郵貯スタンプ・じい散歩

日毎に選んだ街を散歩しながら、郵便局の窓口で貯金をし、局名のスタンプを押してもらう。歩く街の感じた事を紹介。

「海津城」へ。

2016-05-30 21:37:10 | Weblog
 4月19日(火曜日)
 「上田城」で二人と別れ、そのまま国道18号線を長野方面に走ると、更埴、屋代で”あんずの里”を見に行ってみたが花はすでに散っており、”真田十万石の城下町”松代へ直行。松代郵便局で城址への行き方を聞いて、【松代城址】へ。
《武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を競った川中島合戦で、武田側の拠点として築城されたといわれています。千曲川の流れを外堀とする天然の要塞で、当時は「海津城」と呼ばれました。江戸時代の元和八年(1622)に真田信行(昌幸の長男で、幸村の兄)が松代藩主となると、松代城本丸に御殿を建築し、松代藩政の拠点としました。(日本100名城)》
 自分も時代小説が好きなので、松代城というより海津城と言った方が分かり易い城だ。車を広い駐車場に止めると、「上田城」とは全く雰囲気が違って、観光客も10人もおらず、太鼓門前橋を渡って城址の中へ。

         「松代城址(海津城祉)」                「史跡松代城址図」
 
         「太鼓門前橋」から入る                   「太鼓門」
 
                            「本丸跡」
 
         「北不明門」を外から                  「北不明門」側から
 
 帰りがけに気が付きました。城址前に「池田満寿夫美術館が。

 今回は簡単に「松代城址」を見ただけで嬬恋に戻る事にしてしまったが、帰る途中の市内の看板に「山本勘助の墓」との表示が有り、嬬恋へ向かう途中かと思ったので”寄って行こうか”と言っていたが、分からずに通過してしまっていた。帰宅後に松代市内の地図を見ていたら、城址以外にも色々と面白そうな場所が有り、次回はゆっくりと街歩きをしてみたい。
 嬬恋に帰るには県道34号を走り、菅平を通って、国道406号を走ると「渋沢温泉」の表示が有り、入ってから帰る事に。
      一風呂浴びて帰ろう「渋沢温泉」               入浴料500円
 
              一寸”ぬるめ”だがゆっくり入れる雰囲気の良い露天風呂
 
         良い温度の内風呂        油などの浮遊物は温泉成分の”渋”です。外にはなりません
 
 露天風呂は、一寸ぬるめの湯なので、雰囲気を味わうには良かったが、4月なので寒くなり、内風呂に入ったら、丁度いい具合の湯で、じっくり温まれた。”湯の花”というのは知っているが、”渋”というのは全く知らなかった。この近所には何か所も温泉が有り、昨日行った嬬恋の”つつじ温泉”も良い湯だった。

NHK「真田丸」の『上田城』へ行って来ました。

2016-05-30 11:43:45 | Weblog
 4月19日(火曜日)
 ”おじさんの会”で嬬恋に泊まった二日目。朝はロッジの庭でカラマツの枝で”たき火”を楽しみ、五人の内の二人は今日帰京するので、朝から「池の平湿原」へ行くつもりで車三台で出かけ、「湯の丸高原」から山道に入ろうとしたら通行止め。まだ雪が残っているらしい。
 行き先を急遽変更し、NHK大河ドラマ「真田丸」を見ているので、【上田城】に行ってみる事に。上田にはレジスターの仕事をしている時の50年近く前に、まだ忘れられない苦い経験をした場所で、上田城にも二回位行った事が有ったのですが、それ以来の訪問になります。
《上田城は、真田昌幸によって天正十一年(1583)から築城された平城である。城郭自体の規模はさほど大きくはないが、南方は千曲川の分流である尼ヶ淵に面した断崖に臨み、他の三方は城下町と河川を巧みに配して、周囲一帯を極めて堅固な防御陣地としている。この上田城の特性は、天正十三年(1585)と慶長五年(1600)の2回にわたる徳川氏との合戦の際に遺憾なく発揮され、真田氏と上田城の名は天下に鳴り響いたのである。しかし、真田氏の上田城は、関ヶ原の合戦後に徹底的に破却され、現存する上田城の隅櫓や石垣は、寛永3~5年(1626~28)にかけて仙石忠政によって新たに築き直されたものである。》
 上田に向かう途中では、桜が満開だったりしていたのですが、国道18号線に出て上田に向かうと桜は殆ど散ってきており、上田城に着いた時も”あと一週間早かったら!”と思える状態でした。平日なのに観光客も多く、当然ですが、50年前と凄く変わった感じを受けました。郵便局にも寄ってきましたが、上田城正門から市役所前の通りには「真田家」昌幸始め、幸村や真田十勇士のパネルが立っており、昼食の注文を後にして写真を撮って歩いた。
       
          「上田城」正面入口                  「鐘楼」と地元の学生
 
         「上田城」東虎口櫓門                     内側から
 
         NHK「大河ドラマ館」                    飲食屋台
 
          城内の「真田神社」                 神社本殿と真田井戸(手前)
 
         神社から繋がる「西櫓」                      「西櫓」
 
   城内の「真田赤備え兜」    上田市のマンホールも六文銭
 
              市役所前の通りのパネル
 
 昼食後も、もう一度「上田城」を見て歩き、駐車場で解散し、残った3人でこれから同じ真田家の居城であり、武田信玄の時に上杉謙信と戦って有名な「海津城」(松代城)へ行ってみる事に。次は「松代城址」を書きます。

函館以外に「五稜郭」が有るのをご存じですか?。

2016-05-29 22:48:49 | Weblog
 4月20日(水曜日)
 前回、「鎌原観音堂」について書きましたが、その後佐久を回って帰る事にしました。その理由が「五稜郭」です。一緒の二人も”全く知らない”ので”行ってみたい”と言うので、僕が案内をする事に。
 もう20年以上前に、三男の誕生日後に、カミさんと三人で、下仁田経由で”コスモス街道”を走り佐久から小海線沿って大泉の知り合いのペンションに寄る積りで通った時、小さな看板で「五稜郭」(”日本で一番海から遠い地点”という案内も有り)という文字に気が付き行ってみる事に。
 佐久大橋で千曲川を渡り、臼田郵便局に寄ってもらい、小海線の「臼田駅」前で場所を確認して、田口郵便局を目標に走ると田口局の前に「佐久市歴史の里 五稜郭 であいの館」が有り、ここが【龍岡城五稜郭】。
《信州に一万二千石、三河に四千石の封地を持つ三河奥殿藩の松平氏は、宝永以来百六十年間 三河に本拠を持ち、佐久には陣屋を置いて、領内二十二か村の統治を続けてきたが、十一代乗カタになって、幕末激動の情勢に応じて信州に居館を移すことを計画し、元治元年(1864)三月着工、慶応三年(1867)竣工、地字名をとって龍岡城と称した。用地一万余坪は田野口村より、石材木材などは領内より献納、総費用四万円余であった。藩主乗タカは学才識見ともにすぐれ、幕府陸軍奉行、老中格、陸軍総裁などの要職につき、明治に入っては、佐野常民と共に、赤十字社の前身である博愛社を創設し、副社長、又、賞勲局総裁など歴任した。築城にあたっては、稜堡式築城法を用い、いわゆる”五稜郭”が成立した。そしてこれより四年前完成した「函館五稜郭」とともに、わが国城址の中においてただ二つの貴重な洋式城郭である。廃藩後明治五年、城はとりこわしとなったが、幸い濠と石塁、建物の一部大台所を残している。
 松平乗カタ、田口藩最後の藩主で、明治初年”大給恒(おぎゅう ゆずる)と改姓名》
 「龍岡五稜郭」に着いたら、軽井沢では散り終わっていた桜が丁度”満開”。一緒に来た二人も、五稜郭独特の掘割りを見て納得してくれた。五稜郭の中は、「田口小学校」が。
    
        小海線「臼田駅」駅舎               駅前の道路標識
 
     佐久歴史の里 五稜郭であいの館               五稜郭配置図
 
      「五稜郭」内の田口小学校入口              星の形の濠が分かる
 
          丁度、桜が満開                 五稜郭内の「田口招魂社」
 
        五稜郭内の「田口小学校」           工程の国指定「龍岡城址の”御台所”」
 
 日本の赤十字社を作り育てた         清里の蕎麦屋の脇でアカゲラを
    
 20年前に寄った時は、季節も違うので雰囲気も違っていたとは思うが、今回は、桜が満開で、散った花びらが濠に浮かんで、何とも言えない雰囲気だった。前回とは違って”ゆっくり”散策で来た。
 全国でも”五稜郭”と云えば”函館”としか答える人はいないのが現状だと思いますが、長野県、佐久市等はもっと整備して宣伝したらどうだろうか?と思います。このブログを見た方も宜しければ一度訪問しても良いのではと思います。
  住所:長野県佐久市田口3000番地