京都の清水坂の”産年坂”で売っている。
 この後、「與楽門」前にある【玄奘三蔵院伽藍】へ。
≪法相宗の始祖・玄奘三蔵のご頂骨を真身舎利(シンジンシャリ)として奉安し、須弥壇には玄奘三蔵訳経像をお祀りしています。又、「大唐西域壁画殿」は、平山郁夫画伯が30年の歳月を掛け完成された玄奘三蔵求法の精神を描いた壁画を終身舎利(エシンシャリ)としてお祀りするものです。≫(この期間は平山郁夫の壁画は見れなかった)
 「孫悟空」で有名な”玄奘三蔵”を祀る(東京では聞いた事のない法相宗。)伽藍という事で興味を以って入ったが、境内を歩いただけだった。
     「玄奘三蔵院」           「礼門」              「礼門」              「玄奘塔」       「慈恩堂」と「まほろば会館」
    
 絵も見れなかったし、他に見るべきものもなさそうなので、「玄奘三蔵院」を横から出ると”歴史の道”が「唐招提寺」まで続いている。
郵貯:1局。風景印:1局。1時間半。3,754歩でした。

「いま ふたたびの 奈良へ」

2013-02-07 21:52:03 | Weblog
 1月21日(月曜日)
 今日は、朝から奈良へ行く事に。今、東京のCMで「いま ふたたびの 奈良へ」というタイトルで「秋篠寺」の”伎芸天”が取り上げられており、ボランティア仲間の女性が、昔し訪れた時の”苔”の美しさを話していたので、見に行く事にして地図を見たら、一昨年の12月に訪問した「西大寺」の直ぐ近く。
 8時20分にホテルをチェックアウトし、近鉄特急で西大寺駅着9時。北口改札を出て、地図を見ながら歩く。今、乗ってきた近鉄京都線の線路を越え、道なりに歩くと(奈良秋篠局)が有り、スタンプのみで風景印は無かった。突き当りに「県立競輪場」が見え、そこを左折して住宅街に入っていくと分かれ道に標識が有るが、東京のテレビで毎日の様に流れているお寺で、日曜日なのに観光客は無いのがおかしく感じる。
 『秋篠寺』の南門から入ると、後ろ向きに歩いてくる散歩の男性が一人だけ。
≪奈良時代の末期、宝亀七年(776)、光仁天皇の勅願により、地を平城宮大極殿西北の高台に占め、薬師如来を本尊と拝し、僧正善珠大徳の開基になる当寺の造営は、次代桓武天皇の勅旨に引き継がれ、平安遷都とほぼ時を同じくしてその完成を見、爾来、殊に承和初年、常暁律師により、大元帥御修法の伝来されて以来、大元帥明王影現の霊地たる由緒を以って、歴朝の尊願を重ね、真言密教道場として、隆盛を極める。尚、宗派は、当初の法相宗より平安時代以降、真言宗に転じ、明治初年浄土宗に属するも、昭和二十四年以降単立宗教法人として既成の如何なる宗派にも偏ることなく仏教二千五百年の伝統に立脚して新時代に在るべき人間の姿を築かんとするものである。≫
 結局、この人にしか会わなかった。
   「秋篠寺」への標識        「秋篠寺」南門      南門を入った砂利の参道                              「秋篠寺」内の”苔”
      
 人っ子一人居らず、あまりにも静か過ぎると返って落ち着かない。入口の入場券売り場の女性も、本堂の中の監視員の若い男性も黙ってるだけで、お坊さんでも無い様だし、普通の人みたいで、”ここ本当にお寺なの?”。入口の女性に「ご朱印はどこで頂いたらいいんですか?」とお聞きしたら、「当寺はご朱印をやってません」と言われ、わざわざご朱印帳も持ってきていたので「何故ですか?」とお聞きしたら「方針でしょうか。書き手もいないし」と言われ、あっけにとられた。「伎芸天像」も薬師如来を本尊にした本堂の中で一番端に立っており、像としてはこのお寺にしか無いので、貴重らしいが、普通に有る仏様。お土産に、本堂内で売っている伎芸天の4枚組の写真と、お札を2枚買う。今回はお堂の上の”鬼瓦”を撮って見たが、それぞれ違いが。
     「秋篠寺」本堂                    本堂内の「伎芸天像」の買った写真から                            本堂屋根の”鬼瓦”
      
  「大元帥明王堂」       「鐘楼」          明王堂脇の苔         陽の当たる苔          裏の「秋篠窯」        南門脇に有る元鎮守社の「八所御霊神社」鳥居と本殿
      
 人のいないお寺というのは寂しくなる。良いと言われた”苔”も、もっと良いお寺は一杯ある。裏に抜けて「秋篠窯」を見に行ったが、日曜日なのに開いてなかった。観光地では無い様で、そっとしておいた方が良いのではと思った。来た道を西大寺へ戻る。     郵貯:1局。風景印:0。往復:1時間20分。6,621歩でした。
 次は20年振りに「薬師寺」へ行って来ました。

1月の京都の夜を歩く。

2013-02-06 18:07:26 | Weblog
 1月20日(日曜日)
 5時に近い夕方、「梅小路蒸気機関車館」を出て、七条通りを歩いてみる事に。目標が有って動いていないので、気になった場所を見て歩く。『西本願寺』の敷地内に「龍谷大学」が有り、守衛さんに断って入って見た。ここは『西本願寺』の学寮として1639年に創立された仏教系の大学。他に深草と瀬田に学舎が有る。
 「西本願寺」南門を入ると    「龍谷大学」大宮学舎      「龍谷大学」本館          本館裏       隣の「図書館」        「旧守衛詰所」
     
 
 大宮学舎は「西本願寺」敷地内なので、門を出ると直ぐ左に「大玄関門」。そのすぐ右に国宝の「唐門」が有り、その先には入れなかった。七条通りに戻って堀川通りを渡っていたら、大きな音楽を流しながら派手な単車が。東京でも見た事がない。雰囲気とは”真逆”。東中筋通りに入って見たが、そのまま京都駅のバスターミナルへ。
   西本願寺「大玄関門」        国宝「唐門」          「唐門」の彫刻        派手な単車         酒屋の看板
    
 バスターミナルから歩いて5分。「半兵ヱ」の本部がやっているラーメン屋の基になった「新福菜館に。3回目になるが、やっぱり並んでいた。店内で15分位待たされて「新福めん」大盛(850円)。京都なのに汁は真っ黒。なのに、サッパリしており、大盛なのに簡単に入ってしまう感じだが、味としては一寸変わっているけど女性客も多い。バスで東山の方へ行こうと駅に戻ったら、ターミナル内で噴水を使った「AQUA FANTASY」。
   「新福菜館」     「新福めん・大盛」                                       「AQUA FANTASY」       
            
 バスで東山方面に向い、「五条坂」で下車するも、坂の入口でお聞きしたら、「今の時期は夜間照明もしていないので、清水寺まで行っても暗いし、店も殆ど閉まっている」との事なので、「八坂の塔(法観寺)」を見て、歩いた事のない”下河原通り”を歩いてみたら、圧倒的に閉まっている店が多いが『石塀小路』という小路を歩いたら、店には入らなかったが、凄く雰囲気の良い小路で、女性と二人で腕でも組んで歩きたい通り。気にいっちゃった。
    「八坂の塔」       正月「軒飾り」        レンタル着物店                                      「石塀小路」
          
 下河原通りを行くと「八坂神社」の鳥居に。参拝し、祇園に抜け、日曜日の祇園を歩いてみたが、看板だけは賑やかに点いているが、客引きも居らず、お客さんも殆ど歩いていない。南座の前から「四条大橋」を渡る。
    「八坂神社」鳥居         「南楼門」から入り         「本殿」に参拝         「西楼門」から出る     祇園・白川に架かる巽橋       「南座」    
     
 先斗町に入り、三条手前の高瀬川に面した、本部直営店の炉端焼「江戸ヤ」で食事。一昨年の12月に来た時は、開店直後で人も居たが、今回はアルバイトの学生にしか会わなかった。若いお客さんが入る訳でもないので、”おかみさん”的な、気を配る事の出来る人が居た方がよっぽど良い。”炉端焼き”なのに、野菜はスープ仕立てで出されるのは何故だろうか?。良い店が出来たと思っていたが、次回は考えよう。
  「江戸ヤ」入口    お通しの”おばんざい”三品                         炉端焼きカウンター                           きんき       こんにゃく田楽
      
 話し相手も無く、一人で飲んでいても面白い店ではないので、早々に出て、毎年2回、案内を頂いている先斗町の「アトランティス」というショットバーへ久し振りに行ってみたら、飲んでいる時に昼間行った「梅小路蒸気機関車館」のパンフレットをカウンターに置いていたら、隣で飲んでいた若いお嬢さんが「行って来られたんですか」と声が掛かり、少しお話をしたら、鉄道マニアとの事だが、直ぐ傍に努めているが近すぎて入った事はないそうで、「見せて頂いて良いですか」と言われ、見て頂いたら、「自分も”酒乱秘書の鉄道日記”というタイトルでブログを打ってますので、一度見て下さい」と言われた。今日まで見ていないので、今夜開けてみよう。
 四条河原町からバスに乗り京都駅に。駅で夜の京都駅の写真を撮り、八条口のホテルにチェックイン(荷物は預けておいた)。
   「京都タワー」                    「京都駅」構内
   
 明日は、JRのコマーシャルで流れている「いま ふたたびの 奈良へ」で出ている「秋篠寺」から歩いてみようと思っています。



京都「梅小路蒸気機関車館」へ。

2013-02-05 22:24:41 | Weblog
 1月20日(日曜日)
 「東寺」を「北大門」から出て右に歩くと”大宮八条”の”唐橋ガード”下に出、JRの線路を潜る手前のガードで写真を撮っていたら、汽笛の音が聞こえ、近所の方が「蒸気機関車が直接見れるよ」と教えてくれ、ガードを潜って行ったら、「梅小路公園」という広い公園が有り、公園の一部をSLが子供達を乗せて走っているみたいで、急いで公園を抜けようとしたら「朱雀の庭」(200円)という庭園が有り、入ってみたが、花も無く、小鳥等も殆ど見る事が出来なかったが、季節によっては。
    唐橋ガード         JRのガードを潜る           「梅小路公園」内の「朱雀の庭」                 庭園            庭園内レストラン
     
 「朱雀の庭」を出て、”SLはどこ?”と思って歩いたら、「梅小路蒸気機関車館」という施設が有り、入って見る事にしたら、無料。入って見てビックリ。以前に大宮の「鉄道博物館」へ行ったり、昨年は青梅の「青梅鉄道公園」に入ったが、”蒸気機関車(SL)”に限っているとはいえ、こんな大きな施設で、楽しくて、無料とは・・・どうなっているのか不思議だった。
 ここには、「扇形の車庫」。その前に「転車台」。実際に蒸気機関車へお客さんを乗せて、往復1kmを走らせ、”給炭水”を見せたり、転車台で蒸気機関車を回転させて車庫に入れるのまで全てを近くで見させてくれる。自分はそれ程”SLファン”でもないけれど、こういうのを見せられたら動けなくなる。京都には、カミさんが亡くなってからは、毎年の様に来ているし、あっちこっちを見て歩いている積りでいたが、神社仏閣が主で、この様な施設が京都駅から歩いても来れる様な場所に有るとは思ってもいなかったのでビックリしたが、楽しませて頂いた。
 20台入る”扇型車庫”に入って居る蒸気機関車を撮らせて貰う。
 20番「C51239」   19番「C5345」   18番「C59164」   17番「D52468」   16番「D50140」    15番「C581」     14番「D511」  
      
 13番「D51200」    12番「8630」     11番「C612」     10番「B2010」    9番「9633」     8番「C1164」
     
 お客様を乗せて走っている「SLスチーム号(C62 2)」が今日の仕事を終え、明日に向けて給水・給炭の為に”給炭水線”に入れる為に、”転車台”で回転させて”給炭水線”へ入れるまで。
    「SLスチーム号」           「転車台」へ        「転車台」へ乗って           左廻りで            回転して行き       給炭水線へバックで入る  
     
    給炭水線へ入る      「SLスチーム号」客車         給炭水所に        ショベルカーで石炭を     石炭を入れる    入った石炭を慣らす      給水
      
給炭水が終ると、2番車庫へ。
   もう一度転車台へ          転車台に乗る        運転手さん     転車台でストッパー       回転が止まり            2番車庫へ           無事に     
      
 あっという間に1時間が経過。17時閉館だけれども、後ろ髪が惹かれる様な気持ちで館を出る。
 二年毎に開かれる昨年の文祥堂・スエダOB会で、金子先輩が50年だか、60年だか”SLの写真を撮り続けてきた写真展を開催する”と聞いていたので、当然、ここの事は知っていると思うし、来ていらっしゃると思うけれど、今年が「梅小路蒸気機関車館 40年の歴史 開館40周年記念特別展」のパンフレットを余分に一枚頂き、帰ってから送って見様と持ち帰った。(帰京後25日に送ったが、音沙汰なし。余計な事だったか)
 この後、直ぐにホテルには戻らず、夜は夜で歩いてみた。今やっている店の別業態の本部直営店を見にも行ってみますので、これは次回。

福岡から京都へ

2013-02-04 12:10:15 | Weblog
 1月20日(日曜日)
 9時にホテルをチェックアウトし、博多発10時の”のぞみ”の指定券を買ってから、団地でボランティアの仲間へのお土産の”辛子明太子”を探しに。「稚加榮」のは今までは店と空港しか売ってなかったのに、聞いてみたら場所を教えてくれ、購入出来た。生物なので持って歩けないので送ってもらうことにしたら、”火曜日の午後以降”との事で、水曜日に着く様に送ってもらった。 
 今日も良い天気で、福山に停車する前に、いつも見る教会と、駅に接した「福山城」が。今度は、下りて歩いてみよう。
 京都駅着13時前。八条口のホテルにチェックインしてから、今まで一度も行った事のない【東寺】へ。
≪延歴十三年(794)、桓武天皇は動乱の中に、奈良から長岡京を経て平安京へと都を遷都され、羅城門の東西にそれぞれ大寺を置かれました。現在の京都は御所をはじめとして大部分が東方へずれてしまっていますが、東寺は、元の場所にそのまま残っていて、一級史跡に指定されています。東寺は”西寺”とも申しますが、本格的に活動を始めたのは、弘法大師(空海)の造営以降であります。東寺の伽藍は、南大門を入って金堂・講堂、少し隔てて食堂が一直線に置かれ、左右に五重塔と灌頂院が配置されています。塀で区別された境内は、そのまま曼荼羅であり、蜜巌浄土であります。我々はそこから様々なメッセージを汲み取る事が出来ます。大師は又、高野山で自らの修禅の場として開かれ、そこで得られた智慧を利他行として、東寺で実践されました。生老病死に代表される衆生の苦悩の解決法とその生活への表現が大師の一生でありました。≫
   福山の教会        福山城     今年始めての”蝋梅” 京都駅の上にタワー      ロッテ京都クラブ       「伏見稲荷」御旅所
     
     東寺「慶賀門」          堀の鴨     堀端に”アオサギ”   小野道風ゆかりの柳 不二桜(八重紅枝垂れ)   ピラカンサ
     
 拝観料800円を払って庭園に入ると奥に、これだけは新幹線に乗っていても眺められる国宝の「五重塔」と「金堂」。重文の「講堂」の圧倒的な仏像群を見て歩き、気が付いたら、瓢箪池に五重塔が写っていた。
     五重塔            「金堂」               「講堂」       瓢箪池に”逆さ五重塔”       「食堂」          「東寺」朱印
     
 食堂(ジキドウ)に朱印を貰いに入ったら、「京都七福神」の色紙を持った女性が多く、朝からのツアーだそうだが、色紙が大きくて、全てその都度”手書き”と云うのは良いのでは。来年は回って見様か?。毘沙門堂へ入り、見て廻ったが、「大師堂」の横にある「大黒様」は、東久留米で廻った大黒様と同じで【三面大黒】だった。
≪大黒天は大地の神で、大地は糧を表し、土は槌で表され、それを振ると福寿円満が訪れます。毘沙門は、四天王の北方の守護神で、財宝を司る神。弁財天は、インドでは河の神で、弁舌・音楽・技芸上達の神です。その三体の天神が合体したものが”三面大黒”で、東寺・大黒堂にお祀りされているのは、御大師様作の像と伝えられています。大黒天、毘沙門天、弁財天、三尊のご利益が一度に授かれます。≫
     「毘沙門堂」        万病ぬぐいの「贔屓」と贔屓を拭った”布”   「天降石」(なで石)                「大師堂」                    大師堂の”樋”        
      
 「大師堂」に参拝したら、脇に司馬遼太郎の「古寺巡礼京都」の一文が掲載されていた。
   「三面大黒」       ”クロガネモチ”       「鐘楼」          「灯籠」      「司馬遼太郎」の文  天皇皇后記念「五葉松」
     
 次回は、ここを出て、七条辺りの町家を見て歩こうと思っていたら、”こんな所に、こんな施設が”とい場所にぶつかった。